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一〇章

ジキルとハイド。そして……。

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 「あ、あ~、クリス嬢?」
 もとより、自分から女性に話しかけるなど小学校のときに女教師に話しかけて以来というジャックです。ましてや、落ち込んだ女性にかけるべき言葉など分かろうはずもありません。とにかく、そう言って声をかけるのが精一杯でした。クリス嬢はすっかり落ち込んだ顔をジャックに向け、さびしげに微笑みました。
 「あ、ジャックさん……でしたね。来てくださったんですね」
 「あ、あ~、クリス嬢。今日はその、何と言うか……」
 ジャックは言い淀みながらも何とか歌姫を慰めようとしました。ですが、それよりずっと早く、クリスその人がまるで食い付くような勢いでジャックに詰め寄ったのです。
 「ジャックさん!」
 「はい!」
 ジャックが思わず直立不動でそう答えてしまうほどの、それは勢いでした。
 「今日のお客さんたちはどうしてあんなに怒っていたんでしょう? もちろん、あたしはまだまだ未熟者です。でも、だからって、あそこまで貶されるほど下手くそではないはずです。実際、いままでにあんな風に言われたことはないんです。今日だっていつもと同じくらいの演技は出来たはずなのに……」
 「は? そりゃあ、昨日の声とあんまり違いすぎたから……」
 「昨日?」
 クリス嬢はジャックの言葉にキョトンとした顔を浮かべました。
 「何を言っているんですか、ジャックさん。あたし昨日は舞台に上がってはいませんよ」
 「は?」
 「あたしは昨日は休日だったんです。一日中、アパートで練習していました」
 「ちょ、ちょっと待ってくれ。何を言ってるんだ。昨日だってこの楽屋でおれと会ったじゃないか」
 言われてクリス嬢はますます『訳がわからない』という表情となりました。
 「ジャックさんこそ何を言っているんです? あたしは昨日は本当にアパートの部屋でひとりで練習していたんです。この劇場にも来ていないし、誰にも会っていません」
 話がまったくかみ合わないままジャックとクリス嬢は互いに不思議なものを見る表情で見つめ合っていました。すると――。
 「クリス!」
 『厳格』という言葉の見本のような声が響きました。
 その声と共にクリス嬢の楽屋に入ってきたのはオペラ座ノワール主任講師テオドラでした。クリス嬢はその姿を認めるやいなや立ちあがり、直立不動の姿勢を取ったのでした。
 「せ、先生……!」
 「今日のざまは何? あれほど多くのお客さまを怒らせるなんてオペラ座ノワールはじまって以来の失態よ」
 「分かっています! でも、あたしは決して……」
 「いつもいつも生意気ばかり行っているけど、今日で自分の実力がわかったでしょう。今夜は一晩中、居残りで特訓よ」
 「は、はい……。」
 あまりにも一方的で高圧的。まるで、相手に屈辱を与えることそのものを目的としているかのようなテオドラの言葉の数々に、クリス嬢は両手を握りしめ、ようやくそれだけを言いました。
 「お、おいおい、ちょっと待ってくれよ」
 ジャックが見かねてふたりの間に割って入りました。
 「いきなり、一晩中居残りってのはねえだろう。クリス嬢だって一所懸命やったんだ。毎回まいかい大絶賛されるってわけには……」
 実のところ、余計なお世話と言うべきでしょう。主任講師自らに一晩中、指導してもらえるなど、オペラ座ノワールの歌姫にとってはこの上ないチャンスなのですから。ですが、ジャックとしては口を挟まずにはいられませんでした。何しろ、小学校時代、毎日のように居残りさせられた苦い思い出があるものですから。
 じろり、と、テオドラはジャックを睨みました。
 「誰、あなた?」
 ジャックがクリス嬢とはじめて会ったあの夜、自分も会っていたことなどすっかり忘れているようでした。それはまさに貴族の貴婦人が平民を無視する自然な権高さ。『無視されても当然』と相手に思わせてしまうような、そんな貫禄に満ちた態度でありました。
 「あ、いや、おれは……」
 ジャックはおずおずと切り出しました。何ともかの人らしくない態度でありました。いつものジャックであればどんな目で見られようと、どんな声で言われようと、臆することなく堂々と名乗るところです。ですが、こればかりはダメなのです。『女教師』という存在だけは。まして、どこまでも厳格で容赦のない『女教師オーラ』を前にしてはさしもの暴れん坊ジャックも尻尾を丸めた子イヌになってしまうのでした。
 「誰か知らないけど特訓の邪魔よ。さっさと帰って」
 『シッシッ!』とばかりに、テオドラは手を振ります。まさに、野良イヌ扱い。しかし、そうされても当然、と相手に思わせてしまうたけの貫禄がテオドラにはあるのでした。
 結局、ジャックとビリーはその手の一振りで楽屋を追い出されました。ジャックとしては自分が本当に、餌を恵んでもらいに来た野良イヌになったような気分でありました。
 「はあ~、どうにも、ああいうタイプは苦手だ」
 「はっはっ。君にも『苦手』などと言う相手がいたのだな」
 「うるせえな」
 ジャックはビリーの言葉にそう返しましたが、それはどう見ても『負け惜しみ』というものなのでありました。
 「しかし……わかっただろう、ビリー?」
 ジャックにそう問われて、ビリーはメガネの奥の大きな目を真剣なものにかえました。
 「……ああ。今日のあの態度なら、わたしにも分かる。昨日のクリス嬢と今日のクリス嬢はまったくの別人だ。外見は同じでも中身がまるでちがう」
 「そう言うこった。まして、おれと会ったことは忘れても、舞台に立ったことを忘れるわけがねえ。プロにとって『舞台に立つ』と言うことがそんなに軽いものであるわけがねえ」
 「しかしだ。そうなると、これはどういうことかな? クリス嬢はふたりいると言うことかな?」
 「……双子の姉妹でもいるのかな」
 ポツリ、と、ジャックは呟きました。
 マジマジと、ビリーはメガネの奥の大きな目をジャックに向けました。さすがにジャックは真っ赤になりました。
 「あー、あー、悪かったよ。おれもあんまりご都合主義過ぎると思ったよ」
 「なくはないぞ」
 「マジかよ⁉」
 「人の世では単純なことが案外、真実だったりするものだ。もっとも、いま、わたしが考えているのは別の可能性だかな」
 「別の可能性?」
 「ジキルとハイド」
 今度はビリーがポツリと呟く番でした。
 「ジキルとハイド? つまり、二重人格ってことか?」
 「ほう。『ジキルとハイド』は知っていたか」
 「バカにすんなよ。いくらおれだって、それぐらいは知ってる」
 「では、ジキル博士はなぜ二重人格になったかは知っているか?」
 「? 生まれつきとか、病気とかじゃねえのか?」
 「ちがう。ジキル博士の二重人格振りは実は、ジキル博士その人が調合した薬品によるものだ」
 「なに?」
 「ジキル博士は優れた科学者でな。自分のなかの一面を解放するために作った薬を服用することで、ハイド氏に変身する。つまり、ジキルとハイドとは薬物による結果なのだ」
 「それがどうした?」
 「この都市にもその手の研究をしている学者は多くてな」
 「なんだと⁉」
 「世界中の科学者の集まる場所だからな。なかには趣味に走ったアブない科学者もいるのでな」
 「それで、クリス嬢がその薬を使ったと?」
 「確証があるわけではもちろんない。しかし、可能性としてなら考えてもよいのではないかな。そう考える理由のひとつは昨日と今日の歌声のあまりの違いだ」
 「……ああ。たしかに、今日の声は昨日に比べたらひどいもんだった。あれじゃあ、客も怒るわな」
 「そうだ。素人のわたしたちでさえハッキリとそうわかるほどの違い。その手の薬を服用した結果、潜在能力が引き出されたのだとすれば……」
 「そんな薬が出回ってるとなれば刑事として放っておくわけには行かねえな。おい、ビリー!」
 「分かっている。すぐに調査しよう」
 ビリーがそう答えたときでした。ジャックはふいに何かに気付きました。
 視線。
 そう言って良いのでしょうか。視線と呼ぶにはもっと曖昧な、幽鬼のような何か。
 そんな存在をジャックは感じ取ったのです。余人であればとても気付くことはなかったでしょう。刑事として鍛え抜いた鋭敏な感覚であればこそ感じ取ることができたのです。
 ジャックは気配を感じた方を振り向きました。そして、ほんの一瞬、見間違えかと思うほどのわずかな時間、しかし、たしかに見たのです。光の届かない劇場の廊下の奥。その奥に潜み、その奥に消えていったドクロの顔を。
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