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九章 さいかいの杜
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「なんで、あたしたちの名を?」
「わたしはせんかと申します。我が君よりあなた方が訪れるであろうことは聞いておりました」
「我が君?」
「はい。あなた方が『杜ノ王』と呼ぶ方、この『さいかいの杜』の主たるお方です」
杜ノ王。
その名にいのりの眉がビクリと動く。せんかはその動きに気がつかなかったか、あるいは、気がつかない振りをしたのか、とにかく、何事もなかったかのようにふたりを手招きした。
「どうぞ、こちらへ。あなた方がお越しになれば自分のもと元へ案内するよう、我が君から仰せつかっております」
いのりはしらべと顔を見合わせた。それから、せんかに視線を戻した。せんかの顔に邪気はない。たおやかな微笑を浮かべたたまま、柔らかく、静かに、しかし、まっすぐに自分たちを見つめている。嘘をついているようには見えない。
いのりは軽くうなずいた。
「わかった。行く」
「ありがとうございます。では、こちらへ」
せんかは軽く会釈すると、先頭に立って歩きはじめた。町のなかに入っていった。連れてこられたのは町のいちばん北、緑の丘を背後に構える宮だった。
目の前の建物を見ていのりは驚きの声をあげた。
「う、うそだ、これが建物だって言うのか? これが人間の作ったものだって? ありえない、こんな大きくて、広くて、高い建物なんて、あたしは見たことない」
「ここにはあるのです」
せんかが言った。心からの誇りを込めた言葉だった。
「それに、これ……木か? 木でできているのか? そんな、それこそありえない。家は石を積んで作るものだ。こんな太くて、長い木なんてあるわけがない」
「ここにはあるのです」
せんかは繰り返した。
この時代、建物の材料といえば普通、石だ。
理由は単純。
他に建築材料がないからだ。
乾いた大地に樹木は育たない。木造建築など作れるはずもない。牛や馬といった大型動物もすでにいないから、獣皮を利用することもできない。黄金時代の遺跡をあされば過去の人々が使っていた金属類を見つけることはできる。しかし、それらを再加工する技術がない。
そんな高温を得られるほどの燃料はこの時代にはない。おかげで武器の類も金属製のものなどほとんどない。大部分は石製だ。ちなみに、いのりのもつ鬼斬りの太刀は金属製だ。黄金時代の遺跡から見つけ出した金属を、いのりの祖母自らが何年もかけて研ぎだし、磨きあげ、斬鬼の法を込めたものだ。この時代にあっては比類のない霊刀と言っていい。
一、二本の太刀ならともかく、建物を建てられるほどの量の金属を、いちいちそんな手間のかかる方法で加工していられるわけがない。結局、石で作るしかないのだ。
石ならいくらでもある。なにしろ、地面という地面が日に干され、カラカラに乾き、石となっているのだから。
天然の日干しレンガだ。
それを硬い石の道具で切り出し、積みあげて家にする。柱になるものも、接着剤になるものもない。石に穴を開けて、そこに、やはり石の棒を通して固定する。
そんな仕組みで高い壁や広い天井など作れるはずもない。必然的に家の形はドーム状一択ということになる。
切り出した石を少しずつずらして積みあげ、アーチを作り、それで天井を覆う。黄金時代以前にイヌイットたちの作っていた『イグルー』と呼ばれる氷の家に似ている。当然、大きな建物など作れない。三~四人も入ればなかがいっぱいになってしまい、息苦しいほどだ。
窓もないから暗い。
風通しも悪い。
おまけに脆い。
ちょっとした揺れでもすぐに崩れてしまう。地震などきたらひとたまりもない。
雨にも弱い。ちょっと降られただけで表面が溶けてしまう。まして、この時代にありがちな集中豪雨となれば。
たちまちのうちに溶けて崩れ、泥となって流されてしまう。本来、雨風から身を守るためにあるはずの家が全然、その役を果たしてくれないのだ。
大雨が降れば人は家をすてて逃げ出し、雨に打たれながらせっかく作った家が流されるのを黙って見ているしかない。そしてまた石を切り出して積みあげ、家を作るのだ。
手間がかかる。
恐ろしい労力の無駄だ。
いちいちそんなことをしなくてはいけないのも、この時代の村がなかなか発展できない理由のひとつだ。
しかし、なにしろ他に建築材料がないのだからそうするしかない。それがいやなら家のない暮らしに甘んじるしかない。
その常識がここでは通用しない。この時代にすでにないはずの太く、大きな木をふんだんに使って作られた木造建築。
この時代にあってはまさに奇跡の建築物だ。いのりが驚くのも当然だった。
「太い木を切り出して地面深くに刺し、柱としています」
せんかが説明した。
「それよりは細い木を並べて楔で留め、壁と天井を作っています」
つまりは丸太小屋だ。黄金時代の基準から言えばせいぜいが『避暑地の別荘』という程度の大きさなのだが、この時代の常識では『マンモス建築』と言っていい規模である。
「石の家とちがい、雨が降っても崩れません。丸太を切り、窓を作ることもできるので、なかまで光が入ります。おかげでなかも明るいし、風通しもいいんですよ」
せんかの口調は説明しているうちにどんどん自慢げなものになっていく。それが嫌味に感じられないのはせんかが心の底からこの宮を誇りに思っているため、そして、なによりも、たしかにこの宮が自慢するに値する建築物だからだ。
「どうやって?」
しらべが尋ねた。
「どうやってこんな家を建てた?」
もっともな質問だった。
まず、木材を手に入れることからして不可能に近い。なんとか手に入れることができたとしても、建築方法を知らなければ作れるわけがない。そして、木造建築の作り方などを知っている人間はこの時代にはもういないはずだった。
せんかはニッコリと微笑んだ。
「我が君が申すには、いまの時代にもこのような建物を作りつづけている地域があるそうです」
「そんな地域が?」
「はい。ここよりはるか北、一年の半分以上を雪に閉ざされているような場所で、このような家を作りつづけている村を見つけたと。そこで作り方を学んだと仰っていました」
「ゆき……」
そう言われてもなんのことかわからない。『雪』なんて見たことも、聞いたこともない。暑く、乾ききったこの地方では雪が降ることなどないのだ。それでも、『雪』という言葉のひびきにはなにか心を打たれるものがあった。
「我が君はその村から帰ると人々の手本とするためこの宮を作られました。まだ数えるほどですが、いずれはさいかいの杜全体にこのような木造建築が広まることでしょう」
『広まることでしょう』と、願望めいた言い方をしてはいるが、そこには『広めていくのだ』という確固たる意思が感じられた。
「いずれは……」
せんかは遠くを見る目で言った。
「世界中に広めます」
「天子は南面す」
ぽつり、と、しらべはつぶやいた。
「古い、ふるい、都作りの思想」
「よくご存じてすね」
せんかは微笑んだ。
しらべが言ったのは本当に古い、ふるい、黄金時代よりもさらにずっと古い時代の都作りの思想だ。いまどき、そんなことを知っている人間はめったにいない。せんかが感心したのも当然だった。
『天子は南面す』
つまり、『天子は南を向いて位置する』という意味だ。当然、天子の宮は都のいちばん北に作られることになる。
『天子』とは単なる都の主ではない。天に認められた、この世界でたったひとりの並ぶものなき支配者だ。もし、この宮の主がその思想に基づいてこの都を設計したと言うのなら、そのものは自分をこそ『世界の支配者』と任じていることになる。
いのりはずっと無言だった。目の前の宮に圧倒されてしまい、なにも言えない。首が痛くなるのも忘れて宮を見上げていた。
「さあ、どうぞ。なかへ」
せんかはふたりを招き入れた。
「あっ、お履き物はお脱ぎください」
「履き物を?」
「はい。それがこの宮にあがるときの作法ですから」
「家のなかに入るのにいちいち履き物を脱ぐなんておかしな話だけど……」
いのりはそう言ったが、なにしろ、招待されている身だ。おとなしく履き物を脱いだ。
この時代、家に入るのにいちいち履き物を脱いだりしない。石製のドームをかぶせているだけで床は地面のままなのだから当たり前だ。履き物を脱ぐのはせいぜい、寝床にしているボロ布の上に乗るときぐらいだ。
――脱いだ履き物はどうすればいいんだろう?
いのりがそう思っていると、
「お履き物はここに置いておいてください」
せんかがそう言ったのでその通りにした。
「盗まれたりしないかな?」
思わずそうつぶやいてしまってからあわてて付け加える。
「あ、いや、気を悪くしないでほしいんだけど、あなたたちのことを疑ってるわけじゃなくて、ただ、こういう時代だから……」
「わかっています」
せんかはニッコリと微笑んだ。人を安心させてくれる笑みだった。
「どんなつまらないものでもちょっと目をはなせばその隙に盗まれてしまう。そういう時代ですものね」
「……うん」
おかげで、持ち物はすべて肌身離さずもっていなければならない。逆にいうと、直接、身につけられる以上のものは持ち歩けない、というわけだ。いのりも鬼斬りの太刀は決して手放さない。寝るときも両腕で抱えたまま寝る。
「うん」
と、いのりはもう一度、言った。自分のせいではないとわかっているけれど、どうにも悲しさと恥ずかしさを感じてしまう。
「だいじょうぶです」
安心させるための笑みを浮かべながらせんかは言った。
「この宮にそんな非礼を働くものはおりません。万が一、盗まれるようなことがあればなんとしても探し出し、謝罪させます。罰も与えます。もちろん、盗まれたものはお返しするか、それができなければこちらで責任をもってかわりになるものをご用意させていただきます」
きっぱりと、誇りをもってせんかは断言した。
「やくもは?」
しらべも履き物を脱ぎながら尋ねた。
やくももちろん履き物など履いていない。土足であがってはいけないというなら、やくもは入れないはずだ。
いのりがきっぱりと言った。
「このやくもはただの獣じゃない。あたしとはきょうだい同然に、いや、それ以上に近い関係で共に育ってきた仲間なんだ。やくもが入れないならあたしもここに残る」
しらべも小さな顔をコクンと縦に振った。
せんかはニッコリと微笑んだ。
「おそらくはそう仰るだろうと我が君から聞いております。用意はいたしております」
せんかは両手をたたいた。すぐに桶にお湯を入れた若い女がやってきた。湯に浸した布でやくもの足の裏をひとつ、ひとつ、丁寧に拭いていく。
「さあ、これで結構です。どうぞなかへ」
「わたしはせんかと申します。我が君よりあなた方が訪れるであろうことは聞いておりました」
「我が君?」
「はい。あなた方が『杜ノ王』と呼ぶ方、この『さいかいの杜』の主たるお方です」
杜ノ王。
その名にいのりの眉がビクリと動く。せんかはその動きに気がつかなかったか、あるいは、気がつかない振りをしたのか、とにかく、何事もなかったかのようにふたりを手招きした。
「どうぞ、こちらへ。あなた方がお越しになれば自分のもと元へ案内するよう、我が君から仰せつかっております」
いのりはしらべと顔を見合わせた。それから、せんかに視線を戻した。せんかの顔に邪気はない。たおやかな微笑を浮かべたたまま、柔らかく、静かに、しかし、まっすぐに自分たちを見つめている。嘘をついているようには見えない。
いのりは軽くうなずいた。
「わかった。行く」
「ありがとうございます。では、こちらへ」
せんかは軽く会釈すると、先頭に立って歩きはじめた。町のなかに入っていった。連れてこられたのは町のいちばん北、緑の丘を背後に構える宮だった。
目の前の建物を見ていのりは驚きの声をあげた。
「う、うそだ、これが建物だって言うのか? これが人間の作ったものだって? ありえない、こんな大きくて、広くて、高い建物なんて、あたしは見たことない」
「ここにはあるのです」
せんかが言った。心からの誇りを込めた言葉だった。
「それに、これ……木か? 木でできているのか? そんな、それこそありえない。家は石を積んで作るものだ。こんな太くて、長い木なんてあるわけがない」
「ここにはあるのです」
せんかは繰り返した。
この時代、建物の材料といえば普通、石だ。
理由は単純。
他に建築材料がないからだ。
乾いた大地に樹木は育たない。木造建築など作れるはずもない。牛や馬といった大型動物もすでにいないから、獣皮を利用することもできない。黄金時代の遺跡をあされば過去の人々が使っていた金属類を見つけることはできる。しかし、それらを再加工する技術がない。
そんな高温を得られるほどの燃料はこの時代にはない。おかげで武器の類も金属製のものなどほとんどない。大部分は石製だ。ちなみに、いのりのもつ鬼斬りの太刀は金属製だ。黄金時代の遺跡から見つけ出した金属を、いのりの祖母自らが何年もかけて研ぎだし、磨きあげ、斬鬼の法を込めたものだ。この時代にあっては比類のない霊刀と言っていい。
一、二本の太刀ならともかく、建物を建てられるほどの量の金属を、いちいちそんな手間のかかる方法で加工していられるわけがない。結局、石で作るしかないのだ。
石ならいくらでもある。なにしろ、地面という地面が日に干され、カラカラに乾き、石となっているのだから。
天然の日干しレンガだ。
それを硬い石の道具で切り出し、積みあげて家にする。柱になるものも、接着剤になるものもない。石に穴を開けて、そこに、やはり石の棒を通して固定する。
そんな仕組みで高い壁や広い天井など作れるはずもない。必然的に家の形はドーム状一択ということになる。
切り出した石を少しずつずらして積みあげ、アーチを作り、それで天井を覆う。黄金時代以前にイヌイットたちの作っていた『イグルー』と呼ばれる氷の家に似ている。当然、大きな建物など作れない。三~四人も入ればなかがいっぱいになってしまい、息苦しいほどだ。
窓もないから暗い。
風通しも悪い。
おまけに脆い。
ちょっとした揺れでもすぐに崩れてしまう。地震などきたらひとたまりもない。
雨にも弱い。ちょっと降られただけで表面が溶けてしまう。まして、この時代にありがちな集中豪雨となれば。
たちまちのうちに溶けて崩れ、泥となって流されてしまう。本来、雨風から身を守るためにあるはずの家が全然、その役を果たしてくれないのだ。
大雨が降れば人は家をすてて逃げ出し、雨に打たれながらせっかく作った家が流されるのを黙って見ているしかない。そしてまた石を切り出して積みあげ、家を作るのだ。
手間がかかる。
恐ろしい労力の無駄だ。
いちいちそんなことをしなくてはいけないのも、この時代の村がなかなか発展できない理由のひとつだ。
しかし、なにしろ他に建築材料がないのだからそうするしかない。それがいやなら家のない暮らしに甘んじるしかない。
その常識がここでは通用しない。この時代にすでにないはずの太く、大きな木をふんだんに使って作られた木造建築。
この時代にあってはまさに奇跡の建築物だ。いのりが驚くのも当然だった。
「太い木を切り出して地面深くに刺し、柱としています」
せんかが説明した。
「それよりは細い木を並べて楔で留め、壁と天井を作っています」
つまりは丸太小屋だ。黄金時代の基準から言えばせいぜいが『避暑地の別荘』という程度の大きさなのだが、この時代の常識では『マンモス建築』と言っていい規模である。
「石の家とちがい、雨が降っても崩れません。丸太を切り、窓を作ることもできるので、なかまで光が入ります。おかげでなかも明るいし、風通しもいいんですよ」
せんかの口調は説明しているうちにどんどん自慢げなものになっていく。それが嫌味に感じられないのはせんかが心の底からこの宮を誇りに思っているため、そして、なによりも、たしかにこの宮が自慢するに値する建築物だからだ。
「どうやって?」
しらべが尋ねた。
「どうやってこんな家を建てた?」
もっともな質問だった。
まず、木材を手に入れることからして不可能に近い。なんとか手に入れることができたとしても、建築方法を知らなければ作れるわけがない。そして、木造建築の作り方などを知っている人間はこの時代にはもういないはずだった。
せんかはニッコリと微笑んだ。
「我が君が申すには、いまの時代にもこのような建物を作りつづけている地域があるそうです」
「そんな地域が?」
「はい。ここよりはるか北、一年の半分以上を雪に閉ざされているような場所で、このような家を作りつづけている村を見つけたと。そこで作り方を学んだと仰っていました」
「ゆき……」
そう言われてもなんのことかわからない。『雪』なんて見たことも、聞いたこともない。暑く、乾ききったこの地方では雪が降ることなどないのだ。それでも、『雪』という言葉のひびきにはなにか心を打たれるものがあった。
「我が君はその村から帰ると人々の手本とするためこの宮を作られました。まだ数えるほどですが、いずれはさいかいの杜全体にこのような木造建築が広まることでしょう」
『広まることでしょう』と、願望めいた言い方をしてはいるが、そこには『広めていくのだ』という確固たる意思が感じられた。
「いずれは……」
せんかは遠くを見る目で言った。
「世界中に広めます」
「天子は南面す」
ぽつり、と、しらべはつぶやいた。
「古い、ふるい、都作りの思想」
「よくご存じてすね」
せんかは微笑んだ。
しらべが言ったのは本当に古い、ふるい、黄金時代よりもさらにずっと古い時代の都作りの思想だ。いまどき、そんなことを知っている人間はめったにいない。せんかが感心したのも当然だった。
『天子は南面す』
つまり、『天子は南を向いて位置する』という意味だ。当然、天子の宮は都のいちばん北に作られることになる。
『天子』とは単なる都の主ではない。天に認められた、この世界でたったひとりの並ぶものなき支配者だ。もし、この宮の主がその思想に基づいてこの都を設計したと言うのなら、そのものは自分をこそ『世界の支配者』と任じていることになる。
いのりはずっと無言だった。目の前の宮に圧倒されてしまい、なにも言えない。首が痛くなるのも忘れて宮を見上げていた。
「さあ、どうぞ。なかへ」
せんかはふたりを招き入れた。
「あっ、お履き物はお脱ぎください」
「履き物を?」
「はい。それがこの宮にあがるときの作法ですから」
「家のなかに入るのにいちいち履き物を脱ぐなんておかしな話だけど……」
いのりはそう言ったが、なにしろ、招待されている身だ。おとなしく履き物を脱いだ。
この時代、家に入るのにいちいち履き物を脱いだりしない。石製のドームをかぶせているだけで床は地面のままなのだから当たり前だ。履き物を脱ぐのはせいぜい、寝床にしているボロ布の上に乗るときぐらいだ。
――脱いだ履き物はどうすればいいんだろう?
いのりがそう思っていると、
「お履き物はここに置いておいてください」
せんかがそう言ったのでその通りにした。
「盗まれたりしないかな?」
思わずそうつぶやいてしまってからあわてて付け加える。
「あ、いや、気を悪くしないでほしいんだけど、あなたたちのことを疑ってるわけじゃなくて、ただ、こういう時代だから……」
「わかっています」
せんかはニッコリと微笑んだ。人を安心させてくれる笑みだった。
「どんなつまらないものでもちょっと目をはなせばその隙に盗まれてしまう。そういう時代ですものね」
「……うん」
おかげで、持ち物はすべて肌身離さずもっていなければならない。逆にいうと、直接、身につけられる以上のものは持ち歩けない、というわけだ。いのりも鬼斬りの太刀は決して手放さない。寝るときも両腕で抱えたまま寝る。
「うん」
と、いのりはもう一度、言った。自分のせいではないとわかっているけれど、どうにも悲しさと恥ずかしさを感じてしまう。
「だいじょうぶです」
安心させるための笑みを浮かべながらせんかは言った。
「この宮にそんな非礼を働くものはおりません。万が一、盗まれるようなことがあればなんとしても探し出し、謝罪させます。罰も与えます。もちろん、盗まれたものはお返しするか、それができなければこちらで責任をもってかわりになるものをご用意させていただきます」
きっぱりと、誇りをもってせんかは断言した。
「やくもは?」
しらべも履き物を脱ぎながら尋ねた。
やくももちろん履き物など履いていない。土足であがってはいけないというなら、やくもは入れないはずだ。
いのりがきっぱりと言った。
「このやくもはただの獣じゃない。あたしとはきょうだい同然に、いや、それ以上に近い関係で共に育ってきた仲間なんだ。やくもが入れないならあたしもここに残る」
しらべも小さな顔をコクンと縦に振った。
せんかはニッコリと微笑んだ。
「おそらくはそう仰るだろうと我が君から聞いております。用意はいたしております」
せんかは両手をたたいた。すぐに桶にお湯を入れた若い女がやってきた。湯に浸した布でやくもの足の裏をひとつ、ひとつ、丁寧に拭いていく。
「さあ、これで結構です。どうぞなかへ」
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