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第一話 わたしは戦争を殺す旅に出る

一章 転生→婚約破棄→追放、そして……

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 「お、おおおおお前とのこ、ここここ婚約などこの場で破棄だ! この国からも追放してやる! とっとと消え失せろ!」
 大公の息子は泡を吹きながら叫んだ。まとっていた衣服を切り刻まれ、性器まで露出した格好で、尻餅をつきながら。かの人かのとの見上げるその先には忍び装束に身を包んだひとりの少女、つい先ほどまでのかの人の婚約者であり、将来の大公妃であったはずの少女が立っている。人の姿に獣の耳と尻尾をもち、母親譲りのオッドアイ――青い左目と琥珀色の右目――をもつ、美しくも凜々しい〝知恵ある獣ライカンスロープ〟の少女。その少女、メインクーンは冷淡なまでに静かな視線で先ほどまでの婚約者を見据えていた。
 場所は公国の宮殿。その大ホールで開かれている舞踏会。国中の名士が集まり、荘厳な音楽が奏でられ、人々が踊り、社交がかわされる。そのさなか。大公の息子は自身の婚約者である少女の手によって衣服を切り刻まれ、性器まで露出させられた。
 しかも、よりによってそれは、かの人の一七歳の誕生日を祝うための会であり、かの人が正式に公国の後継者として指名され、メインクーンとの婚礼の儀も執り行われるという晴れの舞台だった。まさに、人生の絶頂とも言うべきその瞬間に、他ならぬ婚約者自身の手によってかような醜態をさらす羽目になったのだ。怒りのあまり、婚約を破棄するのも自然なことだった。
 そして、もちろん、もうひとり、怒り心頭に達している人間がいた。かの人の父親、この国の主たる大公殿下、その人だった。大公はまなじりを吊りあげた怒りの形相を浮かべると、頭から湯気を噴き出すようにしてメインクーンに近づいた。ドスドスと音を立てて大股に、優雅たるべき貴族にはあるまじき乱暴な足取りで忍び装束の少女に詰め寄った。その眼前で怒りの声を浴びせかけた。
 「きさまあっ、メインクーン! 何のつもりだ。よりによって、息子の一七歳の誕生日にかような恥をかかせるとは! 我が息子はきさまの未来の夫なのだぞ⁉」
 大公の怒声をメインクーンは表情ひとつかえずに聞き流した。『ふてぶてしい』と言っていいほどの態度で言い返した。
 「お聞きになっていませんでしたか、大公殿下? わたしはたったいま婚約を破棄されました。つまり、この人はもう、わたしの未来の夫ではありません」
 可愛くない! この世のありとあらゆる男がそう思うだろう態度に大公はカッと眉を吊り上げた。その表情に稲妻が走った。年相応に贅肉のついた右腕が跳ね上がった。
 パァン!
 舞踏会の会場に高い音が鳴り響いた。
 大公の右手がメインクーンの頬を張り飛ばしていた。その場にいた誰もが唖然としていた。言葉を失っていた。息を呑んでそのありさまを見つめているしかなかった。よりによって国中の名士が集まる舞踏会の席上で、大公ともあろうお方が――〝知恵ある獣〟とは言え――まだ一五歳にすぎない少女の頬を張り飛ばしたのだ。まさに、前代未聞の出来事だった。息を呑んで見つめていることしかできないのも無理はなかった。
 見ている人間たちは唖然としていたが、頬を張り飛ばされた当人は唖然となどしていなかった。くっきりと頬に手形が残るほど強く打たれていながら、その一撃を平然と受けとめ、何事もなかったかのような表情で大公を見返している。その態度は一言で言って『可愛くない』。すべての男がそう思い、怒りに刈られるようなものだった。
 大公の怒りがますます激しさを増したのも、一人息子に公の席上で恥をかかされたからではもはやなく、メインクーンのその態度が気にくわなかったからにちがいない。大公は唾を飛ばしながら叫んだ。怒りのあまり自分の立場を忘れたとしか思えない粗暴な態度だった。
 「一〇年前、行く当てもなくさ迷っていたきさまら獣人母娘をひろってやった恩も忘れおって! 少しばかり美しいと思い、息子の婚約者にまでしてやったというのに、その返礼がこれか! 将来、我が息子を支える妃として目をかけてやっていたというのに……我が過ちであったわ。もはや、きさまの顔なぞ見たくもない。息子との婚約は破棄だ! この国からも追放する! どこへなりと行くがいい。好きな場所で野垂れ死んでしまえ!」
 唾を飛ばしながら次々と浴びせられる罵倒の数々を、メインクーンは平然たる態度で受けとめていた。大公の言葉が途切れたところで片脚を引き、貴族式のお辞儀をする。大公や、その息子の無様な姿に比べ、一万倍も貴族らしい優美な態度だった。
 「勅命、たしかに受け取りました。それでは、失礼いたします」
 その一言を残し――。
 少女はきびすを返した。かの人の後方ではいまや空位となった将来の大公妃の地位を手に入れようと、貴族の少女たちがいまだ尻餅をついたままの大公の息子のまわりに群れていた。口々に慰めの言葉をかけ、歓心を引こうとする。
 そのすべてがメインクーンにとってはもはや、どうでもいいことだった。
 ――これでもう、義理を感じる必要はない。
 形のいい胸の奥でそう思う。
 大公が自分たち母娘の恩人であることはたしかだ。その容姿と才知とを見込んで息子の婚約者にもしてくれた。貴族でも何でもない、それどころか、もともとこの国の民ですらない、流れ者の娘の自分をだ。例えそれが、大公ひとりの勝手な思いであったとしても極めて大きな好意からであることはまちがいない。その恩人を裏切ってこの国を出て行くわけには行かない。しかし、その大公自身から追放刑に処されたとなれば話は別だ。もはや、メインクーンを縛るものは何もない。
 メインクーンは確固たる決意を込めて心に呟いた。
 ――待っていなさい、戦争。かつて、三歳であったわたしを殺したお前を、今度はわたしが殺してみせる。
△    ▽
 メインクーンの最初の人生はわずか三歳で終わった。
 そのとき、自分がどこにいたのか、何と言う名で呼ばれていたのか、それは覚えていない。三歳であれば無理のないこと。覚えているのはただひとつ。自分は戦争に殺された、と言うただそれだけ。戦火に追われ、家族に連れられて逃げまとうなかを、この世界には存在しない武器によって殺されたのだ。
 家族のことも覚えていない。母親に手を引かれていたのは確かだと思う。少なくとも、誰かに手を引かれて逃げていたのだ。その誰かが誰なのかは正確には分からない。母親だったのかも知れないし、全然別の誰かだったのかも知れない。父親はどうしていたのか、きょうだいはいたのか、何ひとつ覚えていない。
 もとの世界で殺されて、気がついたときにはこの世界にいた。メインクーンという名前のやはり、三歳の女の子となって。そして、やはり、母に手を引かれて旅をしていた。当てのない旅立った。さ迷える旅だった。行く先々で人々の住む集落を見つけてはほんのいっとき滞在し、小銭を稼いでは再びさ迷い歩く。
 そんな旅だった。
 なぜ、母がそんな旅をしていたのか、メインクーンは知らない。聞かされたことはない。ただ、何かから逃げていたらしい。おそらくはやはり、戦火から逃げていたのだろう。大陸はすでに長い戦乱期にあり、その頃も各地で争いが繰り広げられていた。
 身を休める場所もない旅だった。
 食べるものとてない旅だった。
 「お母さん、もう疲れたよお、お腹減ったよお、何か食べたいよお」
 まだ三歳のメインクーンは毎日まいにちそう言っておねだりした。
 母はそのたびに娘を気遣う表情を見せて言い聞かせた。
 「ごめんね、メインクーン。もう少し、もう少しだけ我慢してね。人のいる場所に着いたらきっと何か食べさせてあげる。身を休める場所もきっとあるから。それまで辛抱してね」
 言われてメインクーンは黙って母に手を引かれるまま付いていった。我慢したとか、辛抱したとか、そう言う問題ではない。他にどうしようもなかったからだ。見渡す限りの荒れ果てた荒野。身を休める場所はおろか、食べられるものひとつもない。歩きつづけなければ死んでしまう。そんなことは三歳の子供にもわかった。だから、歩く。ただ黙って歩きつづける。生きるためにはそれしかなかった。そして、人のいる集落に着けば母は決まってどうにかして食べ物を手に入れてくれた。
 どうにかして?
 母がどうやって食べ物を手に入れていたのか。いまならわかる。母はその身と引き替えに食べ物を得ていたのだ。
 母のカオマニーは美しい人だった。『白い宝石』と呼びたくなるぐらいの透き通る白い肌。青い左目と琥珀色の右目のオッドアイ。〝知恵ある獣〟特有の野性的な美しさ。加えて、生来、病弱な質であったため、いつも青白い顔をしていた。それが儚げな印象を与え、その美貌を際立たせていた。とくに旅のさなかは旅の疲れと、なけなしの食べ物を娘に先に与え、自分はいつも辛抱していたのでなおさらやつれ、肌は青白さを増していた。そのことが逆に持ち前の儚い美貌の魅力を増していた。大陸全土が戦乱に覆われ、多くの人々が飢え死にする時代にあっても、カオマニーの美貌に惹かれ、その身を得るために金品を差し出す男はどこにでもいたのだ。
 本来、〝知恵ある獣〟は人間と関わることを嫌う。と言うより、それがいかなる相手であれ、他者と関わることを嫌う。群れず、集わず、どこまでも自分ひとりで生を歩む。それが〝知恵ある獣〟。だが、メインクーンの母、カオマニーは〝知恵ある獣〟の例外だった。かの人は人と関わることに抵抗をもたなかった。むしろ、積極的に人と交わった。
 ――多分、生まれついての愛玩用の奴隷だったのだ。
 メインクーンはそう思っている。
 〝知恵ある獣〟はヒト族のなかでも最も高い身体能力と鋭敏な感覚、鋭い知性をもっている。しかし、あまりにも個人主義が強すぎて社会を築くことができない。〝知恵ある獣〟は生まれてからの数年間を母と過ごす。その間に言葉や狩りの基本を学び、あとはひとりで生きていく。そのためにせっかく身につけた知識や技術を後進に伝えることができない。つまり、教育を受けることができず、幼児期の状態のままにとどまってしまう。そのためにせっかくの能力を生かすことができず、基礎能力でははるかに劣る人間に捕えられ、奴隷にされることが少なくないのだ。
 もちろん、殴ろうが、蹴ろうが、社会を築くこともできないほどに個人主義の強い〝知恵ある獣〟を屈服させることなどできるはずもない。そこで、薬を使う。薬品を投与して精神を破壊し、言いなりにする。そうしてゾンビ状態にしておいて、女に子供を産ませる。その子供を物心付く前から躾け、愛玩用の奴隷に仕立て上げるのだ。
 人の世の上流階級ではさしてめずらしくもないこと。客が来れば普通に『自慢の奴隷』として紹介することもあるぐらい、公然と行われていることだ。
 もちろん、〝知恵ある獣〟たちはその扱いに怒っている。怒り心頭に達している。しかし、何しろ、集団行動ができないので人の世に影響を及ぼすことなどできない。たまに、襲われる人間がいるくらいで、ほとんど黙殺されている。
 ――母もきっと、そうして生まれた奴隷のひとりだったのだ。
 そこで、人間に尽くし、可愛がられるように躾けられた。そのために人間と関わることに抵抗をもたないのだろう。そして、おそらくは、その奴隷が戦乱によって主人を失い、突如として自由の身になり、途方に暮れて娘を連れて旅に出た……。
 ――そんなところなのだろう。
 メインクーンはそう思っている。となると、自分の父親は……。
 それを思うと全身の血を投げ捨てたくなるメインクーンだった。
 旅のさなか、バッタリ集落に出くわさなくなった。集落そのものはあることはある。しかし、すべては廃墟であり、人っ子ひとりいなかった。
 「誰もいないね、お母さん」
 「ええ。きっと、この辺りで大きな戦いがあったのね。みんな、殺されるか、連れ去られるか、それとも、逃げだすかしたんだわ」
 「お腹空いたよお、お母さん。喉かわいたよお。何か食べたい、お水飲みたい」
 「ごめんね、メインクーン。もう少し辛抱してね。人はいなくてもきっと食べられる草や木の実、水たまりぐらいはあるはずだから」
 カオマニーは幼い娘に必死にそう言い聞かせた。しかし、そこには何もなかった。食べられる草も木の実も、水たまりの水さえも、行軍中に飢えに襲われた兵士たちによってすでに食い尽くされており、旅をつづける無力な母娘のためには残されていなかったのだ。
 それでも、どうにか食いつなぎ、僻地のポツンと建つ修道院を見つけた。俗世をはなれて修行に専念するために、あえて人里離れた僻地に建てられた修道院だった。その修道院では定期的に、戦火に追われた人々のために炊き出しを行っていた。
 「喜んで、メインクーン。あそこの修道院で炊き出しをしているそうよ」
 「ほんとう⁉」
 「ええ、本当よ。今日は暖かくておいしいスープが飲めるわよ」
 三歳のメインクーンは飛びあがって喜んだ。
 母娘は炊き出しの列に並んだ。漂ってくるスープの匂いが痛いほどに空っぽの胃を刺激した。ようやく、自分たちの番がきた。そのときになって気付いた。スープを盛ってもらうための器がないと言うことに。
 「器がなければスープを盛ることはできませんが……」
 係のシスターが困り顔で言った。カオマニーはためらうことなく両手を揃えて差し出した。
 「この手に盛ってください」
 「お母さん、火傷しちゃうよ!」
 幼い娘が追わずあげた悲鳴に対し――。
 カオマニーはニッコリと優しく微笑んだ。
 シスターも娘を思う母の心を感じ取ったのだろう。何も言わず、熱いスープをカオマニーの手のひらに注いだ。
 「さあ、メインクーン。暖かくておいしいスープよ。お飲みなさい」
 言われてメインクーンは真っ赤にただれた母親の手に口を付けてスープをすすった。少しばかり塩味を付け、わずかばかりの野菜の切れ端が浮かんでいるだけのスープ。それでも――。
 母娘にとってはこの上なく貴重な宝物だった。
 そうして二年の時が過ぎた。
 その間に母娘は『水だけはある』北の大地へとやってきていた。大陸中央の広大な高原地帯。そこから流れ出す巨大な河川によって地域全体が潤い、無数の川と湿地帯が生まれる〝水の領域〟。本来、森と草原の生き物である〝知恵ある獣〟には向かない場所だ。それでも、ここなら水だけはある。何がなくても飲み水に困り、渇きに襲われると言うことだけはない。ちょっと潜れば貝ぐらいはいつでも採れる。北の大地にたどり着いたことで、流浪の母娘はようやく飢えと渇きから解放された。
 さらに旅をつづけ、ついにトリトン公国へとたどり着いた。北の氷海に面した小さな国。ここから先にはもはや大地はなく、水と氷しかないという北限の僻地。大陸全土を覆う戦乱も、さすがにこの最果ての地まではやってきていなかった。
 母娘はようやく、安住の地を手に入れたのだ。
 このとき、メインクーンは五歳になっていた。
 カオマニーは小さな宿に住み込みの仕事を見つけた。ようやく飢えや寒さに襲われることなく、火の側で布団にくるまって眠ることのできる生活を手に入れた。カオマニーの美貌はすぐに評判になった。カオマニー目当てに泊まる必要もないのに客がやってきた。噂はうわさを呼び、やがて、大公ナローリーフ自らが訪れた。ナローリーフは母娘の境遇を聞くと大いに同情し、カオマニーを高給でメイドとして雇い、母娘を宮廷に住まわせた……と言えば聞こえはいいが、要するに愛人として囲ったのである。当時、ナローリーフは政略結婚した妻を亡くしたばかりであり(死因については本当に自然死だったのかどうか、いまにいたるまで疑惑に包まれているのだが)妻の、と言うより、妻の実家の手前、我慢せざるを得なかった漁色家振りを発揮してせっせと愛人たちを集めているところだった。カオマニーもそのうちのひとりとして目を付けられたのだ。
 女の人権を無視している!
 そう叫んで憤る人もいるだろう。しかし、それによって母娘がいままでにない豊かで安定した生活を送れるようになったことだけは確かである。
 もう、凍えるような夜の風に吹かれながら身を寄せ合い、それでも寒さに震えて眠れぬ夜を過ごす必要はない。熱いスープを手に盛り、焼けただれた手のひらから直接、スープをすする必要もない。雨も風も通さない石壁に包まれた部屋のなかで、暖かいベッドのなかでぬくぬくと眠っていられる。質素ではあるが量だけはある料理を、きちんと皿に盛って食べることができる。それまでの母娘の暮らしを考えれば、まさに天国だった。
 そして、その暮らしのなか、メインクーンは思い出すのだ。
 自分が一度、戦争によって死んでいることを。
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