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第二部 絆ぐ伝説
第五話二一章 道化か、策士か
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クナイスル伯爵の執務室に通されたとき、ロウワンが驚かなかった言えば嘘になる。
そこは『執務室』とは言っても例えば、ゴンドワナ議長ヘイダールの部屋のように機能性一点張りの実用的な部屋とはまるでちがっていた。
部屋は広く、天井は高く、やはり大きな窓が壁一面に張られ、外の光をいっぱいに部屋のなかに招き入れている。一方で部屋に設えられた卓や椅子は妙に大きい。明らかに特注品と思われる常識外の大きさ。そこにいるとなんだか自分が巨人の国にまぎれ込んだような気になってくる。
部屋のなかには書棚などは一切なく、書類や書籍の類もほとんど見られない。そのかわり、あちこちに恐らくは伯爵夫人であるソーニャのお手製だろう。かわいらしいぬいぐるみがいっぱいに置かれている。
とくに目立つのが窓辺に飾られたクナイスルとソーニャ、ふたりの人形。仲良そうにピッタリとよりそい、手など握りあっている。そんなものを目につくところに飾られていては『おふたりのなれそめは?』とか聞かなくてはいけないという気にさせられてくる。
もっとも、もし、そんなことを聞けば最後、孫子の代まで祟るほどの惚気話を聞かされることになるだろうが……。
その他にもかわいらしい鉢植えがあり、天井からはまるで赤ん坊の寝台に飾るような飾りがいくつもさげられている。
子どもの部屋。
まさに、そんな印象。レムリアらしいと言えば言えるのだが、とても、仕事用の部屋とは思えない。
呆気にとられたロウワンを見て内心を察したのだろう。クナイスルは恥ずかしがる素振りもなく誇って見せた。
「どうです。かわいい部屋でしょう。これはすべて、妻の趣味でしてね。妻の手にかかればどんな無骨な部屋もこの通り、とびきりかわいくかわってしまうのですよ」
「まあ、いやだわ、クナイスル。そんなに褒めてもなにも出ないわよ」
「いやいや、僕はただ事実を言っているだけだよ」
「もう……」
と、ソーニャは頬を赤らめる。クナイスルはそんな妻を力いっぱい抱きしめた。ふたりのまわりに人の迷惑を顧みない『♡』マークが乱舞する。
その甘ったるい雰囲気に、ロウワンたちは思わず引いてしまった。しかし、見た目はどうあれ執務室は執務室。その場において数々の重要な決済が行われることにはちがいはない。
「気を抜かないことだよ、ロウワン」
行者がロウワンに耳打ちした。
「外交の場において、相手を侮ったら負けだよ。この部屋の雰囲気に騙されて相手を甘く見たら、その時点で負けが決まる」
なるほど、そうか。この部屋には『相手を油断させ、交渉を有利に進める』という効果があるのか。本当に計算尽くでそうしているのだとしたらこのふたり、単なる甘々の夫婦に見えて抜け目のない策謀家と言うことになる。
ロウワンは部屋の飾りから一切、目をそらし、気を引き締めた。
そして、自由の国とレムリア伯爵領の会談ははじまった。
自由の国側は主催のロウワンの他、野伏、行者、メリッサの四人。
レムリア側も同じく四人。国家元首たるクナイスル伯爵、その妻ソーニャ、宰相のミハイル、宮廷書記のニキータ。文官ばかりで護衛の兵士ひとり、室内にはいない。クナイスルたちも誰ひとりとして武器をもっている様子はない。
数の上では同じでも戦力としては比較にもならない。たとえ、クナイスルたちが一〇〇倍の人数がいたとしても野伏ひとりでたやすく制圧出来てしまう。クナイスルたちが野伏や行者の能力を知らないことを考えに入れたとしてもやはり、帯刀を許した相手と護衛もなしに丸腰のままで会談に臨むなど『いい度胸』という他はなかった。
とにかく、会談ははじまった。
ロウワンはまずは状況を説明した。イスカンダル城塞群や港町アッバスで見た光景、そして、サラフディンでの戦い。
それらを事細かに説明した。
説明を聞いたクナイスルは、このときばかりは一国の統治者らしく重々しくうなずいた。
「……なるほど。パンゲアの怪物どもに関してはヘイダール議長より書状にて知らされておりましたが、直に聞くとまるで印象がちがいますね」
「それにしても、パンゲアがそのような兵を使うとは。あの敬虔な信仰の国が……」
「はい。恐ろしいことです。我が国の民がそのような怪物に襲われるなどと、思っただけでも倒れてしまいそうですわ」
宰相のミハイルが眉間に皺をよせて言うと、伯爵夫人ソーニャが身を震わせた。クナイスルはそんな妻の肩に手をまわし、そっと抱きよせた。
「ええ、恐ろしいことです」
ロウワンはうなずいた。
「ですが、本当に恐ろしいのはあんな怪物どもではありません。教皇アルヴィルダの意思。かの人はなんとしても世界を統一し、そうすることで争いのない世界を作ろうとしています。そのためなら、かの人はなんでもやる。そのことはあの怪物を使っていることで証明されています」
「世界をひとつに、か……」
クナイスルは妻の肩に腕をまわしたまま言った。
「教皇アルヴィルダとは就任式のときに会っただけですが、その頃から意思の強さは感じていました。同時に、あまりにも純粋で、そのことが危うく思えたものです。その危惧が現実のものになってしまったようですね。手段を選ばず、自分の理想を叶えようとは」
「恐ろしいことです」
ソーニャが両手を合わせて、祈るように言った。
「人と人の争いをなくすために戦争を起こす。そのような矛盾、うまく行くはずがないのに……」
ソーニャの言葉はもちろん悪意のないものだったが、ロウワンの胸に深々と突き刺さった。
『人と人の争いをなくすために争いを起こす』
その矛盾を抱えているのはロウワンも同じことだった。
「ともあれ、ロウワン卿。事態がそのように切迫したものである以上、我々レムリアとしても最大限の協力をさせていただきます」
「それでは、クナイスル閣下。我々との、いえ、我々とゴンドワナとの三国同盟を締結していただけるのですか?」
「いえ、ロウワン卿。こちらから同盟をお願いするのです。パンゲアの怪物どもに対抗するには実際に戦い、勝利したあなた方の力が必要不可欠なのですから」
「そのとおりです」
クナイスルの言葉にソーニャも言葉を添えた。
「大切な国民をそのような怪物に蹂躙させるわけには参りません。どうか、ロウワン卿。そして、皆さま。我がレムリアをパンゲアの怪物どもから守るために、お力をお貸しください」
そう言って深々と頭をさげる。
その姿には確かに、国民を愛し、慈しみ、守り抜こうとする『国母』としての尊厳があった。
「もちろん」
と、ロウワンは答えた。
「自由の国としては、世界をパンゲアの侵略から守るために全力を尽くします。ですが、我々だけでどうにかなることでもありません。必要とあれば、レムリアの兵にもパンゲアの怪物たちと戦ってもらうことになります。その点は承知していただけますか?」
「もちろんです。同盟を組んでおいて自分たちは戦わない、すべて同盟国任せ、などと、そのような真似をするほどレムリアは恥知らずではありません。これでも、誇り高きパンゲアの騎士団、その源流となった伝説の騎士マークスの人類騎士団の精神は受け継いでいるつもりです。我が国民を守るためとなれば、我らが兵士たちは命を惜しまず戦うことでしょう」
「畏れ入ります。ところで、伝説の騎士マークスをご存じと言うことは、亡道の司に関しても?」
「話は聞いています。ですが正直、伝説だとばかり思っておりました。まさか、現実の存在だなとどは……」
「まぎれもなく、現実の存在です。少なくとも、千年前の世界には存在していました。そして、いま、このときにも現われるはずです。そのためにも、人類が協力することは欠かせません」
「もちろんです。伝説にある騎士マークスの戦いが現実のものであったと言うなら、亡道の司の脅威はまさに想像を絶するもの。我々は団結し、協力することで立ち向かわなければなりません」
「その通りです。亡道の司の脅威が迫っているなか、人と人が争っている場合ではありません。一刻も早く、人の世の争いを収め、亡道の司に対する体制を整えなければなりません」
「ええ。我々も全力を尽くします、ロウワン卿」
「ありがとうございます。では、もうひとつ、都市網社会への参加に関してですが……」
ロウワンがそう言ったときだ。ソーニャが夫の肩になにかを見つけたらしい。そっと、肩に手をかけた。
「あら、クナイスル、大変。肩の糸がほつれてますわ」
「おや、そうかい? ソーニャはよくそういう細かいところに気がつくね」
「当たり前ですわ、愛するあなたのためですもの」
「ふふ、嬉しいよ、ソーニャ。愛しているよ」
「はい、愛しています、クナイスル」
ふたりは見つめあい、手を握りあい、ふたりきりの甘いあまい世界にどっぷりと浸かってしまった。それこそ、海賊たちがラム酒の大樽に浸かるように。
その雰囲気の前にはロウワンたちもなにも言えない。大樽ひとつ分のチョコレートを無理やり胃に流し込まれたような思いを抱きながら、ふたりがこちらの世界に戻ってくるのをまつしかなかった。
とにかく、会談は終わった。
都市網社会への参加に関してはうやむやになってしまったがそれでも、バンゲア及びローラシアに対抗するため、そして、亡道の司の出現に備えるために協力しあう、そのために三国同盟を組むという点でははっきりと確約を得られた。ロウワンとしては充分に満足すべき結果だった。
「正式な調印はヘイダール議長も交えた後日のこととなりますが、同盟そのものはすでに締結されたも同じ。今宵はその祝いに、ささやかな宴を開かせていただきます。お楽しみください」
クナイスルのそのにこやかな挨拶を受けて――。
ロウワンたちは執務室をあとにした。
「……ふう」
と、執務室を出た途端、ロウワンは顔のあたりを手でパタパタやりながら息をついた。
「……まいったな。ロスタム卿から聞いてはいたけど、まさかあそこまでの愛妻家だったなんて」
夫婦の熱いイチャイチャ振りはウブな少年には刺激が強すぎた。なんとも体温があがってしまって仕方がない。
「……本当にね」
と、こちらも色事には縁のない『女教師』メリッサがこぼした。
「……あんなことで、本当に一国の主権者が務まるのかしら?」
そんなふたりを見て行者がクスリと笑った。
「やれやれ。ふたりとも、まだまだ甘いね」
「どういうことだ?」
「気がつかなかった? あのふたりがイチャついたのは決まって、都市網社会の話題にさしかかったときだよ」
「えっ?」
「どういうこと?」
ロウワンが声をあげ、メリッサが尋ねる。
「つまり、あのふたりのイチャつきは演技。自分たちに都合の悪い話が出たときにはああやってイチャついて見せて、うやむやにしているということだよ。おかげで、都市網社会に関する話はまるで出来なかっただろう?」
「それじゃ……愛妻家って言うのも嘘だと?」
「嘘というか策略じゃないかな。そんな噂を流しておくことでいつ、どこで、イチャついてもおかしくないと思わせておく。それでこそ、平然とイチャついて見せて話をそらすことができるんだからね」
「そうか。そういうことだったのか」
「でも、それだと、夫婦そろってかなりの策士ということになるわよね」
「当然だろう? 仮にも一国の元首夫妻だよ。その程度の腹芸が出来なければ務まらないよ」
「確かにな」
と、野伏も言った。
「クナイスルはともかく、妻のソーニャのほうは相当に使うぞ。あのゆったりしたドレスのなかにはかなりの数の武器を仕込んであった」
「そうなのか⁉」
「それに、天井裏には何人か潜んでいた。あの気配はまちがいなく手練れの暗殺者だ。見た目通りの相手だと思うと痛い目を見るぞ」
「……そうか。わかった。気をつけるよ」
「でも、ロウワン。そうだとすると、どうするの? そんな相手と同盟を組むわけ?」
「もちろんです」
メリッサの問いに対し、ロウワンは迷いなく答えた。
「パンゲアやローラシア、亡道の司に対抗するためにはどうしても手を組む必要がある。そのためには、油断ならない策士ぐらいの方がいい。うまく付き合えれば、善良なだけの相手よりずっと頼りになりますからね」
ロウワンたちが去ったあと、執務室の雰囲気は一変していた。
伯爵クナイスル。あれほど、人好きのする好青年と見えた人物がいまや、険のある顔付きとなり、なにものも信じないかのような視線をあたりに放っている。善良な愛妻家の顔は消え失せ、油断ならない策士の顔だけがあった。その変貌振りは、部屋を埋め尽くすぬいぐるみたちでさえ、抜け目なく監視するための斥候兵のように見えてくるほどだった。
「……ふん。ロウワンか。確かに、ヘイダール議長の言うように子どもらしい理想家のようだな」
「ええ。都市網社会。確かに、面白い考えだとは思いますが……」
「たやすく参加を表明するわけにはいかん。我々は、我々の国土の一体感を守らなくてはならない」
「その通りですわ」
妻のソーニャもまた、ロウワンたちの前での柔和な国母としての仮面を脱ぎすて『冷徹な悪女』とも言うべき姿を見せていた。
「そのためにこそ、わたしたちは独立派とパンゲア派、双方の間をとりもつのに苦労してきたのですから」
「そうだ。都市網社会に参加すれば、パンゲア派が自分たちの国をもつことを許すことになる。そうなれば、レムリアは分裂する。そんなことは受け入れられない。ミハイル!」
クナイスルは信頼する宰相に声をかけた。
「ミハイル。ロスタム卿のほうは?」
「はい。すでに行動を開始しているはずです」
「兵の準備は?」
「万全にございます」
「そうか。では、あとは連絡まちだな」
「御意」
ソーニャが遠慮がちに言った。
「今回の件、少々、悪辣とは思いますが……」
「なんと言われようとかまわん」
クナイスルは妻の言葉に対し、断固たる口調で答えた。
「パンゲアに人ならざる怪物どもがいるとわかった以上、いままでのようなわけにはいかん。おれは、このレムリアの主として、レムリアの国民を守らなくてはならない。そのためには、どんな悪どい真似もしてみせる」
同じ頃――。
レムリア首都ゴータムの一角にある貴族の屋敷に、幾人かの貴族が集まっていた。独立国家として歩むよりもパンゲアに属し、安定を求めるべきだと主張する一派、すなわち『パンゲア派』である。
かの人たちは別に秘密組織などではない。公式に認められた政治集団である。もちろん、その根は日の当たる場所だけにあるわけではなく、闇深い国の暗部にまで張り巡らされており、数々の策謀に関わっている。
しかし、少なくとも、いま、この場に集まっているのはれっきとしたレムリア貴族であり、堂々と国政に参画している閣僚たちである。
「……聞いたか? クナイスル伯爵は自由の国とやらと同盟を組むそうだ」
「正気の沙汰ではないな。ぽっと出の海賊集団と組んで、パンゲアに対抗しようなどとは。しかも、その主催はまだ一〇代半ばの小僧だと言うではないか」
「その通りだ。まったく、正気とは思えん。そんな得体の知れない連中を信用して、いざというときに裏切られたらどうする」
「まったくだ。まして、パンゲアには人とも思えぬ怪物兵がいるそうではないか。だと言うのに、そんな連中を頼りにパンゲアと争うなどあってはならん」
「そう、その通り。パンゲアにそのような力があるとわかったいまこそ、我らが国政を握り、パンゲアに忠誠を誓い、国民の安全を図るべきだ。あんな女房命の軽薄な若造などに任せてはおけん」
「そう、その通りだ。いまこそ我らが悲願を叶えるときだ」
「うむ」
その場にいる全員が重々しくうなずいた。
レムリアの歴史は独立派とバンゲア派の政治的な綱引きの歴史でもある。独立国家として自らの脚で歩もうとする一派と、人類最強国家であるパンゲアに属して安全を買おうという一派にわかれ、日の当たらない闇のなかで様々な争いを繰り広げてきた。
ただし、それは対等の戦いであったわけではない。歴史のほとんどを通じて七対三、あるいは八対二と言ったところで独立派のほうが勢力を握ってきた。だからこそ、レムリアはこれまで一貫して事実上の独立国家としてやってきたのだ。
しかし、それだけに、バンゲア派の貴族たちは『自分たちはないがしろにされている』という鬱屈した思いを重ねて来た。そして、その屈辱を晴らし、自分たちこそがレムリアを動かすべきだと代々、策謀を積み重ねてきたのである。
いまこそ、その準備を生かし、花開かせるべきときだった。
扉がノックされた。
「入れ」
声と共に扉が開き、年配の執事が姿を現わした。うやうやしく頭をさげてから用件を伝える。
「旦那さま。ゴンドワナ議長ヘイダールの名代、ロスタムと名乗るお方がお会いしたいとのことです」
部屋に通されたロスタムは厚い布を全体にかけた大きな籠を横に置き、『砂漠の王子さま』と呼びたくなる美貌ににこやかな笑みを湛えていた。
「謁見をお許しいただき、恐悦至極に存じます」
そう型通りに挨拶するロスタムに向かい、部屋の主は興味なさそうに言った。
「挨拶はいい。それより、なんの用だ?」
「あなた方の協力者がやってきた。そういうことです」
「なに?」
「実は、裏ではすでに話がついているのです。パンゲアの怪物兵。あのような化け物を操る国と戦うほど、我らゴンドワナ商人は愚かではありません。そこで、ヘイダール議長はクナイスル伯爵に申し入れました。
『自由の国の主催、ロウワン。その首を手土産にパンゲアに取り入り、安全を買いとろう』と」
「なに⁉」
「そして、クナイスル伯爵もそれを受け入れました。そして、私を使者としてあなた方のもとに派遣されたのです」
「自由の国の小僧を裏切ると言うのか?」
「私はヘイダール議長の部下なれば、ヘイダール議長の命に従うのみ。なにひとつ裏切ってなどおりません」
「言うわ、この若造が」
「そうは申しましても、ただでは信用されないことはわきまえております。そこで、挨拶がわりに手土産を持参しました」
「手土産だと?」
「はい。自由の国の主催、ロウワンのきょうだい分です」
ロスタムはそう言って厚い布を取り去った。その下から現れたのは大きな檻。そのなかにはバナナを片手にいびきをかいて眠る毛むくじゃらの生き物がいた。
ビーブ。
そこは『執務室』とは言っても例えば、ゴンドワナ議長ヘイダールの部屋のように機能性一点張りの実用的な部屋とはまるでちがっていた。
部屋は広く、天井は高く、やはり大きな窓が壁一面に張られ、外の光をいっぱいに部屋のなかに招き入れている。一方で部屋に設えられた卓や椅子は妙に大きい。明らかに特注品と思われる常識外の大きさ。そこにいるとなんだか自分が巨人の国にまぎれ込んだような気になってくる。
部屋のなかには書棚などは一切なく、書類や書籍の類もほとんど見られない。そのかわり、あちこちに恐らくは伯爵夫人であるソーニャのお手製だろう。かわいらしいぬいぐるみがいっぱいに置かれている。
とくに目立つのが窓辺に飾られたクナイスルとソーニャ、ふたりの人形。仲良そうにピッタリとよりそい、手など握りあっている。そんなものを目につくところに飾られていては『おふたりのなれそめは?』とか聞かなくてはいけないという気にさせられてくる。
もっとも、もし、そんなことを聞けば最後、孫子の代まで祟るほどの惚気話を聞かされることになるだろうが……。
その他にもかわいらしい鉢植えがあり、天井からはまるで赤ん坊の寝台に飾るような飾りがいくつもさげられている。
子どもの部屋。
まさに、そんな印象。レムリアらしいと言えば言えるのだが、とても、仕事用の部屋とは思えない。
呆気にとられたロウワンを見て内心を察したのだろう。クナイスルは恥ずかしがる素振りもなく誇って見せた。
「どうです。かわいい部屋でしょう。これはすべて、妻の趣味でしてね。妻の手にかかればどんな無骨な部屋もこの通り、とびきりかわいくかわってしまうのですよ」
「まあ、いやだわ、クナイスル。そんなに褒めてもなにも出ないわよ」
「いやいや、僕はただ事実を言っているだけだよ」
「もう……」
と、ソーニャは頬を赤らめる。クナイスルはそんな妻を力いっぱい抱きしめた。ふたりのまわりに人の迷惑を顧みない『♡』マークが乱舞する。
その甘ったるい雰囲気に、ロウワンたちは思わず引いてしまった。しかし、見た目はどうあれ執務室は執務室。その場において数々の重要な決済が行われることにはちがいはない。
「気を抜かないことだよ、ロウワン」
行者がロウワンに耳打ちした。
「外交の場において、相手を侮ったら負けだよ。この部屋の雰囲気に騙されて相手を甘く見たら、その時点で負けが決まる」
なるほど、そうか。この部屋には『相手を油断させ、交渉を有利に進める』という効果があるのか。本当に計算尽くでそうしているのだとしたらこのふたり、単なる甘々の夫婦に見えて抜け目のない策謀家と言うことになる。
ロウワンは部屋の飾りから一切、目をそらし、気を引き締めた。
そして、自由の国とレムリア伯爵領の会談ははじまった。
自由の国側は主催のロウワンの他、野伏、行者、メリッサの四人。
レムリア側も同じく四人。国家元首たるクナイスル伯爵、その妻ソーニャ、宰相のミハイル、宮廷書記のニキータ。文官ばかりで護衛の兵士ひとり、室内にはいない。クナイスルたちも誰ひとりとして武器をもっている様子はない。
数の上では同じでも戦力としては比較にもならない。たとえ、クナイスルたちが一〇〇倍の人数がいたとしても野伏ひとりでたやすく制圧出来てしまう。クナイスルたちが野伏や行者の能力を知らないことを考えに入れたとしてもやはり、帯刀を許した相手と護衛もなしに丸腰のままで会談に臨むなど『いい度胸』という他はなかった。
とにかく、会談ははじまった。
ロウワンはまずは状況を説明した。イスカンダル城塞群や港町アッバスで見た光景、そして、サラフディンでの戦い。
それらを事細かに説明した。
説明を聞いたクナイスルは、このときばかりは一国の統治者らしく重々しくうなずいた。
「……なるほど。パンゲアの怪物どもに関してはヘイダール議長より書状にて知らされておりましたが、直に聞くとまるで印象がちがいますね」
「それにしても、パンゲアがそのような兵を使うとは。あの敬虔な信仰の国が……」
「はい。恐ろしいことです。我が国の民がそのような怪物に襲われるなどと、思っただけでも倒れてしまいそうですわ」
宰相のミハイルが眉間に皺をよせて言うと、伯爵夫人ソーニャが身を震わせた。クナイスルはそんな妻の肩に手をまわし、そっと抱きよせた。
「ええ、恐ろしいことです」
ロウワンはうなずいた。
「ですが、本当に恐ろしいのはあんな怪物どもではありません。教皇アルヴィルダの意思。かの人はなんとしても世界を統一し、そうすることで争いのない世界を作ろうとしています。そのためなら、かの人はなんでもやる。そのことはあの怪物を使っていることで証明されています」
「世界をひとつに、か……」
クナイスルは妻の肩に腕をまわしたまま言った。
「教皇アルヴィルダとは就任式のときに会っただけですが、その頃から意思の強さは感じていました。同時に、あまりにも純粋で、そのことが危うく思えたものです。その危惧が現実のものになってしまったようですね。手段を選ばず、自分の理想を叶えようとは」
「恐ろしいことです」
ソーニャが両手を合わせて、祈るように言った。
「人と人の争いをなくすために戦争を起こす。そのような矛盾、うまく行くはずがないのに……」
ソーニャの言葉はもちろん悪意のないものだったが、ロウワンの胸に深々と突き刺さった。
『人と人の争いをなくすために争いを起こす』
その矛盾を抱えているのはロウワンも同じことだった。
「ともあれ、ロウワン卿。事態がそのように切迫したものである以上、我々レムリアとしても最大限の協力をさせていただきます」
「それでは、クナイスル閣下。我々との、いえ、我々とゴンドワナとの三国同盟を締結していただけるのですか?」
「いえ、ロウワン卿。こちらから同盟をお願いするのです。パンゲアの怪物どもに対抗するには実際に戦い、勝利したあなた方の力が必要不可欠なのですから」
「そのとおりです」
クナイスルの言葉にソーニャも言葉を添えた。
「大切な国民をそのような怪物に蹂躙させるわけには参りません。どうか、ロウワン卿。そして、皆さま。我がレムリアをパンゲアの怪物どもから守るために、お力をお貸しください」
そう言って深々と頭をさげる。
その姿には確かに、国民を愛し、慈しみ、守り抜こうとする『国母』としての尊厳があった。
「もちろん」
と、ロウワンは答えた。
「自由の国としては、世界をパンゲアの侵略から守るために全力を尽くします。ですが、我々だけでどうにかなることでもありません。必要とあれば、レムリアの兵にもパンゲアの怪物たちと戦ってもらうことになります。その点は承知していただけますか?」
「もちろんです。同盟を組んでおいて自分たちは戦わない、すべて同盟国任せ、などと、そのような真似をするほどレムリアは恥知らずではありません。これでも、誇り高きパンゲアの騎士団、その源流となった伝説の騎士マークスの人類騎士団の精神は受け継いでいるつもりです。我が国民を守るためとなれば、我らが兵士たちは命を惜しまず戦うことでしょう」
「畏れ入ります。ところで、伝説の騎士マークスをご存じと言うことは、亡道の司に関しても?」
「話は聞いています。ですが正直、伝説だとばかり思っておりました。まさか、現実の存在だなとどは……」
「まぎれもなく、現実の存在です。少なくとも、千年前の世界には存在していました。そして、いま、このときにも現われるはずです。そのためにも、人類が協力することは欠かせません」
「もちろんです。伝説にある騎士マークスの戦いが現実のものであったと言うなら、亡道の司の脅威はまさに想像を絶するもの。我々は団結し、協力することで立ち向かわなければなりません」
「その通りです。亡道の司の脅威が迫っているなか、人と人が争っている場合ではありません。一刻も早く、人の世の争いを収め、亡道の司に対する体制を整えなければなりません」
「ええ。我々も全力を尽くします、ロウワン卿」
「ありがとうございます。では、もうひとつ、都市網社会への参加に関してですが……」
ロウワンがそう言ったときだ。ソーニャが夫の肩になにかを見つけたらしい。そっと、肩に手をかけた。
「あら、クナイスル、大変。肩の糸がほつれてますわ」
「おや、そうかい? ソーニャはよくそういう細かいところに気がつくね」
「当たり前ですわ、愛するあなたのためですもの」
「ふふ、嬉しいよ、ソーニャ。愛しているよ」
「はい、愛しています、クナイスル」
ふたりは見つめあい、手を握りあい、ふたりきりの甘いあまい世界にどっぷりと浸かってしまった。それこそ、海賊たちがラム酒の大樽に浸かるように。
その雰囲気の前にはロウワンたちもなにも言えない。大樽ひとつ分のチョコレートを無理やり胃に流し込まれたような思いを抱きながら、ふたりがこちらの世界に戻ってくるのをまつしかなかった。
とにかく、会談は終わった。
都市網社会への参加に関してはうやむやになってしまったがそれでも、バンゲア及びローラシアに対抗するため、そして、亡道の司の出現に備えるために協力しあう、そのために三国同盟を組むという点でははっきりと確約を得られた。ロウワンとしては充分に満足すべき結果だった。
「正式な調印はヘイダール議長も交えた後日のこととなりますが、同盟そのものはすでに締結されたも同じ。今宵はその祝いに、ささやかな宴を開かせていただきます。お楽しみください」
クナイスルのそのにこやかな挨拶を受けて――。
ロウワンたちは執務室をあとにした。
「……ふう」
と、執務室を出た途端、ロウワンは顔のあたりを手でパタパタやりながら息をついた。
「……まいったな。ロスタム卿から聞いてはいたけど、まさかあそこまでの愛妻家だったなんて」
夫婦の熱いイチャイチャ振りはウブな少年には刺激が強すぎた。なんとも体温があがってしまって仕方がない。
「……本当にね」
と、こちらも色事には縁のない『女教師』メリッサがこぼした。
「……あんなことで、本当に一国の主権者が務まるのかしら?」
そんなふたりを見て行者がクスリと笑った。
「やれやれ。ふたりとも、まだまだ甘いね」
「どういうことだ?」
「気がつかなかった? あのふたりがイチャついたのは決まって、都市網社会の話題にさしかかったときだよ」
「えっ?」
「どういうこと?」
ロウワンが声をあげ、メリッサが尋ねる。
「つまり、あのふたりのイチャつきは演技。自分たちに都合の悪い話が出たときにはああやってイチャついて見せて、うやむやにしているということだよ。おかげで、都市網社会に関する話はまるで出来なかっただろう?」
「それじゃ……愛妻家って言うのも嘘だと?」
「嘘というか策略じゃないかな。そんな噂を流しておくことでいつ、どこで、イチャついてもおかしくないと思わせておく。それでこそ、平然とイチャついて見せて話をそらすことができるんだからね」
「そうか。そういうことだったのか」
「でも、それだと、夫婦そろってかなりの策士ということになるわよね」
「当然だろう? 仮にも一国の元首夫妻だよ。その程度の腹芸が出来なければ務まらないよ」
「確かにな」
と、野伏も言った。
「クナイスルはともかく、妻のソーニャのほうは相当に使うぞ。あのゆったりしたドレスのなかにはかなりの数の武器を仕込んであった」
「そうなのか⁉」
「それに、天井裏には何人か潜んでいた。あの気配はまちがいなく手練れの暗殺者だ。見た目通りの相手だと思うと痛い目を見るぞ」
「……そうか。わかった。気をつけるよ」
「でも、ロウワン。そうだとすると、どうするの? そんな相手と同盟を組むわけ?」
「もちろんです」
メリッサの問いに対し、ロウワンは迷いなく答えた。
「パンゲアやローラシア、亡道の司に対抗するためにはどうしても手を組む必要がある。そのためには、油断ならない策士ぐらいの方がいい。うまく付き合えれば、善良なだけの相手よりずっと頼りになりますからね」
ロウワンたちが去ったあと、執務室の雰囲気は一変していた。
伯爵クナイスル。あれほど、人好きのする好青年と見えた人物がいまや、険のある顔付きとなり、なにものも信じないかのような視線をあたりに放っている。善良な愛妻家の顔は消え失せ、油断ならない策士の顔だけがあった。その変貌振りは、部屋を埋め尽くすぬいぐるみたちでさえ、抜け目なく監視するための斥候兵のように見えてくるほどだった。
「……ふん。ロウワンか。確かに、ヘイダール議長の言うように子どもらしい理想家のようだな」
「ええ。都市網社会。確かに、面白い考えだとは思いますが……」
「たやすく参加を表明するわけにはいかん。我々は、我々の国土の一体感を守らなくてはならない」
「その通りですわ」
妻のソーニャもまた、ロウワンたちの前での柔和な国母としての仮面を脱ぎすて『冷徹な悪女』とも言うべき姿を見せていた。
「そのためにこそ、わたしたちは独立派とパンゲア派、双方の間をとりもつのに苦労してきたのですから」
「そうだ。都市網社会に参加すれば、パンゲア派が自分たちの国をもつことを許すことになる。そうなれば、レムリアは分裂する。そんなことは受け入れられない。ミハイル!」
クナイスルは信頼する宰相に声をかけた。
「ミハイル。ロスタム卿のほうは?」
「はい。すでに行動を開始しているはずです」
「兵の準備は?」
「万全にございます」
「そうか。では、あとは連絡まちだな」
「御意」
ソーニャが遠慮がちに言った。
「今回の件、少々、悪辣とは思いますが……」
「なんと言われようとかまわん」
クナイスルは妻の言葉に対し、断固たる口調で答えた。
「パンゲアに人ならざる怪物どもがいるとわかった以上、いままでのようなわけにはいかん。おれは、このレムリアの主として、レムリアの国民を守らなくてはならない。そのためには、どんな悪どい真似もしてみせる」
同じ頃――。
レムリア首都ゴータムの一角にある貴族の屋敷に、幾人かの貴族が集まっていた。独立国家として歩むよりもパンゲアに属し、安定を求めるべきだと主張する一派、すなわち『パンゲア派』である。
かの人たちは別に秘密組織などではない。公式に認められた政治集団である。もちろん、その根は日の当たる場所だけにあるわけではなく、闇深い国の暗部にまで張り巡らされており、数々の策謀に関わっている。
しかし、少なくとも、いま、この場に集まっているのはれっきとしたレムリア貴族であり、堂々と国政に参画している閣僚たちである。
「……聞いたか? クナイスル伯爵は自由の国とやらと同盟を組むそうだ」
「正気の沙汰ではないな。ぽっと出の海賊集団と組んで、パンゲアに対抗しようなどとは。しかも、その主催はまだ一〇代半ばの小僧だと言うではないか」
「その通りだ。まったく、正気とは思えん。そんな得体の知れない連中を信用して、いざというときに裏切られたらどうする」
「まったくだ。まして、パンゲアには人とも思えぬ怪物兵がいるそうではないか。だと言うのに、そんな連中を頼りにパンゲアと争うなどあってはならん」
「そう、その通り。パンゲアにそのような力があるとわかったいまこそ、我らが国政を握り、パンゲアに忠誠を誓い、国民の安全を図るべきだ。あんな女房命の軽薄な若造などに任せてはおけん」
「そう、その通りだ。いまこそ我らが悲願を叶えるときだ」
「うむ」
その場にいる全員が重々しくうなずいた。
レムリアの歴史は独立派とバンゲア派の政治的な綱引きの歴史でもある。独立国家として自らの脚で歩もうとする一派と、人類最強国家であるパンゲアに属して安全を買おうという一派にわかれ、日の当たらない闇のなかで様々な争いを繰り広げてきた。
ただし、それは対等の戦いであったわけではない。歴史のほとんどを通じて七対三、あるいは八対二と言ったところで独立派のほうが勢力を握ってきた。だからこそ、レムリアはこれまで一貫して事実上の独立国家としてやってきたのだ。
しかし、それだけに、バンゲア派の貴族たちは『自分たちはないがしろにされている』という鬱屈した思いを重ねて来た。そして、その屈辱を晴らし、自分たちこそがレムリアを動かすべきだと代々、策謀を積み重ねてきたのである。
いまこそ、その準備を生かし、花開かせるべきときだった。
扉がノックされた。
「入れ」
声と共に扉が開き、年配の執事が姿を現わした。うやうやしく頭をさげてから用件を伝える。
「旦那さま。ゴンドワナ議長ヘイダールの名代、ロスタムと名乗るお方がお会いしたいとのことです」
部屋に通されたロスタムは厚い布を全体にかけた大きな籠を横に置き、『砂漠の王子さま』と呼びたくなる美貌ににこやかな笑みを湛えていた。
「謁見をお許しいただき、恐悦至極に存じます」
そう型通りに挨拶するロスタムに向かい、部屋の主は興味なさそうに言った。
「挨拶はいい。それより、なんの用だ?」
「あなた方の協力者がやってきた。そういうことです」
「なに?」
「実は、裏ではすでに話がついているのです。パンゲアの怪物兵。あのような化け物を操る国と戦うほど、我らゴンドワナ商人は愚かではありません。そこで、ヘイダール議長はクナイスル伯爵に申し入れました。
『自由の国の主催、ロウワン。その首を手土産にパンゲアに取り入り、安全を買いとろう』と」
「なに⁉」
「そして、クナイスル伯爵もそれを受け入れました。そして、私を使者としてあなた方のもとに派遣されたのです」
「自由の国の小僧を裏切ると言うのか?」
「私はヘイダール議長の部下なれば、ヘイダール議長の命に従うのみ。なにひとつ裏切ってなどおりません」
「言うわ、この若造が」
「そうは申しましても、ただでは信用されないことはわきまえております。そこで、挨拶がわりに手土産を持参しました」
「手土産だと?」
「はい。自由の国の主催、ロウワンのきょうだい分です」
ロスタムはそう言って厚い布を取り去った。その下から現れたのは大きな檻。そのなかにはバナナを片手にいびきをかいて眠る毛むくじゃらの生き物がいた。
ビーブ。
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