実らなかった啜を

安馬川 隠

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甘くて、ほろ苦い

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 その歌声は日常に溶け込み、多くの人の耳を抜け、多くの人の目に触れてきた。
 人はその歌声を時に甘く、けれどもどこかほろ苦い、珈琲のような歌だと言った。


 三年前、突如SNSに一つのアカウントが設立され一本の動画が上げられた。
ボーカロイドのように顔を出さず少しの加工を加えられた声で作り上げられた曲だった。
 映像は白黒の世界に木が一本生えていて、その木が葉をつけ芽吹き、そして枯れていくまでというシンプルなもの。
 けれども多くの人間の心を射った。


 それが、『非彩』の始まりだった。


 非彩の曲は三年前から現在に至るまでで十二曲。
その全てが数々のランキングに名を揃える。
見ない日などないほどに、テレビでラジオでSNSで取り上げられ注目を浴びる。

 多くの人が惹かれたのは非彩自身の何一つとして公開されていない情報への興味からだったのかもしれない。
けれど、確かに今この国の中で最も期待され注目されていると言っても過言でない、そんな気がする。


 非彩が歌う曲は全てが『ラブソング』。
片想いであることが伺える歌詞に、多くの男女が共感した。
欲望と理性の狭間で動く曲は、時に前に進めそうだと明るい曲調で、時に嫌われたくないからと一歩引いてしまうような暗い曲調に、まるで映画でも見ているかのような臨場感すらある。

 「非彩様の想い人は罪深い」なんてSNSでは見えない非彩の想い人に向けて矢が放たれることは、今では日常茶飯事なのだ。









 今日もイヤホンから流れる音楽に脳を侵食される気持ちになる。
非彩という存在が自分にとっても大切になりつつあるのは、自分も片想いに焦がれているからなのかもしれない。
電車の揺れる音すらも非彩の歌に合わせて鳴っているようで不快どころか、心地よい。


 「好きだと言えば、困る顔くらい想像つくのに」
 「今は黙って、笑って、傍にいるだけ」

 イヤホンから流れてくる言葉の数々にこれだけ動かされるとは思いもしていなかった。
このまま、ずっと出来る限りの曲を聞いて一人のファンとしてこの曲たちと寄り添って生きたい。


 願わくは、非彩の恋路が叶いませんように。


 不謹慎でも、そう願ってしまいながらいつもの景色を眺めていくのだ。
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