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四章

史上最高の歌姫

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 「クリスチーヌって人、知ってます?」
 クリス嬢はやや唐突にそう問いかけました。ジャックは思わず目をパチクリさせながら問い返しました。
 「クリスチーヌ?」
 「知らないでしょうね。もう七〇年以上も前に失踪した人ですから」
 「失踪?」
 ギラリ、と、ジャックの目がきらめきました。七〇年以上前だろうとなんだろうと『事件』と聞けば血が騒ぐのが刑事の本能。生まれついての猟犬は事件の匂いに本能を刺激され、愛らしい少女相手に鼻の下を伸ばすけしからん男から、たちまち本来の刑事の姿に戻ったのでございます。
 「……当時はまだ一〇代で、それでも、ものすごく評価されていて、オペラ座ノワールを代表する歌姫だったそうです。いずれは史上最高と呼ばれる歌姫になる。そうとまで評されていたそうです」
 「で、そのクリスチーヌ嬢が何か?」
 「あたしの曾祖母なんだそうです」
 「あんたの⁉」
 「はい。あたし自身、テオドラ先生に教えてもらうまで知りませんでしたけど……」
 「テオドラ先生?」
 「オペラ座ノワールの主任講師です。ひいおばあちゃん……クリスチーヌが失踪するまでは人気と評価を二分していた天才歌姫だった人です。ひいおばあちゃんが失踪してからは一線を退き、後進の育成に当たるようになったそうですけど……」
 もう八〇過ぎなのにメチャクチャ元気で怖い先生なんですよ。
 クリス嬢はややおかしそうに苦笑しながらそう付け加えました。
 「あたしはそのテオドラ先生に見出されたんです。田舎で趣味で唄っていただけのあたしの所にある日突然、テオドラ先生がやってきて『あなたはクリスチーヌのひ孫。オペラ座ノワールにおいでなさい』って」
 「なるほど」
 ジャックはとくに答えることもなかったので、とりあえず適当に相づちを打ちました。クリス嬢は『ほう』と、溜め息をつきました。
 「シンデレラ並みの幸運なのは分かっています。ただの田舎娘に過ぎなかったあたしが、世界一流の歌姫の集まるオペラ座ノワールの一員になれた。テオドラ先生の指導も厳しいけど、そのおかげで以前とは比べものにならないほど歌も踊りも上達した。でも……」
 クリス嬢はそこまで言うと愛らしい顔を曇らせました。それは、殿方であれば誰であれ『守ってあげたい』と思うような表情でありました。もちろん、暴れん坊ジャックと言えど例外ではありません。思わず、抱きしめてやりたい衝動に駆られたほどです。『刑事』という立場がなければそうしていたことでしょう。
 ――まてまてまて! いきなり、そんなことしたらセクハラだぞ。おれは刑事だ。そんなことできるわけねえだろ!
 自分自身にそう言い聞かせつつ、こっそり足などをつねって必死にこらえたのでありました。
 そんなジャックの苦労も知らず、クリス嬢は男殺しの表情のままつづけました。
 「……オペラ座ノワールにいる限り、あたしは『クリスチーヌのひ孫』として見られます。テオドラ先生にひいきされていることも。このままテオドラ先生の元にいればあたしはきっと、主演として舞台に立つことができるようになるでしょう。でも、それは、あたしの望む姿じゃない。あたしは誰かにひいきされて押し上げてもらうんじゃなく、自分の力で登りつめたいんです」
 その言葉に――。
 ジャックはマジマジとクリス嬢を見つめました。大きく膝を叩くと、大声で叫びました。
 「偉い!」
 「えっ?」
 今度はクリス嬢が目をパチクリさせる番でした。ジャックのあまりの勢いに愛らしい顔がすっかり驚きの表情になっています。
 「人間、そうでなくっちゃ行けねえ! 他人におぶってもらうんじゃねえ、自分の足で歩いて行かなくちゃな。あんたは偉い。あんたは立派だ。あんたならきっと自分の望みを叶えられる。誰にひいきされなくても立派に一流の歌姫になれる。おれが保証する」
 パン、と、ジャックは自分の足を叩きながら断言しました。『素人の保証に何の意味があるんだ?』というのは……この際、禁句でありましょう。
 クリス嬢はしばらくの間マジマジとジャックを見つめておりました。それから、ニッコリと微笑みました。
 「ありがとう、ジャックさん」
 愛らしい少女に名前を呼ばれてジャックは顔中、真っ赤にしました。何と言うことでしょう。都市中に強面で知られるかの暴れん坊ジャックがこんなにも照れまくるとは。警察署内の人間たちに見られていないのは幸いでした。もし、見られていれば一生、ネタにされ、警察署長としての権威も何もなくなっていたことでしょうから。
 「ふふ」と、クリス嬢はジャックを見つめながら微笑みました。
 「な、なにか?」
 「いえ、ジャックさんっていい人だったんだなって」
 「い、いい人……?」
 「『暴れん坊ジャック』なんて呼ばれている人だから、きっと怖い人なんだろうなって思っていたんです。でも、とっても優しいし、気さくだし」
 川で踊っているのを、溺れていると勘違いして飛び込んじゃうなんていうお茶目なところもあるし。
 クリス嬢はおかしそうに笑いながらそう付け加えました。
 ジャックは途端に背筋を伸ばすとトレードマークの帽子を胸に当て、大仰なぐらい真面目くさって答えました。
 「何の! 市民を守ることこそ警察の務め! 無駄骨で終わってくれればこれほど喜ばしいことはありません。何度、勘違いしようとも、自分は川に飛び込みます!」
 その宣言に――。
 クリス嬢は一度、大きく目を見開いたあと、優しく微笑みました。男性という男性の心すべてを溶かすような、そんな魅惑的な笑顔でありました。
 「ありがとうございます。こんな頼もしい警察署長さんがいてくれれば、あたしたちの暮らしは安泰ですね」
 おお、何と言うことでしょう。暴れん坊ジャックの尻から頭へと巨大な感動の津波が突き抜けました。実際、ジャックがこんなに感動したことは生まれてはじめてのことだったかも知れません。死刑権解放同盟の都市たる霧と怪奇の都。警察と言えば『犯罪応援団』とまで言われ、邪魔扱いされる日々。それなのに、こんな優しい言葉をかけてもらえるなんて……。
 ジャックは感動のあまり号泣し、クリス嬢を抱きしめそうになりました。危うく性犯罪者のできあがりです。それを寸前で防いでくれたのはひとつの声、『厳格』という器のなかに『無慈悲』という名の酒を注ぎ、一〇〇年もの時間をかけて熟成させたかのような、『厳しい女教師の見本』とも言うべき声でありました。
 「クリス!」
 その声は都市の闇のなかを雷鳴のように響き渡り、その場を凍り付かせました。
 「何をしているの、こんなところで。早く帰って休むよう言ったでしょう」
 「せ、先生……」
 突如として現れたその女性に向かい、クリス嬢は引きつった声をあげました。
 八〇過ぎの老齢でありながら背筋はピンと伸び、足元にはよろめく様子など微塵もない。まるで、ヤナギの木のようなしなやかさと強靱さを併せ持つおいてますます盛んな野生の鹿。オペラ座ノワール主任講師テオドラでありました。
 テオドラはまっすぐにクリス嬢だけを見つめております。その場にジャックがいることなど眼中にないようでした。いえ、実際になかったのでしょう。クリス嬢だけを睨みながら残酷なぐらい厳しい口調で言い放ちました。
 「明日も舞台だと言うのにこんなところで何を油を売っているの。寝不足の荒れた肌で舞台に立つつもり? そんなことではプロ失格ね」
 「す、すみません……。 お芝居のことを考えていたらつい……」
 「お芝居? いつも言っているでしょう。あなたは何かを考える必要なんてないの。わたしの言うとおりにしていればそれでいい。そうしてさえいれば、あなたは確実に主演として舞台に立てるのだから」
 あまりに高圧的な物言いにクリス嬢はムッとにらみ返しました。そのままなら真っ向からぶつかり合っていたことでしょう。ですが、この場にはもうひとり、このような態度には黙っていられない人間がいたのでした。
 霧と怪奇の都警察署長こと暴れん坊ジャックはクリス嬢をかばうように身を乗り出すと、テオドラの前に立ちはだかりました。
 「おいおい、先生だかなんだかしらねえが、その言い方はねえだろう」
 ジロリ、と、テオドラはジャックを睨み付けました。その目付きがまた、そこらのチンピラ連中などよりよほど迫力と貫禄があるのでした。
 「何者?」
 「霧と怪奇の都警察署長、ジャック・ロウ。またの名を暴れん坊ジャックってえケチな野郎さ」
 「警察署長? ああ。犯罪応援団」
 「犯罪応援団だと?」
 ぴくり、と、ジャックの眉が動きました。
 「先生! 失礼です」
 クリス嬢があわてて口を挟みました。ですが、テオドラは動じることなく言い放ちました。
 「事実でしょう。警察なんて犯罪者を甘やかすだけ甘やかして市民を危険にさらすろくでなしに過ぎないわ」
 「先生!」
 「言ってくれるじゃねえか」
 ジャックはトレードマークの帽子を手にとりながらテオドラを睨み付けました。
 「その言い方ひとつであんたが何をどう考えているかはわかる。だがな、おれは、おれたちは、警察はあくまでも市民の安全を守るために存在するんだ。そこだけは間違ってもらっちゃ困るぜ」
 「ふん。事件が起きてからでなければ何もできないくせに。この街には死刑権解放同盟がある。市民の安全はかの人たちが守る。犯罪応援団なんかに用はないわ」
 「先生! 失礼すぎます」
 「いいから来なさい」
 テオドラはクリス嬢の腕を無理やり引っ張りました。
 「あなたにはお説教が必要よ」
 「あっ……」と、クリスが小さな悲鳴をあげました。
 ジャックは思わずクリスを助け出そうとしました。相手が屈強な男でもあれば殴り倒してでもクリス嬢から手を引かせていたことでしょう。ですが、八〇過ぎの高齢女性となればさすがにそうはできません。拳を振り上げるわけにも行かず、ジャックは手を出す機会を逸してしまいました。
 その間にもテオドラはクリス嬢をグイグイ引っ張っていきます。とても八〇過ぎとは思えない力強さでありました。
 「そこの犯罪応援団」
 ピシャリ、とした口調でテオドラは言い放ちました。
 「二度とこの子には近づかないように。この子は史上最高の歌姫となる運命にあるのだから。邪魔をされてはたまらないわ」
 そう言い放つとテオドラはクリス嬢をグイグイ引っ張っていきました。
 クリス嬢は引っ張られながらも叫びました。
 「ジャックさん! 今度きっと、オペラ座ノワールまで会いに来てください!」
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