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八章 緑の大地
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杜ノ王のあとを追ういのりたちの前にふいに見たことのない光景が現れた。
それは緑。
一面をこんもりした緑の葉に覆われた小高い丘だった。
「なんだ、あれは?」
やくもの背に乗って緑の丘を見下ろしながら、いのりは思わずつぶやいていた。大きな目がなおさら大きく見開かれている。
「さあ」
と、しらべも言った。
森。
林。
この時代、そんな言葉はもはや失われている。お伽噺のなかに出てくるばかりだ。ふたりが緑の丘を見てそれを表現する言葉を見つけられなかったのも無理はない。ただ――。
「なにか……あれを見ていると胸のなかになにかがこみあげてくるような、心が熱いものでいっぱいになるような、そんな気がする」
いのりは言った。言い方に切なさがにじんでいた。
「お前たちはどうだ?」
しらべとやくもに尋ねる。
しらべは無言のままうなずいた。
『クオオン』と、やくもは鳴いた。
――しらべとやくもも感じているんだ。
そうわかって安心した。同時に、こそばゆいような嬉しさもこみ上げてきた。うっすらと――。
いつの間にか、いのりの両目には涙さえ浮いていた。
「あ、あれ……?」
いのりはとまどいの声をあげた。涙を手の甲でぬぐった。
なぜ、涙が浮かぶのか。
それはわからない。ただ、それはとても自然なことなのだと感じた。
「その思い……わかる気がする」
しらべがぽつりと言った。言い方そのものはいつもとかわらない。冷静で、抑揚のない、人形じみたしゃべり方。それでも――。
そこには『なにか』が込められているように感じられた。
いのりはちょっと驚いたようにしらべを見た。しらべはじっと緑の丘を見つめている。
その様子にいのりは微笑んだ。とても優しいまなざしだった。
「……安心したよ。お前の心はまだ生きているんだな」
「……おりてみたい」
しらべのほうから言った。言ったあとで照れたように顔をそらした。
「そうだな。おりてみよう」
いのりはうなずいた。
そこにあるのは緑の丘だけではなかった。
空から見下ろしてまず目に入るのは、一面に広がる町並み。町からあちこちの方向にまっすぐに伸びていく何本もの水路。水路にはやはりまっすぐに伸びる中州があって、その一面が緑に覆われている。
「あれは畑……かな?」
「たぶん」
「すごい。あんな大きな畑は見たことがない」
「大きさだけではない。作物も見たこともないものが多い」
しらべの言うとおりだった。丸い葉もあれば、細長い葉もある。丈の低いもの、丈の高いもの、石のように丸まっているもの、あたり一面に大きく広がっているもの、赤くて丸い実をつけているもの、細長い緑の実をつけているもの……本当に色々な作物があった。作物といえば芋と豆しか知らないふたりにはどれほど新鮮に見えたことか。
「それに……」
いのりが言った。
「あの人の数。すごい。こんなに大勢の人は見たことがない」
いのりが言ったとおり、そこは人で満ちていた。中州では作物の世話に精を出し、水路の先では地面を掘り、水路を延ばそうとしている。町のなかも人でにぎわっている。多くの人がいそがしそうに通りを渡り、威勢のいい声が響き、炊飯の煙があがっている。
人、
人、
人。
どこを見ても人だらけ。
まさに『都』と呼ぶにふさわしい場所だった。
この時代にも『都』と呼べる場所は残っている。ほとんどないが、それでもいくつか残っていないことはない。しかし、いのりたちは見たことはない。こんなにも多くの人の集まりを見るのは生まれてはじめてだ。
「まだ……こんなに多くの人間が生きていたんだな」
そうつぶやいていた。
実感だった。
「ここが、杜ノ王の言っていた『杜』なのかな?」
「たぶん」
いのりの言葉にしらべがうなずいた。
「かの人の気はあの町につづいている。それに、あの町全体が不自然なほど清浄な気につつまれている」
それにはもちろん、いのりも気がついていた。
「そうだな。それじゃ、行ってみよう」
「うん。はやく行こう」
そうは言ったものの、いのりはなかなかやくもを地上におろそうとはしなかった。なんだか妙に緊張する。胸がドキドキする。喉が渇く。体がこそばゆい。頬が思わず緩み、笑顔になってしまう。
なんでこんな気持ちになるのかわからないが、とにかくそうなってしまうのだから仕方がない。
「よし、おりるぞ」
妙な感じに頬を緩めながら、いのりはもう一度、言った。それからようやく、やくもを地上におろした。それにもなぜか変な覚悟が必要だった。
ふたりと一頭は地上におりた。水路と水路にはさまれた、あまり人のいない場所だ。いきなり大勢の人のいるところに空からおりていくのはさすがにためらわれた。
地上におりたとたん、おどろいた。履き物を通じて伝わってくる地面の感触がまったくちがう。
硬くない。
柔らかい。
足が沈む、というほどではないが、地面の上に履き物の跡がクッキリ残る。
色からしてちがう。
黒い。
見たこともないほど黒々としている。赤茶けた石の色とはまったくちがう。
それは土、だった。
ここには石ではなく、土があるのだ。そこかしこに緑の草も生えている。人の足に踏まれ、つぶされ、汚れてはいたが、それでも、緑の草が生きいきと葉を伸ばし、元気よく生きていた。
それだけで感動していた。
「……涼しい」
しらべが言った。
「ああ、そうだな」
たしかにここは他の場所に比べて涼しかった。『涼しい』と言ってももちろん『この時代にしては』という意味で黄金時代の平均からすればまだ暑い。それでもあの、皮膚を焦がすようなジリジリした暑さはない。
「なにかの呪術なのかな?」
「わからない」
気化熱。
長く延びる水路や、一面に広がる植物から多くの水分が蒸発する。その際、熱を奪っていく。そのため、よそよりも涼しくなる。『呪術』というなら自然の仕組みそれ自体が仕組んだ呪術だと言える。もちろん、この時代にそんな知識はない。ふたりにわかるのはただ『涼しい』ということだけだ。
「空気も乾いていない」
「うん」
蒸発した水分は大気中にとどまり、空気を潤す。この時代に当たり前の、立っているだけで干からびてしまいそうな渇きはここにはない。
「風も優しい」
「うん」
『風が優しい』と言うのは『風のなかに砂や埃が混じっていない』という意味だ。
水を含んだ土は砂より重い。その分、風に飛ばされにくい。表面を草が覆っていればなおさらだ。そのため、ここの風は砂や埃が混じっていない。混じりけのない純粋な風だ。
いのりは顔を覆う布を剥ぎ取った。素顔を風にさらす。しっとりと水分を含んだ涼しい風が頬にあたるのが心地いい。
いのりは思いきり風を吸い込んだ。
「知らなかったなあ」
いのりは自然と笑顔になって言った。
「うん。砂も埃も混じっていない風がこんなに気持ちいいなんて知らなかった」
別世界。
まさに、この場所を指すための言葉だった。
町に向かって歩いていく。それだけで妙にドキドキした。
何度か人とすれ違った。みんな、背中に大きな籠を背負い、荷をいっぱいに積めて運んでいる。おどろかされたのはその人々の態度だ。
なんと、挨拶してくる。すれ違いざまにニッコリと微笑み、会釈してくるのだ。いのりたちをあやしんでいる風がない。これには本当におどろいた。
普通なら、つまり、他の村や町ならこうはいかない。よそものは徹底的に警戒される。探るような目でジロジロ見られたり、どこから来たのか、何者なのか、根掘り葉掘り尋ねられたり。
それですめばいいほう。ひどいときにはいきなり、石斧を突きつけられることさえある。
実際、いのりたちもこの二年間の旅の間に何度もそんな目に遭っている。不愉快ではあるが仕方がない。いつ鬼の類に襲われるかわからない時代なのだ。よそものを警戒しないとしたらそのほうがおかしい。
それなのに、ここの人たちにはそんな様子がまるでない。
昔からの知り合いとすれ違った。そんな感じなのだ。まだ若い娘ふたり、しかも、霊獣である麒麟も連れている。そんなふたり連れとなれば奇異な印象を与えないはずはないのだが。まったく、この場所はなんといまの時代の常識から外れていることか。
「慣れているのかも」
しらべか短く言った。
「慣れている? あたしたちみたいな存在にか?」
「そう」
なるほど。言われてみればそうかも知れない。
なにしろ、これほど大勢の人間がいるのだ。なかには変わり者もいるだろう。これだけ大きな町だから旅をするものがいればきっと立ち寄るだろう。慣れていても不思議はない。
「それに……」と、しらべ。
「ここには結界が張られている」
そのことにはもちろん、いのりも気がついていた。
「結界を張りたい範囲の外周にグルリと等間隔で霊石をおき、霊石同士を共鳴させることで鬼祓いの結界とする。『音曲結界』だな」
斬鬼士の始祖であるいのりの祖母。かの人の編み出した基本的な結界だ。故郷である斬鬼士の里にも同じ結界が張られていた。
「ただ、少しいじってはあるらしい。それに、規模といい、強度といい、里に張ってあった結界とは桁がちがう。これほど強力な結界となればよほどの鬼でも侵入することはおろか、気がつくことさえできない」
「たしかにな。これほど大規模で強力な結界は見たことがない。あたしのばあ様でもこれほどの結界を作りあげることは無理だったろうな。この結界を作ったやつはとんでもない化け物だぞ」
――やはり、あの男か。
それ以外には考えられない。いのりの頭のなかに『あの男』の姿が浮かんだ。そのなかの男の左腕は鬼を呑み干す羅刹の姿をしていた。
町のほうからひとりの女性が歩いてきた。若く、美しい女性だった。豪奢ではないが清楚で清潔感のある着物をきている。その女性が自分たちに用があるのだということはすぐにわかった。ふたりを認めたとたん、視線を向け、ニッコリと微笑んだからだ。その笑顔を見ていのりはちょっとたじろいだ。いのりはこういう上品できれいな女性が苦手だった。鬼との戦いに明け暮れる自分がいかにもがさつで粗暴な女に思えてしまう……。
いのりとしらべ、それにやくもは立ちどまった。女性の訪れをまった。女性はいのりたちの一〇歩ばかり前で立ちどまるともう一度、ニッコリと微笑んだ。男なら誰でも、一目で恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。
女性はその容姿にふさわしい、高く澄んだきれいな声で言った。
「お待ち申しあげておりました。いのり様としらべ様、それにやくも様ですね」
それは緑。
一面をこんもりした緑の葉に覆われた小高い丘だった。
「なんだ、あれは?」
やくもの背に乗って緑の丘を見下ろしながら、いのりは思わずつぶやいていた。大きな目がなおさら大きく見開かれている。
「さあ」
と、しらべも言った。
森。
林。
この時代、そんな言葉はもはや失われている。お伽噺のなかに出てくるばかりだ。ふたりが緑の丘を見てそれを表現する言葉を見つけられなかったのも無理はない。ただ――。
「なにか……あれを見ていると胸のなかになにかがこみあげてくるような、心が熱いものでいっぱいになるような、そんな気がする」
いのりは言った。言い方に切なさがにじんでいた。
「お前たちはどうだ?」
しらべとやくもに尋ねる。
しらべは無言のままうなずいた。
『クオオン』と、やくもは鳴いた。
――しらべとやくもも感じているんだ。
そうわかって安心した。同時に、こそばゆいような嬉しさもこみ上げてきた。うっすらと――。
いつの間にか、いのりの両目には涙さえ浮いていた。
「あ、あれ……?」
いのりはとまどいの声をあげた。涙を手の甲でぬぐった。
なぜ、涙が浮かぶのか。
それはわからない。ただ、それはとても自然なことなのだと感じた。
「その思い……わかる気がする」
しらべがぽつりと言った。言い方そのものはいつもとかわらない。冷静で、抑揚のない、人形じみたしゃべり方。それでも――。
そこには『なにか』が込められているように感じられた。
いのりはちょっと驚いたようにしらべを見た。しらべはじっと緑の丘を見つめている。
その様子にいのりは微笑んだ。とても優しいまなざしだった。
「……安心したよ。お前の心はまだ生きているんだな」
「……おりてみたい」
しらべのほうから言った。言ったあとで照れたように顔をそらした。
「そうだな。おりてみよう」
いのりはうなずいた。
そこにあるのは緑の丘だけではなかった。
空から見下ろしてまず目に入るのは、一面に広がる町並み。町からあちこちの方向にまっすぐに伸びていく何本もの水路。水路にはやはりまっすぐに伸びる中州があって、その一面が緑に覆われている。
「あれは畑……かな?」
「たぶん」
「すごい。あんな大きな畑は見たことがない」
「大きさだけではない。作物も見たこともないものが多い」
しらべの言うとおりだった。丸い葉もあれば、細長い葉もある。丈の低いもの、丈の高いもの、石のように丸まっているもの、あたり一面に大きく広がっているもの、赤くて丸い実をつけているもの、細長い緑の実をつけているもの……本当に色々な作物があった。作物といえば芋と豆しか知らないふたりにはどれほど新鮮に見えたことか。
「それに……」
いのりが言った。
「あの人の数。すごい。こんなに大勢の人は見たことがない」
いのりが言ったとおり、そこは人で満ちていた。中州では作物の世話に精を出し、水路の先では地面を掘り、水路を延ばそうとしている。町のなかも人でにぎわっている。多くの人がいそがしそうに通りを渡り、威勢のいい声が響き、炊飯の煙があがっている。
人、
人、
人。
どこを見ても人だらけ。
まさに『都』と呼ぶにふさわしい場所だった。
この時代にも『都』と呼べる場所は残っている。ほとんどないが、それでもいくつか残っていないことはない。しかし、いのりたちは見たことはない。こんなにも多くの人の集まりを見るのは生まれてはじめてだ。
「まだ……こんなに多くの人間が生きていたんだな」
そうつぶやいていた。
実感だった。
「ここが、杜ノ王の言っていた『杜』なのかな?」
「たぶん」
いのりの言葉にしらべがうなずいた。
「かの人の気はあの町につづいている。それに、あの町全体が不自然なほど清浄な気につつまれている」
それにはもちろん、いのりも気がついていた。
「そうだな。それじゃ、行ってみよう」
「うん。はやく行こう」
そうは言ったものの、いのりはなかなかやくもを地上におろそうとはしなかった。なんだか妙に緊張する。胸がドキドキする。喉が渇く。体がこそばゆい。頬が思わず緩み、笑顔になってしまう。
なんでこんな気持ちになるのかわからないが、とにかくそうなってしまうのだから仕方がない。
「よし、おりるぞ」
妙な感じに頬を緩めながら、いのりはもう一度、言った。それからようやく、やくもを地上におろした。それにもなぜか変な覚悟が必要だった。
ふたりと一頭は地上におりた。水路と水路にはさまれた、あまり人のいない場所だ。いきなり大勢の人のいるところに空からおりていくのはさすがにためらわれた。
地上におりたとたん、おどろいた。履き物を通じて伝わってくる地面の感触がまったくちがう。
硬くない。
柔らかい。
足が沈む、というほどではないが、地面の上に履き物の跡がクッキリ残る。
色からしてちがう。
黒い。
見たこともないほど黒々としている。赤茶けた石の色とはまったくちがう。
それは土、だった。
ここには石ではなく、土があるのだ。そこかしこに緑の草も生えている。人の足に踏まれ、つぶされ、汚れてはいたが、それでも、緑の草が生きいきと葉を伸ばし、元気よく生きていた。
それだけで感動していた。
「……涼しい」
しらべが言った。
「ああ、そうだな」
たしかにここは他の場所に比べて涼しかった。『涼しい』と言ってももちろん『この時代にしては』という意味で黄金時代の平均からすればまだ暑い。それでもあの、皮膚を焦がすようなジリジリした暑さはない。
「なにかの呪術なのかな?」
「わからない」
気化熱。
長く延びる水路や、一面に広がる植物から多くの水分が蒸発する。その際、熱を奪っていく。そのため、よそよりも涼しくなる。『呪術』というなら自然の仕組みそれ自体が仕組んだ呪術だと言える。もちろん、この時代にそんな知識はない。ふたりにわかるのはただ『涼しい』ということだけだ。
「空気も乾いていない」
「うん」
蒸発した水分は大気中にとどまり、空気を潤す。この時代に当たり前の、立っているだけで干からびてしまいそうな渇きはここにはない。
「風も優しい」
「うん」
『風が優しい』と言うのは『風のなかに砂や埃が混じっていない』という意味だ。
水を含んだ土は砂より重い。その分、風に飛ばされにくい。表面を草が覆っていればなおさらだ。そのため、ここの風は砂や埃が混じっていない。混じりけのない純粋な風だ。
いのりは顔を覆う布を剥ぎ取った。素顔を風にさらす。しっとりと水分を含んだ涼しい風が頬にあたるのが心地いい。
いのりは思いきり風を吸い込んだ。
「知らなかったなあ」
いのりは自然と笑顔になって言った。
「うん。砂も埃も混じっていない風がこんなに気持ちいいなんて知らなかった」
別世界。
まさに、この場所を指すための言葉だった。
町に向かって歩いていく。それだけで妙にドキドキした。
何度か人とすれ違った。みんな、背中に大きな籠を背負い、荷をいっぱいに積めて運んでいる。おどろかされたのはその人々の態度だ。
なんと、挨拶してくる。すれ違いざまにニッコリと微笑み、会釈してくるのだ。いのりたちをあやしんでいる風がない。これには本当におどろいた。
普通なら、つまり、他の村や町ならこうはいかない。よそものは徹底的に警戒される。探るような目でジロジロ見られたり、どこから来たのか、何者なのか、根掘り葉掘り尋ねられたり。
それですめばいいほう。ひどいときにはいきなり、石斧を突きつけられることさえある。
実際、いのりたちもこの二年間の旅の間に何度もそんな目に遭っている。不愉快ではあるが仕方がない。いつ鬼の類に襲われるかわからない時代なのだ。よそものを警戒しないとしたらそのほうがおかしい。
それなのに、ここの人たちにはそんな様子がまるでない。
昔からの知り合いとすれ違った。そんな感じなのだ。まだ若い娘ふたり、しかも、霊獣である麒麟も連れている。そんなふたり連れとなれば奇異な印象を与えないはずはないのだが。まったく、この場所はなんといまの時代の常識から外れていることか。
「慣れているのかも」
しらべか短く言った。
「慣れている? あたしたちみたいな存在にか?」
「そう」
なるほど。言われてみればそうかも知れない。
なにしろ、これほど大勢の人間がいるのだ。なかには変わり者もいるだろう。これだけ大きな町だから旅をするものがいればきっと立ち寄るだろう。慣れていても不思議はない。
「それに……」と、しらべ。
「ここには結界が張られている」
そのことにはもちろん、いのりも気がついていた。
「結界を張りたい範囲の外周にグルリと等間隔で霊石をおき、霊石同士を共鳴させることで鬼祓いの結界とする。『音曲結界』だな」
斬鬼士の始祖であるいのりの祖母。かの人の編み出した基本的な結界だ。故郷である斬鬼士の里にも同じ結界が張られていた。
「ただ、少しいじってはあるらしい。それに、規模といい、強度といい、里に張ってあった結界とは桁がちがう。これほど強力な結界となればよほどの鬼でも侵入することはおろか、気がつくことさえできない」
「たしかにな。これほど大規模で強力な結界は見たことがない。あたしのばあ様でもこれほどの結界を作りあげることは無理だったろうな。この結界を作ったやつはとんでもない化け物だぞ」
――やはり、あの男か。
それ以外には考えられない。いのりの頭のなかに『あの男』の姿が浮かんだ。そのなかの男の左腕は鬼を呑み干す羅刹の姿をしていた。
町のほうからひとりの女性が歩いてきた。若く、美しい女性だった。豪奢ではないが清楚で清潔感のある着物をきている。その女性が自分たちに用があるのだということはすぐにわかった。ふたりを認めたとたん、視線を向け、ニッコリと微笑んだからだ。その笑顔を見ていのりはちょっとたじろいだ。いのりはこういう上品できれいな女性が苦手だった。鬼との戦いに明け暮れる自分がいかにもがさつで粗暴な女に思えてしまう……。
いのりとしらべ、それにやくもは立ちどまった。女性の訪れをまった。女性はいのりたちの一〇歩ばかり前で立ちどまるともう一度、ニッコリと微笑んだ。男なら誰でも、一目で恋に落ちてしまいそうな笑顔だった。
女性はその容姿にふさわしい、高く澄んだきれいな声で言った。
「お待ち申しあげておりました。いのり様としらべ様、それにやくも様ですね」
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