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悪女のその後の話
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◆◆◆
教会の扉を押し開くと、ひんやりとした空気が私を包み込んだ。祭壇の前まで進み、膝をつく。
「神様、どうか。どうか……娘の目が治りますように……」
懸命に耐えていた涙が、祈りとともに溢れそうになる。
けれど、ここで崩れてしまってはいけない。私は歯を食いしばりながら、もうひとつの願いを口にした。
「そして……もう一人……上の娘が……どうか、心を入れ替えて帰ってきますように……」
いなくなったあの子を思い出すたび、胸が引き裂かれそうになる。悔しくて、悲しくて、どうしようもない。
「……何があったのですか?」
穏やかな声に、はっと顔を上げた。
司祭さまが静かに私を見下ろしていた。
私は唇を噛みしめる。
言いたくなかった。誰かに話してしまったら、本当に取り返しがつかなくなる気がして。でも……
「……上の娘が……妹の目の治療費を盗んで、家出してしまったのです……」
自分で言った言葉が胸に突き刺さる。
事実を口にした瞬間、何かが決定的に崩れていく気がした。
「昔は……本当に良い子だったんです。妹のことをいつも気にかけて、家の手伝いもよくして……優しくて、素直な子で……」
あの頃は、私の誇りだった。
「でも……あの子が街に行くようになってから、少しずつ変わってしまいました。華やかなものを好むようになり、派手な服を買い、きらびやかな世界に憧れて……」
思い出すたびに胸が締めつけられる。
最初はただの憧れだったはず。
けれど、いつの間にか、あの子は私たちが知らない世界に足を踏み入れていた。
「お金の使い方も荒くなって……夫も、何度も叱ってくれたのですが……聞く耳を持たなくて……それどころか……とうとう、家中のお金を盗んで、いなくなってしまったのです。」
言葉にした途端、涙が溢れた。
私は胸元を握りしめ嗚咽をこらえながら続ける。
「私は……私は、何を間違えたのでしょうか……?」
どこで間違えた?
どこで、娘の心は離れてしまった?思い返しても、答えは出ない。ただ、残ったのは、失ったものと、後悔だけ。
「どうか……どうか、神様があの子を見守ってくれますように……!」
司祭さまの手がそっと私の肩に触れた。
「神の御心のままに……あなたの願いが届きますように。」
優しく静かな声。
でも、その言葉は、どこか遠く感じた。
本当に、神様は願いを聞いてくれるのだろうか?
私はただ、震える指を組み直し、もう一度目を閉じて祈り続けるしかなかった。
◆◆◆
ぬかるんだ土が裸足に絡みつく。
ひんやりと冷たい感触が、足裏からじわじわと這い上がってくるようだった。
私は歯を食いしばりながら、闇に沈む森の中を歩き続けた。
――くそっ。
体は疲れているのに、頭の中は煮えたぎるように熱い。
ここはどこなのかもわからない。けれど、そんなことはどうでもいい。
全部、全部、あいつのせいだ!!
異世界から来た、ミレイアの中に入り込んでいた、あの女。
何なの? 何なのよ、あいつは。
どこから来て、何様のつもりで、私の人生を台無しにしたの?
私の人生は、親のせいで最初から決まっていた。普通の家に生まれ、普通の暮らしを強いられ、ちんけな金でちんけな人生を送る。そんなのまっぴらごめんだ。
だから街へ行った。私は、あのくだらない家とは違う。もっとふさわしい世界があると気づいた。
高価なドレス、輝く宝石、香り高い香水……どれも手に入れたかった。だから、手に入れるために動いた。
私は努力した。
口先ひとつで人を動かし、必要なものを引き寄せる術を学んだ。何も持たない者は、それくらいできなければ這い上がれない。
あの屋敷に入り込み、メイドとしてミレイアを孤立させるのは簡単だった。貴族が噂話を好むことを知っていたから。ほんの少し嘘を広め、被害者ぶるだけでよかった。
結果、私は伯爵家の養女になった。
メイドから貴族の娘へ。
まさに大逆転。
……だったはずなのに。
全部、あの女のせいで台無しになった!!!
「……ふざけるな!!!!!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
「ねえ、神様? 聞こえてる? 私はこんな仕打ちを受けるような女じゃないわ。私はずっと努力してきたの。誰よりも、必死に生きてきた。なのに、どうして?ねえ、答えてよ。私は何を間違えたの? ねえ、神様?」
静寂だけが、私を嘲笑うように広がる。
「……ああ、そう。そういうことね!」
神は私を見捨てた。
結局、神様ってやつは、都合のいいやつだけを助けるものなんでしょう?
生まれが良くて、素直で、清らかで、善人ぶってるやつを選んで、私みたいな、必死に足掻いて手を伸ばしてきた女は切り捨てる。
「じゃあ、悪魔でもいい!!誰でもいいから、私を助けなさいよ!!!」
泥にまみれたまま、手を伸ばす。
どこに向けているのかも分からない。
でも、私を救う者がいるなら、それが誰であろうと――私は、その手を取る。
その瞬間だった。
何かが、こちらを見ている。
森の奥から、巨大な目玉が、闇の中にぽつんと浮かび上がった。脈打つように、じっと私を見ている。静かに、すべてを見透かすように。
血の気が引く。何かが喉元を這い上がる。
それが叫びになったのか、息になったのか、自分でも分からない。
「ッ……!!」
足がもつれ泥に沈む。
だが、その時――目玉のすぐそばに、もうひとつの影が現れた。
天使。
銀の髪が闇に溶けるように揺れ、白い翼と衣が風にたなびく。その顔には、どんな感情も浮かんでいない。
私は、縋るように天使の腕を掴んだ。
「お願いです!!そこの化け物を……あの目を、追い払ってください!!!」
助けてくれるはずだ。
この人は神の使いなのだから。
次の瞬間、巨大な目玉は音もなく、すっと消えた。
私は助かったのだ。
この人なら、私を救ってくれる。
「私は……私は、とても可哀想な娘なのです…!貧しい家に生まれ、幼い頃から虐げられ……愛されることもなく、ただ生きるために耐えてきました。」
言葉ひとつで、人の心は動く。
「……私は懸命に生きてきたんです。這い上がるために、どんな努力もしました。それなのに……あの悪魔が……あの異世界から来た、恐ろしい存在が……私のすべてを奪ったのです!!」
私は彼を見上げた。
「だから……お願いです!どうか、あの悪魔を……あの異世界の女を……地獄で、永遠に苦しめてください!!!」
この世の地獄では足りない。
あいつには、それ以上の苦しみがふさわしい。
「私が味わった絶望を……あの女にも!!!」
そう、これは神の裁き。
異世界からやってきた悪魔には、それ相応の罰を与えるべきなのだ。
◆◆◆
空気が変わった。森の湿った匂いが消え、代わりに焼けつくような熱が肌に絡みつく。赤い。どこまでも、赤い。血のような光が視界を満たし、空も、地面も、すべてが赤に染まっている。
「……なに、これ?」
私は混乱しながら辺りを見回した。さっきまでの森は、どこにもない。代わりに広がるのは、果てのない赤。上も下もわからない。まるで、世界そのものが裏返ったような感覚がする。
後ろを振り返ると、天使がいた。純白の衣、銀の髪、どこまでも端正な顔立ち。けれど、この赤い世界の中では、彼の白が異様なほど浮いて見えた。
何かがおかしい。
「……あなた、何者?」
そう問いかけた瞬間、彼はゆっくりと微笑んだ。その笑みは、どこか悪戯めいていて、まるで私の困惑を楽しんでいるかのように見えた。
「私は悪魔だよ。」
瞬間、視界が歪んだ。
足元が崩れる。
上も下も消え、私は宙に放り出された。焼けつくような赤の空間が、ぐるりと回る。頭がついていかない。どこに落ちているのかすら、わからない。ただ、世界が赤く沈んでいくのだけは、はっきりとわかった。
「待って……!」
何が起きているのかわからない。でも、これは違う。私が願ったのは、あの女が地獄に落ちることだった。私が、こんな目に遭うはずがない!
「お前の願いは叶えたぞ。」
悪魔の声が響く。冷静で、淡々としていた。
「異世界の女は、この世界を去った。呪いの矛先がいなくなった以上、その呪いは、本来の持ち主であるお前に還る。それだけのことだ。」
何を言っているのかわからなかった。私は、あの女を呪ったのに。私が呪われるなんて、おかしい。
「――じゃあ、ミレイアを地獄に落としてよ!!!!」
悪魔はあくまで静かに続ける。
「無理だ。異世界の女が残した銀の箱により、呪いは跳ね返りお前に戻る。」
そう告げられた瞬間、赤が深く沈み込んだ。ぐらりと空間が揺れる。熱を孕んだ何かが、地の底から湧き上がってくる。蠢く影が、私の足元へと集まってくる。
「嫌……!」
私は身を引こうとする。けれど、どこにも逃げ場はなかった。
「存分に、味わうがいい。」
くすりと笑う声が聞こえた。
◆◆◆
延々と広がる赤い空の下、無数の人が歩いている。誰もがぼんやりとした目をして、前へ、前へと進み続けている。
だが、それがどこへ向かうのかは誰にも分からない。彼女たちはただ、足を動かすことしか知らないかのように、ゆっくりと、しかし決して止まることなく歩いている。
はじめは気づかなかった。ただの亡霊か、あるいは私と同じように落ちてきた罪人かと思った。だが、近づいて、その顔を見た瞬間、私は震えた。
「……私?」
声に出して、ようやく理解する。そう、そこにいるのは、私だ。どこを見ても、どこまでも、ただひたすらに私ばかり。長い髪をなびかせて歩く私、幼い顔のまま佇む私、豪奢なドレスに身を包んだ私――どれも、私。
「どういうこと?」
赤い空の下、微笑む悪魔が静かに口を開く。
「彼女たちは、別の世界に生きたお前だよ。」
「……は?」
「本来なら、お前が辿るはずだった人生。いや、お前ではなく、この無数の『ジュリア』が、それぞれの世界で手にしていた未来だ。」
言葉の意味がすぐには分からなかった。
だが、幽鬼たちの影をよく見れば、彼女たちは皆、私が欲しかったものを手にしていた。
ある者はお洒落をして優雅に街を歩き、ある者は愛される貴族令嬢として微笑み、またある者は穏やかな家庭を築き、幸せそうに子供を抱きしめている。
そんなはずがない。
「嘘よ……! そんな未来があるはずがない……!」
私は叫ぶ。だが、幽鬼たちは変わらず歩き続ける。私を一瞥すらせず、ただ、目の前にある幸福の影をなぞるように。
「これは、お前が捨てた未来だ。」
悪魔は穏やかに告げた。
「彼女たちは、お前が貪欲に手を伸ばしさえしなければ、確かに存在したはずの可能性だ。誰かを踏みつけずとも、誰かを欺かずとも、お前が手に入れられたかもしれないものたちだ。」
「そんな……そんなもの……!」
「お前は、自らその道を潰した。だから、お前はここにいる。お前が望んだものを、誰もが持っていたという現実を知るために。」
息が詰まる。喉が焼けつくようだ。胸の奥がひどく痛い。
この世界の私たちは皆、幸福だったのだろうか?
もしも、もしも私が違う道を選んでいたら。
もしも私がミレイアの屋敷に入り込まず、策略を巡らせず、家族の元で、ただ真っ直ぐに生きていたら。
それはありえたことなのだろうか?
目の前を歩く「私」が、一瞬だけこちらを振り向いた。
――オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ……
「……やめて…」
声が震える。
「やめてよ……! そんな顔、しないで……!」
私は立ち尽くしたまま、ただ延々と歩き続ける「私たち」を見ていることしかできなかった。
「神様!!!!助けて!!!!!!!!」
喉が張り裂けるほどの、声にならない声。
足元は何もない。赤い空間に浮かぶ私の体は、黒い縄に吊られていた。息が詰まる。苦しい。手足が冷えて、指の感覚がなくなっていく。
「……追い払えと言ったくせに?神を否定し、悪魔を頼り、望むものを手に入れるためにどれだけの嘘を重ね、人さえも殺したのを忘れたのか?」
その声は愉悦に満ちていた。
見上げれば、天使の姿をした悪魔が、まるで美しい彫像のように微笑んでいる。
「違う……違うの……!」
視界が揺れる。涙が滲む。息が苦しい。
空を掴むように手を伸ばすが、指先は何にも届かない。
「神様は、見ているよ。」
その言葉を最後に、彼はふっと消えた。
そして――目の前に、巨大な目玉が浮かび上がる。
感情の読めない瞳。無機質で、冷たく、それでいて、どこか哀れむような――そんな視線で、私を見つめている。
いやだ、やめて。見ないで。
声にならない声が喉の奥に詰まる。
その目に見つめられていると、私の罪がすべて暴かれるような気がした。
父と母が必死に貯めたお金を盗んだ。妹の治療費を持ち逃げした。嘘をついてミレイアの屋敷に入り込み陥れた。人を殺した。
私はただ、人のものを奪い続けていた。母の愛を踏みにじり、妹の未来を奪い、そして、ミレイアの居場所を横取りしようとした。終いには無関係の人の命すら奪った。
「……お母さん……」
声に出した瞬間、涙が零れ落ちた。
なぜ今になって、この名前を呼んでいるのか、自分でもわからない。
どれだけ後悔しても、過去は消えない。目の前の世界は変わらない。
私は、帰る場所を捨てた。
自分で選び、自分で壊し、そして、全てを失った。
赤黒い世界が歪む。涙が頬を伝い、虚空へ落ちていく。
――神様は、見ている。
目玉が、ただ静かに、私を見つめていた。
教会の扉を押し開くと、ひんやりとした空気が私を包み込んだ。祭壇の前まで進み、膝をつく。
「神様、どうか。どうか……娘の目が治りますように……」
懸命に耐えていた涙が、祈りとともに溢れそうになる。
けれど、ここで崩れてしまってはいけない。私は歯を食いしばりながら、もうひとつの願いを口にした。
「そして……もう一人……上の娘が……どうか、心を入れ替えて帰ってきますように……」
いなくなったあの子を思い出すたび、胸が引き裂かれそうになる。悔しくて、悲しくて、どうしようもない。
「……何があったのですか?」
穏やかな声に、はっと顔を上げた。
司祭さまが静かに私を見下ろしていた。
私は唇を噛みしめる。
言いたくなかった。誰かに話してしまったら、本当に取り返しがつかなくなる気がして。でも……
「……上の娘が……妹の目の治療費を盗んで、家出してしまったのです……」
自分で言った言葉が胸に突き刺さる。
事実を口にした瞬間、何かが決定的に崩れていく気がした。
「昔は……本当に良い子だったんです。妹のことをいつも気にかけて、家の手伝いもよくして……優しくて、素直な子で……」
あの頃は、私の誇りだった。
「でも……あの子が街に行くようになってから、少しずつ変わってしまいました。華やかなものを好むようになり、派手な服を買い、きらびやかな世界に憧れて……」
思い出すたびに胸が締めつけられる。
最初はただの憧れだったはず。
けれど、いつの間にか、あの子は私たちが知らない世界に足を踏み入れていた。
「お金の使い方も荒くなって……夫も、何度も叱ってくれたのですが……聞く耳を持たなくて……それどころか……とうとう、家中のお金を盗んで、いなくなってしまったのです。」
言葉にした途端、涙が溢れた。
私は胸元を握りしめ嗚咽をこらえながら続ける。
「私は……私は、何を間違えたのでしょうか……?」
どこで間違えた?
どこで、娘の心は離れてしまった?思い返しても、答えは出ない。ただ、残ったのは、失ったものと、後悔だけ。
「どうか……どうか、神様があの子を見守ってくれますように……!」
司祭さまの手がそっと私の肩に触れた。
「神の御心のままに……あなたの願いが届きますように。」
優しく静かな声。
でも、その言葉は、どこか遠く感じた。
本当に、神様は願いを聞いてくれるのだろうか?
私はただ、震える指を組み直し、もう一度目を閉じて祈り続けるしかなかった。
◆◆◆
ぬかるんだ土が裸足に絡みつく。
ひんやりと冷たい感触が、足裏からじわじわと這い上がってくるようだった。
私は歯を食いしばりながら、闇に沈む森の中を歩き続けた。
――くそっ。
体は疲れているのに、頭の中は煮えたぎるように熱い。
ここはどこなのかもわからない。けれど、そんなことはどうでもいい。
全部、全部、あいつのせいだ!!
異世界から来た、ミレイアの中に入り込んでいた、あの女。
何なの? 何なのよ、あいつは。
どこから来て、何様のつもりで、私の人生を台無しにしたの?
私の人生は、親のせいで最初から決まっていた。普通の家に生まれ、普通の暮らしを強いられ、ちんけな金でちんけな人生を送る。そんなのまっぴらごめんだ。
だから街へ行った。私は、あのくだらない家とは違う。もっとふさわしい世界があると気づいた。
高価なドレス、輝く宝石、香り高い香水……どれも手に入れたかった。だから、手に入れるために動いた。
私は努力した。
口先ひとつで人を動かし、必要なものを引き寄せる術を学んだ。何も持たない者は、それくらいできなければ這い上がれない。
あの屋敷に入り込み、メイドとしてミレイアを孤立させるのは簡単だった。貴族が噂話を好むことを知っていたから。ほんの少し嘘を広め、被害者ぶるだけでよかった。
結果、私は伯爵家の養女になった。
メイドから貴族の娘へ。
まさに大逆転。
……だったはずなのに。
全部、あの女のせいで台無しになった!!!
「……ふざけるな!!!!!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
「ねえ、神様? 聞こえてる? 私はこんな仕打ちを受けるような女じゃないわ。私はずっと努力してきたの。誰よりも、必死に生きてきた。なのに、どうして?ねえ、答えてよ。私は何を間違えたの? ねえ、神様?」
静寂だけが、私を嘲笑うように広がる。
「……ああ、そう。そういうことね!」
神は私を見捨てた。
結局、神様ってやつは、都合のいいやつだけを助けるものなんでしょう?
生まれが良くて、素直で、清らかで、善人ぶってるやつを選んで、私みたいな、必死に足掻いて手を伸ばしてきた女は切り捨てる。
「じゃあ、悪魔でもいい!!誰でもいいから、私を助けなさいよ!!!」
泥にまみれたまま、手を伸ばす。
どこに向けているのかも分からない。
でも、私を救う者がいるなら、それが誰であろうと――私は、その手を取る。
その瞬間だった。
何かが、こちらを見ている。
森の奥から、巨大な目玉が、闇の中にぽつんと浮かび上がった。脈打つように、じっと私を見ている。静かに、すべてを見透かすように。
血の気が引く。何かが喉元を這い上がる。
それが叫びになったのか、息になったのか、自分でも分からない。
「ッ……!!」
足がもつれ泥に沈む。
だが、その時――目玉のすぐそばに、もうひとつの影が現れた。
天使。
銀の髪が闇に溶けるように揺れ、白い翼と衣が風にたなびく。その顔には、どんな感情も浮かんでいない。
私は、縋るように天使の腕を掴んだ。
「お願いです!!そこの化け物を……あの目を、追い払ってください!!!」
助けてくれるはずだ。
この人は神の使いなのだから。
次の瞬間、巨大な目玉は音もなく、すっと消えた。
私は助かったのだ。
この人なら、私を救ってくれる。
「私は……私は、とても可哀想な娘なのです…!貧しい家に生まれ、幼い頃から虐げられ……愛されることもなく、ただ生きるために耐えてきました。」
言葉ひとつで、人の心は動く。
「……私は懸命に生きてきたんです。這い上がるために、どんな努力もしました。それなのに……あの悪魔が……あの異世界から来た、恐ろしい存在が……私のすべてを奪ったのです!!」
私は彼を見上げた。
「だから……お願いです!どうか、あの悪魔を……あの異世界の女を……地獄で、永遠に苦しめてください!!!」
この世の地獄では足りない。
あいつには、それ以上の苦しみがふさわしい。
「私が味わった絶望を……あの女にも!!!」
そう、これは神の裁き。
異世界からやってきた悪魔には、それ相応の罰を与えるべきなのだ。
◆◆◆
空気が変わった。森の湿った匂いが消え、代わりに焼けつくような熱が肌に絡みつく。赤い。どこまでも、赤い。血のような光が視界を満たし、空も、地面も、すべてが赤に染まっている。
「……なに、これ?」
私は混乱しながら辺りを見回した。さっきまでの森は、どこにもない。代わりに広がるのは、果てのない赤。上も下もわからない。まるで、世界そのものが裏返ったような感覚がする。
後ろを振り返ると、天使がいた。純白の衣、銀の髪、どこまでも端正な顔立ち。けれど、この赤い世界の中では、彼の白が異様なほど浮いて見えた。
何かがおかしい。
「……あなた、何者?」
そう問いかけた瞬間、彼はゆっくりと微笑んだ。その笑みは、どこか悪戯めいていて、まるで私の困惑を楽しんでいるかのように見えた。
「私は悪魔だよ。」
瞬間、視界が歪んだ。
足元が崩れる。
上も下も消え、私は宙に放り出された。焼けつくような赤の空間が、ぐるりと回る。頭がついていかない。どこに落ちているのかすら、わからない。ただ、世界が赤く沈んでいくのだけは、はっきりとわかった。
「待って……!」
何が起きているのかわからない。でも、これは違う。私が願ったのは、あの女が地獄に落ちることだった。私が、こんな目に遭うはずがない!
「お前の願いは叶えたぞ。」
悪魔の声が響く。冷静で、淡々としていた。
「異世界の女は、この世界を去った。呪いの矛先がいなくなった以上、その呪いは、本来の持ち主であるお前に還る。それだけのことだ。」
何を言っているのかわからなかった。私は、あの女を呪ったのに。私が呪われるなんて、おかしい。
「――じゃあ、ミレイアを地獄に落としてよ!!!!」
悪魔はあくまで静かに続ける。
「無理だ。異世界の女が残した銀の箱により、呪いは跳ね返りお前に戻る。」
そう告げられた瞬間、赤が深く沈み込んだ。ぐらりと空間が揺れる。熱を孕んだ何かが、地の底から湧き上がってくる。蠢く影が、私の足元へと集まってくる。
「嫌……!」
私は身を引こうとする。けれど、どこにも逃げ場はなかった。
「存分に、味わうがいい。」
くすりと笑う声が聞こえた。
◆◆◆
延々と広がる赤い空の下、無数の人が歩いている。誰もがぼんやりとした目をして、前へ、前へと進み続けている。
だが、それがどこへ向かうのかは誰にも分からない。彼女たちはただ、足を動かすことしか知らないかのように、ゆっくりと、しかし決して止まることなく歩いている。
はじめは気づかなかった。ただの亡霊か、あるいは私と同じように落ちてきた罪人かと思った。だが、近づいて、その顔を見た瞬間、私は震えた。
「……私?」
声に出して、ようやく理解する。そう、そこにいるのは、私だ。どこを見ても、どこまでも、ただひたすらに私ばかり。長い髪をなびかせて歩く私、幼い顔のまま佇む私、豪奢なドレスに身を包んだ私――どれも、私。
「どういうこと?」
赤い空の下、微笑む悪魔が静かに口を開く。
「彼女たちは、別の世界に生きたお前だよ。」
「……は?」
「本来なら、お前が辿るはずだった人生。いや、お前ではなく、この無数の『ジュリア』が、それぞれの世界で手にしていた未来だ。」
言葉の意味がすぐには分からなかった。
だが、幽鬼たちの影をよく見れば、彼女たちは皆、私が欲しかったものを手にしていた。
ある者はお洒落をして優雅に街を歩き、ある者は愛される貴族令嬢として微笑み、またある者は穏やかな家庭を築き、幸せそうに子供を抱きしめている。
そんなはずがない。
「嘘よ……! そんな未来があるはずがない……!」
私は叫ぶ。だが、幽鬼たちは変わらず歩き続ける。私を一瞥すらせず、ただ、目の前にある幸福の影をなぞるように。
「これは、お前が捨てた未来だ。」
悪魔は穏やかに告げた。
「彼女たちは、お前が貪欲に手を伸ばしさえしなければ、確かに存在したはずの可能性だ。誰かを踏みつけずとも、誰かを欺かずとも、お前が手に入れられたかもしれないものたちだ。」
「そんな……そんなもの……!」
「お前は、自らその道を潰した。だから、お前はここにいる。お前が望んだものを、誰もが持っていたという現実を知るために。」
息が詰まる。喉が焼けつくようだ。胸の奥がひどく痛い。
この世界の私たちは皆、幸福だったのだろうか?
もしも、もしも私が違う道を選んでいたら。
もしも私がミレイアの屋敷に入り込まず、策略を巡らせず、家族の元で、ただ真っ直ぐに生きていたら。
それはありえたことなのだろうか?
目の前を歩く「私」が、一瞬だけこちらを振り向いた。
――オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ……
「……やめて…」
声が震える。
「やめてよ……! そんな顔、しないで……!」
私は立ち尽くしたまま、ただ延々と歩き続ける「私たち」を見ていることしかできなかった。
「神様!!!!助けて!!!!!!!!」
喉が張り裂けるほどの、声にならない声。
足元は何もない。赤い空間に浮かぶ私の体は、黒い縄に吊られていた。息が詰まる。苦しい。手足が冷えて、指の感覚がなくなっていく。
「……追い払えと言ったくせに?神を否定し、悪魔を頼り、望むものを手に入れるためにどれだけの嘘を重ね、人さえも殺したのを忘れたのか?」
その声は愉悦に満ちていた。
見上げれば、天使の姿をした悪魔が、まるで美しい彫像のように微笑んでいる。
「違う……違うの……!」
視界が揺れる。涙が滲む。息が苦しい。
空を掴むように手を伸ばすが、指先は何にも届かない。
「神様は、見ているよ。」
その言葉を最後に、彼はふっと消えた。
そして――目の前に、巨大な目玉が浮かび上がる。
感情の読めない瞳。無機質で、冷たく、それでいて、どこか哀れむような――そんな視線で、私を見つめている。
いやだ、やめて。見ないで。
声にならない声が喉の奥に詰まる。
その目に見つめられていると、私の罪がすべて暴かれるような気がした。
父と母が必死に貯めたお金を盗んだ。妹の治療費を持ち逃げした。嘘をついてミレイアの屋敷に入り込み陥れた。人を殺した。
私はただ、人のものを奪い続けていた。母の愛を踏みにじり、妹の未来を奪い、そして、ミレイアの居場所を横取りしようとした。終いには無関係の人の命すら奪った。
「……お母さん……」
声に出した瞬間、涙が零れ落ちた。
なぜ今になって、この名前を呼んでいるのか、自分でもわからない。
どれだけ後悔しても、過去は消えない。目の前の世界は変わらない。
私は、帰る場所を捨てた。
自分で選び、自分で壊し、そして、全てを失った。
赤黒い世界が歪む。涙が頬を伝い、虚空へ落ちていく。
――神様は、見ている。
目玉が、ただ静かに、私を見つめていた。
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スペイラ帝国では身分に縛られず働ける。エマは前世の技術を活かし、石を磨いてアクセサリーを作る小さな露店を始める。石に意味を込めた腕輪やペンダントは人々の心を掴み、体験教室も開かれるようになる。伯爵夫人だった頃よりも、今の方がずっと「生きている」と実感していた。
ある朝、ロドリゲスが市場を訪れ、エマの作ったタイガーアイの腕輪を購入する。ところがその夜、彼は驚いた様子で戻り、腕輪が力を一・五倍に高める魔道具だと判明したと告げる。エマ自身は無意識だったが、彼女の作るアクセサリーには確かな力が宿っていた。
後日二人は食事に出かけ、エマは自分が貴族の妻として離縁された過去を打ち明ける。ロドリゲスは強く憤り、「最悪な貴族だ」と彼女と一緒になって怒ってくれた。その気持ちが、エマにとって何よりの救いだった。彼は次に防御力を高める腕輪を依頼し、冒険者ギルドで正式な鑑定を受けるよう勧める。
翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。
価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
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