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第三部
《カグヤ》(6)
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船はぐんぐん天球に近づいていく。近づくにつれ光が強くなったがまぶしくはなかった。透明なフードが徐々に色を増し、よぶんな光をカットしたからだ。
「人間が乗ることを前提に作られた船みたいね」
「でなければ、神さまとやらも人間とかわりないかだな」
船は天球の月の面に近づいた。月の一角にぽっかりと穴が開いた。船はその穴に入っていった。そして……突然、世界がひっくり返ったような気がした。
それまで前方から差していた光が後ろから差すようになり、行き先には緑の大地が広がっていた。船が森に降りた。フードが開いた。ふたりは外に出た。森を見まわし、空を見上げた。空はどこまでもやわらかい光に包まれていた。
「何か……変な感じだな」
「そうね。天球のなかにまた、こんな世界が広がっていたなんて」
ウズメはシュランドを見た。
「これからどうする?」
「《すべての鬼の母》の言葉が正しいなら、ここのどこかにすべての謎がわかる場所があるはずだけど……」
「どこかってどこ?」
「見当もつかないな。君の生神としての能力で何かわからないか?」
「占ってみるぐらい、やってみてもいいけど……」
ウズメはいかにも自信なさそうな口調で言った。
だが、占う必要などなかった。それどころではなかった。ふたりの体を大きな影がすっぽりとおおった。同時に見上げたふたりの視線の先。そこにもっとも巨大な敵が立っていた。
《すさまじきもの》の王。
高天原を攻め落とし、出雲を滅ぼし、日向を踏みにじったあの王がいま、ふたりの目の前に立っていた。
「バカな! こんなところにまで……!」
叫んだ後、シュランドは不吉な予感に青ざめた。
「まさか……おれたちが案内して……?」
「そんな! あんなのが後をつけていたとでも言うの? だったら、気がつかないわけが……」
「どこからともなく現われ、またどこかへと消えていく連中だ! それぐらいできたって不思議はない!」
叫ぶシュランドの視線の先で《すさまじきもの》の脈打つ胸が光りはじめた。それが何を意味するのか、ふたりとも知りすぎるほどに知っていた。
「逃げるぞ!」
シュランドが叫んだ。ウズメを抱え、走りはじめた。その背中から幾筋もの雷光が襲いかかった。稲妻が木々を薙ぎ倒し、地面をえぐる。爆風がまき起こり、豊かな森は瞬く間に炎に包まれた。
地面が揺れ、岩塊や木のかけらが飛びかい、風が吹き荒れ、火の玉が振りそぞく。そのなかをシュランドはウズメを抱きしめたまま走りつづけた。
「逃げるってどこへ!」
シュランドの腕のなかでウズメが叫んだ。
「どこでもいい! とにかく逃げて……」
シュランドの言葉が途中でとまった。目の前に深い谷が口を開けていた。はるか下からかすかに水の流れる音が響いてくる。
「くっ……」
シュランドは唇をかみしめた。
谷は広く、シュランドとはいえとうてい飛び越せるものではなかった。といって、谷底に落ちるわけにもいかない。シュランドならなんとか耐えられるかも知れないが、ウズメの華奢な肉体は落下の衝撃に耐えられないだろう。
後ろからは地面をゆらし、《すさまじきもの》の王が追ってくる。《すさまじきもの》がふたりを見逃すわけがない。絶体絶命の窮地に追い込まれていた。
《すさまじきもの》の胸で火花がパチパチと走っている。それを見たシュランドはウズメにささやいた。
「走れ、ウズメ」
「えっ?」
「おれがなんとかやつの注意を引く。その間に走って逃げるんだ」
「バカ言わないで。どうやってあんな化け物の気を引こうって言うの。石でもぶつける? 悪口でも叫ぶ? そんなことでどうにかなると思ってるの?」
「だけど……」
「第一、わたしは森のなかで生き抜く術なんてもっていない。ここであなたと別れたらわたしも死ぬだけ。囮になるべきはわたしのほうよ」
「馬鹿言え! 女の子を囮にして逃げるなんて……」
「シュランド!」
ウズメは叫んだ。
「問題なのはこれから先、どちらが必要な人間か、ということよ。《鬼》を駆り、《すさまじきもの》と戦えるのはあなたであってわたしではない。あなたには生き延びる義務があるはずよ」
「でも……!」
再び、稲妻が放たれた。
稲妻に撃たれた地面が爆発し、盛りあがり、無数の木々がすさまじい勢いではじけ飛んだ。その一本がシュランドの胸めがけて襲いかかった。
「危ない!」
ウズメが叫んだ。身をていしてシュランドをかばった。シュランドの胸を貫くはずだった木のかけらはウズメの華奢な背中に深々と突きささった。
シュランドは目を見開いた。口が限界まで開いたが悲鳴どころかか細い声ひとつ出はしない。そのかわり、はっきりと見ていた。ウズメの背中から血が吹き出し、空中に深紅のバラを描くのを。
数多の動物を狩ってきた経験のあるシュランドにはわかっていた。その吹き出した血の量が完全な致命傷であることが。
ウズメはシュランドに抱きついたまま傷の痛みに耐え、最後の力を振りしぼって地面を蹴った。ふたりの体は深い谷底へと落下していった。
△ ▽
いつか、夜になっていた。
天球のなかのこの世界にも夜はあった。全天の輝きは消え失せ、闇にかわり、ホタルのような光点が不規則に並んでいるだけ。宝石をちりばめた漆黒のボールのなかに立っているようだった。
雨が降っていた。
豪雨ではない。
しかし、小雨と言えるほどでもない。
外を歩いていて突然、降られれば傘をもってこなかった自分をののしり、どこかの家の軒先で雨宿りする、それぐらいの雨だ。
静かな夜の闇のなか、雨が地面を撃つ音だけが響いていた。
どれだけ流されたろうか。シュランドはようやくの思いでウズメの体を抱いて岸にあがった。ずぶ濡れだった。川の水と雨でぐしょぐしょになっていた。顔はそれ以上にぐしゃぐしゃだった。あふれ出る涙が若者の顔を雨に濡れる以上に濡らしていた。
「死なないで……」
小さく、呟いた。
「死なないで、ウズメ。お願い」
その呟きは二〇歳の青年のものではなかった。母親に死なれようとしている幼な子のものだった。
ひざまずき、泣き濡れるシュランドの前ではウズメの体が横たわっていた。シュランドは彼女に向かって『死なないで……』と繰り返していた。
それがむりなことはシュランドにはわかっていた。ウズメの顔はもはや完全に血の気を失い、背中の傷からはもう出血さえしていない。川の流れに流されるうちにそこから流れるだけの血はすべて流れ尽くしてしまったのだ。もう助からない。むしろ、いまだにかすかな息があるのが奇跡と言うべきだった。
「死なないで、死なないで……」
シュランドはぐじぐじと繰り返す。
また死んでしまうのか。また、自分と関わった娘が死んでしまうのか。自分はまた、自分に好意をもってくれた女性を失ってしまうのか。タマモに死なれ、カグヤを失った。この上、ウズメにまで死なれるなんて。
――自分は死神だ。
痛切に思った。
自分に関わった人はみんな、死んでしまう。自分が災いを撒き散らしているのだ。こんなことなら死んでいればよかった。高天原が滅ぼされたとき、人々の怒りのままに殺されていればよかったのだ。そうすればこんなことには……。
「シュ……ラ……ン……ド」
ウズメが呟いた。
シュランドの表情が明るくなった。奇跡が起きて彼女が死の淵から帰ってきたのかと思った。
もちろん、そうではない。ウズメが死にかけていることにかわりはない。ただ、この世で自分が果たすべき役割を行なうため、魂が残っていたにすぎない。
死を前にして、いや、死の世界とこの世の双方に魂をおいたいま、ウズメの能力はその極限まで研ぎ澄まされていた。
ウズメの足の間から一筋の血が流れた。初潮だった。その血とともに巫女としての能力がすべて流れ去ろうとしている。その刹那、彼女にはすべてがはっきりと見えていた。
――これでよかったのだ。
限りない安寧の境地に包まれながら、彼女は思った。これまでに起きたすべてのことは必要なことだった。
いまこそ彼女は理解していた。銀髪の少女、自分の前に現われ『あなたの生命をもらう』と言った少女の言葉の意味を。
それは、こういうことだった。
巫女として成長をつづけ、いまこの瞬間、この役割を果たすためだったのだ。
「悲しまないで、シュランド。わたしには全部、わかっていた。日向か滅びることも、ここでわたしが死ぬことも……」
「何だって?」
「でも、それでよかった。すべては正しいことだった。なぜなら、それは、あなたが目覚めるために、世界を救うために必要なことだったのだから」
「何だ? 何を言ってる? 何のことなんだ、ウズメ?」
ウズメはたおやかな手をゆっくりとシュランドの背中にまわし、弱々しく、しかし、実は渾身の力を込めて抱きしめた。
「……わたしのすべての能力と生命をもって、あなたにかけられたヤシャビトの封印を解く。いま、あなたの目覚めるとき……」
自分の能力が、生命がゆっくりとシュランドの体に流れ込んでいくのをウズメは感じた。絶対な死を前にして彼女はしかし、なにものにも揺るがされることのない安らぎの境地にあった。
――これでだいじょうぶ。
その思いが細胞の隅々まで行き渡り、満たされ、彼女を至福の体験へと導いていた。
――シュランドが救ってくれる。人々を。この世界そのものを。そして、哀れな《すさまじきもの》たちさえも。だから、わたしは……。
想像したことすらない至福の体験に涙を流しながら、ウズメはシュランドに口づけした。シュランドが本来の姿へと生まれ変わる瞬間だった。
……背後に巨大なものが迫っていた。
《すさまじきもの》の王。うつろな風洞を思わせるその目でちっぽけなふたりの人間を、いや、ひとつの死体と、その死体によりそうひとりの人間とを見下ろしていた。
《すさまじきもの》の胸が光った。稲妻が放たれた。シュランドは逃げなかった。指一本、動かそうとはしなかった。ウズメの死体のそばにひざまづき、うなだれているだけだった。
稲妻がシュランドを撃った。閃光がはじけ、爆音が響いた。光が消えたとき……シュランドはそこにいた。うなだれたままの格好で。
《すさまじきもの》に本当に知性があるのならさぞかし驚いていたにちがいない。シュランドの全身は淡く輝く光の球に包まれていた。
――光子障壁。
ウズメによって陰陽師としての力を解放されたシュランドの、それが力だった。
シュランドが立ちあがった。ゆっくりと。あまりにも生気に欠けた動き。人の動きというより亡霊が動いたように見えた。
「王よ、《すさまじきもの》の王よ」
呟いた。
「お前はおれから大切なものをいくつも奪った。だが、おれは……おれだけは……!」
シュランドは叫んだ。歯を食いしばった。あまりの勢いに歯が砕けて飛んだ。ふたつの目から血の涙があふれ出した。
「おれだけは死なん! 生き延びて、生き延びて……必ずきさまらを滅ぼしてやる!」
シュランドは走り出した。血の涙に顔を染めながら鬼のように走っていた。
「人間が乗ることを前提に作られた船みたいね」
「でなければ、神さまとやらも人間とかわりないかだな」
船は天球の月の面に近づいた。月の一角にぽっかりと穴が開いた。船はその穴に入っていった。そして……突然、世界がひっくり返ったような気がした。
それまで前方から差していた光が後ろから差すようになり、行き先には緑の大地が広がっていた。船が森に降りた。フードが開いた。ふたりは外に出た。森を見まわし、空を見上げた。空はどこまでもやわらかい光に包まれていた。
「何か……変な感じだな」
「そうね。天球のなかにまた、こんな世界が広がっていたなんて」
ウズメはシュランドを見た。
「これからどうする?」
「《すべての鬼の母》の言葉が正しいなら、ここのどこかにすべての謎がわかる場所があるはずだけど……」
「どこかってどこ?」
「見当もつかないな。君の生神としての能力で何かわからないか?」
「占ってみるぐらい、やってみてもいいけど……」
ウズメはいかにも自信なさそうな口調で言った。
だが、占う必要などなかった。それどころではなかった。ふたりの体を大きな影がすっぽりとおおった。同時に見上げたふたりの視線の先。そこにもっとも巨大な敵が立っていた。
《すさまじきもの》の王。
高天原を攻め落とし、出雲を滅ぼし、日向を踏みにじったあの王がいま、ふたりの目の前に立っていた。
「バカな! こんなところにまで……!」
叫んだ後、シュランドは不吉な予感に青ざめた。
「まさか……おれたちが案内して……?」
「そんな! あんなのが後をつけていたとでも言うの? だったら、気がつかないわけが……」
「どこからともなく現われ、またどこかへと消えていく連中だ! それぐらいできたって不思議はない!」
叫ぶシュランドの視線の先で《すさまじきもの》の脈打つ胸が光りはじめた。それが何を意味するのか、ふたりとも知りすぎるほどに知っていた。
「逃げるぞ!」
シュランドが叫んだ。ウズメを抱え、走りはじめた。その背中から幾筋もの雷光が襲いかかった。稲妻が木々を薙ぎ倒し、地面をえぐる。爆風がまき起こり、豊かな森は瞬く間に炎に包まれた。
地面が揺れ、岩塊や木のかけらが飛びかい、風が吹き荒れ、火の玉が振りそぞく。そのなかをシュランドはウズメを抱きしめたまま走りつづけた。
「逃げるってどこへ!」
シュランドの腕のなかでウズメが叫んだ。
「どこでもいい! とにかく逃げて……」
シュランドの言葉が途中でとまった。目の前に深い谷が口を開けていた。はるか下からかすかに水の流れる音が響いてくる。
「くっ……」
シュランドは唇をかみしめた。
谷は広く、シュランドとはいえとうてい飛び越せるものではなかった。といって、谷底に落ちるわけにもいかない。シュランドならなんとか耐えられるかも知れないが、ウズメの華奢な肉体は落下の衝撃に耐えられないだろう。
後ろからは地面をゆらし、《すさまじきもの》の王が追ってくる。《すさまじきもの》がふたりを見逃すわけがない。絶体絶命の窮地に追い込まれていた。
《すさまじきもの》の胸で火花がパチパチと走っている。それを見たシュランドはウズメにささやいた。
「走れ、ウズメ」
「えっ?」
「おれがなんとかやつの注意を引く。その間に走って逃げるんだ」
「バカ言わないで。どうやってあんな化け物の気を引こうって言うの。石でもぶつける? 悪口でも叫ぶ? そんなことでどうにかなると思ってるの?」
「だけど……」
「第一、わたしは森のなかで生き抜く術なんてもっていない。ここであなたと別れたらわたしも死ぬだけ。囮になるべきはわたしのほうよ」
「馬鹿言え! 女の子を囮にして逃げるなんて……」
「シュランド!」
ウズメは叫んだ。
「問題なのはこれから先、どちらが必要な人間か、ということよ。《鬼》を駆り、《すさまじきもの》と戦えるのはあなたであってわたしではない。あなたには生き延びる義務があるはずよ」
「でも……!」
再び、稲妻が放たれた。
稲妻に撃たれた地面が爆発し、盛りあがり、無数の木々がすさまじい勢いではじけ飛んだ。その一本がシュランドの胸めがけて襲いかかった。
「危ない!」
ウズメが叫んだ。身をていしてシュランドをかばった。シュランドの胸を貫くはずだった木のかけらはウズメの華奢な背中に深々と突きささった。
シュランドは目を見開いた。口が限界まで開いたが悲鳴どころかか細い声ひとつ出はしない。そのかわり、はっきりと見ていた。ウズメの背中から血が吹き出し、空中に深紅のバラを描くのを。
数多の動物を狩ってきた経験のあるシュランドにはわかっていた。その吹き出した血の量が完全な致命傷であることが。
ウズメはシュランドに抱きついたまま傷の痛みに耐え、最後の力を振りしぼって地面を蹴った。ふたりの体は深い谷底へと落下していった。
△ ▽
いつか、夜になっていた。
天球のなかのこの世界にも夜はあった。全天の輝きは消え失せ、闇にかわり、ホタルのような光点が不規則に並んでいるだけ。宝石をちりばめた漆黒のボールのなかに立っているようだった。
雨が降っていた。
豪雨ではない。
しかし、小雨と言えるほどでもない。
外を歩いていて突然、降られれば傘をもってこなかった自分をののしり、どこかの家の軒先で雨宿りする、それぐらいの雨だ。
静かな夜の闇のなか、雨が地面を撃つ音だけが響いていた。
どれだけ流されたろうか。シュランドはようやくの思いでウズメの体を抱いて岸にあがった。ずぶ濡れだった。川の水と雨でぐしょぐしょになっていた。顔はそれ以上にぐしゃぐしゃだった。あふれ出る涙が若者の顔を雨に濡れる以上に濡らしていた。
「死なないで……」
小さく、呟いた。
「死なないで、ウズメ。お願い」
その呟きは二〇歳の青年のものではなかった。母親に死なれようとしている幼な子のものだった。
ひざまずき、泣き濡れるシュランドの前ではウズメの体が横たわっていた。シュランドは彼女に向かって『死なないで……』と繰り返していた。
それがむりなことはシュランドにはわかっていた。ウズメの顔はもはや完全に血の気を失い、背中の傷からはもう出血さえしていない。川の流れに流されるうちにそこから流れるだけの血はすべて流れ尽くしてしまったのだ。もう助からない。むしろ、いまだにかすかな息があるのが奇跡と言うべきだった。
「死なないで、死なないで……」
シュランドはぐじぐじと繰り返す。
また死んでしまうのか。また、自分と関わった娘が死んでしまうのか。自分はまた、自分に好意をもってくれた女性を失ってしまうのか。タマモに死なれ、カグヤを失った。この上、ウズメにまで死なれるなんて。
――自分は死神だ。
痛切に思った。
自分に関わった人はみんな、死んでしまう。自分が災いを撒き散らしているのだ。こんなことなら死んでいればよかった。高天原が滅ぼされたとき、人々の怒りのままに殺されていればよかったのだ。そうすればこんなことには……。
「シュ……ラ……ン……ド」
ウズメが呟いた。
シュランドの表情が明るくなった。奇跡が起きて彼女が死の淵から帰ってきたのかと思った。
もちろん、そうではない。ウズメが死にかけていることにかわりはない。ただ、この世で自分が果たすべき役割を行なうため、魂が残っていたにすぎない。
死を前にして、いや、死の世界とこの世の双方に魂をおいたいま、ウズメの能力はその極限まで研ぎ澄まされていた。
ウズメの足の間から一筋の血が流れた。初潮だった。その血とともに巫女としての能力がすべて流れ去ろうとしている。その刹那、彼女にはすべてがはっきりと見えていた。
――これでよかったのだ。
限りない安寧の境地に包まれながら、彼女は思った。これまでに起きたすべてのことは必要なことだった。
いまこそ彼女は理解していた。銀髪の少女、自分の前に現われ『あなたの生命をもらう』と言った少女の言葉の意味を。
それは、こういうことだった。
巫女として成長をつづけ、いまこの瞬間、この役割を果たすためだったのだ。
「悲しまないで、シュランド。わたしには全部、わかっていた。日向か滅びることも、ここでわたしが死ぬことも……」
「何だって?」
「でも、それでよかった。すべては正しいことだった。なぜなら、それは、あなたが目覚めるために、世界を救うために必要なことだったのだから」
「何だ? 何を言ってる? 何のことなんだ、ウズメ?」
ウズメはたおやかな手をゆっくりとシュランドの背中にまわし、弱々しく、しかし、実は渾身の力を込めて抱きしめた。
「……わたしのすべての能力と生命をもって、あなたにかけられたヤシャビトの封印を解く。いま、あなたの目覚めるとき……」
自分の能力が、生命がゆっくりとシュランドの体に流れ込んでいくのをウズメは感じた。絶対な死を前にして彼女はしかし、なにものにも揺るがされることのない安らぎの境地にあった。
――これでだいじょうぶ。
その思いが細胞の隅々まで行き渡り、満たされ、彼女を至福の体験へと導いていた。
――シュランドが救ってくれる。人々を。この世界そのものを。そして、哀れな《すさまじきもの》たちさえも。だから、わたしは……。
想像したことすらない至福の体験に涙を流しながら、ウズメはシュランドに口づけした。シュランドが本来の姿へと生まれ変わる瞬間だった。
……背後に巨大なものが迫っていた。
《すさまじきもの》の王。うつろな風洞を思わせるその目でちっぽけなふたりの人間を、いや、ひとつの死体と、その死体によりそうひとりの人間とを見下ろしていた。
《すさまじきもの》の胸が光った。稲妻が放たれた。シュランドは逃げなかった。指一本、動かそうとはしなかった。ウズメの死体のそばにひざまづき、うなだれているだけだった。
稲妻がシュランドを撃った。閃光がはじけ、爆音が響いた。光が消えたとき……シュランドはそこにいた。うなだれたままの格好で。
《すさまじきもの》に本当に知性があるのならさぞかし驚いていたにちがいない。シュランドの全身は淡く輝く光の球に包まれていた。
――光子障壁。
ウズメによって陰陽師としての力を解放されたシュランドの、それが力だった。
シュランドが立ちあがった。ゆっくりと。あまりにも生気に欠けた動き。人の動きというより亡霊が動いたように見えた。
「王よ、《すさまじきもの》の王よ」
呟いた。
「お前はおれから大切なものをいくつも奪った。だが、おれは……おれだけは……!」
シュランドは叫んだ。歯を食いしばった。あまりの勢いに歯が砕けて飛んだ。ふたつの目から血の涙があふれ出した。
「おれだけは死なん! 生き延びて、生き延びて……必ずきさまらを滅ぼしてやる!」
シュランドは走り出した。血の涙に顔を染めながら鬼のように走っていた。
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