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九章

歌姫は罵声に打ちのめされる

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 オペラ座ノワールはその日も連日の大盛況でありました。
 劇場を取り巻くように長蛇の列が並び、いつものように熱心なファンが自発的に列の整理を行っておりりした。そして、劇場を取り巻くその列のなかに今日もきょうとて霧と怪奇の都名物、警察署長暴れん坊ジャックとその助手たる解説ビリーの姿があったのです。
 「それにしても、君も執念深いな。昨日の今日でまたも思い人に会いに来るとは」
 「うるせえな。そんなんじゃねえよ」
 からかうような口調のビリーに対し、ジャックは唇をとがらせて言い返しました。その態度は『照れ隠し』などと言うものではなく、思い掛けないほどに真剣なものでした。それは思わず、ビリーが居住まいを正し、見返すほどのものであったのです。
 「その真剣さ……なるほど。冗談を交わしている場合ではない、ということだな」
 ビリーのその言葉に、ジャックは重々しくうなずきました。
 「そう言うこった。ビンビン言ってるんだ。おれの刑事の勘ってやつがな。クリス嬢のまわりには何かとんでもねえ事件の陰がある。そいつを突き止めないわけにはいかねえんだ」
 市民を守るのが警察の役目なんだからな。
 ヴィクトリア朝英国風のスーツにトレードマークの帽子をかぶり、そう宣言するジャックの姿にはたしかに、高潔なまでの誇りがにじんでいるのでした。
 「けっこう。前にも言ったとおり、わたしは専門家の勘は信じる主義だ。君がそう言うなら付き合おう。しかし……」
 ビリーは忌々しそうに長蛇の列を眺めました。基本、無表情で、常に泰然としているかの人がこのように感情を露わにするのは実にめずらしいことでありました。
 「この列は何とかならんのか⁉ 芸術鑑賞も悪くはないが毎回まいかい、二時間以上も並ばされるなど非効率極まりない! システムを改善し、効率化すべきだ。さっそく、アルゴリズムを組んで……」
 「黙ってろ」
 「黙ってろだと? 君こそ昨日はあんなに苛々して文句をこぼしていたではないか」
 「今日は昨日とはちがう。仕事で来ているんだ。仕事のためなら二時間どころか、二〇時間だろうが、二〇〇時間だろうが、黙って耐えてやるさ」
 「……まったく、君というやつは」
 処置なし、という感じで首を左右に振るビリーでありました。
 無限とも思える待ち時間もようやく過ぎて、ジャックとビリーのふたりは劇場のなかに入りました。指定された席に座りながらビリーはプリプリ怒っています。
 「まったく! こんな非効率なシステムには耐えられん! 君が何と言おうと、わたしは必ず、支配人にシステムの改善を申し入れるからな」
 「好きにしろ。ただし、仕事が終わってからな」
 そう言い放つジャックでありました。
 やれやれ、と、ビリーは一流劇場の豪奢に席に身を沈めつつ、携帯端末を操作しました。プログラムを確認します。
 「何だ。君の思い人は今日は主演ではないのだな」
 「そうなのか?」
 「ああ。その他大勢のひとりだ」
 「……その他大勢はひどいんじゃないか?」
 「そうかも知れないな。もしかしたら、これはこれで重要な役回りなのかも知れない。しかし、わたしにはそんな区別は付かない。主役でないなら『その他大勢』と言うしかない」
 そう言い放つ辺り、ビリーの不機嫌振りはまだなおっていないようでした。
 ですが、かの人の疑問はコアなファンの間でも話題になっていたようです。席に着くジャックの耳にはあちこちから疑念の声が聞こえて参りました。
 「何で、昨日あんなにすごい歌声を披露したクリスが主役じゃないんだ?」
 「そうだよな。会場にいたファンだけじゃない。専門家たちだって大絶賛していたんだ。普通ならそのまま一気にスターダムだよな」
 「単純に前からの予定通りということじゃない?」
 「あれだけ話題になったんだ。予定なんかすっ飛ばして主役にするさ。普通ならな」
 「だよな。ファンの要望に応えずに劇場の明日はないんだからな」
 「ああ、それなんだが。噂によると主任講師のテオドラが頑として配置換えを許さなかったそうだ」
 「へえ。テオドラって言ったらアレだよな? 泣く子も黙る鬼講師、オペラ座ノワールの名物女教師」
 「そう言うこと。クリスを見出して連れてきた師匠でもあるな。師匠の目から見たらまだまだ不満だったってことかね?」
 「いやあ、案外、単なる嫉妬とかじゃねえの?」
 「あるかもね。まだ十七歳の子がいきなりスターダムにのし上がったんだもの。八〇過ぎのおばあちゃんとしてとは素直に喜べないかも……」
 辺り一面、そんな噂で持ちきりでした。普通の人間には雑音としか聞こえないそのとりとめのない話の数々を、ジャックの鋭敏な刑事としての聴覚はきちんと聞き分けていたのです。
 ですが、開演を告げるベルの音が鳴ると同時にそんな喧噪はピタリとやみ、皆が舞台に集中しはじめました。その辺りはさすがに劇場に通い慣れた玄人ファン、と言ったところでしたでしょう。すべての目が舞台に注がれ、そこで行われるレビューの数々を吟味し尽くそうと全神経を集中しているのでございます。同様に、出番を待つ俳優たちも観客の予想を上回る出来映えを見せるべく、全神経を集中しているのです。劇場そのものが一種、独特な緊張感に包まれ、レビューというものが単なる娯楽などではない、出演者とファンとの間で交わされる真剣勝負なのだと言うことをまざまざと感じさせる雰囲気となりました。
 ジャックももちろん、その雰囲気を感じ取りました。
 「……むう。この雰囲気。まさに、達人同士の果たし合いだな」
 そう呟くと、観客と俳優、双方に敬意を捧げるべくトレードマークの帽子を胸に掲げたのでございます。
 やがて、幕は開き、レビューがはじまりした。
 絢爛たるセット。荘厳な音楽。そして、何よりも鍛え抜かれた俳優たちによる迫真の演技。歌と踊り。そのすべてがこの世のものとも思えないほどに素晴らしく、感嘆を誘わずにはいないものでした。その出来映えに人々は日常を忘れ、夢の世界に没入したのでした。。そして、ビリー。日頃、芸術鑑賞などにはまるで縁がなく、システムの非効率さにあれほど腹を立てていたビリーでさえ、その完成された世界に魅入られ、不満を忘れていったのでした。でも、それでも――。
 やはり、この夜、もっとも観客が沸き立ったのはクリス嬢がひとりで唄うパートとなったときでした。誰もが昨夜の再現を願い、若き歌姫の奏でる天界の鐘の音に酔いしれようと心待ちにしていたのです。ところが――。
 何としたことでしょう。クリス嬢の歌声が響いた途端、その場にいたすべての人々は泥をぶつけられたよりもひどい失望を味わうことになったのです。
 「おい、ビリー。この歌声……」
 ジャックが戸惑った声をあげました。すると、ビリーもまた、かの人にも似合わない戸惑った様子で答えました。
 「……ああ。素人のわたしでもわかる。昨日のあの歌声とは雲泥の差、月とスッポンだ。昨日と今日でこんなにも歌声がちがうものか?」
 レビューに関してはずぶの素人であるビリーでさえそう感じたほどなのです。まして、耳の肥えた本物のファンたちにとって、今日のクリスの歌声は聞くに堪えないものでした。
 いいえ、絶対的な評価、と言う点では決して悪いものではなかったのです。むしろ、声質といい、声量といい、世界一流の才能が集うオペラ座ノワールにおいても上位に入る歌声と言ってよかったでしょう。ですが、昨日のあの天上の美声の再現を望んだ観客にとっては、今日のクリス嬢の歌声は車に轢かれたガマガエルのうめき声に過ぎなかったのです。
 たちまち劇場中がざわめきに包まれました。嘆きの声が広がりました。ついには世界最高峰の劇場にはあるまじき『金返せ!』なる下品な声まで飛ぶ始末。これほど険悪な雰囲気のうちにレビューが終わったことはオペラ座ノワールの歴史のなかでもはじまって以来のことなのでした。
 ……やがて、舞台が終わり、潮が引くように人々が帰ったあと、ジャックとビリーはクリス嬢の楽屋を訪ねました。ジャックの鋭敏な聴覚には多くの踊り子たちの声が届いておりました。
 「何、今日のあの声? 全然、違ったじゃない」
 「ほんとほんと。ひどいものだったわ。あれぐらいないならあたしの方が上よ」
 「あの子の実力なんてもともとあんなものでしょ。昨日がおかしかったのよ」
 「そうよね。大体、あの子、テオドラ先生にひいきされてるからっていい気になりすぎなのよね」
 「案外、昨日はオペラ座の幽霊に乗り移られていたんだったりして」
 踊り子たちはそんなことを話ながら、散々にクリス嬢を嗤い者にしていたのです。
 ジャックとしては腹が立つことこの上ないものでしたが、だからと言ってさすがに雑談をかわす踊り子たちを殴って回るわけにも行きません。ともかく、ジャックはビリーと共にクリス嬢の楽屋を訪れました。そこにいたのは予想通り、いえ、それ以上に落ち込むクリス嬢の姿でした。
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