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第一話 良き兄妹になるために

一章 兄妹再会から始まる物語

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 「お前はクビだ!」
 『ソーシャルコミック』編集長、灰谷はいたに澄雄すみおの声が響き渡る。
 場所は『ソーシャルメディア・ファクトリー社』の本社ビル、その一角にある同社の看板マンガ雑誌『ソーシャルコミック』の編集室。時は夏の昼下がりのことだった。
 いきなりのクビ宣告を受けた『ソーシャルコミック』(一応)連載マンガ家、藍条あいじょう森也しんやは、そう言われても表情ひとつかえることなく編集長の顔を見つめていた。
 別に意外なことではない。自分のマンガに人気がないことは森也自身、よく分かっている。人気投票では常に下位。上位はもちろん、中位に上がったことすらない。コミックスの売り上げももちろん、連載陣で最低ランク。いずれ、打ち切りになるだろうとは思っていた。
 ――むしろ、いままでよくつづけさせてくれたと感謝すべきなんだろうな。
 森也はそう思う。ソーシャルコミックでマンガ家デビューを果たしてから五年。『罪のしきよめ』の連載をはじめて三年。一向に人気が上がらないままなのにこの浮き沈みの激しい世界で何とか沈むことなくやってこれたのはたしかに、ソーシャルコミック編集部の温情と言うべきだろう。そのことを認識できないほど藍条森也は自惚れ屋ではない。
 「おれが編集長に就任して以来、売り上げも順調に伸びているところだ。この出版不況の折にだぞ」
 ふん、とばかりに灰谷は鼻を鳴らして見せた。何とも下品な態度だが『すべては編集長たるおれの力だ。すごいだろう』と、言いたいのが見え見えなのがより一層、下品に見せている。
 「それなのに、お前のような無能に足を引っ張られるわけには行かん。我々に必要なのは確実に売れる『商品』を作ってくれる有能なマンガ家なんだ。まともな商品ひとつ作れんお前のような業界寄生虫をいままで我慢して食わせやっていたんだからせいぜい感謝して……」
 灰谷の長広舌を、森也は片手をあげて制した。いまさらこの程度の罵倒で傷つくほど柔な人生は送っていない。しかし、すでに決定済みのことでくどくど言われて時間を無駄にする気もない。さっさと聞くべきことを聞いて今後に備える。やるべきことはそれだけだった。
 「クビと言うことが分かればけっこう。理由についていちいち説明する必要はありませんよ。それより、打ち切りはいつなんです?」
 「三ヶ月後だ。売り上げに貢献できない駄作にそれだけの時間をくれてやったんだから感謝するんだな」
 「了解。残り三回ですね。結末はきっちり付けますよ。では、これで失礼します。いままで連載させてくれて感謝します。それでは」
 淡々とした表情と声でそう言うと、森也は頭を下げてきびすを返した。ドアに向けて歩きだす。その背に灰谷の蔑む声がかぶった。
 「……ふん。相変わらず可愛げのない奴だ。土下座のひとつもして頼み込めば考えてやらんでもないものを。やっぱり、ろくに学校にも行かなかった社会不適応者は礼儀を知らんな」
△    ▽
 「藍条、いるか⁉ いなくても出てこい!」
 と、無茶なことを言って森也の家に飛び込んできたのは赤岩あきら。森也と同じくソーシャルコミックの連載マンガ家。本来、外に向けて開けるように出来ている玄関のドアを外から蹴りつけ、強引にこじ開けて――と言うより、叩き壊して――弾丸のような勢いで家のなかに飛びあがる。ちょうどその場にいたのが藍条森也……ではなく、見覚えのある初老の男性。突然の出来事に心臓発作を起こしそうな顔で凍り付いている。
 「お、これは失礼」と、あきらは一応、謝りはしたが、さほど熱意はない。
 「い、いや……」
 ようやく心臓の鼓動を押さえたらしい男性は、胸を押さえながらあきらの叩き壊したドアから出て行った。すると、男性を見送るために玄関先まで来ていたらしい森也が、溜め息交じりの声をあきらにかけた。
 「いつになったらドアは手で開けるものだと覚えるんだ、お前は? これでうちのドアを蹴破ったのは三度目だぞ。そのたびに言っているだろう。この家はボロボロの空き家だったのをおれが手ずから直したんだ。もっと気を使って扱え」
 「細かいことを気にするな」
 と、あきらは『ふん!』とばかりに胸を張って答えた。
 その態度に森也はもう一度、溜め息をついた。
 神奈川県かながわけん相模国市さがみのくにし赤葉あかば。山梨県との県境にほど近い山間の地域。丹沢水系に属する神奈川の水源地帯。まわりには豊かな森が広がり、日本の原風景とも言うべき棚田が息を呑む絶景となって広がっている。水源地だけあって水もうまい。しかし――。
 それだけだ。
 それ以外には何もない。人口も少ない。地元の小学校に通う生徒はわずか六人。一九六〇年頃に二〇〇人いたことを考えるとすさまじい人口減少ぶりだ。何しろ、人が減りすぎてシカやイノシシが町まで入り込むようになり、ヤマヒルを落としていく。そのヤマヒルに人が襲われるというのだから半端ではない。
 限界集落。
 そう呼ばれる土地だ。何とか人を呼ぼうと耕作放棄地を貸し出すことで新規就農者を募っているが、移住者はほとんどやってこない。何しろ、四〇代移住者が『若手』と呼ばれるような場所なのだ。
 森也は生まれも育ちも横浜だが、マンガ家となってほどなくしてやってきた。最初の連載が打ち切られて仕事がなく、貯金もない。このままでは住んでいるアパートも追い出されてホームレス化。そんなとき、当時の担当編集の紹介で越してきたのだ。
 当時はボロボロの空き家だったが、それを地元の建築業者の指導を受けて森也が自分の手で少しずつ直してきた。おかげでいまでは新築同様……とはさすがに行かないが、まあまあ不自由なく住める程度には修復されている。まだまだボロっちい家ではあるが、それでも自分の手でここまで直したのだ。森也にしてみれば愛着がある。その愛着ある家を壊されて、しかも『細かいこと』で片付けられたのではさすがにたまらない。
 あきらの方はそんなことにはお構いなし。自分が蹴り破ったドア越しに去って行く初老男性の後ろ姿を見つめながら尋ねた。
 「あの親父は見覚えがあるぞ。確か、ここの大家だったな。何の用だったんだ?」
 「三ヶ月以内に家と土地を明け渡せ、だとさ」
 「なんだと⁉」
 あきらは必要以上の大声を張りあげて叫んだ。
 「明け渡せだと⁉ しかし、お前は金を払って借りているのではない。お前の方が金をもらっているのだろうが」
 「まあな。あまりにも人が減りすぎて、空き家は増える一方。畑は世話するものがいなくて荒れる一方。そこで、金を出すから管理人として住んでくれ、という話だった。それで、おれが住むことになったわけだ。家も直す、畑もやる、それで月二万出すという条件でな」
 「それが、何でいきなり『明け渡せ』なんて話になるんだ⁉」
 あきらは声を限りに張りあげる。
 唾とともに放たれる叫び声に森也はさすがに顔をしかめた。
 「……前から言っているだろう。お前は台詞に『!』と『⁉』が多すぎる。あと、唾を飛ばすのはやめろ」
 「そんなことはどうでもいい! 何で、そんなことになるのか説明しろ!」
 当てつけのようにますます『!』を増やすあきらであった。
 森也は説得不可能を悟って溜め息をつき、淡々と説明した。
 「この業界ではよくあることさ。最初のうちは『金を払ってでも誰かに住んで欲しい』と言っておきながら、いざ、人が住むようになって家も直った、畑も良くなった、となると、今度は金を払うのが惜しくなる。きちんと金を払って借りてくれる相手に貸したくなる。そう言うことさ」
 「なんたる身勝手な!」
 と、あきらは両腕を組んでぷんぷん怒っている。
 「仕方がないさ。しょせん、世の中は利益で動いているんだからな。それより、お前は何しにきたんだ? まさか、うちのドアを蹴破りに来たわけではないだろう」
 「おお、そうだった。聞いたぞ! お前、連載を打ち切られたそうじゃないか」
 「まあな。あと三ヶ月だ」
 「ええい、あのバカ編集長め!」
 と、あきらは腹立ち紛れに廊下を蹴り飛ばす。
 「……今度は廊下まで蹴破る気か?」
 と、森也は顔をしかめて抗議したが、もちろん、あきらは聞いてなどいない。怒りにまかせて叫びつづける。
 「まったく、あのバカ編集長は分かっていないんだ! お前がどれだけソーシャルコミックに貢献しているか。お前はたしかに売れていない。しかし、それはキャラクターの描き書き方が下手だからだ。ストーリーとアイディアに関しては天下無双。ソーシャルコミックのマンガ家なら誰だってお前の世話になっている。ストーリーに詰まろうと、アイディアに困ろうと、お前に相談すれば何とかなるんだからな。かくいうわたしの『海賊ヴァン』にしても正直、半分ぐらいはお前のアイディアだ。はっきり言って、お前抜きでいまの質を維持できるかというとそんな自信はまったくない」
 プロのマンガ家としてむしろ恥じるべきだろうに、胸を張って豪語するあきらであった。
 「ソーシャルコミックの連載マンガ家であれば誰でもそのことを知っている。お前を頼りにしているし、感謝もしている。実際、ソーシャルコミックの売り上げが伸び始めたのはお前がみんなの相談役として機能しはじめてからだ。そんなことも分からずにクビにするとは、あのバカ編集長め……」
 「それこそ、仕方がないさ。おれの作品が売れていないのは事実なんだ。打ち切りにするのは編集長として当然の判断だ」
 「……まったく。お前というやつはいつもいつもそうやって物わかりの良いことを。そんな冷静に分析している場合ではないだろう。おまけに、こうして心配してやってきてみれば家まで追い出されるという。仕事も家もなくして、お前、これからどうする気だ? いっそ、わたしの家に来るか?」
 「そう言うわけにも行かないだろう。お前だって一応、未婚の女だ」
 「そんなことを気にするな。わたしとお前は同期の桜、この五年間、生き馬の目を抜く業界でともに生き抜いてきた戦友ではないか。何を遠慮する必要がある」
 森也とあきらは五年前、ソーシャルコミックの新人賞で入賞してプロデビューを果たした。ただし、森也が佳作だったのに対し、あきらは堂々たる大賞だったが。
 その後のマンガ家人生も対照的。森也はデビュー後、何作か読み切りを発表したあと、ようやく連載をものにした。それも、半年で打ち切り。その後、描いてもかいても当時の担当編集に没にされ、半年もの間、仕事なし。ようやく『罪のしきよめ』で再デビューを果たした。そしていまや、ソーシャルコミック編集長からクビを宣告され、失業の危機に立たされている崖っぷちマンガ家。
 一方の赤岩あきらはデビュー作『海賊ヴァン!』がたちまち人気を博し、そのまま連載化。一躍、看板作家の仲間入りを果たした。アニメ化されたのは当然として、いまでは毎年、映画化されているし、ゲームにもなっていると言う超売れっ子だ。
 マンガ家としての格で言えばまさに天と地、月とスッポン。森也からすれば目の前を歩いていれば『へへっー』と平身低頭して恐れ入り、通り過ぎるのを待つしかない雲の上の存在だ。それでも、あきらは森也のことを『唯一、残った同期の桜』として信頼していたし、日頃から意見交換をしたり、互いの作品の批評をしあったりしている。あきらが売れっ子ゆえの修羅場ともなれば――何しろ、売れないマンガ家である森也に修羅場など無縁なので――即座に呼び出され、アシスタント業はもとより、炊事・洗濯・掃除と家事一般までこなすなど、関係は深い。ソーシャルコミックの他のマンガ家の間でも『ソーシャルコミック一の名コンビ!』として認識されている。
 口調も言動も侠気あふれる男っぽいものだが実はれっきとした女性。しかも、見た目ばかりは、長い髪をポニーテールに結んだ美少女――然とした女性――と言うのだからギャップがすごい。実は森也と同じ二三歳なのだが、見た目はどう見ても一〇代の女の子。それも、小柄で華奢な人形のような美少女だ。そんな美少女がしかし、小学校から高校まで剣道の全国大会常連というのだから世の中わからない。
 いつもロングスカートをはいているが、これはむしろ袴のつもり。ポニーテールにしているのも武士のつもり。愛用の下着はふんどし――それも、今風のパンドルショーツなどではなく、昔ながらの白くて無地のふんどし――と言う侍レディー。そんな侍レディーが戦友がクビになったと聞いたのだから、心配のあまりドアを蹴破って乗り込んでくるのも無理はない……と言うことにしておかないと森也が悲しすぎるというものだろう、多分。
 「心配してくれるのはありがたいけどな。おれだってこの五年間、昼寝をして過ごしていたわけじゃない。家も仕事もあと三ヶ月はあるんだ。手の打ちようはいくらでもあるさ。それより、ちょうどいい。お前に頼みがあったんだ」
 「なんだ? 金の話なら幾らでも貸すぞ。いつでも言うといい」
 「その台詞を言えるのはお前の最大の長所だな」
 「当たり前だ。さっきも言ったとおり、お前には『海賊ヴァン!』の印税を山分けする程度の権利はあるんだ。いい加減、素直になって……」
 「アシスタントの仕事として行ってきたことだ。アシスタント料は受け取っている。それ以上の金を受け取る謂れはない」
 「まったく、頑固な奴め」
 あきらはそう言ったが、なんとも嬉しそうだった。見た目に反して格闘技万能――しかも、すべてにおいて全国レベル――という武闘派だけあって、この手の骨のある人間が大好きなあきらなのだった。
 「頼みというのは金のことじゃない。おれの姉のことだ」
 「なに? お前、姉ちゃんがいたのか?」
 「『姉ちゃん』なんて言いたくなる可愛い奴じゃないが、いるにはいる。っで、この姉というのが来春、大学卒業予定なんだが……」
 「来春? しかし、お前は二三歳だろう? その姉が来春、大学卒業なのか?」
 「一年浪人して、ついでに留年も一回している」
 「ああ、なるほど」
 「で、まあ、この間、その姉から連絡があった。『同人活動ばっかりしていたせいで就職先が見つからない!』ってな」
 「おお、それは頼もしい」
 「マンガ家目線ではそうなるが、この時期にまったく当てがないと言うんじゃシャレにならん。と言うわけで、お前のアシスタントとして使ってもらえないかと思ってな」
 ――姉貴には少なからず借りがあってな。実家にいる頃、金が全然なくて自分用の機材なんかもてなかったからな。姉のPCを借りてマンガを描いていた。同人活動に夢中な姉がいなかったらおれはマンガも描けずにニートの引きこもり状態だったわけだ。そういうわけだから一応、借りは返しておきたい。
 森也はそう付け加えた。
 「心得た!」
 と、あきらは洗濯機いらずの薄い胸を叩いて侠気たっぷりに請け負った。
 「お前の恩人、まして、実の姉だと言うなら否やはない。どんな役立たずでも喜んで引き受けよう」
 「感謝する。まあ、向こうも何年も同人活動してきたんだ。役立たずだと言うことはないだろう。では、さっそく、本人に会ってくれ。呼び出していいか?」
 「ああ、そうしてくれ」
 「了解」
 森也はスマホを取りだし、さっそく、姉に電話した。
 「『ありがとう』、『感謝する』、『愛してる』だそうだ。今日の夕方頃、うちにくるとのことだ」
 夕方まではまだ時間があるし、一応、姉なのだからもてなしてやろう、と言うわけで、森也とあきらは連れだって夕飯の買い出しに行くことにした。一時間に一本のバスで麓の駅前に向かう。降りたところであきらがあることに気がついた。
 「ん? あれを見ろ、藍条」
 「どうした?」
 あきらの指さす先。そこに中学生か、高校生ぐらいの制服姿の女の子がいた。いかにも不安そうな様子でバス停の辺りをウロウロしている。
 「どのバスに乗ればいいのかわからないようだな」
 「うむ。ここはやはり、赤岩のあきらさまが助けに行ってやらなければなるまい」
 「向こうから言ってこないのにわざわざ口出しする必要はないだろう」
 「お前はそれだから女にモテんのだ。女にモテるコツはとにかくマメなことだぞ」
 「色恋沙汰には興味ないんでね」
 「この軟弱者め。この赤岩のあきらさまが手本を見せてやる。とくと見ているがいい」
 あきらはそう言ってさっさと女の子のもとに向かう。『日本一の女のなかの漢』を自認する身として、女の子が困っていれば助けずにはいられない。そういう生き物なのだった。
 「お嬢さん」
 ナンパ師そのままの馴れ馴れしい態度で話しかける。体格から言えばむしろあきらの方が小柄なぐらいなのだが、態度はデカい。とにかくデカい。反っくり返った姿勢で浮かべる笑顔はドン・ファン級。自分と同年代、下手をしたら年下なのではないかと思える相手からそんな態度を取られて、相手の女の子はさすがに驚いたようだった。もちろん、そんなことで遠慮するようなあきらではない。にこやかな笑みを浮かべてつづけた。
 「失礼。お嬢さん。驚かせてしまったようですね。どうやらバスに迷っているようだったので気になりましてね。わたしはここにはよくくるので案内できると思います」
 「えっ? えっと、あの……」
 ――おおっ、激プリティー!
 女の子の戸惑った様子に、あきらは胸のなかで口笛を吹いた。
 ――化粧っ気はないし、制服もきちんと着こなしてる。清純派のまじめ優等生といったところか。いいぞ、いいぞ。こういう女子は大好きだ。
 もちろん、他のタイプでもかわいければ大好きだ。
 ――生徒会長タイプだな。いや、風紀委員もいいか。かわいい顔してキツい性格で、校則違反を見つけたら言葉責めの嵐。ショートカットで裸眼なのが惜しいところだな。やはり、委員長タイプは長髪メガネでないと。
 「……おい」
 脳内妄想世界に入り込み、ニンマリ笑いながら黙り込んでしまったあきらに森也が声をかけた。
 「気味悪がられているぞ」
 向こうから話しかけてきたのにいきなり黙り込み、ニンマリ笑顔など浮かべているのだから気味悪くなるのも無理はない。女の子は身を引き気味にして不気味そうにあきらを見つめていた。
 「おお、これは失礼。それで、どちらに向かうおつもりです?」
 「赤葉というところに行きたいんですけど……」
 「赤葉?」
 「はい。でも、はじめてで、どのバスに乗ればいいのかわからなくて」
 「君のような美しい女子が、あんな田舎に何の用かな?」
 「兄が住んでいるので会いに行くところなんですけど……」
 そう答えながら女の子の表情が曇った。初対面の相手にプライバシーを聞かれて警戒したらしい。このままあきらに任せておいては通報されかねない。森也はそう判断した。仕方がないのでかわりに説明した。女の子は説明を受けるときちんとお辞儀をして礼を言った。それから、やってきたバスに乗り込んだ。その際にもう一度、お辞儀をする。
 見送ったあきらが満足そうに言った。
 「いやあ、かわいい子だったな。しかも、まじめで礼儀正しいときたもんだ。どこかのお嬢さまかな? どうだ、藍条? あんなかわいい女の子と話ができて幸せだろう」
 「話をしていたのはお前だろう。おれは説明しただけだ」
 「おお、幸せだったぞ」
 と、悪びれもせずに胸を張るあきらだった。
 「中学生、いや、高校生かな? 『兄に会いに行く』と言っていたが、赤葉にあの年頃の妹がいるような男がいたか?」
 「さあな」
 と、森也の答えは素っ気ない。
 「何だ、つまらないやつだな。あんな美少女がお前の住んでいるところに用があると言うんだぞ。気にならないのか?」
 「おれに用があるのではない限り、関係ない」
 「まったく、お前というやつは。あんなかわい子ちゃんを見たら無理やり用を作って押しかけ、仲良くしようとするのが男だろう。お前はキンタマついてるのか?」
 「あいにく、去勢済み」
 「まったく、お前というやつは……。しかし、たしかに彼女も彼女だ。完璧に近い美少女だったが、ひとつだけ、欠点がある」
 「何だ、それは?」
 「なぜに、ショートカットなのだ あのような委員長タイプはやはり、長髪にメガネであるべきだろう」
 「……このマンガ脳が」
 今度は森也がため息をつく番だった。ただし、あきらとはちがい、心の底からあきれてのものだった。
 「ところで、もてなしのための買い出しだったな。メニューは何にするのだ? わたしは肉をガッツリ食いたいぞ」
 「……肉代はお前が払えよ」
 「では、特上サーロインを一〇キロばかり買っていこう」
 「この売れっ子が」
 買い物をすませて赤葉に戻るとすでに夕方になっていた。
 「ずいぶん遅くなったな。もうお前の姉ちゃんもきてるんじゃないのか? ついでに、わたしは腹が減った。早く食わせろ」
 「お前のせいだろうが。『特上サーロイン一〇キロ』にこだわりやがって。そのへんのスーパーでそんな高級肉、そうそう売ってるかって。おかげでいくつもの店を渡り歩く羽目になったんだろうが」
 「脳内食堂でサーロイン・ステーキが湯気を立てているというのに、並の肉で我慢できるか!」
 言い合いしながら家への道を急ぐ。すると、
 「あれ?」
 森也が声をあげた。
 「どうした?」
 あきらも森也の視線の先を見る。そこに思いがけないものを見た。森也の家の玄関先。そこに、先ほどの女の子が立っていたのだ。ドアに軽く背をもたれさせ、手持ち無沙汰な様子だった。
 「あっ……」
 女の子が森也たちに気がついた。ドアから背をはなした。挨拶した。
 「先ほどはありがとうございました。おかげさまで無事につけました」
 「それは何より。しかし、こんなところで何をしているのです?」と、あきら。
 「ここに兄が住んでいるはずなんですけど、留守らしくて……」
 「ここにって……」
 森也とあきらが同時につぶやいた。そのときだ。
 「お~、我が弟、ひさしぶりぃ~!」
 明るいと言うより、能天気な声がした。見ると、ひとりの若い女が大きなレジ袋いっぱいに詰めた缶ビールをガチャガチャ言わせながら駆けてくるところだった。
 「姉貴」
 「姉さん」
 森也と女の子が同時に言った。その言葉に――。
 ふたりは互いにマジマジと見つめ合ったのだった。
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