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六章
いざ、劇場へ
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霧と怪奇の都の警察署内をひとりの女性が歩いておりました。女性と申しましても見た目はまるで少女のよう。高校生か、下手をしたら中学生にさえ見られるかも知れません。ウェーブのかかった長い髪に大きな丸いメガネ。トレードマークの白衣をまとったその姿。暴れん坊ジャックの相棒として有名なウィルマ・ベイカー、通称ビリーその人でありました。すでに二六歳とジャックよりもふたつ年上だというのに、外見的にはどう見ても一〇代の少女なのでありました。
「さて。ようやく、わたしの出番か。ヒロインの登場がこんなにも遅いのはどうかと思うぞ、まったく」
言葉の内容とは裏腹にさして不満そうでもなく呟くと、ビリーは昼間っから居眠りにふけっている同僚や、ゲームに没頭している同僚たちを尻目に所長室に向かいました。部屋の前に立ち、ドアをノックします。返事はありません。かまわずドアを開き、なかに入りました。すると、どうでしょう。部屋のなかでは異様な光景が展開されておりました。
あろうことか、あのジャックが、暴れん坊ジャックとして知られるあの強面が、どこから運び込んだのか部屋のなかに大きな姿見を持ち込んで、何とお洒落をしているではありませんか。
ヴィクトリア朝英国風のスーツと言ういつもの服装を姿見に写し込み、ネクタイをきっちり締めて、髪を整え、トレードマークの帽子をかぶる。二、三度、角度を調整して『どうだ!』とばかりに笑ってみせる。さらに、胸元には一輪のバラの花を挿し、鼻歌交じりにオーデコロンまでかける始末。
人によっては『見なかったことにしよう』と、そのままそっとドアを閉めて立ち去るにちがいない、そんな光景でありました。
ビリーは立ち去りこそしませんでしたが、深々と溜め息を付きました。
「……まったく。人には見せられん姿だな。市警察署長という要職にある人間が、かくも浮かれているなどとは」
「なっ……!」
ビリーの言葉にジャックははじめて自分の相棒が室内にいることに気がつきました。
「み、見てたのかよ……⁉」
「そうやってあわてるところを見ると自覚はあるようだな。少し、安心したぞ。『浮かれたお洒落』などと言うものは、勤務地ですべきではないとわたしは思うぞ」
「う、うるせえ……! 黙って入ってきやがって」
「ノックはした。君が気付かなかっただけだ。まったく、そこまで浮かれるとはな。オペラ座ノワールの歌姫に誘われたのがそんなにうれしいのか?」
「う、うるせえ! そんなんじゃねえよ。た、ただ、誘われたからには行くのが礼儀ってもんだし、劇場なんて洒落た場所に行くからにはそれなりの格好ってものがだな……」
「いや、言い訳する必要はないぞ。これは、わたしが悪かった。君も男だ。若く、美しい女性に誘われれば嬉しくなって当然だ。むしろ、犯人を捕えることしか頭にない君に、そんな人間的な一面があったことを喜ぶべきだ。大いに浮かれるがいいぞ」
「だから、そんなんじゃねえよ!」
「無理をするな。クリス嬢なる歌姫のことはわたしもネット動画で確かめた。何とも清楚かつ可憐な女性ではないか。しかも、まだ一七歳。そんな女性に誘われたとなれば浮かれない方がどうかしている」
「ふん……」
ジャックは小さく鼻を鳴らすとそっぽを向きました。その仕種がまるで、女の子との関係をからかわれている小学生のよう。耳まで真っ赤に染まっている当たり、内心は見え見えでした。
ビリーはそんなジャックの様子に声を立てて笑いました。
「はっはっ。名にしおう暴れん坊ジャックにも可愛いところがあったのだな。どれ。準備も終わったようだし、そろそろ行くとしようか」
「何だ、行くとしようかってのは?」
「わたしも同行すると言っているのだ」
「何で⁉」
「驚くことではあるまい。劇場のような場所に行くなら婦人同伴がマナーというものだ。わたしも一応、生物学的には『女』に分類される生き物なのでな。付き合ってやろうと言っているのだ。それとも、他に当てでもあるのか?」
「い、いや、それはまあ、ねえけどよ……」
「ならば、よいではないか。さあ、行くとしよう。君の意中の姫君に会いにな」
言いながらビリーは白衣を翻しました。ジャックはあわてて口を挟みました。
「お、おい、ちょっとまて。お前、まさか、その格好で行くつもりなのか?」
「当たり前ではないか。白衣を着ていないわたしなどわたしではない」
「いやいや、それはまずいだろ。劇場なんて洒落た場所に行くのに白衣とは……」
「では、聞こう。君がある日、レストランに行ったとしてだ。『そのような帽子姿は当店にはふさわしくございません。お脱ぎください』と言われたら、君はどうする?」
「ふざけんな! そんな店、こっちから願い下げに決まってんだろ!」
ジャックの『魂の叫び』にビリーは我が意を得たりとばかりにうなずきました。
「そう言うことだ。わたしにとってこの白衣は君にとっての帽子と同じ。これこそ我が生命、我が魂。何があろうと脱ぐわけには行かん」
その言葉に――。
ジャックはハッとした表情になりました。真剣そのものの表情になり、帽子を胸元に掲げます。これは、ジャックにとってこれ以上ないほどの敬意を表す仕種でありました。
「これは失礼した。そう言うことなら白衣姿で行くことこそ相手への礼儀。それを理解できないと言うのであれば相手のほうこそ客商売をする資格がない。堂々とその姿で行け」
「分かってくれたか。それでこそ、暴れん坊ジャックだ」
「お前こそ。そのこだわり、それでこそおれの相棒」
ふたりはニヤリと笑いを交わします。
――こいつら、本気でやってんのか?
そう、お思いですか? もちろん、ふたりは本気も本気、たいそう本気でやっているのでございます。
ビリーは身をひるがえすと、改めて言いました。
「では、征こう。解説ビリー、オペラ座ノワールへ初見参だ」
「解説ビリー? なんだそりゃ?」
「わたしのふたつ名だ」
「ふたつ名だと?」
「そうだ。君ばかり『暴れん坊ジャック』などと言うふたつ名をもっていて、相棒たるわたしに名乗る名がないというのはおかしいだろう。そこで、徹夜をして考えた。解説ビリー。まさに、脳筋体質の君に対し、頭脳労働担当たるわたしの特徴をあますところなく伝える異名。そうは思わんか?」
「ふむ。そうかも知れないな」
ジャックは首をひねりながら『脳筋らしく』納得しました。実際、『脳筋』というのはジャックにとって褒め言葉になりこそすれ、けなし文句にはなり得ません。
「よし! となりゃあ、派手に決めてやろうぜ。何たって、暴れん坊ジャックとその相棒、解説ビリーの劇場デビューだからな」
「うむ。いざ征かん」
どこまでも――。
当人たちは大真面目にやっているふたりなのでした。
△ ▽
盛況。
オペラ座ノワールの在り方を一言で表すなら、まさにそうなります。
劇場の周りには人があふれ、列を成し、さながら、とぐろを巻く蛇のよう。腕章を付けた多くの人間が人々を先導し、列を乱すことなく入場できるよう、案内しています。
「すげえな。ここっていつもこんな感じなのか?」
「いや。ネット情報によるとそう言うわけではないようだ」
「ああ、そうか。そりゃそうだよな。いくら何でも毎日まいにちこんなにごった返しているわけが……」
「今日は奇跡的に人が少ないらしい」
「これでかよ⁉」
「うむ。わたしもいささか驚いている。さすがは霧と怪奇の都一の劇場だな」
「……ああ、そうだな」
そう答えるジャックの声に不穏な空気が漂います。元来、短気な質であり、列に並ぶなどは大嫌い。そんなジャックであればこの列を見ただけで回れ右して帰りたくなるのが本能と言うもの。すでに足踏みなどして苛々した様子を示しています。帰ることなくその場に踏みとどまるのは大変な努力が必要なのでした。
「……しかし、あの案内人たちも大変だな。よく、あれだけの数をそろえたもんだ」
「いや、あの案内人はファンの人らしい」
「ファンだと⁉ ファンが案内や整理をしてるってのか?」
「そうだ。観客が騒ぎを起こし、舞台に支障を来さないよう、コアなファンが自発的に案内に当たっているらしい。言わば、ボランティアの人員だな」
「……おいおい、そこまでするか、普通?」
「自分の身に置き換えてみるのだな。超レアな限定品の帽子が客が騒ぎを起こしたせいで買えなくなるとしたら、君はどうする?」
「銃で脅して黙らせる!」
「そういうことだ」
「なるほど。納得した」
ビリーの言葉に――。
重々しくうなずくジャックでありました。
「さて。ようやく、わたしの出番か。ヒロインの登場がこんなにも遅いのはどうかと思うぞ、まったく」
言葉の内容とは裏腹にさして不満そうでもなく呟くと、ビリーは昼間っから居眠りにふけっている同僚や、ゲームに没頭している同僚たちを尻目に所長室に向かいました。部屋の前に立ち、ドアをノックします。返事はありません。かまわずドアを開き、なかに入りました。すると、どうでしょう。部屋のなかでは異様な光景が展開されておりました。
あろうことか、あのジャックが、暴れん坊ジャックとして知られるあの強面が、どこから運び込んだのか部屋のなかに大きな姿見を持ち込んで、何とお洒落をしているではありませんか。
ヴィクトリア朝英国風のスーツと言ういつもの服装を姿見に写し込み、ネクタイをきっちり締めて、髪を整え、トレードマークの帽子をかぶる。二、三度、角度を調整して『どうだ!』とばかりに笑ってみせる。さらに、胸元には一輪のバラの花を挿し、鼻歌交じりにオーデコロンまでかける始末。
人によっては『見なかったことにしよう』と、そのままそっとドアを閉めて立ち去るにちがいない、そんな光景でありました。
ビリーは立ち去りこそしませんでしたが、深々と溜め息を付きました。
「……まったく。人には見せられん姿だな。市警察署長という要職にある人間が、かくも浮かれているなどとは」
「なっ……!」
ビリーの言葉にジャックははじめて自分の相棒が室内にいることに気がつきました。
「み、見てたのかよ……⁉」
「そうやってあわてるところを見ると自覚はあるようだな。少し、安心したぞ。『浮かれたお洒落』などと言うものは、勤務地ですべきではないとわたしは思うぞ」
「う、うるせえ……! 黙って入ってきやがって」
「ノックはした。君が気付かなかっただけだ。まったく、そこまで浮かれるとはな。オペラ座ノワールの歌姫に誘われたのがそんなにうれしいのか?」
「う、うるせえ! そんなんじゃねえよ。た、ただ、誘われたからには行くのが礼儀ってもんだし、劇場なんて洒落た場所に行くからにはそれなりの格好ってものがだな……」
「いや、言い訳する必要はないぞ。これは、わたしが悪かった。君も男だ。若く、美しい女性に誘われれば嬉しくなって当然だ。むしろ、犯人を捕えることしか頭にない君に、そんな人間的な一面があったことを喜ぶべきだ。大いに浮かれるがいいぞ」
「だから、そんなんじゃねえよ!」
「無理をするな。クリス嬢なる歌姫のことはわたしもネット動画で確かめた。何とも清楚かつ可憐な女性ではないか。しかも、まだ一七歳。そんな女性に誘われたとなれば浮かれない方がどうかしている」
「ふん……」
ジャックは小さく鼻を鳴らすとそっぽを向きました。その仕種がまるで、女の子との関係をからかわれている小学生のよう。耳まで真っ赤に染まっている当たり、内心は見え見えでした。
ビリーはそんなジャックの様子に声を立てて笑いました。
「はっはっ。名にしおう暴れん坊ジャックにも可愛いところがあったのだな。どれ。準備も終わったようだし、そろそろ行くとしようか」
「何だ、行くとしようかってのは?」
「わたしも同行すると言っているのだ」
「何で⁉」
「驚くことではあるまい。劇場のような場所に行くなら婦人同伴がマナーというものだ。わたしも一応、生物学的には『女』に分類される生き物なのでな。付き合ってやろうと言っているのだ。それとも、他に当てでもあるのか?」
「い、いや、それはまあ、ねえけどよ……」
「ならば、よいではないか。さあ、行くとしよう。君の意中の姫君に会いにな」
言いながらビリーは白衣を翻しました。ジャックはあわてて口を挟みました。
「お、おい、ちょっとまて。お前、まさか、その格好で行くつもりなのか?」
「当たり前ではないか。白衣を着ていないわたしなどわたしではない」
「いやいや、それはまずいだろ。劇場なんて洒落た場所に行くのに白衣とは……」
「では、聞こう。君がある日、レストランに行ったとしてだ。『そのような帽子姿は当店にはふさわしくございません。お脱ぎください』と言われたら、君はどうする?」
「ふざけんな! そんな店、こっちから願い下げに決まってんだろ!」
ジャックの『魂の叫び』にビリーは我が意を得たりとばかりにうなずきました。
「そう言うことだ。わたしにとってこの白衣は君にとっての帽子と同じ。これこそ我が生命、我が魂。何があろうと脱ぐわけには行かん」
その言葉に――。
ジャックはハッとした表情になりました。真剣そのものの表情になり、帽子を胸元に掲げます。これは、ジャックにとってこれ以上ないほどの敬意を表す仕種でありました。
「これは失礼した。そう言うことなら白衣姿で行くことこそ相手への礼儀。それを理解できないと言うのであれば相手のほうこそ客商売をする資格がない。堂々とその姿で行け」
「分かってくれたか。それでこそ、暴れん坊ジャックだ」
「お前こそ。そのこだわり、それでこそおれの相棒」
ふたりはニヤリと笑いを交わします。
――こいつら、本気でやってんのか?
そう、お思いですか? もちろん、ふたりは本気も本気、たいそう本気でやっているのでございます。
ビリーは身をひるがえすと、改めて言いました。
「では、征こう。解説ビリー、オペラ座ノワールへ初見参だ」
「解説ビリー? なんだそりゃ?」
「わたしのふたつ名だ」
「ふたつ名だと?」
「そうだ。君ばかり『暴れん坊ジャック』などと言うふたつ名をもっていて、相棒たるわたしに名乗る名がないというのはおかしいだろう。そこで、徹夜をして考えた。解説ビリー。まさに、脳筋体質の君に対し、頭脳労働担当たるわたしの特徴をあますところなく伝える異名。そうは思わんか?」
「ふむ。そうかも知れないな」
ジャックは首をひねりながら『脳筋らしく』納得しました。実際、『脳筋』というのはジャックにとって褒め言葉になりこそすれ、けなし文句にはなり得ません。
「よし! となりゃあ、派手に決めてやろうぜ。何たって、暴れん坊ジャックとその相棒、解説ビリーの劇場デビューだからな」
「うむ。いざ征かん」
どこまでも――。
当人たちは大真面目にやっているふたりなのでした。
△ ▽
盛況。
オペラ座ノワールの在り方を一言で表すなら、まさにそうなります。
劇場の周りには人があふれ、列を成し、さながら、とぐろを巻く蛇のよう。腕章を付けた多くの人間が人々を先導し、列を乱すことなく入場できるよう、案内しています。
「すげえな。ここっていつもこんな感じなのか?」
「いや。ネット情報によるとそう言うわけではないようだ」
「ああ、そうか。そりゃそうだよな。いくら何でも毎日まいにちこんなにごった返しているわけが……」
「今日は奇跡的に人が少ないらしい」
「これでかよ⁉」
「うむ。わたしもいささか驚いている。さすがは霧と怪奇の都一の劇場だな」
「……ああ、そうだな」
そう答えるジャックの声に不穏な空気が漂います。元来、短気な質であり、列に並ぶなどは大嫌い。そんなジャックであればこの列を見ただけで回れ右して帰りたくなるのが本能と言うもの。すでに足踏みなどして苛々した様子を示しています。帰ることなくその場に踏みとどまるのは大変な努力が必要なのでした。
「……しかし、あの案内人たちも大変だな。よく、あれだけの数をそろえたもんだ」
「いや、あの案内人はファンの人らしい」
「ファンだと⁉ ファンが案内や整理をしてるってのか?」
「そうだ。観客が騒ぎを起こし、舞台に支障を来さないよう、コアなファンが自発的に案内に当たっているらしい。言わば、ボランティアの人員だな」
「……おいおい、そこまでするか、普通?」
「自分の身に置き換えてみるのだな。超レアな限定品の帽子が客が騒ぎを起こしたせいで買えなくなるとしたら、君はどうする?」
「銃で脅して黙らせる!」
「そういうことだ」
「なるほど。納得した」
ビリーの言葉に――。
重々しくうなずくジャックでありました。
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