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七章

鳴り響くは天界の鐘の音

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 たっぷり二時間以上も列に並んだ後、ふたりはようやくなかに入ることが出来ました。あの短気でなる暴れん坊ジャックが二時間もの間、文句も言わずに列に並びつづけたとは、まさに奇跡と言って良い出来事でありました。いつもであればとっくにブチ切れて『やってられるか!』と、尻をまくっているところでございます。
 「君にしてはよく耐えたな。良い子だったぞ」
 と、解説ビリーが思わず頭をなでて賞賛するほどの、それは辛抱強さであったのです。
 足を踏み鳴らしながら『おれにとっての帽子だ、おれにとっての帽子だ……』と延々と呟きつづけるのを聞かされる周囲の人々にとっては、悪夢の刻以外のなにものでもなかったことでしょうが。
 ですが、それも幕が上がるまでのこと。そのときにはそれまでのことはすっかり忘れてしまっていたのです。
 絢爛たる舞台の上、荘厳な音楽に乗って無数の人々が舞い、踊るその様はまさに圧巻。全身の細胞が音楽に包まれ、沸き立つような体験でした。演劇、まして、芸術などにはまったく縁のないジャックとビリーのコンビですら、そのレベルの高さに感じ入り、感動を覚えたほどでした。
 「何と見事な。演劇というものがこれほど人の心を揺さぶるものだとは知らなかった」
 ビリーが感極まってそう呟くと、ジャックもまたトレードマークの帽子を胸に掲げて重々しくうなずいたものです。
 「ああ。おれもはじめて知った。これなら二時間どころか、二〇時間並ばされても納得できる」
 「すっかり機嫌が直ったようだな。単純脳筋の君らしい反応だ。しかし、わたしも同感だ。これなら、毎日並んでも惜しくない。列を成す人々の気持ちがよく分かった」
 と、ふたりはすっかり感動しておりました。ですが、今宵のクライマックスはまだまだこれからであったのです。
 休憩時間に携帯端末を使ってプログラムを確認していたビリーが感心して伝えました。
 「ほう。これは驚いた。ジャック。君の思い人は次の公演に出演するぞ。しかも、主役だそうだ」
 「主役だと? こないだ会ったときにはまだまだ主役を張れるほどじゃないとか言っていたはずだがな」
 「急遽の抜擢、と言うやつではないか。それだけの実力があったと言うことだろう」
 「ううむ、そいつはすごい。言っていたとおり、自分の力で主役をつかんだわけだ。褒めてやらないとな」と、何だか保護者のようなことを言うジャックでありました。
 そして、舞台は滞りなく進み、クリス嬢が主演を務める公演に至りました。オープニングが終わり、いよいよクリス嬢演じる主人公のソロパートです。クリス嬢がその愛らしい唇を開き、歌声を放ちました。その瞬間――。
 劇場は音なき激震に襲われました。
 まさに、そうとでも表現する他はありません。それほどの激しい衝撃を、そのとき、劇場を訪れていたすべての人が感じたのです。
 クリス嬢の歌声はそれほどに素晴らしいものでした。比喩ではなく、そのとき、その場にいたすべての人が、まさに天の声を聞いたのです。
 その歌声に込められた超絶的な技巧は翌日の批評で批評家たちがこぞって絶賛したほどのものでした。
 『……まだ一〇代の、はじめて主演を務める身でありながら、その歌声の超絶的な技巧は一〇〇年にひとりの天才が一〇〇〇年に及ぶ鍛練を積んだかのような驚異的なレベルに達していた。この歳でこれほどの超絶技巧を身につけることができるなど、もはや『天才』という語ですら物足りない。
 これはまさに、この夜、世界に舞いおりたひとつの奇跡であった。いまになってこれほどの奇跡に出会うとは何と不幸なことだろう。この歌声を心行くまで堪能するには私はもう歳をとりすぎた。もっと、もっと、あの歌を聞いていたい。そう思いながら悔いを残しつつ死ななければならない。もっと早くに出会っていればより多くの時間、この幸福に浸れたものを……』
 ジャックとビリーももちろん例外ではありませんでした。風雅の道など縁のないはずのこのふたりでさえ、この日のクリス嬢の歌声には計り知れない感動を呼び起こされたのです。
 「……すげえ。人間の歌声ってやつにこんな力があるなんていまのいままで知らなかった。うう、小便、チビっちまいそうだぜ」と、感動の涙で顔中をくしゃくしゃにしながらジャックが言えば、
 「うむ、まさに。非の打ち所のない歌声だった。人間がもっとも好む波長の音域をわずかも外すことなく唄い抜いたあの技量、まるで人間を感動させるために作られた機械のようだ。いや、素晴らしい。人間がここまでできるとは」と、ビリーもまた機械オタクのかの人らしい表現で絶賛したものでした。
 そして公演の終わった後、ジャックとビリーは連れだってクリス嬢の楽屋へと向かいました。歌姫に贈るための花束も劇場で買い込み、トレードマークの帽子の角度も入念にチェックして準備万端、楽屋に向かったのでございます。
 もちろん、すんなり通れるはずがありません。スタッフに止められてしまいました。ですが、こうと決めた暴れん坊ジャックを誰が止めることができるでしょう。まして、このときのジャックはクリス嬢から与えられた感動により、ノーマルの三倍もの力を発揮していたのです。結局、スタッフも押し切られ、渋々入室を認めるしかありませんでした。
 楽屋に入るなりジャックはクリス嬢の前にひざまづき、花束を捧げました。そして、まるで自分自身が舞台に立つ俳優になったかのように言ったものです。
 「おお、麗しの歌姫よ。今宵は素晴らしい感動をいただいた。あなたの歌声はまさに天上の鐘……」
 「似合わない真似はするものではないぞ。こっちが恥ずかしくなる」というビリーのツッコミは無視して、ジャックはクリス嬢を讃えつづけました。ですが、クリス嬢は何ともうさん臭いものを見るような目でジャックを見つめていたものです。そして、こう言い放ちました。
 「誰? 何の権利があったわたしの楽屋に入り込んできたの?」
 「へっ?」
 あまりにも意外な言葉にジャックは間の抜けた声を出しました。表情ときたらそれ以上に間の抜けたもので、一目見ただけで万人の笑いを誘ったことでしょう。あいにく、クリス嬢は笑い転げて一転してフレンドリーな態度にかわる……などと言うことはなく、ますますうさん臭いものを見る目を強めるだけでしたが。
 「それ、みたことか」
 ビリーが冷静に指摘します。
 「プロを相手に下手な素人芝居など見せては、機嫌を損ねるのも当然。もし、君を相手に帽子談義を仕掛けてくる素人がいたら、君はどうする?」
 ビリーのその言葉に――。
 ジャックはたちまち顔色をかえました。
 「こ、これは悪かった……! あまりにも感動したものだからつい、柄にもねえことをしちまって」
 ジャックは耳まで真っ赤にすると、まるではじめての告白をする中学生のような態度でクリス嬢に花束を差し出しました。
 「……と、とにかく、感動したのは確かなんだ。ぜひとも受け取ってもらいたい」
 クリス嬢は差し出された花束をじっと見つめました。そして――。
 パン!
 高い音がしてクリス嬢のたおやかな手が花束を弾いていました。花束はジャックの手を離れ、軽い音を立てて床に落ちました。これにはさしものジャックも呆気にとられました。いくら、機嫌を損ねたにせよ、ここまでの態度を取られるとは。ジャックの横ではビリーもまた、メガネの奥の大きな目をまん丸に見開いて唖然としておりました。
 ジャックとビリーのコンビを無言にさせるという偉業を成し遂げた若き歌姫は、自分の払いのけた花束には一顧だにせず、ジャックを睨み付けました。そして、一〇代の少女とはとうてい思えぬ傲慢ほどの態度で詰問しました。
 「そんなことはどうでもいいわ。いったい何者で、何の権利でここに来たのかと聞いているのよ」
 「な、何者って……いや、ほら、おれだよ、おれ。ついこの間、夜の川辺で会ったジャック・ロウだよ。霧と怪奇の都警察署長の……」
 すると何と言うことでしょう。クリス嬢は――妖精のような見た目にも似合わず――鼻を鳴らし、軽蔑しきった表情を浮かべたのでした。
 「ああ。犯罪応援団」
 「は、犯罪応援団……⁉」
 「その犯罪応援団がいったい何の用? 用がないならさっさと帰って」
 「クリス嬢。いくら何でもその態度はないだろう」
 さすがに見かねたビリーが口を挟みました。メガネの奥の大きな目に、かの人にしてはめずらしい怒りの炎が踊っておりました。
 「ジャックの素人芝居が君の機嫌を損ねたことは理解できる。その点に関してはわたしからも謝る。申し訳ない。しかし、その点を鑑みても君の態度は度が過ぎている。あまりにも失礼だ。そもそも、君のほうからジャックを招待したのではなかったか?」
 「招待?」
 「いや、ほら。『劇場に来てくれ』って別れ際に……」
 「ああ」と、クリス嬢は小馬鹿にしたようにジャックを見下しました。
 「ずいぶんとおめでたいことね。そんな営業トークを真に受けるだなんて」
 「え、営業トーク?」
 「とにかく、用がないなら帰って。わたしは次の公演の準備でいそがしいの」
 「次の公演? ついさっき公演が終わったばかりなのに、もう次の公演の準備なのか?」
 「当たり前でしょう。わたしには時間がないの。少しでも早くものにしないと……」
 そのときのクリス情の焦り方はジャックの嗅覚にただならぬ違和感を感じさせたのでした。
 結局、クリス嬢は案内係を呼び出してジャックとビリーのふたりを追い出しました。もちろん、名にしおう暴れん坊ジャックのこと。本気を出せば劇場の案内係ごとき何人いようと物の数ではありません。蹴散らし、叩きのめし、その場に居座りつづけることなど簡単です。ですが、そんなことをすればただの暴漢。警察署長たる身でしていいことではありません。奇異な念を感じながらも外に出るしかありませんでした。
 ビリーがジャックに話しかけます。
 「思い人にあっさりフラれたのは気の毒だったな、ジャック。しかし、せっかくの思い人があんな人物であったと知れたからにはむしろ、よかっただろう。あのように失礼な人物、君が相手するにふさわしくはあるまい」
 ビリーがこのように人を悪く言うというのもずいぶんとめずらしいことでありました。それだけ、怒りが収まっていなかったのです。
 しかし、ジャック当人はと言えば、腹を立てる様子もなく、ひたすらいぶかしんでいる様子でした。
 「どうした、ジャック? あのような態度を取られたのだ。怒り狂っていいところだぞ」
 「……あれはクリスじゃねえ」
 「何?」
 「クリスじゃねえ。少なくとも、あの夜、川辺で会ったクリスとはまったくの別人だ」
 「ジャック。そう信じたい気持ちは分かるが……いや、ちがうな。君はプロの刑事だ。その君が言うからにはその通りなのだろう。なぜ、そう思うのだ?」
 「勘だ」
 「勘?」
 「そう。勘だ。このおれの、刑事としてのな。あれは絶対におれの会ったクリスじゃねえ。それに……」
 「それに?」
 そう問い返すビリーに対し、ジャックは手を口元に当てて小首をかしげました。
 「……あのクリスのおれを見る目、あの口調……別の誰かに似ている気がする」
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