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番外編 新たな時代を切り拓く一歩
お見舞いしてやりますわ
しおりを挟む「すみません、取り乱してしまって」
「いいえ、そんな。取り乱したなんて思っていませんよ。ふ、普通の行動だったと思います」
「ニル様ったら、たまに抜けていることを言うのね」
「……あはは、誰かさんのが移ったのかもしれません」
人のせいにするのはよくないな。
人生で初めて大きな口を開けて周りを気にすることなく泣いた――フヤリル令嬢はそう言って恥ずかしそうに笑う。先ほど泣いていた人とは思えないほどすっきりとした顔で、まるで別人だ。野に咲くすみれのような優しい笑顔を俺に向けてくれている。
俺も彼女にあの日伝えられなかったことを伝えきった気がした。思いには応えられないけれど、貴方の素敵な思いはちゃんと受け止めましたと。はたから見たら酷い男に見えるかもしれないが、俺は俺の伝えるべきことを伝えられたと思う。
「ニル様といると不思議な気持ちになります。凛々しくてかっこいい面もあるんですけど、それとは別に優しさ、温かさのようなものを感じます」
「俺は結構冷たい人間だと思っていたんですけど。そういうふうに感じる人もいるんですね」
「第三者からしか分からない良さというのもあるんですよ。世の中には」
フヤリル令嬢はそう言うと、ふぅ……と深く息を吐いた。
俺の目的は達成され、フヤリル令嬢はようやく前を向いてくれた。もしかしたら、今後も何か苦しいことがあって支えなくちゃいけないこともあるかもしれないが、今の彼女は一人でもやっていけるだろう。
美しさに執着があった彼女は、その執着を少しだけ取っ払い、今の自分を肯定しようと前向きになっている……そんな気がするのだ。
「ニル様、長い間付き合わせてしまって何と感謝を述べたらいいか」
「気にしないでください。俺がやりたくてやったことですから」
「でも、お仕事のほうは? ほら、ニル様は皇后という座について、今は大陸のトップたちをうなずかせ、竜と人間の共生を目指していらっしゃるとか」
「よくご存じで」
「お慕いしている方のことは把握しているつもりですよ。私はこの先家を出ることになりますが、ニル様の理想の実現のため協力できることがあれば何でもしますわ」
「それは、とても心強いです。でも無理のない範囲で……それに、スチェーネット伯爵は」
「家を出るんですから。あちらの家の方は古い考えに縛られず、新しいものを取り入れようとしてくれる方ですわよ」
パチンとウィンクをされ、目を丸くしてしまった。
フヤリル令嬢に婚約云々の話は聞かないほうがいいかと思い避けてきたので、まさか彼女からその話題に触れるとは思っていなかった。
スチェーネット伯爵が勝手に取り付けた婚約。一応双方の家の承諾は得ているので問題はない。ただ、フヤリル令嬢の意思が尊重されていないだけで。
フヤリル令嬢はどこまで知っているのだろうか。彼女は首を縦に振るしかない状況に置かれているし、スチェーネット伯爵は俺が彼女を立ち直らせることを望んでいた。結果的に、彼女は前を向いてくれて、スチェーネット伯爵の思惑通りになってしまったわけだけど。
俺は、気になって彼女を見てみたが、彼女は変わらず笑顔を向けてくれていた。それが少し怖く感じる。
「ニル様、何か勘違いなさっているようね」
「勘違いですか。でも、貴方は……」
「もちろん、お父様がいきなり婚約を取り付けてきたときは驚きましたよ。しかも相手のことを聞いてさらに……ですが、もう何度か顔を合わせていますの」
「そ、それでどうなんですか」
「いい人でしたわ。上手くやっていけそうな、そんな未来をしっかり見せてくれましたの。単に私の美しさに惚れこんでいるだけではなく、私自身のことを知りたいと言ってくださいました。年齢は離れていますけど、許容範囲内……なんて少し上から目線でしょうか」
「そう思っても仕方がないとは思いますけど」
「私のことを大切にしてくださる方みたいで安心しています。もちろん、貴方への思いは消えることはないでしょう。ですが、夫婦となる殿方……これまでも上手くやってきたように、結婚後も上手くやっていくつもりですわ。音を上げて失望されないように。淑女の鏡だと言ってくださった皆さまの期待に応え続けますわ」
「……本当に貴方には頭が上がりません」
覚悟だ。
彼女は本当に強い女性なんだと、今日だけで何度思わされたことか。
彼女がこの婚約を前向きにとらえているだけでもよかった。逃げ出したいというのであれば力を貸そうかと思ったが、その必要もないらしい。そもそも、彼女は逃げるなんて言う選択肢を取らないだろう。自分の力で自分の歩んでいく道を作っていける、そんな人に見えるのだ。
「まあ、ただ……結婚前に、ずっとお慕いしていた貴方に会いたいとこぼしたところ、敵に付け込まれてしまいましたから。ずっと内に秘めておくべきだったかもしれませんね。でも、今回のことがあったからこそ、ニル様にこうして慰めてもらった。初恋は敵いませんでしたが、しっかりと自分の口で言えたのはよかったと思います」
「それは、こちらとしても……フヤリル嬢、貴方の美しさは全然陰っていません。だから、このまま強く生き続けてください。俺が言えることはこれくらいですが。それと、頼ってくれても構いませんから」
「あら、皇室の力をお借りできるの?」
「お、俺個人です」
「また、陛下に嫉妬されかねないわ」
「セシルと張り合う気ですか?」
「いいえ。私、初めから勝てないと分かっている勝負はしませんの。プライドがありますし」
フヤリル令嬢は少し意地悪気に笑う。
賢い選択を取れる強い女性が俺の目に映った。
セシルと張り合っても勝てる気がしない、よっぽどの阿呆でない限りは分かり切ったことである。フヤリル令嬢はくすくすと笑い、ラベンダー色の髪を肩からふさっと下ろした。
「それこそ、ニル様と幼なじみで昔からずっと陛下と張り合うことができる環境にいたら、もしかしたら私に勝算があったかもしれませんけど」
「それはどうでしょうか。俺は、ずっとセシル一筋ですよ」
「やってみないと分かりませんわ。環境について文句を言っているようじゃ、私もまだまだですけど……次があるのなら、私はニル様を落として見せますわ」
来世で――ということだろうか。
彼女の目に野心がみえる。燃える炎が見て取れた。意外にも肉食系でギャップに脳がやられそうになる。これが本当の彼女なのだろう。ずっと押し殺して生きてきた淑女の鏡であるのもまた彼女だが、心を開いてくれて、新しい一面を見せてくれた今の彼女もフヤリル・スチェーネット伯爵令嬢だ。
幼なじみだったらまた違っていたのか、というのは正直何とも言えない。でも、俺は誰が周りにいようときっとセシルを好きになっていた。断言できる。
俺は、フヤリル令嬢の言葉を受け流しながらちょっとだけもう一人の幼なじみだったアベレアドのことを思い出す。そういえば、彼もまた俺に……
(好かれているのは、俺の人柄? それとも、竜の血が入っているから?)
ほんの一瞬頭をよぎった雑念。
エルバが俺がモテるのはその血に魅了されたからだと言っていた。そして、それが恋だの愛だの勘違いさせているとも。
にわかには信じられない話……信じたくない話だった。けれど、異常に好かれる理由の一つに当てはまるのかもしれない。実際に、ズィーク・ドラッヘンは竜に魅了され、復活を目論んでいたわけだし。竜が人を魅了する存在であるとフロリアン卿も言っていた。
セシルや、今周りにいる人はそうじゃないと信じたい。
フヤリル令嬢はちらりと窓の外を見やった。明るく優しい光が差し込む窓の外は、俺の位置からじゃ何があるか見えない。
「ニル様、送っていきますわ」
「大丈夫ですよ。そこまでしてもらわなくても……」
「私がそうしたいんです」
「スチェーネット伯爵と鉢合わせる可能性だってあるわけですし」
「お父様とのことはあとからどうにでもなりますわ。とりあえず無視してもらって結構ですの」
「そ、それはまずいんじゃないかな」
あれでも一応は心配していたはずだ。
心配していた娘が前を向いて部屋を出てきたと知れば、スチェーネット伯爵も涙の一筋くらいみせるだろう。そんなスチェーネット伯爵を無視するなんて……
彼女のしたいように生きたらいい。
スチェーネット伯爵が勝手に取り付けた婚約。それには従うわけだから、それ以外は彼女の人生だ。貢がれるのはあまり好きじゃない、美しく着飾るために無駄にお金を浪費する……領地や家のことを考えたら胸が痛かったのだろう。遅い反抗期と思ってもいい。
俺は、自ら俺の手を握ったフヤリル令嬢のほうを見る。彼女は眩しい笑顔を俺に向けていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、俺の手を引いて歩いていく。
少し強引だ。その強引さが、セシルと少し重なる部分があった。
部屋の扉を開け、一階へと降りる。その間にすれ違ったスチェーネット伯爵家の使用人たちは、俺たちを二度見する。
「お嬢様が……!?」と使用人たちが悲鳴のような声を上げていたのも耳に入ってきた。しかし、彼女は止まらず玄関へと向かう。
そして、俺が一番心配していたことが起きてしまった。
「フヤリル……お前、部屋から」
玄関あたりで騒ぎを聞きつけたのか、それとも偶然か、スチェーネット伯爵と出くわしたのだ。
スチェーネット伯爵の目がこれでもかというくらい丸くなり、震える足でこちらに向かってくるのが見えた。両手を広げ、抱きしめようとしているように見える。
だが、その横をフヤリル令嬢は通り過ぎていく。
スカッとスチェーネット伯爵の腕は宙を切り、近くにいた使用人たちに「伯爵さま」と宥められているのがすれ違いざま見えた。さすがに気の毒だな……と思ったが、俺が帰った後親子で話し合うだろうし、突っ込まないことにする。
家庭の事情には、首を突っ込まないこと。
玄関を出ると、そこにはロータリーが広がっていたのだが、見慣れた赤い彼が立っているのが目に飛び込んできた。
「ゼラフ?」
俺が名前を呼べば、相手も気付いたようでこちらに身体を向ける。
「ヴィルベルヴィント公爵様、ニル様のお迎えでしょうか」
「だったらなんだよ」
相変わらず、誰に対しても眼を飛ばす癖をやめてほしい。
一応俺の護衛なのだし、自分のせいで主の評価が下がると思わないのだろうか。俺は別にいいけど、ゼラフのせいで俺の評価が下がれば、セシルは見過ごさないだろう。長く隣にいてほしいから、対外的には大人しくしてほしいのだけど……まあ、ゼラフに何を言っても無駄かもしれない。
そういえば、先ほどフヤリル令嬢は窓の外を見て何かを確認したようだった。まさか、ゼラフが来たからお見送りするといったのだろうか。
(スチェーネット伯爵がここへきても、彼より爵位の高いゼラフがそこにいたら口出しできないし……か)
多分そういう考えの元、強引にここまで来たのだろう。
ゼラフは、フヤリル令嬢と俺を交互に見た後、はああ~~~~と今日一番長いため息をついた。
「ニル、おめでとさん」
「おめでとうって言い方、それ合ってるのかな」
「目的達成したんだろ。話しあえたんならいいじゃねえか」
「そう、だね……」
パチパチパチ、と何とも心のこもっていない拍手を送られてしまい、どんな表情をすればいいか分からなくなる。
それは嫌がらせなのか。場が白けてしまったというか、微妙な空気が流れる。
機嫌が悪い……わけじゃないのだろうけど、なんか不愛想だ。
迎えを呼んでいたが、彼一人というのは正直おどろいた。連れてきた従者たちもいるし、一斉に転移魔法で送還するつもりだろうか。忙しいのに、遠路はるばるご苦労様だ。
次に彼のローズクォーツの瞳がフヤリル令嬢の向けられた。
「お久しぶりですわ。ヴィルベルヴィント公爵様」
「お久しぶり、ね。まあ、そういわれりゃあ、そうか。学園卒業以来か」
「そうなりますわね。まさか、公爵様がニル様の護衛になるなんて……夢にも思いませんでしたわ」
「人は変わるんだよ。スチェーネット伯爵令嬢が変わったようにな」
「私、変れていますの?」
「自分の心にでも聞いとけ。俺は答えねえぞ」
そっけない態度を取り、鼻を鳴らす。
素直じゃない……
ゼラフとフヤリル令嬢は同じ学科――魔法科の先輩後輩……同級生になるのだろうか。ゼラフが一年だぶったせいで同じになっているが、フヤリル令嬢からしてみれば、ゼラフは先輩にあたるのだろう。それと、彼の成績……力を知っているならなおさら、しっかりと上下関係を叩きこまれている彼女からしてみれば敬うべき存在なのだろう。ゼラフを敬うというのがいまいちピンとこないが、彼女にとっては自分よりも素晴らしい成績を収めた彼について何かしら思うところがあるのだろう。
ゼラフは、至極どうでもいいような顔をしている。彼にとってモントフォーゼンカレッジでの学びというのは、一、二年時代は退屈なもので、ようやくダブった三年……四年目色がついたと。
フヤリル令嬢はか細く笑っていた。ゼラフの対応に少し呆れているのかもしれない。
もう少しどうにかならないのか、とゼラフを見ていれば、彼は何かを思い出したかのようにぽりぽりと頭をかきだした。
「あーんで、何だーあー……」
「ゼラフどうかした?」
彼は心底嫌そうな顔をしていたが、腹をくくったのか、フヤリル令嬢の前までやってくる。
彼女と並ぶとその威圧感がまし、フヤリル令嬢が強いとはいえか弱いただのご令嬢に見える。しかし、フヤリル令嬢は目の前にゼラフが来たからと言って微動だにしなかった。これまたさすがである。
一触即発な空気を感じたが、ゼラフのローズクォーツの瞳は優しく細められる。
「俺も、スチェーネット伯爵令嬢に謝らなきゃいけねえことがあったなーつ、思って」
「私に、ですか?」
はて? と、フヤリル令嬢は首をかしげる。
だが、俺はすぐに何のことだか理解し、そのためにゼラフはここまで来たのかと二度見した。
彼女の顔――すなわち、エルバが使っていた時に、その顔を傷つけてしまったことをゼラフは少し悔いているのだ。あの時はすでにフヤリル令嬢はもうこの世には……みたいな空気だったのだが、実際に生きていて、その顔がどうこうというのはよく分かっていなかった。まさか、再び縫い付けられるとは思わずにいたので、ゼラフ的にあの時顔を狙ったのはまずかったなと反省したのだろう。
確かに彼女の顔には傷のようなものが残っている。ただ、遠くから見たらわからない。フヤリル令嬢はこの顔で生きていくと決めているため、掘り返さなくてもいいような気もする。でも、それがゼラフにとってのけじめなのだろう。
「顔――」
「顔?」
「俺も傷つけちまって悪かったなって……実際には、お前の顔についている時じゃなかったけど。考慮するべきだったな。陛下にもガミガミ言われた」
「ああ、この傷……ヴィルベルヴィント公爵様が」
フヤリル令嬢は今気づいたというように、そっと頬に触れる。
その後すぐに別に気にしていない、と彼女は付け加えた。しかし、ゼラフの気は収まらないように見える。
あの夜、セシルは一発で仕留めろと言っていたが、ゼラフは顔を狙い外した。セシルの怒号が飛んだのは単にエルバをしとめられなかったからではなく、その顔を傷つけてしまったからだろう。セシルはあの夜すぐに、彼女の顔が本物の人間の皮膚だと気づいていたのだ。だから、もしかしたらその顔を元の持ち主の元へ返せるかもしれない。だから、傷つけるなとゼラフに言いたかったんじゃないか。
それをゼラフは気づかずか、気にせずか傷つけてしまった。
エルバも顔を傷つけられて怒っていたが、あれはあの皮膚に宿ったフヤリル令嬢の叫びでもあったのかもしれない。
フヤリル令嬢は数回自分の顔に触れた後、ゼラフのほうを見た。彼は居心地悪そうに視線を逸らしている。
セシルに言われて改心するような男でないことは分かっているのだが、俺がフヤリル令嬢のことを気にしていたこともあり、彼なりにいろいろ考えたんじゃないだろうか。誰かに謝るとか、頭を下げることを基本嫌うし、ゼラフ自身自分が間違っていないと思えば突き進む男だ。そこにたくさんの反感や不安を煽ったとしても、彼は彼の道を行く。
なので、今回はとても珍しい彼の一面を見た気がするのだ。
フヤリル令嬢は気に病む必要ないと首を横に振る。聖母のような笑みをゼラフに向けていた。
「過去のことですから」
「……つってもなあ……………………分かった。一発殴れ」
「へ?」
「え?」
彼の口から飛び出したとんでも発言に、フヤリル令嬢だけでなく俺も驚く。
ゼラフは、自分で言ったくせに苛立ち頭をかきむしっていた。
それでも、彼も覚悟を決めたようで、その場から動く様子はない。身長差があるので、少し背を曲げて彼女の手が届くようにしている。
自ら頬を差し出しているゼラフを見ているととても不思議な気分だ。夢なんじゃないかと、頬をつねってしまうくらい不思議な光景である。
(あの、ゼラフが……)
でも、ご令嬢に対して一発殴れなんて物騒すぎる。
フヤリル令嬢はどう思っているのだろうか、と見てみれば、彼女もポカーンとしていた。でも、俺と違ったのはゼラフの言葉をしっかりと受け止めているところだ。
彼女はスッと前へ出る。
ゼラフは微動だにしなかったが、どんな反応がかえってくるか全く予想できていない様子。
俺からできるアクションも何もないので、ただ見守っていることしかできない。
「ヴィルベルヴィント公爵様、先ほどの言葉本当ですか」
「ご令嬢に殴れは少し言い過ぎたか?」
「いいえ。公爵様が殴っていいというのであれば、私は別に構いませんよ。本当に殴っていいのであれば。伯爵令嬢風情に殴られてもいいのであれば」
「いうじゃねえか。俺が逃げるとでも?」
あぁ? と、メンチを切る。
何で言った本人が喧嘩を売っているのだか。フヤリル令嬢もわざと煽るような言葉を選んでいる。彼らはそこまで関りがなかったはずなのに、ずっと前から犬猿でしたみたいな雰囲気を醸し出しているのはどうしてなのか。
俺が知らないだけでかかわりがあったのかもしれない。
俺がどうなるのか行く末を見ていると、バッと玄関の扉が開かれる。そこから飛び出してきたのはスチェーネット伯爵と、数人の使用人たちだった。
スチェーネット伯爵は何やらただならぬ空気を感じ、俺のほうを見る。これはどういうことだ、と顔面蒼白になっていく。いきなりゼラフがきて驚いているというのもあるだろう。何せ彼は、あれでもヴィルベルヴィント公爵なのだから。
俺は止めませんよ、と彼らのほうを見れば、スチェーネット伯爵は彼女に向かって叫ぶ。
「フ、フヤリル何をしようとしているんだ!!」
しかし、フヤリル令嬢はそんな自分の父に対して見向きもしないようだ。それどころか、左足を下げ、拳を握り今にも殴りかかりそうな姿勢を取る。
ちゃんと腰の入ったいいパンチが繰り出されそうだな、と俺は他人後のように見ていた。実際に、これは彼らの問題。
スチェーネット伯爵はその身体を使って止めようとするが、巻き込まれてはいけないと使用人たちがバリケードを作る。主人に触れるのは重罪に当たるからなのか、捨て身タックルで止めたりはしない。
大事になった。
そんなことを考えていれば、フヤリル令嬢を中心に風が吸い込まれていくような気配を感じる。見れば、彼女は身体強化魔法を使い重たい一撃をゼラフに食らわせようとしていた。
ただ殴るだけ、ないしはよくある平手打ちかと思っていたが、意外にも本格的にやるんだと少し感動すら覚える。
ゼラフが逃げる様子はない。男に二言はないのだろう。まあ、少しだけ「そこまでやるか」みたいな顔をしているが、とくに防御の姿勢は作らなかった。彼なりに、それが彼女へできる償いだと思っているのだろう。
「歯、食いしばってくださいまし――ッ!!」
きれいな軌道を描いて彼女の拳が飛んで行く。その細い腕からは想像がつかないほどいい音があたりに響き渡ったのだった。
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