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第1章
05 小さな賭け事
しおりを挟む「お兄様の、馬鹿!」
「あはは、面白いことになっているみたいでよかった」
「よくないですけど? 全くよくないですけど? どう責任取ってくれるんですか」
「でも、喜ばしいことじゃない? 皇太子の婚約者なんて。令嬢たちの間では、誰が皇太子の婚約者になれるかって競争が起きるくらいだし」
「あの殿下のどこがいいんですか!?」
まあまあ、といった感じになだめてくるお兄様の顔は終始ご機嫌とにこにこしていた。それが一層私の心を乱して、怒りで満たして、どうしてやろうかと殺意さえ湧いてくる。
「というか、本当に気づかなかったんだね。ゼインは」
「気づく余地もなかったですよ。あの鈍感、馬鹿……着飾っていたとはいえ、声も、背の高さも、同じで。逆に気づかないもんなんですかね?」
「まあ、ゼインだから。そういうのどうでもいいって思うタイプだし」
「私の事、病弱令嬢って……まあ、それに、あんなふうに着飾ったの久しぶりでしたから」
ペチカに戻れた喜びと、自分がこれまで抑えてきた欲求があの一日で爆発した気がした。
殿下が……は置いておいて、ただ単純に可愛く着飾って貰えたこととか、お肌がきれいとか、爪はどうするとか。令嬢が普段気にかけているところをすべてメイドたちがやってくれて、褒めてくれて、可愛いって言ってくれて、それが渇いた私の心を潤した。と同時に、本当に可愛いのか、私はペチカなのか、ベテルなのか分からなくもなって怖かった。髪の毛を切れば、騎士服に身を包めば、私は騎士に戻るのに。何が、私を女性として、男性として区別しているのだろうかと。
「よかったじゃん。お姫様に戻れて」
「そういう問題ではないのです! ああ、もう、本当にめんどくさいことになった……」
お兄様は傍観者だからいいけれど、私は当事者であり被害者だ。簡単に婚約破棄などできないから、あちら側から破棄してもらわないことには破棄できないだろう。それに、破棄したら公爵家の名に傷がつき、指を刺される。
「私は、結婚しないので!」
「でもペチカは、殿下に結婚してほしいんでしょ? 皇帝になった殿下を見たいって、そういってたじゃないか」
「……うるさいです」
昔の夢、というか――幼いころに殿下のことを知って、この人が未来の皇帝なんだって思ったらかっこよく見えた……時もあった。でも可愛い時期なんてすぐに過ぎ去って、彼は戦闘狂、恐怖の象徴としてその名をとどろかせた。私よりも小さかった時の殿下なんてもういない。私がかなう相手じゃなくなった。
あの頃は、騎士として彼を支えるとか、皇后になって彼を支えるとかそういうのではなく、単なる憧れというか、希望というか、よくわからない感情を抱いていた。彼が、恐怖の象徴となりはてひねくれて帰ってくるまでは。
「好きなんじゃないの?」
「はい?」
顔を上げれば、お兄様がにこぉ! とした表情で私を見ていた。
何のことだかさっぱりで首を傾げれば、お兄様は私の肩をぽんと叩いた。
「殿下のこと好きなんじゃない?」
「な、ないです。ないない。じゃなかったら、婚約破棄なんてさせようとしていません」
「え? 婚約破棄させようとしているの? ゼインに?」
「え、はい。ダメですかね」
嘘、みたいな顔をされて、こっちも、え? としか返せない。
お兄様は考え込むように顎に手を当てていて、何か違う、とでもいうように私の方を見る。青い瞳がこちらに向けられれば、反射的に肩がはねる。
「ゼインと婚約破棄がしたいと」
「はい。だって、私……殿下の前で一人二役なんてできません。お母様の病気がどうかは知りませんけど、いつまでこうしていないといけないのか。どうせバレます。バレるくらいなら、婚約破棄して……ペチカのことは忘れてもらって」
「……確かに、バレたら大変だね」
と、お兄様は深刻そうに言った。ようやく、私の必死の訴えが届いたんだと喜んだ次の瞬間、再びお兄様は私の肩を今度は両方掴んで笑った。
「それ面白いから、賭けよっか」
「へ?」
「ゼインが婚約破棄してくれるのが先か、ペチカがゼインの事好きになるのが先か」
「ま、待ってください。お兄様、意味が分かりません。私が、殿下を好きに?」
「うん。ペチカは気づいていないだろうけど、ペチカはずっと――」
「おい」
地響くような声が、私たちの背後から聞こえる。
ひょこりと、お兄様が、私の後ろを覗けば、案の定そこにいたのは殿下で、お兄様の顔がますます緩くなる。また、ろくでもないことを考えているような顔に、私はぞっと寒気さえ覚える。
「また、兄弟で白昼堂々イチャイチャと」
「兄妹仲良しちゃだめなんていう法律はないからね。それで、ゼイン。怖い顔やめて?」
「で、殿下。すみません。持ち場に戻ります」
「……いや、いい」
お兄様の手を払いのけて、私は殿下に挨拶をする。騎士として、持ち場を離れたのはまずかったか。だが、今は休憩だし、怒られる筋合いはなかった。
しかし、殿下の気分屋には何度も悩まされているため、怒られるのではないかと思っていたが、なんだか様子がおかしかった。
(目の下に隈……?)
イライラしていることはあれど、不眠だったというのは聞いたことがない。以前、一時期不眠を患ったことはあったと聞いたけれど、現在はそんなことはない。そんな殿下の目の下にうっすらと隈があるのに気づいてしまった。
「ベテル・アジェリット」
「は、はい!」
「貴様の姉のことだが……」
殿下は、そういうとふらふらっと私に近寄ってきて、ずいっと私のかをのぞき込んだ。それは誰かと比べるような、見極めるような顔で、さすがにペチカが私だとバレたんじゃと、冷や汗が流れる。
「あ、姉が何かやらかしたんでしょうか」
「ああ、俺の腹をけった。何が病弱令嬢だ、とんだじゃじゃ馬だ」
「そ、それは失礼しました」
「貴様ではないだろ。貴様の姉だ」
「あ、姉の罪は、僕の……でもありますから」
「……いい心がけだが、別に咎めようとは思わない。もちろん、ペチカ・アジェリットもな」
そういうと殿下は私から離れて、今度はお兄様の方を見た。お兄様はにこりと笑うだけで、その表情を変えたりしない。いくら殿下とは言え、お兄様のポーカーフェイスを崩すことも、読み取ることもできないのだから。
おとがめなし、というのはありがたかったが、婚約破棄してくれるか興味を失ってくれる方が私としてはありがたかった。しかし、あの最後の出来事がきっかけで、殿下の中で忘れられない人になってしまったのではないかという恐れもある。だが、あのまま抱かれるのは私のプライ的にも許さなかった。
「何? ゼイン」
「……貴様は、ペチカ・アジェリットのことをどう思う?」
「んーどうって。可愛い妹だよ。病弱って、確かに君の言う通りじゃじゃ馬かもしれないけど。でも、可愛い妹だよ。だから、優しく扱ってあげて」
「お、兄上」
「……そうか。可愛いか」
「可愛いよ。ペチカは」
「……可愛い。確かに可愛かったな」
と、殿下は繰り返すように可愛いといった。
ペチカの顔を思い出すように、そして、どこか嬉しそうに。そんな殿下の顔を見ていると、トクントクンと優しく鼓動がうつ。私のことだけど私のことじゃない。でも、可愛い、とこんなふうに言われたのは初めてで、私は耐えきれない羞恥心を隠すようにお兄様の裾を引っ張った。
「どうしたの? ベテル。顔赤いけど」
「……兄上のせいです」
顔をのぞき込むお兄様。顔がいい、なんてお兄様もいいし、だから私も……とはならないかもしれないが、美形を見慣れた殿下が可愛いなんて言うのはお世辞だろう。
そんなふうに、少し火照りが冷めてきたところで、私の異常に気付いたのか、殿下はかっと目を見開いて、お兄様を睨みつけた。
「何? 貴様、弟に手を出したのか?」
「え、待ってどうしてそうなるの?」
「貴様は、やたらと、ベテルと距離が近いからな」
「兄弟だから」
「……だが、近い」
と、何やら不満のように殿下はいうと、もう一度私の方を見た。
今度は何を言われるのだろうと思っていると、殿下はふぅ……と息を吐いて、私に手を差し伸べた。
「ベテル・アジェリット。久しぶりに、手合わせをしないか」
「え?」
「前に、貴様は俺に勝ちたいと言っていたではないか。どれだけ成長したか、俺が見てやる」
先ほどの、初々しい態度はどこへ……殿下は好戦的な目で私を見つめ、少しだけ首を傾げ、ルビーの瞳を爛々と輝かせた。
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