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第2章
10 謝罪と熱情
気まずい。
デジャブを感じるその気まずさは、会話ができない初対面の人間同士ではなく、明らかに何かがあってしゃべれなくなった顔見知りの気まずさだった。
毎度のように、いれた紅茶は冷めている。
「……」
「……ペチカ」
「は、はい。何ですか。ゼ……でん、ゼイン……」
「……」
静寂を破った殿下の声に、過剰に体が反応してしまい声が裏返る。それを見てか、殿下もびくっと肩を揺らし、それからさみしそうな、それでも少し不快だというように眉間にしわが寄る。
感謝と謝罪を言いに来たとは聞いていたけれど、まったくそんな気配もなく、ずっと怒っているような感じがして、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいになっていた。それでも、それはあまりにも失礼で、相手をさらに不愉快にしそうなので、逃げずにぎゅっと膝の上でこぶしを握る。
殿下もあの夜のことを後悔しているのだろうか。
(……私、婚約破棄したくないんだ……)
お兄様との会話はあのままなあなあに流れてしまったけれど、きっと口から出たあの言葉は本心だったのだろう。
『ああ、もう、婚約破棄とか言われたら!』
あれだけ婚約破棄させようと躍起になっていたのに、いつの間にか私は……いや、ここ数か月の間に変わってしまったのだ。殿下の隣に、ペチカ・アジェリットとしているようになってから。婚約破棄したい理由は、私がべテルという一人二役を演じていることがばれるのを防ぐためだったけど。
彼の隣にいて悪い気はしなくなっていた。
はじめこそ、子をなせるか、とか非常に不愉快極まりない発言を連発したけれど、一目惚れだと言ってくれた時から彼は変わって、ペチカにしか見せない表情を見せてくれるようになって。彼のやさしさと気遣いの詰まった愛のような何かを受け取って、私は彼のことを意識するようになっていた。もちろん、べテルとしても彼のそばにいるので、その時の彼と、私の前の時の彼を比べてしまうということはあるけれど。それでも――
「……すまなかった。あの夜は」
「い、いえ。とんでもございません。私の、ほう、こそ……その」
「貴様は何も悪くない。俺の失態だ」
「失態って! 私をかばって媚薬入りのワインを飲んでくれたんじゃないですか! それが、媚薬入りだってわかっていなかったとしても、お酒に弱い私をまも……ために……貴方は、悪くないです」
「……そうか。でも、そのあとだ。貴様に、痛い思いをさせた。あれだけ、抱かれるのも、下品な話も嫌っていなのに」
「いえ、それは」
確かに、性的な話をひけらかすような、堂々と言ってくるような人は品性に欠けると嫌いだった。また、男性が上だというその思想も好きじゃない。けれど、殿下はあの夜私を気遣ってくれた。彼に気づかいという行動ができる時点で、彼は野蛮な男ではないのだ。
そして、私を大切にしたいと口にしてくれた。私はその言葉だけで救われて、その言葉があったから殿下を救おうと身をささげることができたのだ。それを、否定してほしくない。
「違います。あれは、私が自らしたことです」
「だが、貴様は……ペチカは……痛がっていただろう」
初めてだっただろうに……と消えるような声で言った殿下は、頭を垂れて黙り込んでしまった。
後悔してほしくなかった。でも、その後悔が私が後悔してるというように解釈しての後悔だったから、少しだけ腹が立ってしまった。私がいいと言っているのに、それを否定することは私の気持ちを否定するのと同じだ。また、わがままなところが出ていると思ったが、私は言わずにはいられなかった。
「だから、貴方のせいじゃないです! 私がしたくてした! それに、殿下は、私に強姦されたんですよ? そっちを怒ってくださいよ。なんであなたが私に謝っているんですか!」
「ま、まて、俺が強姦……いや、しかし、だが……くっ」
私の圧に押され、殿下は何か言いたげに口を開いたが固く閉じてしまった。「そうか、俺は犯されたのか」と最後には私が言わせたみたいにそんな言葉を口にして。
私は息を切らしながら、イスに深く座り直し、殿下のほうを見た。殿下は少し顔が赤くなっていて、目を合わせてくれなかった。恐怖の象徴ともいわれる暴君が聞いてあきれる、乙女みたいな顔をしないでほしい。
「あの時は、私もあせってあんなふうな行動をとってしまいましたが後悔はしていません。貴方を救えたのなら私はそれでいいのです。主君を守るのは、騎士の役目ですから」
「貴様は騎士じゃないだろう……だが、そうか。そんな考え方もあるのか」
「い、いえ……ああ、これは、べテルの受け売りで」
思わず、騎士と言ってしまい、慌てて取り繕ったが、殿下は気づく様子もなかった。ただ、先ほどまで渦巻いていた後悔がさっと晴れたような顔に、私もほっと息を吐く。
怒っているような感じもないし、婚約破棄ともいわないし、そこまで深く考える必要がなかったのかなとさえ思ってしまう。けれど、一線は越えてしまった。それは変わらない。純潔は戻ってこないのだ。
(だからこそ、婚約破棄はもうできない、のよね……)
伴侶ができ、そしてその力を知らしめて彼が皇帝になる……それは私が望んだことであり、喜ばしいことだろう。けれど、やはり彼の前で一人二役を演じるのは無理がある。ディレンジ殿下が言っている通り、べテルは殿下専属の護衛になるだろうという話が上がってきているのも確かだからだ。それをけることができるのか。けった後に、殿下になんて言われるのかも……
「それで、その、だな……ペチカ」
「何ですか。そのふわふわとした視線は。はっきり言いたいこと言ってください!」
濁されるのは嫌いだと私が一瞥すれば、殿下の背筋がピンと伸びた。
「……俺はあの夜のことを後悔していない、ということにする。後悔はしていない。貴様が後悔してなければ、と思っていたが、その心配もなかった」
「はい。もう終わったことなので」
「終わったことか……そうだな。だが、不本意とはいえ、俺たちは一線を越えたわけだ」
「は、はい。それも、理解しております」
次はなんていわれるのだろうかと、口の中が渇く。
殿下はあの日のような熱のこもったルビーの瞳を絶えず私に向けて、それから立ち上がり私の前まで来るとひざを折った。プロポーズでもするような、忠誠でも誓うようなその行動に私は目を丸くする。
「ぜ、い……」
「ペチカさえよければ、あの夜のやり直しがしたい」
「え、へっ?」
予想の斜め上は確実にいっていた。そんな言葉が飛び出すとは思えず、私は、あ、あ、と口から母音しか出てこなくなって、私の手をすっと取って手の甲に口づけする殿下が、あまりにも輝いて見えてまぶしかった。殿下って発光するんだっけ? なんて、現実的におかしいことを思うくらいには、私の頭はショートしかけていた。
(あの夜の、やり、やりなおし……?)
あの夜とは、あの夜だろう。
殿下が後悔していることって、それ? と思ったが、確かに殿下からしたら初めてが強姦で、私に主導権を握られたわけで。私も痛かったし、途中で意識が飛んだしで、お互い記憶には残るが最低な夜だったかもしれない。お互いにどういう初夜を迎えたいかとか、理想はあっただろうから、それをすり合わせようと――
(――って、意味わからない! いや、わかってあげたいけれど、そんな昼間から、え……)
「しょ、正気ですか?」
「ああ、もう媚薬は抜けている。だめ、か……?」
「うぅっ!」
上目遣い……! そんな技術を殿下は持っていたのだろうか。睨むだけで人を殺せそうといわれていた殿下が、そんな捨てられた子犬のような顔をできたのだろうか!
私ってこんなに殿下に弱かったかと思いながらも、唇をかんでどうにか自我を保つ。
「だめ、じゃないですけど……その、今からですか」
「……っ、違う。ち、違う。そうじゃない。今じゃなくていい。貴様が……ペチカが、許してくれた時だ」
「私が許すって……」
「貴様のタイミングでいい。だが、やり直させてくれ。今度は、絶対に大切にする。ペチカを気持ちよくさせると誓おう」
「そんなこと、誓わなくていいですから!」
ちゅっと、再び手の甲に落とされたキスにくらくらと目が回り、私は思わずそう叫び、叫び声を聞いたお兄様が面白そうにやってきたところで、この話はうやむやになった。しかし、私の頬は、殿下が帰った後でも真っ赤なままで、頬を抑えればその熱がじんわりと掌に伝わってきた。
(殿下の、バカ……変態……むっつりすけべ……)
あの人は何を考えているのかよくわからない。わかっていたはずなのに……そう思いながら、すでに帰ってしまった殿下を思い窓の外を見る。窓の外にはピチチチと、小鳥が肩を寄せ合って幸せそうに鳴いていた。
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