劇場の闇に潜む怪人は、機械仕掛けの歌姫に愛を捧げる

藍条森也

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一章

美しき若き歌姫

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 オペラ座ノワールの舞台の上に若く、伸びやかな歌声が響いておりました。
 霧と怪奇の都においてもっとも旧く、もっとも格式高く、そして、最も優れた才能が集う場所。都市のなかのみならず、都市の外の世界においても『その舞台に立つことがすべての歌姫の夢であり目標』とまで言われるレビュー界の最高峰。この世界で生きようと思う人間なら誰でも、一度はその舞台に立ちたいと望み、訪れ、それでも、夢を叶えて舞台に立つことができるのはほんの一握り。そんな劇場の舞台にいま、一七歳の少女がひとり立ち、唄い、踊っているのでした。
 開演前の稽古の時間のことでありました。
 開演前の稽古の時間と申しましても、毎日まいにち新しい才能が訪れ、旧い才能と鎬を削るこのオペラ座ノワールにおいて、ただひとり舞台に立ち、レビューを披露することを許されるなど尋常なことではありません。それはひとえに本人の才能と劇場側の期待。その双方が並々ならぬものであることを示すものでありました。
 そして、たしかに、舞台に立つ少女の歌と舞とはその双方の条件を満たすのにふさわしいものであったのです。
 舞台に立つ少女の名前はクリス。
 霧と怪奇の都を彩る伝説のひとつ、『劇場の闇に潜む怪人と機械仕掛けの歌姫』の主人公。本人はいまだ、自分の数奇なる運命を知ることもなく、舞台の上でひとり、伸びやかな歌声を披露しているのでありました。
 やがて、たったひとりのレビューが終わりを告げました。少女は輝く汗を身にまとい、舞台の上で優雅に一礼します。観客席から小太りの壮年の男性が立ちあがり、あらん限りの拍手を送ります。
 「素晴らしい! 素晴らしいレビューだ、クリス嬢」
 高らかに両手を打ち鳴らし、賛辞を送るのはモンシャルマン。オペラ座ノワールの当代の支配人。ダイヤの原石のような若き歌姫がいる。その噂を聞きつけ、自らの目と耳でその真偽を確かめるべく、若き歌姫にレビューを命じたかの人はいま、その噂が本物、いえ、噂以上のものであることを確信し、興奮のるつぼにあったのでした。
 「素晴らしい、素晴らしいよ、クリス嬢。さすがは伝説の歌姫クリスチーヌのひ孫、あの厳しいテオドラ主任が才能を見出し、ごり押しで入会させたと言うだけのことはある」
 「ありがとうございます」
 支配人の無邪気なまでの賛辞に、若き歌姫はニッコリと微笑んで礼を述べました。
 輝く汗を浮かべながら微笑むその姿の何と魅力的なことであったでしょう。その姿を一目見るだけで誰もが恋に落ちずにはいられない。そんな、セイレーンの伝説もかくやというほどの魅力に満ちているのでありました。
 「あたしは『人魚姫』の物語が好きなんです。いつか、このオペラ座ノワールの舞台の上で『人魚姫』を演じたい。そう思ってやってきました」
 「うんうん、君ならきっと演じられるとも。我が劇場は才能と野心を持つものには支援を惜しまない。望むものがあれば何なりと言うといい」
 「ありがとうございます」
 「それにしても『人魚姫』か。時代を超えて愛される悲恋物語の代表。君ならさぞ素晴らしい人魚姫を演じることができるだろう」
 「いえ、『人魚姫』は悲恋物語では……」
 大胆にも一介の歌姫が支配人の言葉に反論しようとしたそのときです。
 「クリス」
 その場の雰囲気を一変させる声が響きました。
 それは決して大きくはなく、荒くもない。それでいて、威圧感に満ちあふれ、一切の口答えを許さない威厳に満ちておりました。もし、生まれついての女教師が千年の間修練を積み、威厳と厳格さに磨きをかけつづけた結果、身についた声、などというものがあるとしたら、それはまさにこの声でした。
 若いクリス嬢のみならず、壮年の男性たる支配人までその声に怯え、居住まいを正したようでした。その場の雰囲気を一変させて現れたのはひとりの女性。その名はテオドラ。オペラ座ノワールの主任講師。すでに八〇を超える高齢でありながら、その肉体は老いることを知らないかのよう。背筋はピシッと伸び、ヤナギの木のような強さとしなやかさとを感じさせます。
 テオドラはクリス嬢に近づきました。『女教師』というイメージそのままの態度と声で詰問しました。
 「どういうこと? 勝手にひとりでレビューしているなんて。わたしはそんなことは指示していませんよ」
 「それは……」
 「あ、いやいや、テオドラ主任、これは私の言ったことでね……」
 テオドラの一睨みですくみ上がった少女を見て放っておけなくなったのでしょう。支配人であるモンシャルマンはクリス嬢をかばうように一歩、前に踏み出しました。
 「前途有望な若手がいると聞いたのでね。ぜひ、この目と耳で確かめてみたくなったのだよ」
 じろり、と、テオドラは支配人を睨み付けました。それだけで支配人は喧嘩に負けた子イヌのように尻尾を巻いてすくみ上がりました。いくら支配人とは言え、かの人の生まれるずっと前からオペラ座ノワールに君臨してきた女帝とも言うべき人物が相手ではさすがに分が悪いというもの。逃げ出さなかっただけ立派というものであったでしょう。
 「支配人の指示だと言うのならまあ、いいでしょう。でも、あのレビューは何? まるで、なっていないわ」
 「そ、そんなことはないだろう。歌も踊りも実に見事なものだったじゃないか」
 支配人が気まずそうに、それでもはっきりとそう言ってのけたのは見上げた勇気と言うべきだったでしょう。『女教師』という存在の前では、殿方は決まって借りてきたポチに成り下がるものですから。
 じろり、と、テオドラはもう一度、支配人を睨みました。支配人はたちまち首をすくめました。テオドラはそれからクリス嬢に目を移しました。女教師特有の厳格さで責め立てます。
 「あの勝手な歌とダンスは何? わたしの教えたことがまるで身についてないではないの」
 「でも、先生。あたしは……」
 テオドラは最後まで言わせませんでした。クリス嬢の腕をつかむと、引きずりはじめました。八〇過ぎの老嬢とはとても思えない万力のような力が、若き歌姫を引きずっていきます。
 「来なさい。稽古のやり直しよ」
 テオドラはそう言いながらクリス嬢を引きずり、舞台を後にしました。
 ふたりの姿が消えると途端に、呪縛が解けたかのようにその場にいた歌姫たちがささやきはじめました。
 「何よ、クリスのやつ。またテオドラ先生からのマンツーマン指導?」
 「えこひいきにもほどがあるわよね」
 「まったくだわ。テオドラ先生の若い頃のライバルで親友だった歌姫のひ孫だかなんだか知らないけどさ。ここに来るまで何の実績もなかったんでしょう? あたしたちは皆、他の劇場で実績を作って入り込んだって言うのに、こんな特別扱いされたらたまったものじゃないわ」
 「でも、あの子、たしかにこの一年でとんでもなく成長したわ。くやしいけど才能という点ではずば抜けているわ」
 「そうね。先生が特別扱いするのも分かるわ」
 「何言ってるの。あれだけ徹底したマンツーマン指導されたらそりゃ成長するわよ。あたしだってあそこまでやってくれたら……」
 「先生のマンツーマン指導もだけど……知ってる? クリスの急成長の裏には実は『オペラ座の怪人』がいるって言う噂」
 「オペラ座の怪人?」
 「あ、聞いたことあるわ。ドクロ顔の怪人でしょう?」
 「そう、それ。そのドクロ顔の怪人がクリスに取り憑いていて、レビューの稽古を付けているんですって」
 「だから、オペラ座の怪人……」
 「それだけじゃないのよ。その怪人の正体なんだけど……実はドリアン・グレイだって噂があるのよ」
 「ドリアン・グレイ? クリスの彼氏だった、あの?」
 「でも、ドリアン・グレイは死んだはずでしょう? 確か、アパートの部屋で殺されて……」
 「そう。犯人はまだ捕まっていないんだけどね。自分のアパートの部屋で惨殺死体で発見されたのよ。しかもね……死体からは脳が抜き取られていたんですって」
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