31 / 48
第四話 空の星 海の星(中)
ステージ7 なつみの決意
しおりを挟む
「もう一度、ステージに立って踊ることができるなら……あたしはなんでもやる!」
そう言い切ったときの南沢なつみの表情。唇を真一文字に結び、挑むかのような目付きで森也を見るその表情。その表情を見れば誰であれ、思い知らされずにはいられない。
――これは止められない。
どう説得しようが、いかに情理を尽くそうが、なつみのダンスへの欲求をとどめることは出来ない。もう一度、ステージに立って踊るために悪魔との取り引きを行おうとも、それを止めることはできない。
このときのなつみを見た誰もがそう悟らずにはいられない。それだけの決意、いや『決意』という言葉でさえ生温い、存在そのものを懸けた表情だった。
そんな激情を秘めた少女が出会ったのが悪魔ではなく、藍条森也であったのは幸運だったのだろうか。もし、この世に『悪魔よりも始末に悪い人間』などという存在がいるとしたらそれは、まぎれもなく藍条森也のことなのだが。
その、悪魔よりも始末に悪い人間、必要とあらば悪魔よりも悪魔的な手段を平気で用いる人間は、少女の言葉にうなずいた。
「君の決意はわかった。では、まずは君の保護者との面会をセッティングしてくれ」
「保護者? 父さんと母さんのこと?」
「君が両親の保護下にあるならそう言うことになるな。君はまだ未成年だ。保護者の許可なしになにかをするわけにはいかない。まずは、きちんと保護者に会って説明し、理解して、納得してもらい、許可してもらわないとな。おれひとりで会いに行くわけじゃない。見ず知らずの男がいきなりやってきたって警戒するだけで、理解も、納得もするはずがないからな。ここにいるさくらと、そうだな。富士幕府の代表、それに、君の膝を管理することになる医師……」
「あたしの膝なら、前から見てもらっているお医者さんがいるけど……」
なつみは森也の言葉を遮り、そう告げた。
森也は気を悪くした風もなく答えた。
「富士幕府の一員として活動するならこちらの手配した医師の管理下にあった方がなにかと都合がいい。腕の方は心配しなくていい。技術だけは本気で世界一かも知れないやつだ。世界的にもその技術の高さで名が知れているし、君のかかりつけの医師も多分、その名を聞けば畏れ入って引きさがる」
「そんなにすごいお医者さんの知り合いがいるの?」
よほど、驚いたのだろう。なつみは敬語を使うのも忘れて、目をパチクリさせている。
驚いたのはさくらも同じ。そんな医師の知り合いがいるなんていままで聞いたことない。
――隠してた……わけじゃないよね。医師の知り合いがいるなんて話、いままでにする必要はなかったわけだし。
兄への不信が芽生えたわけではないが、意外なのはまちがいない。生まれつき社会性に欠け、他人と関わるのが面倒で仕方ないというこの男にそんな知り合いがいるなんて。
なつみの声に出しての疑問と、さくらの内心の驚き。その双方に答えるように森也は言った。
「言っただろう。おれはマンガ家だ。仕事柄、かわった知り合いは多いんだ」
「そういうものなの?」
さくらは内心で、なつみは声に出して、それぞれにそう思った。
「そう言うものさ。とくに、おれみたいな売れないマンガ家は汚れ仕事や妙な仕事が回されることも多いからな。その分、妙な知り合いは増えていく」
「世界的なお医者さんは、『妙な知り合い』とはちがうと思うけど」
なつみはそう言った。いちいち口に出してそう言うあたり、実はけっこうなツッコミ体質なのかも知れない。
「世界的な医者はたしかにちがうが『あいつ』は『妙な知り合い』なんだ。会えばわかるさ」
「はあ……」
なつみのツッコミに答えておいて森也はつづけた。
「ともかく、面会に行くのはおれとさくら、富士幕府将軍、それに、その医師と……そうだな。もうひとりぐらい連れて行くか。社会的なステータスのある常識人もひとりぐらいいないと信用されないからな。この五人で会いに行く。その旨、保護者に伝えて約束を取りつけておいてくれ」
「わかった」
と、なつみはうなずいた。
『仲間』という認識が芽生えたのか、いつの間にか敬語ではなくなっている。
森也は『念のために』と付け加えた。
「くれぐれも言っておくが、説得は君自身で行ってもらわなくてはならない。もちろん、おれたちや富士幕府の説明はするし、説得するための協力はする。しかし、説得するのはあくまでも君自身だ。君が保護者を説得し、納得させるんだ。こちらとしても重要なミッションの顔を任せるんだ。保護者の説得も出来ない無能に任せるわけにはいかないからな」
「わかった。絶対、説得してみせる」
そう語るなつみの表情は――。
――相手がうなずくまで絶対に折れないわね、これは。
と、さくらが『交渉するだけ時間の無駄』と悟ったとおりのものだった。
「けっこう。では、せっかく来てもらったんだ。君の膝についてひとつ、アドバイスしておこう」
「アドバイス?」
そう言われて、なつみは目をパチクリさせた。
「だって、あなた、医者じゃないんでしょう?」
「医者ではないが、たいていの分野で専門家と対話が出来るだけの情報は持ち合わせている。なかには、当たり前すぎて専門家では気付かなかったり、見落としていたりする情報もある。と言うわけで、まずは立って、歩いてみてくれ」
「はっ?」
「言葉で説明されて納得できることじゃない。実際に体験してもらうしかない。とにかく、立って、歩いてみてくれ。さくら、お前もだ」
「あ、うん」
さくらは言われるままに立ちあがった。なつみもそれにつられるように立ちあがった。ふたりの少女は並んで部屋のなかを歩きだした。
「けっこう。では、今度は靴と靴下を脱いで裸足で歩いてくれ」
「裸足で……?」
なつみが眉をひそめた。表情に警戒の色が浮かんでいる。
「別に生足が見たいわけじゃない。実際に、裸足で歩いて体験してもらわないとわからないことなんだ。とにかく、靴と靴下を脱いで裸足で歩いてくれ」
重ねて言われてさくらは靴と靴下を脱ぎはじめた。なつみの方は不信感を感じている様子だったが、さくらが脱ぎはじめたのを見て自分も脱ぎはじめた。やはり、このあたりは相手に対する信頼度のちがいが出る。
そして、ふたりの少女は裸足で歩きだした。ほどなくして――。
「あっ……」
ふたりとも、小さく声をあげた。
「気付いたか?」と、森也。
「あ、うん……」
「歩き方が……ちがう」
さくらがうなずき、なつみが呟いた。
森也はふたりに尋ねた。
「どうちがう?」
「靴を履いていたときは踵から床につけていたのに、裸足で歩くと足の真ん中あたりから床につけている」
「あたしもそう」
さくらの言葉になつみもうなずいた。
「いままで意識したことなんてなかったけど……なんで、靴を履いているときといないときとで歩き方が勝手にかわるの?」
「そう。それが経験してもらいたかったことだ。人間は靴を履いているかどうかで歩き方がかわる。そして、もちろん、靴を履いていないときの歩き方が人間本来の自然な歩き方だ」
「どういうこと?」
「この本を読んで知ったんだがな」
事前に用意しておいたのだろう。森也は一冊の分厚いハードカバー本を取り出した。タイトルは、
『BORN TO RUN 走るために生まれた』
――あ、これ、兄さんがトレイルランをはじめるきっかけになった本だ。
さくらはそのことを思い出した。
以前、森也に野山を走るトレイルランに誘われたとき、そう説明された。
『読むと走りたくなる困った本』というふれこみなんだがな。読んだら本当に走りたくなった、と。
それ以来、時間のあるときにはふたり一緒に自然の野山のなかを走っている。
「ダンスではなく、走ることに関する本なんだがな。足の故障についても解説されている。陸上選手の大半が足の故障を抱えている。その理由はなんと靴、とのことだ」
「靴?」
「そう。靴だ。まず、人間の足の構造から説明しておく。人間の足――この場合は地面に接地する部分のことだが――着地の際の衝撃に耐えられるのは足のほぼ中央、土踏まずの上にある肉の盛りあがった部分だけだ。踵は肉が薄いので踵から着地すると衝撃がもろに伝わる。だから、裸足で歩いている場合、人間は本能的に足の真ん中で着地する。踵から着地したりはしない。ところが――」
森也はいったん、言葉を切ってからつづけた。
「「靴という『緩衝材』を履くことで、踵から地面に着地できるようになる。これが故障の原因だと言うんだ。靴という緩衝材があってなお、肉が薄く、衝撃が直に骨に伝わる踵から着地していたのでは着地の衝撃は吸収しきれない。にもかかわらず、靴を履くことで踵から着地するようになってしまう。それが足を痛める原因となる」
「そ、そうなんだ……」
はじめて聞いた、と、なつみの表情がそう語っていた。
「それにもうひとつ。踵から着地することには重大な問題がある。意識して踵から着地する歩き方をしてみろ。足、脚部全体にどんな感覚があるかを確かめながらな」
言われてさくらとなつみはそろって歩きだした。再び――。
「ふたりそろって小さく声をあげた。
「気付いたか?」と、森也。
「う、うん……」
「膝関節に……逆方向への力がかかっている」
ふたりの言葉に――。
森也はうなずいた。
「そう。それが踵から着地することの重大問題のひとつだ。踵から着地する場合、膝がまっすぐに伸びた状態で着地することになる。すると、踵が着地するたびに膝関節に逆方向への力が加わることになる。歩くたび膝関節が逆に曲げられるんだ。歩くたびにそんなことになっていたらどうなると思う? 当然、膝関節はどんどん壊れていく。踵から着地するのはわざわざ足を壊すために歩いているようなものだ。対して、足の真ん中で着地するとどうなるか。これも、実際に試してみろ」
言われてふたりは再び歩きだした。
さくらはもちろん、なつみもすでに森也の言葉を信用するようになっているので不審がることはなかった。
「どうだ? ちがいがわかる?」
「う、うん」
「膝が……曲がってる」
「そう。足の真ん中から着地すると自然と膝が曲がった状態で着地する。関節に逆方向への力が加わることがないから、歩くたびの負担はずっと少なくなる。膝を守るためには重大な要素だが、すでに膝を痛めている人間には特に重要だ」
「たしかに」
と、なつみは真剣な面持ちでうなずいた。
「さらにもうひとつ、足の真ん中で立つことには重要な理由がある」
「なに?」
と、なつみ。いつの間にか、自分から尋ねるようになっている。
「これは、歩くときと言うより、立っているときの問題なんだが、踵や爪先に体重を乗せるとその方向に重心が移る。つまり、踵で立っていると重心が後ろに移り、爪先で立っていると重心が前に移る、と言うことだ。そして、筋肉というものは使いすぎれば衰えるし、使わなすぎれば弱っていく。そして、重心が前後に移ると言うことは足の筋肉への負担がかわると言うことだ。
重心が前に移れば足の前面の筋肉への負担が大きくなり、後ろ側への負担は少なくなる。重心が後ろに移れば、それとは逆に足の後ろ側の筋肉に多くの負担がかかり、前の筋肉は負担が少なくなる。その結果、負担の大きい側の筋肉は使われすぎて衰え、負担の少ない側の筋肉は使われなさ過ぎて弱っていく。
そうして、足は壊れていく。足の真ん中に体重を乗せて、まっすぐ立つことで足の筋肉に均等に負荷をかけることが出来る。使われすぎず、使われなさ過ぎず、適度な負荷をかけることができるわけだ。その体勢を維持していればそれだけで足は鍛えられていく。そのためにも、日頃からきちんと足の真ん中で立つ癖をつけておくことだ」
「うん、ありがとう、お兄さん! こんなこと、はじめて知った。お医者さんもコーチも教えてくれなかった」
「まあ、こういう基本的すぎることは専門家は逆に気がつかないものだからな。その本は預けておく。足の故障に関して参考になるはずだ。よく読んでおくといい」
「うん、ありがとう!」
そして、なつみは帰っていった。両親との面会をセッティングすることを約束して。
「……さて。それでは、こちらも声をかけておかないといけないわけだが」
はああ、と、森也は深いふかい溜め息をついた。
「な、なに、兄さん。その『嫌でいやで仕方がない』って言う感じの溜め息は」
さくらが思わずそう尋ねるぐらい、憂鬱感たっぷりの溜め息だった。
「……正直、あいつに声をかけるのは気が重い」
「あいつ?」
「例の『技術だけはある』医師だ」
「ああ、世界的に有名だって言う。そんなお医者さんを紹介してもらえるならありがたいと思うけど……」
「普通ならな。しかし、あいつは『技術はある』が『技術だけしかない』医師でもある。というより、単なる人体の修理屋だ。医者じゃない。とくに、年頃の娘をもった親なら絶対、娘には会わせたくないと思うやつだ」
「ど、どういう人なの?」
「会えばわかるさ。実のところ、お前とも会わせたくない。だから、いままで黙っていたんだが……『技術だけならBJ』だからなあ、あいつは」
そう言い切ったときの南沢なつみの表情。唇を真一文字に結び、挑むかのような目付きで森也を見るその表情。その表情を見れば誰であれ、思い知らされずにはいられない。
――これは止められない。
どう説得しようが、いかに情理を尽くそうが、なつみのダンスへの欲求をとどめることは出来ない。もう一度、ステージに立って踊るために悪魔との取り引きを行おうとも、それを止めることはできない。
このときのなつみを見た誰もがそう悟らずにはいられない。それだけの決意、いや『決意』という言葉でさえ生温い、存在そのものを懸けた表情だった。
そんな激情を秘めた少女が出会ったのが悪魔ではなく、藍条森也であったのは幸運だったのだろうか。もし、この世に『悪魔よりも始末に悪い人間』などという存在がいるとしたらそれは、まぎれもなく藍条森也のことなのだが。
その、悪魔よりも始末に悪い人間、必要とあらば悪魔よりも悪魔的な手段を平気で用いる人間は、少女の言葉にうなずいた。
「君の決意はわかった。では、まずは君の保護者との面会をセッティングしてくれ」
「保護者? 父さんと母さんのこと?」
「君が両親の保護下にあるならそう言うことになるな。君はまだ未成年だ。保護者の許可なしになにかをするわけにはいかない。まずは、きちんと保護者に会って説明し、理解して、納得してもらい、許可してもらわないとな。おれひとりで会いに行くわけじゃない。見ず知らずの男がいきなりやってきたって警戒するだけで、理解も、納得もするはずがないからな。ここにいるさくらと、そうだな。富士幕府の代表、それに、君の膝を管理することになる医師……」
「あたしの膝なら、前から見てもらっているお医者さんがいるけど……」
なつみは森也の言葉を遮り、そう告げた。
森也は気を悪くした風もなく答えた。
「富士幕府の一員として活動するならこちらの手配した医師の管理下にあった方がなにかと都合がいい。腕の方は心配しなくていい。技術だけは本気で世界一かも知れないやつだ。世界的にもその技術の高さで名が知れているし、君のかかりつけの医師も多分、その名を聞けば畏れ入って引きさがる」
「そんなにすごいお医者さんの知り合いがいるの?」
よほど、驚いたのだろう。なつみは敬語を使うのも忘れて、目をパチクリさせている。
驚いたのはさくらも同じ。そんな医師の知り合いがいるなんていままで聞いたことない。
――隠してた……わけじゃないよね。医師の知り合いがいるなんて話、いままでにする必要はなかったわけだし。
兄への不信が芽生えたわけではないが、意外なのはまちがいない。生まれつき社会性に欠け、他人と関わるのが面倒で仕方ないというこの男にそんな知り合いがいるなんて。
なつみの声に出しての疑問と、さくらの内心の驚き。その双方に答えるように森也は言った。
「言っただろう。おれはマンガ家だ。仕事柄、かわった知り合いは多いんだ」
「そういうものなの?」
さくらは内心で、なつみは声に出して、それぞれにそう思った。
「そう言うものさ。とくに、おれみたいな売れないマンガ家は汚れ仕事や妙な仕事が回されることも多いからな。その分、妙な知り合いは増えていく」
「世界的なお医者さんは、『妙な知り合い』とはちがうと思うけど」
なつみはそう言った。いちいち口に出してそう言うあたり、実はけっこうなツッコミ体質なのかも知れない。
「世界的な医者はたしかにちがうが『あいつ』は『妙な知り合い』なんだ。会えばわかるさ」
「はあ……」
なつみのツッコミに答えておいて森也はつづけた。
「ともかく、面会に行くのはおれとさくら、富士幕府将軍、それに、その医師と……そうだな。もうひとりぐらい連れて行くか。社会的なステータスのある常識人もひとりぐらいいないと信用されないからな。この五人で会いに行く。その旨、保護者に伝えて約束を取りつけておいてくれ」
「わかった」
と、なつみはうなずいた。
『仲間』という認識が芽生えたのか、いつの間にか敬語ではなくなっている。
森也は『念のために』と付け加えた。
「くれぐれも言っておくが、説得は君自身で行ってもらわなくてはならない。もちろん、おれたちや富士幕府の説明はするし、説得するための協力はする。しかし、説得するのはあくまでも君自身だ。君が保護者を説得し、納得させるんだ。こちらとしても重要なミッションの顔を任せるんだ。保護者の説得も出来ない無能に任せるわけにはいかないからな」
「わかった。絶対、説得してみせる」
そう語るなつみの表情は――。
――相手がうなずくまで絶対に折れないわね、これは。
と、さくらが『交渉するだけ時間の無駄』と悟ったとおりのものだった。
「けっこう。では、せっかく来てもらったんだ。君の膝についてひとつ、アドバイスしておこう」
「アドバイス?」
そう言われて、なつみは目をパチクリさせた。
「だって、あなた、医者じゃないんでしょう?」
「医者ではないが、たいていの分野で専門家と対話が出来るだけの情報は持ち合わせている。なかには、当たり前すぎて専門家では気付かなかったり、見落としていたりする情報もある。と言うわけで、まずは立って、歩いてみてくれ」
「はっ?」
「言葉で説明されて納得できることじゃない。実際に体験してもらうしかない。とにかく、立って、歩いてみてくれ。さくら、お前もだ」
「あ、うん」
さくらは言われるままに立ちあがった。なつみもそれにつられるように立ちあがった。ふたりの少女は並んで部屋のなかを歩きだした。
「けっこう。では、今度は靴と靴下を脱いで裸足で歩いてくれ」
「裸足で……?」
なつみが眉をひそめた。表情に警戒の色が浮かんでいる。
「別に生足が見たいわけじゃない。実際に、裸足で歩いて体験してもらわないとわからないことなんだ。とにかく、靴と靴下を脱いで裸足で歩いてくれ」
重ねて言われてさくらは靴と靴下を脱ぎはじめた。なつみの方は不信感を感じている様子だったが、さくらが脱ぎはじめたのを見て自分も脱ぎはじめた。やはり、このあたりは相手に対する信頼度のちがいが出る。
そして、ふたりの少女は裸足で歩きだした。ほどなくして――。
「あっ……」
ふたりとも、小さく声をあげた。
「気付いたか?」と、森也。
「あ、うん……」
「歩き方が……ちがう」
さくらがうなずき、なつみが呟いた。
森也はふたりに尋ねた。
「どうちがう?」
「靴を履いていたときは踵から床につけていたのに、裸足で歩くと足の真ん中あたりから床につけている」
「あたしもそう」
さくらの言葉になつみもうなずいた。
「いままで意識したことなんてなかったけど……なんで、靴を履いているときといないときとで歩き方が勝手にかわるの?」
「そう。それが経験してもらいたかったことだ。人間は靴を履いているかどうかで歩き方がかわる。そして、もちろん、靴を履いていないときの歩き方が人間本来の自然な歩き方だ」
「どういうこと?」
「この本を読んで知ったんだがな」
事前に用意しておいたのだろう。森也は一冊の分厚いハードカバー本を取り出した。タイトルは、
『BORN TO RUN 走るために生まれた』
――あ、これ、兄さんがトレイルランをはじめるきっかけになった本だ。
さくらはそのことを思い出した。
以前、森也に野山を走るトレイルランに誘われたとき、そう説明された。
『読むと走りたくなる困った本』というふれこみなんだがな。読んだら本当に走りたくなった、と。
それ以来、時間のあるときにはふたり一緒に自然の野山のなかを走っている。
「ダンスではなく、走ることに関する本なんだがな。足の故障についても解説されている。陸上選手の大半が足の故障を抱えている。その理由はなんと靴、とのことだ」
「靴?」
「そう。靴だ。まず、人間の足の構造から説明しておく。人間の足――この場合は地面に接地する部分のことだが――着地の際の衝撃に耐えられるのは足のほぼ中央、土踏まずの上にある肉の盛りあがった部分だけだ。踵は肉が薄いので踵から着地すると衝撃がもろに伝わる。だから、裸足で歩いている場合、人間は本能的に足の真ん中で着地する。踵から着地したりはしない。ところが――」
森也はいったん、言葉を切ってからつづけた。
「「靴という『緩衝材』を履くことで、踵から地面に着地できるようになる。これが故障の原因だと言うんだ。靴という緩衝材があってなお、肉が薄く、衝撃が直に骨に伝わる踵から着地していたのでは着地の衝撃は吸収しきれない。にもかかわらず、靴を履くことで踵から着地するようになってしまう。それが足を痛める原因となる」
「そ、そうなんだ……」
はじめて聞いた、と、なつみの表情がそう語っていた。
「それにもうひとつ。踵から着地することには重大な問題がある。意識して踵から着地する歩き方をしてみろ。足、脚部全体にどんな感覚があるかを確かめながらな」
言われてさくらとなつみはそろって歩きだした。再び――。
「ふたりそろって小さく声をあげた。
「気付いたか?」と、森也。
「う、うん……」
「膝関節に……逆方向への力がかかっている」
ふたりの言葉に――。
森也はうなずいた。
「そう。それが踵から着地することの重大問題のひとつだ。踵から着地する場合、膝がまっすぐに伸びた状態で着地することになる。すると、踵が着地するたびに膝関節に逆方向への力が加わることになる。歩くたび膝関節が逆に曲げられるんだ。歩くたびにそんなことになっていたらどうなると思う? 当然、膝関節はどんどん壊れていく。踵から着地するのはわざわざ足を壊すために歩いているようなものだ。対して、足の真ん中で着地するとどうなるか。これも、実際に試してみろ」
言われてふたりは再び歩きだした。
さくらはもちろん、なつみもすでに森也の言葉を信用するようになっているので不審がることはなかった。
「どうだ? ちがいがわかる?」
「う、うん」
「膝が……曲がってる」
「そう。足の真ん中から着地すると自然と膝が曲がった状態で着地する。関節に逆方向への力が加わることがないから、歩くたびの負担はずっと少なくなる。膝を守るためには重大な要素だが、すでに膝を痛めている人間には特に重要だ」
「たしかに」
と、なつみは真剣な面持ちでうなずいた。
「さらにもうひとつ、足の真ん中で立つことには重要な理由がある」
「なに?」
と、なつみ。いつの間にか、自分から尋ねるようになっている。
「これは、歩くときと言うより、立っているときの問題なんだが、踵や爪先に体重を乗せるとその方向に重心が移る。つまり、踵で立っていると重心が後ろに移り、爪先で立っていると重心が前に移る、と言うことだ。そして、筋肉というものは使いすぎれば衰えるし、使わなすぎれば弱っていく。そして、重心が前後に移ると言うことは足の筋肉への負担がかわると言うことだ。
重心が前に移れば足の前面の筋肉への負担が大きくなり、後ろ側への負担は少なくなる。重心が後ろに移れば、それとは逆に足の後ろ側の筋肉に多くの負担がかかり、前の筋肉は負担が少なくなる。その結果、負担の大きい側の筋肉は使われすぎて衰え、負担の少ない側の筋肉は使われなさ過ぎて弱っていく。
そうして、足は壊れていく。足の真ん中に体重を乗せて、まっすぐ立つことで足の筋肉に均等に負荷をかけることが出来る。使われすぎず、使われなさ過ぎず、適度な負荷をかけることができるわけだ。その体勢を維持していればそれだけで足は鍛えられていく。そのためにも、日頃からきちんと足の真ん中で立つ癖をつけておくことだ」
「うん、ありがとう、お兄さん! こんなこと、はじめて知った。お医者さんもコーチも教えてくれなかった」
「まあ、こういう基本的すぎることは専門家は逆に気がつかないものだからな。その本は預けておく。足の故障に関して参考になるはずだ。よく読んでおくといい」
「うん、ありがとう!」
そして、なつみは帰っていった。両親との面会をセッティングすることを約束して。
「……さて。それでは、こちらも声をかけておかないといけないわけだが」
はああ、と、森也は深いふかい溜め息をついた。
「な、なに、兄さん。その『嫌でいやで仕方がない』って言う感じの溜め息は」
さくらが思わずそう尋ねるぐらい、憂鬱感たっぷりの溜め息だった。
「……正直、あいつに声をかけるのは気が重い」
「あいつ?」
「例の『技術だけはある』医師だ」
「ああ、世界的に有名だって言う。そんなお医者さんを紹介してもらえるならありがたいと思うけど……」
「普通ならな。しかし、あいつは『技術はある』が『技術だけしかない』医師でもある。というより、単なる人体の修理屋だ。医者じゃない。とくに、年頃の娘をもった親なら絶対、娘には会わせたくないと思うやつだ」
「ど、どういう人なの?」
「会えばわかるさ。実のところ、お前とも会わせたくない。だから、いままで黙っていたんだが……『技術だけならBJ』だからなあ、あいつは」
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
秘書と社長の秘密
廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。
突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。
ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる