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三〇章 夢に誘われ、歴史をつなぐ
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自然と涙が流れていた。
里をあとにしたときの思い、この二年間の旅に重ねてきた思い、そのすべてが込みあげてきてどうしようもなかった。
「なぜだ……?」
尋ねた。
「なぜ、里を襲った? なぜ、里のみんなを殺した? 斬鬼士の里を開いたのはあなたじゃないか。なのに、なぜ……」
「ふっ」
静かに、かすかに悲しみの気配を込めてひびきは笑った。
「言ったところで詮無きことよ」
「ばあ様⁉」
「わしは鬼。鬼であればこそ人を苦しめ、人を殺す。それだけのことよ」
「嘘をつくな」
静かに、しかし、はっきりとそう断じたのは杜ノ王だった。
いのり、しらべ、やくも、そして、ひびき。八つの視線が杜ノ王に集まる。
「お前自身に言えないというならおれが言ってやろう。お前の本心をな」
「抜かすな、杜ノ王。おぬしなぞにわしのなにがわかる」
「あいにくわかるのさ。おれのなかにはすべてがある。強さも、弱さも、美しさも、醜さも、高潔さも、あさましさも、すべてがな。
だから、わかる。お前の思い、その心の奥底に隠しているお前の本心もな」
「……言うな」、
「お前の魂に刻まれた真の名前。それは……」
「言うなぁっ!」
ひびきは叫んだ。ただでさえ血走っている目がさらに朱に染まった。
立場が逆転していた。
先ほどまではいのりがひびきに追い詰められていた。いまはひびきが杜ノ王に追い詰められている。杜ノ王はひびきの叫びを無視していった。
「怖れ」
ひびきの顔がひび割れたかのようだった。
「怖れ?」
いのりが尋ねるともなくたずねた。
「そうだ。ひびきを鬼にしたのは怖れ。ひびきは自分の願ったことを実現できなかった。それなのにもし、その願いが他の誰かの手によって叶ってしまったら? ひびきがまちがっていたことになる。ひびきがいたらなかったから実現できなかったことになる。
ひびきは死んで鬼となった。もし、他人が自分と同じような思いをしても鬼とならなかったら? ひびきが鬼になったのはひびき自身が弱く、邪悪だったからだということになる。
ひびき。お前はそれをこそ恐れた。だから、人を襲わずにはいられなかった。自分が願いを実現できなかったのは自分が愚かだったからではない、自分が鬼となったのは自分が弱かったからではない、すべては人の弱さ、愚かさのせい、自分のせいではない。そう自分自身を納得させたかったからだ」
「……本当か、ばあ様?」
呆然とした様子でいのりは尋ねた。
「本当にそんなことのためにあんなにも多くの人を殺したのか?」
ひびきは答えなかった。ひとにらみで他人を石にできそうなほど邪念を込めた目で杜ノ王をにらんでいる。
杜ノ王はつづけた。
「わざわざ、たいざを操り、霊石を盗ませるような真似をしたのもそのため。お前なら自分で霊石を奪うことも、結界を破ることもできた。なのにわざわざ人を操ったのは自分のときと同じことを再現するため。『人は弱く、愚かであり、たやすく誘惑に負ける。自分がまちがっていたのではない。誰がやっても同じ結果になるのだ』と、そう証明したかったからだ。
いのりを鬼にすることにこだわったのも同じ理由だ。『人は誰でも無念の思いにかられれば鬼になるのだ。自分が鬼になったのは自分が弱いためではない』と、そう証明するため。そう納得して安心したかったからだ」
杜ノ王は容赦なく指摘をつづけた。
「哀れだな、ひびき。何度そんなことを繰り返そうと、お前がお前自身の抱く怖れから解放されることはありえない。なぜなら、お前自身がそう思っているからだ。
『自分がまちがっていたから裏切り者が出た、自分が弱かったから鬼となった』とな。
存在する限り、お前はその怖れにさいなまれ、人を襲いつづける。おれが終わらせてやる」
杜ノ王は羅刹の腕を向けた。凄まじき羅刹の口が開き、ひびきを呑み込もうとする。その寸前――。
「まってくれ、杜ノ王!」
いのりが叫んだ。
「ひびきは……ひびきはあたしが斬る」
あくまでもそう言った。涙をボロボロと流し、鬼斬りの太刀を握り締めながら。
杜ノ王は横目でいのりを見た。鍛えられてはいても小柄で華奢な女の子らしいほっそりとした体付き、その小さな背に背負いきれないほどの荷を担おうとしているその姿を。
杜ノ王はそっと腕をおろした。羅刹の姿の腕が人間の腕へと戻っていく。
「……ありがとう、杜ノ王」
くっくっくっ、
くっくっくっ、
ひびきが笑った。
「孝行娘よな、いのり。この距離で羅刹の腕を使われればわしとてなす術はない。呑み込まれ、吸収されてしまうわ。おぬしはわしを倒す絶好機をとめたのだぞ?」
「……お前はあたしが斬る」
「斬る? 斬るだと? ほう。その太刀でか? 無駄よ、無駄むだ。知らぬわけではなかろう。その太刀を鍛えたのはわしじゃ。わしの娘、おぬしの母が生まれたとき、その守り刀として鍛えてやったのよ。その太刀に込められているすべての術法をわしは知っておる。そのすべてをわしは中和できる。その太刀でわしを斬ることはできん」
「……斬れる」
いのりはかたくなに言った。
「ほう?」
ひびきは面白そうに唇をゆがめた。
「……ばあ様。たしかに、守ろうとした人間に裏切られたあなたの心の傷は大きいと思う。裏切った人間は最低だと思う。でも、だからと言ってあなたのしてきたことは許されることではない。あなたが生きているかぎり、同じ事をつづけるというのなら、あたしはあなたを斬る。斬鬼士として、あなたの孫として、あなたをとめてみせる」
「おもしろい。やってみろ」
ひびきが乱食い歯をのぞかせて笑った。
いのりは太刀を構えた。
ひびきは両手をあげた。醜くねじくれ、伸びきった、汚れた爪が不気味に輝いた。
一瞬、あたりを静寂が支配した。
いのりが動いた。
一瞬遅れて、ひびきも。
ふたりの体が互いに向かって跳んだ。
交差した。
太刀が振るわれたかと見る間もなく、ふたりの位置は入れ替わっていた。
にいっ、と、ひびきが牙をむいた。
倒れた。
ひびきが、だ。
鬼のひびきがいのりの一刀を受けて地に突っ伏したのだ。
「……馬鹿な」
ひびきが地べたに這いつくばりながら呻いた。血走った目が『ありえない』と叫んでいた。
「……ありえん、ありえん、このわし、このひびきが斬鬼の法によって倒されるなど……」
「あなたにこの太刀に込められた斬鬼の法を破ることはできない」
淡々といのりが言った。
「なぜなら、この太刀はすでにあなたが鍛えた太刀ではないからだ。あなたの込めた術法を強化改良し、さらに強力にしたものだからだ。母はこの太刀を『ゆめをとめ』と名付けた。母があなたの志を継ぐために一〇年のときをかけて鍛えた太刀なんだ」
「ゆめをとめ……」
「母があたしを里から逃がしたのはそのため。あたしが強くなり、この太刀を扱えるようになればあなたを斬れる。それがわかっていたから。そして、ひびき。あたしはこの二年間で多くの鬼と戦うことで強くなった。あなたはあたしを利用したつもりでその実、あたしを鍛え、自分を倒す力を与えていたんだ」
くっくっくっ、
くっくっくっ、
ひびきは笑った。どこか、愉快そうな響きのある笑い声だった。
「……そうか、そういうことであったか。
くっくっくっ、
くっくっくっ、
わしのおらぬ一〇年であの娘がそこまでのことができるほどに成長していたか。ぬかったわ。さすが、わしの娘よ。たしかにここはわしの負けよ。だが――」
グワッ、と、ひびきは目を見開いた。血走った目が狂気に染まっていた。
「鬼は死なん! たとえ、この身を斬り裂き、焼き払おうとも、我が無念は消えん! いずれ、必ず蘇る! きさまに斬られたことでより強く、より大きくなってな!
いのり! いまは勝ち誇るがよい。だが、それもいまだけのこと。いずれ、自分のしていることの無意味さに打ちのめされ、真に鬼へと堕ちるときがくる! そのときを楽しみにまっておるぞ!」
血反吐を吐くようにしてひびきは叫ぶ。狂気に染まった目を杜ノ王に向けた。
「杜ノ王、きさまもだ! しょせん、きさまのしようとしていることは夢、儚き夢に過ぎん。人間は弱い、人間は身勝手だ、いずれきさまも裏切られ、さいかいの杜は滅びるのだ!
無駄、
無駄、
無駄!
きさまらのしていることはすべて無駄よ! そのことを思い知り、無念の思いに責めさいなまれるがいい!」
ひびきの笑い声がこだまする。
いのりが、
しらべが、
やくもが、
地べたに這いつくばったまま哄笑する醜い老婆の姿をじっと見つめている。その瞳にはやりきれない悲しみだけが浮かんでいた。
ただひとり、杜ノ王だけがちがった。
「それがどうした」
杜ノ王はそう言った。
「なに?」
杜ノ王の言葉がよほど意外だったのだろう。ひびきの笑いがぴたりととまった。
ひびきだけではない。いのりも、しらべも、やくもも、同じように杜ノ王を見ている。
杜ノ王は言った。
「さいかいの杜が滅びたところで、それがなんだと言うんだ」
「な、なんじゃと?」
「どんなものもいずれは滅びる。その意味ですべては無意味。だが、おれは覚えている。子や孫や、さらにその子が幸せに暮らしていけるよう必死に働く人間たちの姿を。かの人たちの流した血と汗を。たとえ、さいかいの杜が滅びようとかの人たちの流した血と汗の価値は永遠にかわることはない」
その言葉に――。
ひびきも、いのりも、しらべまでも、魂を奪われたように杜ノ王を見つめた。
杜ノ王はつづけた。
「ひびき。お前もだ。たとえ、裏切りにあって滅びたところで、お前が人々を救おうと重ねてきた努力、お前とともに世界を蘇らせようとした人間たちの行い、その価値は決してかわることはない」
くっくっくっ、
くっくっくっ、
ひびきは笑った。杜ノ王に言われ、泣きながら笑い出した。
「……そうよ、杜ノ王。すべてそなたの言ったとおり。われは怖かった。われがまちがっていたのだと、われが弱かったのだと、そう証明されることが。
なにが聖女か!
なにが女神か!
そんな名で呼ばれ、崇められるうちに、われはわれ自身、いかなる過ちも、弱さも、許せなくなっていた。人は弱く、愚かだと? ふふっ、われのことではないか、われこそ人よ。弱く、醜く、浅ましい、ただの人であったわ!」
おう、
おう、
おう、
ひびきの嘆きの声が荒野に響いた。目からボロボロと涙を流していた。
「……おお、我が娘よ、弟子たちよ。われを迎えにきてくれたのか? なつかしいのう、みなで誓い合ったなあ。『人々を鬼から守ろう、この世界を蘇らせよう』と。楽しかったなあ、充実しておったなあ。
のう、いのり。そなたが生まれたとき、やくもはそなたから決してはなれようとはせなんだ。それを見てわれは確信した。『ここに未来が生まれたのだ』とな。そなたを抱き、月を見上げながら昔語りを語ったなあ。幸せだったなあ。我が人生であれほど幸せであったことはない」
「……ばあ様」
いのりは泣きそうな目で祖母を見つめている。
「しらべよ。そなたにはあまりに重い荷を背負わせてしまったな。悲魂の琵琶に心をもたせることが許されるのかどうか、われはさんざんに迷った。だが、狩り集めた魂をひとつにまとめるにはどうしても心が必要だったのだ。まっすぐに育ったそなたの姿を見たとき、涙が出るほど嬉しかったぞ」
「………」
しらべは黙ってひびきを見ている。
「やくもよ。世話になったなあ。そなたがおらなんだら、われとてなにもできなかった。感謝するぞ。そして、いのりとしらべを頼むぞ」
ふふふっ、
ふははははっ、
「夢よ。われはあのときたしかに夢のなかに生きておったわ。のう、杜ノ王よ。本当にかわらぬのか? われとわれの仲間たちの見た夢の価値は本当にかわらぬのか?」
「かわりはしない。決してな」
杜ノ王は迷うことなく言った。
「そうとも、かわるものか!」
いのりも叫んだ。
「ばあ様やかあ様、とう様、里のみんな……みんなの見た夢の価値がかわるなんて、そんなことあるもんか!」
「かわらない。決して」
しらべも言った。
「クオオオンッ」
やくもがいなないた。
「……そうか、そうであったか」
ひびきが顔をあげた。涙でぐしゃぐしゃになった顔に晴ればれとした表情をたたえていた。
「……もうよい。さあ、杜ノ王よ。わしを呑め。わしを呑み干し、己が力の一部とするがよい」
「ばあ様⁉」
「言われるまでもない」
杜ノ王は左腕を向けた。人間の腕が見る間に羅刹の姿へとかわっていく。
「杜ノ王!」
いのりは叫んだ。
「やめろ、やめてくれ! ばあ様を呑まないでくれ!」
里をあとにしたときの思い、この二年間の旅に重ねてきた思い、そのすべてが込みあげてきてどうしようもなかった。
「なぜだ……?」
尋ねた。
「なぜ、里を襲った? なぜ、里のみんなを殺した? 斬鬼士の里を開いたのはあなたじゃないか。なのに、なぜ……」
「ふっ」
静かに、かすかに悲しみの気配を込めてひびきは笑った。
「言ったところで詮無きことよ」
「ばあ様⁉」
「わしは鬼。鬼であればこそ人を苦しめ、人を殺す。それだけのことよ」
「嘘をつくな」
静かに、しかし、はっきりとそう断じたのは杜ノ王だった。
いのり、しらべ、やくも、そして、ひびき。八つの視線が杜ノ王に集まる。
「お前自身に言えないというならおれが言ってやろう。お前の本心をな」
「抜かすな、杜ノ王。おぬしなぞにわしのなにがわかる」
「あいにくわかるのさ。おれのなかにはすべてがある。強さも、弱さも、美しさも、醜さも、高潔さも、あさましさも、すべてがな。
だから、わかる。お前の思い、その心の奥底に隠しているお前の本心もな」
「……言うな」、
「お前の魂に刻まれた真の名前。それは……」
「言うなぁっ!」
ひびきは叫んだ。ただでさえ血走っている目がさらに朱に染まった。
立場が逆転していた。
先ほどまではいのりがひびきに追い詰められていた。いまはひびきが杜ノ王に追い詰められている。杜ノ王はひびきの叫びを無視していった。
「怖れ」
ひびきの顔がひび割れたかのようだった。
「怖れ?」
いのりが尋ねるともなくたずねた。
「そうだ。ひびきを鬼にしたのは怖れ。ひびきは自分の願ったことを実現できなかった。それなのにもし、その願いが他の誰かの手によって叶ってしまったら? ひびきがまちがっていたことになる。ひびきがいたらなかったから実現できなかったことになる。
ひびきは死んで鬼となった。もし、他人が自分と同じような思いをしても鬼とならなかったら? ひびきが鬼になったのはひびき自身が弱く、邪悪だったからだということになる。
ひびき。お前はそれをこそ恐れた。だから、人を襲わずにはいられなかった。自分が願いを実現できなかったのは自分が愚かだったからではない、自分が鬼となったのは自分が弱かったからではない、すべては人の弱さ、愚かさのせい、自分のせいではない。そう自分自身を納得させたかったからだ」
「……本当か、ばあ様?」
呆然とした様子でいのりは尋ねた。
「本当にそんなことのためにあんなにも多くの人を殺したのか?」
ひびきは答えなかった。ひとにらみで他人を石にできそうなほど邪念を込めた目で杜ノ王をにらんでいる。
杜ノ王はつづけた。
「わざわざ、たいざを操り、霊石を盗ませるような真似をしたのもそのため。お前なら自分で霊石を奪うことも、結界を破ることもできた。なのにわざわざ人を操ったのは自分のときと同じことを再現するため。『人は弱く、愚かであり、たやすく誘惑に負ける。自分がまちがっていたのではない。誰がやっても同じ結果になるのだ』と、そう証明したかったからだ。
いのりを鬼にすることにこだわったのも同じ理由だ。『人は誰でも無念の思いにかられれば鬼になるのだ。自分が鬼になったのは自分が弱いためではない』と、そう証明するため。そう納得して安心したかったからだ」
杜ノ王は容赦なく指摘をつづけた。
「哀れだな、ひびき。何度そんなことを繰り返そうと、お前がお前自身の抱く怖れから解放されることはありえない。なぜなら、お前自身がそう思っているからだ。
『自分がまちがっていたから裏切り者が出た、自分が弱かったから鬼となった』とな。
存在する限り、お前はその怖れにさいなまれ、人を襲いつづける。おれが終わらせてやる」
杜ノ王は羅刹の腕を向けた。凄まじき羅刹の口が開き、ひびきを呑み込もうとする。その寸前――。
「まってくれ、杜ノ王!」
いのりが叫んだ。
「ひびきは……ひびきはあたしが斬る」
あくまでもそう言った。涙をボロボロと流し、鬼斬りの太刀を握り締めながら。
杜ノ王は横目でいのりを見た。鍛えられてはいても小柄で華奢な女の子らしいほっそりとした体付き、その小さな背に背負いきれないほどの荷を担おうとしているその姿を。
杜ノ王はそっと腕をおろした。羅刹の姿の腕が人間の腕へと戻っていく。
「……ありがとう、杜ノ王」
くっくっくっ、
くっくっくっ、
ひびきが笑った。
「孝行娘よな、いのり。この距離で羅刹の腕を使われればわしとてなす術はない。呑み込まれ、吸収されてしまうわ。おぬしはわしを倒す絶好機をとめたのだぞ?」
「……お前はあたしが斬る」
「斬る? 斬るだと? ほう。その太刀でか? 無駄よ、無駄むだ。知らぬわけではなかろう。その太刀を鍛えたのはわしじゃ。わしの娘、おぬしの母が生まれたとき、その守り刀として鍛えてやったのよ。その太刀に込められているすべての術法をわしは知っておる。そのすべてをわしは中和できる。その太刀でわしを斬ることはできん」
「……斬れる」
いのりはかたくなに言った。
「ほう?」
ひびきは面白そうに唇をゆがめた。
「……ばあ様。たしかに、守ろうとした人間に裏切られたあなたの心の傷は大きいと思う。裏切った人間は最低だと思う。でも、だからと言ってあなたのしてきたことは許されることではない。あなたが生きているかぎり、同じ事をつづけるというのなら、あたしはあなたを斬る。斬鬼士として、あなたの孫として、あなたをとめてみせる」
「おもしろい。やってみろ」
ひびきが乱食い歯をのぞかせて笑った。
いのりは太刀を構えた。
ひびきは両手をあげた。醜くねじくれ、伸びきった、汚れた爪が不気味に輝いた。
一瞬、あたりを静寂が支配した。
いのりが動いた。
一瞬遅れて、ひびきも。
ふたりの体が互いに向かって跳んだ。
交差した。
太刀が振るわれたかと見る間もなく、ふたりの位置は入れ替わっていた。
にいっ、と、ひびきが牙をむいた。
倒れた。
ひびきが、だ。
鬼のひびきがいのりの一刀を受けて地に突っ伏したのだ。
「……馬鹿な」
ひびきが地べたに這いつくばりながら呻いた。血走った目が『ありえない』と叫んでいた。
「……ありえん、ありえん、このわし、このひびきが斬鬼の法によって倒されるなど……」
「あなたにこの太刀に込められた斬鬼の法を破ることはできない」
淡々といのりが言った。
「なぜなら、この太刀はすでにあなたが鍛えた太刀ではないからだ。あなたの込めた術法を強化改良し、さらに強力にしたものだからだ。母はこの太刀を『ゆめをとめ』と名付けた。母があなたの志を継ぐために一〇年のときをかけて鍛えた太刀なんだ」
「ゆめをとめ……」
「母があたしを里から逃がしたのはそのため。あたしが強くなり、この太刀を扱えるようになればあなたを斬れる。それがわかっていたから。そして、ひびき。あたしはこの二年間で多くの鬼と戦うことで強くなった。あなたはあたしを利用したつもりでその実、あたしを鍛え、自分を倒す力を与えていたんだ」
くっくっくっ、
くっくっくっ、
ひびきは笑った。どこか、愉快そうな響きのある笑い声だった。
「……そうか、そういうことであったか。
くっくっくっ、
くっくっくっ、
わしのおらぬ一〇年であの娘がそこまでのことができるほどに成長していたか。ぬかったわ。さすが、わしの娘よ。たしかにここはわしの負けよ。だが――」
グワッ、と、ひびきは目を見開いた。血走った目が狂気に染まっていた。
「鬼は死なん! たとえ、この身を斬り裂き、焼き払おうとも、我が無念は消えん! いずれ、必ず蘇る! きさまに斬られたことでより強く、より大きくなってな!
いのり! いまは勝ち誇るがよい。だが、それもいまだけのこと。いずれ、自分のしていることの無意味さに打ちのめされ、真に鬼へと堕ちるときがくる! そのときを楽しみにまっておるぞ!」
血反吐を吐くようにしてひびきは叫ぶ。狂気に染まった目を杜ノ王に向けた。
「杜ノ王、きさまもだ! しょせん、きさまのしようとしていることは夢、儚き夢に過ぎん。人間は弱い、人間は身勝手だ、いずれきさまも裏切られ、さいかいの杜は滅びるのだ!
無駄、
無駄、
無駄!
きさまらのしていることはすべて無駄よ! そのことを思い知り、無念の思いに責めさいなまれるがいい!」
ひびきの笑い声がこだまする。
いのりが、
しらべが、
やくもが、
地べたに這いつくばったまま哄笑する醜い老婆の姿をじっと見つめている。その瞳にはやりきれない悲しみだけが浮かんでいた。
ただひとり、杜ノ王だけがちがった。
「それがどうした」
杜ノ王はそう言った。
「なに?」
杜ノ王の言葉がよほど意外だったのだろう。ひびきの笑いがぴたりととまった。
ひびきだけではない。いのりも、しらべも、やくもも、同じように杜ノ王を見ている。
杜ノ王は言った。
「さいかいの杜が滅びたところで、それがなんだと言うんだ」
「な、なんじゃと?」
「どんなものもいずれは滅びる。その意味ですべては無意味。だが、おれは覚えている。子や孫や、さらにその子が幸せに暮らしていけるよう必死に働く人間たちの姿を。かの人たちの流した血と汗を。たとえ、さいかいの杜が滅びようとかの人たちの流した血と汗の価値は永遠にかわることはない」
その言葉に――。
ひびきも、いのりも、しらべまでも、魂を奪われたように杜ノ王を見つめた。
杜ノ王はつづけた。
「ひびき。お前もだ。たとえ、裏切りにあって滅びたところで、お前が人々を救おうと重ねてきた努力、お前とともに世界を蘇らせようとした人間たちの行い、その価値は決してかわることはない」
くっくっくっ、
くっくっくっ、
ひびきは笑った。杜ノ王に言われ、泣きながら笑い出した。
「……そうよ、杜ノ王。すべてそなたの言ったとおり。われは怖かった。われがまちがっていたのだと、われが弱かったのだと、そう証明されることが。
なにが聖女か!
なにが女神か!
そんな名で呼ばれ、崇められるうちに、われはわれ自身、いかなる過ちも、弱さも、許せなくなっていた。人は弱く、愚かだと? ふふっ、われのことではないか、われこそ人よ。弱く、醜く、浅ましい、ただの人であったわ!」
おう、
おう、
おう、
ひびきの嘆きの声が荒野に響いた。目からボロボロと涙を流していた。
「……おお、我が娘よ、弟子たちよ。われを迎えにきてくれたのか? なつかしいのう、みなで誓い合ったなあ。『人々を鬼から守ろう、この世界を蘇らせよう』と。楽しかったなあ、充実しておったなあ。
のう、いのり。そなたが生まれたとき、やくもはそなたから決してはなれようとはせなんだ。それを見てわれは確信した。『ここに未来が生まれたのだ』とな。そなたを抱き、月を見上げながら昔語りを語ったなあ。幸せだったなあ。我が人生であれほど幸せであったことはない」
「……ばあ様」
いのりは泣きそうな目で祖母を見つめている。
「しらべよ。そなたにはあまりに重い荷を背負わせてしまったな。悲魂の琵琶に心をもたせることが許されるのかどうか、われはさんざんに迷った。だが、狩り集めた魂をひとつにまとめるにはどうしても心が必要だったのだ。まっすぐに育ったそなたの姿を見たとき、涙が出るほど嬉しかったぞ」
「………」
しらべは黙ってひびきを見ている。
「やくもよ。世話になったなあ。そなたがおらなんだら、われとてなにもできなかった。感謝するぞ。そして、いのりとしらべを頼むぞ」
ふふふっ、
ふははははっ、
「夢よ。われはあのときたしかに夢のなかに生きておったわ。のう、杜ノ王よ。本当にかわらぬのか? われとわれの仲間たちの見た夢の価値は本当にかわらぬのか?」
「かわりはしない。決してな」
杜ノ王は迷うことなく言った。
「そうとも、かわるものか!」
いのりも叫んだ。
「ばあ様やかあ様、とう様、里のみんな……みんなの見た夢の価値がかわるなんて、そんなことあるもんか!」
「かわらない。決して」
しらべも言った。
「クオオオンッ」
やくもがいなないた。
「……そうか、そうであったか」
ひびきが顔をあげた。涙でぐしゃぐしゃになった顔に晴ればれとした表情をたたえていた。
「……もうよい。さあ、杜ノ王よ。わしを呑め。わしを呑み干し、己が力の一部とするがよい」
「ばあ様⁉」
「言われるまでもない」
杜ノ王は左腕を向けた。人間の腕が見る間に羅刹の姿へとかわっていく。
「杜ノ王!」
いのりは叫んだ。
「やめろ、やめてくれ! ばあ様を呑まないでくれ!」
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