29 / 48
第四話 空の星 海の星(上)
ステージ5 運命がまちがうなら……。
しおりを挟む
「……あたしは三つの頃からバレエをはじめた」
南沢なつみは語りはじめた。
校舎の屋上。
他に人気のないその場所で。
屋上特有の強い風に吹かれながら。
さくらと風噂、ふたりに背を向け、遠い空に視線を向けた格好で。
実際には空に視線を向けているのではなく、二度と戻ることのない過去に向かって語りかけているのだろう。さくらは理性によらずそう直感した。
「三つの頃から⁉ だって、バレエって跳んだりはねたりするものでしょ? そんな小さい頃から習えるものなの⁉」
風噂は心底驚いた様子で言った。たしかに、さくらとしても三つの頃から習いごとをしていたなどと聞けば驚きはする。しかし、だからと言って、
「風噂! いちいち口を挟まないで。失礼でしょ」
さくらは風噂をたしなめた。と言うより、非難した。自分たちはなつみの身内でもなければ、友人ですらない。今日、会ったばかりの赤の他人。それなのに、プライヴェート――それも、おそらくはかなり深刻――な事柄について聞き出そうというのだ。それだけでもう充分に厚かましい。この上、礼を失するような真似はしないでほしい。
さくらはそう思ったが、なつみ自身は別に気にした様子もなかった。相変わらず空の向こうに視線を向けまま答えた。
「バレエだって最初から跳んだりはねたりするわけじゃないよ。幼児向けの教室もちゃんとあるから」
「へえ、そうなんだ。でも、いくら何でも三つの頃じゃあ、自分から習うってわけにいかないよね。親に習わされたの?」
気になったことがあれば問い質さずにいられないのは未来のジャーナリストとしての本能か。風噂はさくらが口を押さえる間もなくそうたたみかけた。
「習われた、って言うのとはちがうけど。あたしは覚えていないけど、立って歩けるようになった頃から音楽が鳴っているとすぐに踊り出す性格だったんだって。所構わずすぐに踊り出すものだから心配した親が医者に相談に行ったの。そうしたら『この子は病気ではありません。ダンサーなのです。ダンス教室に通わせてあげなさい』って言われたんだって」
「へえ」
「それで、ちょうど近くに幼児向けのバレエ教室があったからそこに通わせることにしたんだって。だから、バレエをはじめたのは実は偶然。近くにあったのがバレエ以外のダンス教室だったらそっちを習っていたわ」
あたし自身、思い切り踊れるならなんでもよかったし。
なつみはそう付け加えた。
「教室に通うようになってから毎日まいにちレッスンに明け暮れた。それこそ、一日何時間もね。その甲斐あってあたしはどんどん上達した。教室のなかでは別格だったし、小学校高学年にあがる頃にはちょっとは名前が知られるようになっていた。その頃にはトップダンサーの動画も見るようになっていた。動画のなかで世界のトップダンサーたちは信じられないようなすごい動きを見せていた。小学生のあたしにはそれこそ『ダンスの魔法使い』にしか見えなかった。その動画を見ているうちに思うようになったの。『あたしもこんな風になりたい』ってね」
「魔法使いに⁉」
風噂は目を丸くして叫んだ。
――いや、ちがうでしょ。
さくらは恥ずかしさのあまり、頬を赤く染め、うつむきながら心のなかでツッコんだ。
なつみもさすがに風噂のボケには感じるものがあったのだろう。苦笑めいた笑みをもらすと体ごと振り向いた。
「ちがうよ。こんなすごいダンサーになりたい。魔法にしか見えないバレエを踊れるようになって、世界一のエトワールになりたい。そう思うようになったってことだよ」
「あ、そういう意味」
と、風噂。腑に落ちた表情だった。
――当たり前でしょうが。
と、さくら。またも心のなかでツッコむ。口に出して言わないのはなつみに対する遠慮である。
なつみはつづけた。
「そうしてあたしはエトワール目指してバレエをつづけた。中学に入った頃にはコンクールに出れば優勝するのが当たり前になっていた。これでも『天才少女現る!』なんて騒がれたこともあったんだよ」
「すごいんだ」
さくらはそうとしか言えなかった。
なつみは『ふふ』と、さびしげに笑った。
「……昔の話だけどね。いまはもう」
「昔の話? なんで? 才能の限界?」
風噂が食い付くような勢いでたたみかける。さくらはもう限界。なつみに迫る風噂の頭をぶん殴った。風噂は思わず頭を抱えてしゃがみ込む。なつみは再びふたりに背を向け、空の彼方に視線を向けながら話をつづけた。
「才能の限界、か。それならあきらめもついたかもね。でも、ちがう。そうじゃない。あたしの才能は限界なんかじゃなかった。バレエに関してはあたしに勝てる同年代は日本中にひとりしかいなかった。中学の間、日本のバレエコンクールの優勝はあたしとその人とで分け合っているようなものだった。他の人が優勝するのは、あたしもその人も参加していなかった場合だけ。あたしたちが参加していればどちらかが必ず優勝していた。専門家の評価もどんどんあがっていった。『将来、必ず世界で活躍するようになる』って、太鼓判も押された。そして、中学三年の夏。そのためのチャンスをつかんだ」
「チャンス?」と、さくら。
「そう。ウィーンで開かれる若手バレエダンサーの登竜門と言われる国際的なコンクール。そこに参加することが決まったの」
「ウィーンって……オーストリア」
「そう。オーストリアは昔からバレエなんかで有名だから。中二のときには三ヶ月だけだけど短期留学もしていた」
「……本当に天才なんだ」
さくらはそう言うしかなかった。その横ではぶん殴られた痛みなどもはやすっかり忘れた風噂が、いまにも食い付かんばかりの様子で聞き入っている。
「でも……」
と、なつみ。その可愛らしい顔が沈痛な面持ちに沈んだ。
「コンクールのためのレッスン中、あたしは右膝を痛めた」
「膝を?」
「そう。最初はとくに気にしなかった。あたしたちにとって故障なんて当たり前だし、レッスンは遅れるけ、治りさえすれば取り戻す自信もあった。だから、脚以外の部分を鍛えながら膝が治るのをまった。でも……いつまでたっても膝の痛みはなくならなかった。そして、とうとう医者に言われた。『この膝ではもうバレエの激しい動きには耐えられない。バレエをつづけるのは無理だ』って」
「そんな……」
「ええっ~、そんなあっ!」
さくらの呟きを風噂の絶叫がかき消した。
「ひどいよ、そんなの、あんまりだよ! 世界目指して一所懸命レッスンしてきたんでしょ? それなのに、そのチャンスを目の前にして怪我でバレエ出来なくなるなんて……そんなの、ひどすぎるよ!」
風噂は叫びつづける。このときばかりは『未来のジャーナリス』であることを忘れ、なつみの運命を悲しんでいる。いや、怒っている。本質的にはきわめて善良な人間なのだ。
――傍迷惑なことにはかわりないけど。
とは、さくらの感想である。
「仕方ないよ。それが、あたしの運命だったんだから」
「運命って……それでいいの⁉」
「いいわけないでしょ!」
風噂の言葉に――。
なつみは叫んだ。
なつみがこんな風に感情をむき出しにして怒鳴るのははじめてのことだったので、さくらも風噂を言葉を失い、目を丸くして驚いた。なつみはそんなふたりを前に激しい感情の渦を叩き出した。
「泣いたよ! 死にたいぐらいだったよ! バレエに打ち込んで、打ち込んで、やっとここまできたのになんで……って、何度も呪ったよ! いまだってできることなら復帰したい、エトワール目指して思いきり舞台の上で踊りたい。そう思ってる。でも、しょうがないじゃない! あたしの膝は壊れちゃったんだもの。もう治らないんだもの。そういう運命だったんだからしょうがない。そう思うしかないじゃない!」
涙があふれ、肩で息をしている。その姿がいままでなつみがどれほど自分の感情を押し殺していたかを示していた。それでも、思い切り感情を吐き出して落ち着いたのだろう。涙を手で拭うと、静かに言った。
「……ゴメン。興奮しちゃった」
「……あ、いえ」
「……ううん」
さくらも、風噂も、言葉少なに言いながら首を横に振るしかなかった。
「……とにかく、あたしはもうバレエをつづけることは出来なくなった。特待生として入学することが決っていたここにも、普通科の生徒として通うことになった。もっとも、ショックのあまり、ずっと引きこもっちゃってたから今日までこれなかったんだけどね」
「……そうだったんだ」
――先生がわざわざふたりきりで話すわけだわ。
さくらはそう思った。
「でも、そんな様だったから親にも、まわりの人にもずいぶん心配させちゃったから。もういい加減、立ち直らなくっちゃって思って、今日から通うことにしたの」
「……そうだったんだ。なんか、ゴメンね。そんな大変なこと、無理やり聞き出すようなことしちゃって」
風噂もさすがに、気まずい思いをしたのだろう。指などをつつきながらそう言った。
なつみはかぶりを振った。
「いいのよ。隠すようなことじゃないし、深刻ぶっててもなにがかわるわけじゃないんだから。むしろ、全部話せてスッキリしたわ」
「うん、すごいよ。よくわかる。あたしも未来のジャーナリスト目指して頑張ってるもん。もし、あたしがジャーナリストになれない、なんてことになったら立ち直れないと思う。それなのに、ちゃんと立ち直って前を向こうだなんて本当にすごいよ」
風噂は熱心にそう語った。あまりの熱意になつみもふと苦笑したようだ。
「……ねえ、南沢さん」
それまでじっと考え込んでいたさくらが言った。
「『なつみ』って呼んで。その方が呼ばれ慣れてるから」
「あ、じゃあ、あたしも『さくら』で」
「あたしは風噂! 『風の噂』って書いて『ふうさ』。よろしくね!」
と、風噂は敬礼染みた仕種をしながら言った。
「ねえ、なつみ。あたしの兄さんに会ってみない?」
「あなたのお兄さん?」
いきなりの提案になつみはキョトンとした表情を浮かべた。さくらは力強くうなずいた。
「そう。兄さんならなんとかしてくれると思う」
「なんとかって……あなたのお兄さん、お医者なの?」
「医者じゃないわ。でも、問題解決の専門家なの。兄さんならきっと、あなたの問題も解決してくれる」
さくらは熱心にそう語った。
――こんなことはまちがっている。
さくらは痛切にそう思った。
幼い頃から世界的なバレエダンサーを目指し、努力してきた。そうなれるだけの才能もあった。しかも、そうなれる、少なくとも、そうなるためのチャンスをつかめる目前まできていた。それなのに、そこに来て怪我ですべて代なしになるなんて……。
そんなの理不尽すぎる。
あっちゃいけない。
子供っぽい思いだと言うことはわかっている。だけど、どうしようもなくそう思った。
以前のさくらならここまで思うことはなかっただろう。なにしろ、本気でなにかに打ち込んだことなどない身。世界を目指して努力をつづけると言うことがどういうことか、その夢が破れると言うことがどれほどのショックか、そんなことがわかるはずもない。
でも、いまのさくらはちがう。赤葉や白葉、ふぁいからりーふのメンバーたちが自分自身の夢のためにどれほど頑張っているか間近に見てきた。なつみもそれと同様に、いや、それ以上に必死の努力をつづけてきたにちがいない。そのすべてが怪我によってふいになってしまうなんて……。
――そんなの絶対、まちがってる! あっちゃいけない!
運命がそんなまちがいをしでかしたのなら人間の手で正さなければいけない。人間には無理でも藍条森也なら、あの『地球進化史上最強の知性』ならきっとなんとかできる。
してくれる。
さくらはそう信じた。
根拠なんてなにもないけど、とにかくそう信じた。
なつみはそんなさくらを厳しい視線で見つめた。
――解決してくれる、なんてずいぶんと簡単に言ってくれる。
そう思ったのだ。
――あたしがどれほどの思いでバレエに打ち込んできたか、もうバレエをつづけられないと知ってどんなにショックだったか、なにも知らないくせに。
「あたしの膝は治らない。何人もの医者からそう言われたんだよ? そのなかには世界的な外科医の先生もいた。それなのに、医者でもないあなたのお兄さんが治せるって言うの?」
「ちがうわ。たしかに医者でもない兄さんにあなたの膝が治せるはずがない。でも、兄さんならきっと、膝が治らないまま、あなたがバレエをつづけられる道を見つけ出してくれる」
「膝が治らないまま?」
「そう」
と、さくらは全身全霊を込めてうなずいた。
「兄さんなら……藍条森也ならきっと」
そう語るさくらの瞳の真剣さ。それはもはや『あたしの気も知らないくせに』などと言い捨てることの出来ないものだった。
「……わかった」
なつみは言った。
「会ってみるわ、あなたのお兄さんに。もし、わずかでもバレエをつづけられる可能性があるのなら……あたしはなんでもやる」
南沢なつみは語りはじめた。
校舎の屋上。
他に人気のないその場所で。
屋上特有の強い風に吹かれながら。
さくらと風噂、ふたりに背を向け、遠い空に視線を向けた格好で。
実際には空に視線を向けているのではなく、二度と戻ることのない過去に向かって語りかけているのだろう。さくらは理性によらずそう直感した。
「三つの頃から⁉ だって、バレエって跳んだりはねたりするものでしょ? そんな小さい頃から習えるものなの⁉」
風噂は心底驚いた様子で言った。たしかに、さくらとしても三つの頃から習いごとをしていたなどと聞けば驚きはする。しかし、だからと言って、
「風噂! いちいち口を挟まないで。失礼でしょ」
さくらは風噂をたしなめた。と言うより、非難した。自分たちはなつみの身内でもなければ、友人ですらない。今日、会ったばかりの赤の他人。それなのに、プライヴェート――それも、おそらくはかなり深刻――な事柄について聞き出そうというのだ。それだけでもう充分に厚かましい。この上、礼を失するような真似はしないでほしい。
さくらはそう思ったが、なつみ自身は別に気にした様子もなかった。相変わらず空の向こうに視線を向けまま答えた。
「バレエだって最初から跳んだりはねたりするわけじゃないよ。幼児向けの教室もちゃんとあるから」
「へえ、そうなんだ。でも、いくら何でも三つの頃じゃあ、自分から習うってわけにいかないよね。親に習わされたの?」
気になったことがあれば問い質さずにいられないのは未来のジャーナリストとしての本能か。風噂はさくらが口を押さえる間もなくそうたたみかけた。
「習われた、って言うのとはちがうけど。あたしは覚えていないけど、立って歩けるようになった頃から音楽が鳴っているとすぐに踊り出す性格だったんだって。所構わずすぐに踊り出すものだから心配した親が医者に相談に行ったの。そうしたら『この子は病気ではありません。ダンサーなのです。ダンス教室に通わせてあげなさい』って言われたんだって」
「へえ」
「それで、ちょうど近くに幼児向けのバレエ教室があったからそこに通わせることにしたんだって。だから、バレエをはじめたのは実は偶然。近くにあったのがバレエ以外のダンス教室だったらそっちを習っていたわ」
あたし自身、思い切り踊れるならなんでもよかったし。
なつみはそう付け加えた。
「教室に通うようになってから毎日まいにちレッスンに明け暮れた。それこそ、一日何時間もね。その甲斐あってあたしはどんどん上達した。教室のなかでは別格だったし、小学校高学年にあがる頃にはちょっとは名前が知られるようになっていた。その頃にはトップダンサーの動画も見るようになっていた。動画のなかで世界のトップダンサーたちは信じられないようなすごい動きを見せていた。小学生のあたしにはそれこそ『ダンスの魔法使い』にしか見えなかった。その動画を見ているうちに思うようになったの。『あたしもこんな風になりたい』ってね」
「魔法使いに⁉」
風噂は目を丸くして叫んだ。
――いや、ちがうでしょ。
さくらは恥ずかしさのあまり、頬を赤く染め、うつむきながら心のなかでツッコんだ。
なつみもさすがに風噂のボケには感じるものがあったのだろう。苦笑めいた笑みをもらすと体ごと振り向いた。
「ちがうよ。こんなすごいダンサーになりたい。魔法にしか見えないバレエを踊れるようになって、世界一のエトワールになりたい。そう思うようになったってことだよ」
「あ、そういう意味」
と、風噂。腑に落ちた表情だった。
――当たり前でしょうが。
と、さくら。またも心のなかでツッコむ。口に出して言わないのはなつみに対する遠慮である。
なつみはつづけた。
「そうしてあたしはエトワール目指してバレエをつづけた。中学に入った頃にはコンクールに出れば優勝するのが当たり前になっていた。これでも『天才少女現る!』なんて騒がれたこともあったんだよ」
「すごいんだ」
さくらはそうとしか言えなかった。
なつみは『ふふ』と、さびしげに笑った。
「……昔の話だけどね。いまはもう」
「昔の話? なんで? 才能の限界?」
風噂が食い付くような勢いでたたみかける。さくらはもう限界。なつみに迫る風噂の頭をぶん殴った。風噂は思わず頭を抱えてしゃがみ込む。なつみは再びふたりに背を向け、空の彼方に視線を向けながら話をつづけた。
「才能の限界、か。それならあきらめもついたかもね。でも、ちがう。そうじゃない。あたしの才能は限界なんかじゃなかった。バレエに関してはあたしに勝てる同年代は日本中にひとりしかいなかった。中学の間、日本のバレエコンクールの優勝はあたしとその人とで分け合っているようなものだった。他の人が優勝するのは、あたしもその人も参加していなかった場合だけ。あたしたちが参加していればどちらかが必ず優勝していた。専門家の評価もどんどんあがっていった。『将来、必ず世界で活躍するようになる』って、太鼓判も押された。そして、中学三年の夏。そのためのチャンスをつかんだ」
「チャンス?」と、さくら。
「そう。ウィーンで開かれる若手バレエダンサーの登竜門と言われる国際的なコンクール。そこに参加することが決まったの」
「ウィーンって……オーストリア」
「そう。オーストリアは昔からバレエなんかで有名だから。中二のときには三ヶ月だけだけど短期留学もしていた」
「……本当に天才なんだ」
さくらはそう言うしかなかった。その横ではぶん殴られた痛みなどもはやすっかり忘れた風噂が、いまにも食い付かんばかりの様子で聞き入っている。
「でも……」
と、なつみ。その可愛らしい顔が沈痛な面持ちに沈んだ。
「コンクールのためのレッスン中、あたしは右膝を痛めた」
「膝を?」
「そう。最初はとくに気にしなかった。あたしたちにとって故障なんて当たり前だし、レッスンは遅れるけ、治りさえすれば取り戻す自信もあった。だから、脚以外の部分を鍛えながら膝が治るのをまった。でも……いつまでたっても膝の痛みはなくならなかった。そして、とうとう医者に言われた。『この膝ではもうバレエの激しい動きには耐えられない。バレエをつづけるのは無理だ』って」
「そんな……」
「ええっ~、そんなあっ!」
さくらの呟きを風噂の絶叫がかき消した。
「ひどいよ、そんなの、あんまりだよ! 世界目指して一所懸命レッスンしてきたんでしょ? それなのに、そのチャンスを目の前にして怪我でバレエ出来なくなるなんて……そんなの、ひどすぎるよ!」
風噂は叫びつづける。このときばかりは『未来のジャーナリス』であることを忘れ、なつみの運命を悲しんでいる。いや、怒っている。本質的にはきわめて善良な人間なのだ。
――傍迷惑なことにはかわりないけど。
とは、さくらの感想である。
「仕方ないよ。それが、あたしの運命だったんだから」
「運命って……それでいいの⁉」
「いいわけないでしょ!」
風噂の言葉に――。
なつみは叫んだ。
なつみがこんな風に感情をむき出しにして怒鳴るのははじめてのことだったので、さくらも風噂を言葉を失い、目を丸くして驚いた。なつみはそんなふたりを前に激しい感情の渦を叩き出した。
「泣いたよ! 死にたいぐらいだったよ! バレエに打ち込んで、打ち込んで、やっとここまできたのになんで……って、何度も呪ったよ! いまだってできることなら復帰したい、エトワール目指して思いきり舞台の上で踊りたい。そう思ってる。でも、しょうがないじゃない! あたしの膝は壊れちゃったんだもの。もう治らないんだもの。そういう運命だったんだからしょうがない。そう思うしかないじゃない!」
涙があふれ、肩で息をしている。その姿がいままでなつみがどれほど自分の感情を押し殺していたかを示していた。それでも、思い切り感情を吐き出して落ち着いたのだろう。涙を手で拭うと、静かに言った。
「……ゴメン。興奮しちゃった」
「……あ、いえ」
「……ううん」
さくらも、風噂も、言葉少なに言いながら首を横に振るしかなかった。
「……とにかく、あたしはもうバレエをつづけることは出来なくなった。特待生として入学することが決っていたここにも、普通科の生徒として通うことになった。もっとも、ショックのあまり、ずっと引きこもっちゃってたから今日までこれなかったんだけどね」
「……そうだったんだ」
――先生がわざわざふたりきりで話すわけだわ。
さくらはそう思った。
「でも、そんな様だったから親にも、まわりの人にもずいぶん心配させちゃったから。もういい加減、立ち直らなくっちゃって思って、今日から通うことにしたの」
「……そうだったんだ。なんか、ゴメンね。そんな大変なこと、無理やり聞き出すようなことしちゃって」
風噂もさすがに、気まずい思いをしたのだろう。指などをつつきながらそう言った。
なつみはかぶりを振った。
「いいのよ。隠すようなことじゃないし、深刻ぶっててもなにがかわるわけじゃないんだから。むしろ、全部話せてスッキリしたわ」
「うん、すごいよ。よくわかる。あたしも未来のジャーナリスト目指して頑張ってるもん。もし、あたしがジャーナリストになれない、なんてことになったら立ち直れないと思う。それなのに、ちゃんと立ち直って前を向こうだなんて本当にすごいよ」
風噂は熱心にそう語った。あまりの熱意になつみもふと苦笑したようだ。
「……ねえ、南沢さん」
それまでじっと考え込んでいたさくらが言った。
「『なつみ』って呼んで。その方が呼ばれ慣れてるから」
「あ、じゃあ、あたしも『さくら』で」
「あたしは風噂! 『風の噂』って書いて『ふうさ』。よろしくね!」
と、風噂は敬礼染みた仕種をしながら言った。
「ねえ、なつみ。あたしの兄さんに会ってみない?」
「あなたのお兄さん?」
いきなりの提案になつみはキョトンとした表情を浮かべた。さくらは力強くうなずいた。
「そう。兄さんならなんとかしてくれると思う」
「なんとかって……あなたのお兄さん、お医者なの?」
「医者じゃないわ。でも、問題解決の専門家なの。兄さんならきっと、あなたの問題も解決してくれる」
さくらは熱心にそう語った。
――こんなことはまちがっている。
さくらは痛切にそう思った。
幼い頃から世界的なバレエダンサーを目指し、努力してきた。そうなれるだけの才能もあった。しかも、そうなれる、少なくとも、そうなるためのチャンスをつかめる目前まできていた。それなのに、そこに来て怪我ですべて代なしになるなんて……。
そんなの理不尽すぎる。
あっちゃいけない。
子供っぽい思いだと言うことはわかっている。だけど、どうしようもなくそう思った。
以前のさくらならここまで思うことはなかっただろう。なにしろ、本気でなにかに打ち込んだことなどない身。世界を目指して努力をつづけると言うことがどういうことか、その夢が破れると言うことがどれほどのショックか、そんなことがわかるはずもない。
でも、いまのさくらはちがう。赤葉や白葉、ふぁいからりーふのメンバーたちが自分自身の夢のためにどれほど頑張っているか間近に見てきた。なつみもそれと同様に、いや、それ以上に必死の努力をつづけてきたにちがいない。そのすべてが怪我によってふいになってしまうなんて……。
――そんなの絶対、まちがってる! あっちゃいけない!
運命がそんなまちがいをしでかしたのなら人間の手で正さなければいけない。人間には無理でも藍条森也なら、あの『地球進化史上最強の知性』ならきっとなんとかできる。
してくれる。
さくらはそう信じた。
根拠なんてなにもないけど、とにかくそう信じた。
なつみはそんなさくらを厳しい視線で見つめた。
――解決してくれる、なんてずいぶんと簡単に言ってくれる。
そう思ったのだ。
――あたしがどれほどの思いでバレエに打ち込んできたか、もうバレエをつづけられないと知ってどんなにショックだったか、なにも知らないくせに。
「あたしの膝は治らない。何人もの医者からそう言われたんだよ? そのなかには世界的な外科医の先生もいた。それなのに、医者でもないあなたのお兄さんが治せるって言うの?」
「ちがうわ。たしかに医者でもない兄さんにあなたの膝が治せるはずがない。でも、兄さんならきっと、膝が治らないまま、あなたがバレエをつづけられる道を見つけ出してくれる」
「膝が治らないまま?」
「そう」
と、さくらは全身全霊を込めてうなずいた。
「兄さんなら……藍条森也ならきっと」
そう語るさくらの瞳の真剣さ。それはもはや『あたしの気も知らないくせに』などと言い捨てることの出来ないものだった。
「……わかった」
なつみは言った。
「会ってみるわ、あなたのお兄さんに。もし、わずかでもバレエをつづけられる可能性があるのなら……あたしはなんでもやる」
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
秘書と社長の秘密
廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。
突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。
ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる