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四章 鬼の伝説
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いのりは男の消えた空をしばらく見上げていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「あの男……『杜ノ王』と名乗ったな」
「名乗った」
「あの杜ノ王なのか?」
「……わからない」
「お前も気付いただろう?」
「ええ」
しらべもうなずいた。
『気付いた』というのは杜ノ王という男のまとっていた気だ。
清浄すぎた。
清らかすぎたのだ。
鬼であればもちろん、人間であれば、いや、生きるものであれば誰もがみなもっているはずの欲望、執着、そんなものがまるで感じられない。邪気・邪念の類が最後の一片までも浄化されつくしたような気。
まるで、何十年もの厳しい修行の末に悟りを開いた高僧のような、いや、それ以上に清浄な気。そこまでの清浄な気があるはずがなかった。少なくとも、この生命の世界では。もし、ありうるとすればそれこそ、すべての欲望が死に絶えた死の世界だけだろう。
「あそこまで清浄な気は普通ではありえない」
しらべが重ねて言った。
「第一、あの男はどう見ても『清浄』などという性格はしていない」
いのりがそう付け加えたのはもちろん、腹立ちまぎれというものだ。
しらべはつづけた。
「あの気はむしろ、周囲のすべての邪気・邪念を吸いとった結果。そう思ったほうがいい」
「では、やはり……」
「杜ノ王」
姉妹は声をそろえて言った。
杜ノ王。
いのりたち斬鬼士の間では有名な名前だ。
伝説と言ってもいい。
いまからもう一〇〇年も前の話だ。かろうじて残っていた数少ない都のひとつで戦が起こった。都中が襲われ、火がつけられた。多くの人間が殺された。そのさなか、都を逃げ出した子どもたちの一団がいた。その数は十数人とも一〇〇人以上だとも言われる。
とにかく、子どもたちの一団が戦火に焼かれた都から逃げ出したわけだ。
子どもたちは近くの丘に逃げ込んだ。ところが――。
子どもたちは逃げ込んだ丘で大きく割れた地面の割れ目に飲み込まれ、その底の洞窟に閉じ込められてしまった。子どもたちは必死に洞窟から抜け出ようとした。だが、抜け道はどこにもない。洞窟は完全な行きどまりだった。落ちてきた割れ目はあまりにも急で深く、道具もなしに登ることは不可能だった。
脱出するあらゆる試みが失敗に終わり、子どもたちは現実を見せつけられた。
『もう二度とここからは出られないのだ』と。
水もない。
食料もない。
助けがくることもない。
この穴の底で誰にも知られることなく死んでいくしかない。
その現実を突きつけられたとき、子どもたちのなかでなにかがはじけた。
突如として戦に巻き込まれた怒り、住んでいた場所を焼き払われ、家族を殺された悲しみと憎しみ、穴の底で死んでいくしかないのだという絶望。
そのすべてが入り混じり、はじけたとき、子どもたちは――。
獣と化した。
人間であることを捨て、目の前の相手を食い、少しでも生き延びようとしたのだ。
そうして、暗い洞窟のなかは地獄と化した。子どもたち同士が争い、食らい合い、その洞窟は血と肉が交じり合った鍋となった。
それは図らずも人の子どもによる蠱毒だった。
同種の生き物を逃げ場のない一ヵ所に閉じ込め、互いに食らい合わせる。最後に残った一匹を使って呪いをかける。
それが蠱毒。
極限状態に置かれた子どもたちは自分たちで自分たちを蠱毒の材料としてしまった。
唯一、ちがったのは――。
生き残りがいなかったこと。
子どもたちは最後のひとりまで死に絶えたのだ。だが――。
子どもたちは死んでも、その思いは死ななかった。子どもたちの抱いていた怒り、憎しみ、悲しみ……それら負の感情がひとつになり、一匹の鬼が生まれた。
それが杜ノ王。
ただ、ただ『生き延びる』という衝動に駆られ、この世のすべてを呑み干す怪物。この一〇〇年の間にあまたの鬼たちを呑み干してその力はかつて存在したどんな鬼にも勝る最強の鬼と化しているという……。
あの男がその杜ノ王であるのなら、あれほどの数の鬼たちを呑み干したのも納得がいく。しかし――。
「あの男とわたしたちの聞いていた杜ノ王は全然ちがう」
しらべが冷静に言った。
「わたしたちの聞いた話では杜ノ王はただ『生き延びる』という目的のためだけにすべてを呑み干す怪物。理性も知性もなく、ただ生きるためだけに生きる存在……」
「そうだ。あたしもそう聞いた。でも、あの男は……」
「全然ちがう。あの男には理性も、知性もある」
「じゃあ、あの男は『あの杜ノ王』とはちがうのか?」
「わからない」
しらべはそう言った。
「鬼たちを呑み干したあの力。あの力はわたしたちの聞いていた杜ノ王そのもの。他にあんな能力をもつものがいるとは噂にも聞いたことはない」
では、どういうことなのか。
あの男の態度は聞いていた杜ノ王のものとはちがいすぎる。しかし、能力は同じだ。
あの男は杜ノ王なのか、そうでないのか。
「わからない」
しらべはもう一度、言った。
「お前にもわからないのか?」
「わからない」
姉の言葉にしらべはうなずいた。
「じゃあ、知る方法はひとつしかないな」
「ひとつ?」
「本人に直接、聞く」
いのりはきっぱりと言った。なんともいのりらしいまっすぐな解決法だった。
「ここでごちゃごちゃ考え込んでいても仕方がないからな。ここは行動あるのみだ。いのり、やくも、あの男を追うぞ」
「……相変わらず、考えるのは苦手」
「うるさい! ここでごちゃごちゃ考えているより直接、会って確かめたほうが早いし、確実だと言っているんだ」
「ひびきはどうする?」
「あの男は、ひびきがあの男の都を狙っていると言った。だったら、その都――杜とやらに行けば会う機会もあるはずだ」
その言葉にしらべは意外そうな、感心したような表情をいのりに向けた。
「意外。いのりが他人の言うことを聞いていた」
「お前は自分の姉をなんだと思ってるんだ⁉」
「いのりはいつも他人の言うことを聞かない」
だから、罠にかかった。
はっきりとそう言われ、いのりはさすがにたじろいだ。
「うっ……。あ、あたしだって耳が聞こえないわけじゃない。他人の話を聞いているときだってある。とにかく、すぐ出発だ。やくも……」
「クオオン」
弱々しい声がした。
見ると、きょうだい以上の間柄である麒麟はすっかり弱った様子で地面に臥せっていた。顔だけは必死にもちあげているものの、もう立つこともできないありさまだった。
いのりの顔がとたんに曇った。やくもに駆けよった。その頭をそっとなでてやった。
「……すまない、やくも。お前のことを忘れていた。お前はあたしたちを守ろうとそんなになってまで戦ってくれたのに……」
「クオオン」
やくもは甘えるようにいのりの身に頭をすりつけた。そのしぐさにいのりの表情がふっとやわらぐ。微笑を浮かべるその顔はまぎれもなく年相応の女の子のものだった。
「あの男のまとっていた気は簡単に消えるものではない。やくもの回復をまってから追いかけても見失うことはない」
しらべの言葉にいのりもうなずいた。
「そうだな。そうしよう。まずはやくもの回復が先だ」
霊獣である麒麟の生命力は強い。これほどの傷であっても二、三日もすれば完全に回復してしまうだろう。
いのりは明るい声を張りあげた。
「さあ、そうと決まればここで野宿だ。水や食べ物をあたりからかき集めてこないとな。黄金時代の遺跡でもあればいいんだが。いそがしくなるぞ」
「あの男……『杜ノ王』と名乗ったな」
「名乗った」
「あの杜ノ王なのか?」
「……わからない」
「お前も気付いただろう?」
「ええ」
しらべもうなずいた。
『気付いた』というのは杜ノ王という男のまとっていた気だ。
清浄すぎた。
清らかすぎたのだ。
鬼であればもちろん、人間であれば、いや、生きるものであれば誰もがみなもっているはずの欲望、執着、そんなものがまるで感じられない。邪気・邪念の類が最後の一片までも浄化されつくしたような気。
まるで、何十年もの厳しい修行の末に悟りを開いた高僧のような、いや、それ以上に清浄な気。そこまでの清浄な気があるはずがなかった。少なくとも、この生命の世界では。もし、ありうるとすればそれこそ、すべての欲望が死に絶えた死の世界だけだろう。
「あそこまで清浄な気は普通ではありえない」
しらべが重ねて言った。
「第一、あの男はどう見ても『清浄』などという性格はしていない」
いのりがそう付け加えたのはもちろん、腹立ちまぎれというものだ。
しらべはつづけた。
「あの気はむしろ、周囲のすべての邪気・邪念を吸いとった結果。そう思ったほうがいい」
「では、やはり……」
「杜ノ王」
姉妹は声をそろえて言った。
杜ノ王。
いのりたち斬鬼士の間では有名な名前だ。
伝説と言ってもいい。
いまからもう一〇〇年も前の話だ。かろうじて残っていた数少ない都のひとつで戦が起こった。都中が襲われ、火がつけられた。多くの人間が殺された。そのさなか、都を逃げ出した子どもたちの一団がいた。その数は十数人とも一〇〇人以上だとも言われる。
とにかく、子どもたちの一団が戦火に焼かれた都から逃げ出したわけだ。
子どもたちは近くの丘に逃げ込んだ。ところが――。
子どもたちは逃げ込んだ丘で大きく割れた地面の割れ目に飲み込まれ、その底の洞窟に閉じ込められてしまった。子どもたちは必死に洞窟から抜け出ようとした。だが、抜け道はどこにもない。洞窟は完全な行きどまりだった。落ちてきた割れ目はあまりにも急で深く、道具もなしに登ることは不可能だった。
脱出するあらゆる試みが失敗に終わり、子どもたちは現実を見せつけられた。
『もう二度とここからは出られないのだ』と。
水もない。
食料もない。
助けがくることもない。
この穴の底で誰にも知られることなく死んでいくしかない。
その現実を突きつけられたとき、子どもたちのなかでなにかがはじけた。
突如として戦に巻き込まれた怒り、住んでいた場所を焼き払われ、家族を殺された悲しみと憎しみ、穴の底で死んでいくしかないのだという絶望。
そのすべてが入り混じり、はじけたとき、子どもたちは――。
獣と化した。
人間であることを捨て、目の前の相手を食い、少しでも生き延びようとしたのだ。
そうして、暗い洞窟のなかは地獄と化した。子どもたち同士が争い、食らい合い、その洞窟は血と肉が交じり合った鍋となった。
それは図らずも人の子どもによる蠱毒だった。
同種の生き物を逃げ場のない一ヵ所に閉じ込め、互いに食らい合わせる。最後に残った一匹を使って呪いをかける。
それが蠱毒。
極限状態に置かれた子どもたちは自分たちで自分たちを蠱毒の材料としてしまった。
唯一、ちがったのは――。
生き残りがいなかったこと。
子どもたちは最後のひとりまで死に絶えたのだ。だが――。
子どもたちは死んでも、その思いは死ななかった。子どもたちの抱いていた怒り、憎しみ、悲しみ……それら負の感情がひとつになり、一匹の鬼が生まれた。
それが杜ノ王。
ただ、ただ『生き延びる』という衝動に駆られ、この世のすべてを呑み干す怪物。この一〇〇年の間にあまたの鬼たちを呑み干してその力はかつて存在したどんな鬼にも勝る最強の鬼と化しているという……。
あの男がその杜ノ王であるのなら、あれほどの数の鬼たちを呑み干したのも納得がいく。しかし――。
「あの男とわたしたちの聞いていた杜ノ王は全然ちがう」
しらべが冷静に言った。
「わたしたちの聞いた話では杜ノ王はただ『生き延びる』という目的のためだけにすべてを呑み干す怪物。理性も知性もなく、ただ生きるためだけに生きる存在……」
「そうだ。あたしもそう聞いた。でも、あの男は……」
「全然ちがう。あの男には理性も、知性もある」
「じゃあ、あの男は『あの杜ノ王』とはちがうのか?」
「わからない」
しらべはそう言った。
「鬼たちを呑み干したあの力。あの力はわたしたちの聞いていた杜ノ王そのもの。他にあんな能力をもつものがいるとは噂にも聞いたことはない」
では、どういうことなのか。
あの男の態度は聞いていた杜ノ王のものとはちがいすぎる。しかし、能力は同じだ。
あの男は杜ノ王なのか、そうでないのか。
「わからない」
しらべはもう一度、言った。
「お前にもわからないのか?」
「わからない」
姉の言葉にしらべはうなずいた。
「じゃあ、知る方法はひとつしかないな」
「ひとつ?」
「本人に直接、聞く」
いのりはきっぱりと言った。なんともいのりらしいまっすぐな解決法だった。
「ここでごちゃごちゃ考え込んでいても仕方がないからな。ここは行動あるのみだ。いのり、やくも、あの男を追うぞ」
「……相変わらず、考えるのは苦手」
「うるさい! ここでごちゃごちゃ考えているより直接、会って確かめたほうが早いし、確実だと言っているんだ」
「ひびきはどうする?」
「あの男は、ひびきがあの男の都を狙っていると言った。だったら、その都――杜とやらに行けば会う機会もあるはずだ」
その言葉にしらべは意外そうな、感心したような表情をいのりに向けた。
「意外。いのりが他人の言うことを聞いていた」
「お前は自分の姉をなんだと思ってるんだ⁉」
「いのりはいつも他人の言うことを聞かない」
だから、罠にかかった。
はっきりとそう言われ、いのりはさすがにたじろいだ。
「うっ……。あ、あたしだって耳が聞こえないわけじゃない。他人の話を聞いているときだってある。とにかく、すぐ出発だ。やくも……」
「クオオン」
弱々しい声がした。
見ると、きょうだい以上の間柄である麒麟はすっかり弱った様子で地面に臥せっていた。顔だけは必死にもちあげているものの、もう立つこともできないありさまだった。
いのりの顔がとたんに曇った。やくもに駆けよった。その頭をそっとなでてやった。
「……すまない、やくも。お前のことを忘れていた。お前はあたしたちを守ろうとそんなになってまで戦ってくれたのに……」
「クオオン」
やくもは甘えるようにいのりの身に頭をすりつけた。そのしぐさにいのりの表情がふっとやわらぐ。微笑を浮かべるその顔はまぎれもなく年相応の女の子のものだった。
「あの男のまとっていた気は簡単に消えるものではない。やくもの回復をまってから追いかけても見失うことはない」
しらべの言葉にいのりもうなずいた。
「そうだな。そうしよう。まずはやくもの回復が先だ」
霊獣である麒麟の生命力は強い。これほどの傷であっても二、三日もすれば完全に回復してしまうだろう。
いのりは明るい声を張りあげた。
「さあ、そうと決まればここで野宿だ。水や食べ物をあたりからかき集めてこないとな。黄金時代の遺跡でもあればいいんだが。いそがしくなるぞ」
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