弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

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 立ち並ぶ高層ビルの隙間から微かに見える薄らと霞のかかった青い空。

 九月も中旬を過ぎようというのに、照りつける日差しは、盛夏の匂いを消し切れていない。

 べったりと貼り付く蒸し暑さに追い立てられるように店内へと入れば、外とは打って変わったひんやり乾燥した空気に、身体が驚くようだ。

 定位置である窓辺の席へ着くなり運ばれて来た水に、早々口を付ける。きりりと氷で冷やされた水が喉を滑り、胃へと落ちていく清々しさに、ほっと息を吐く。待ち人の姿はまだない。亜弥は、窓の外へと視線を移した。

 あの日、あんな事故さえなければ——。

 女の子のはじめては一生の思い出。そう言った克巳の会社の事務員さんの言葉に、大人になったいまの亜弥は、仰るとおり、と、百パーセント同意する。

 確かに亜弥のはじめては、一生の思い出となったが、思い出に変わるまでの時間は、瞬きほどの短さで。その熱すら覚めやらないうちに、克巳都の夜は儚く掻き消えてしまった。

 克巳とはじめての夜を過ごした翌日、亜弥は誕生日だから特別に、と、兼ねてから父に強請っていた、高級フレンチレストランへ家族で出かた。そして、その帰り道、父の運転する車は、事故に巻き込まれた。

 両親は即死。亜弥自身も重傷を負い、長期療養を強いられたのだ。

 始まったばかりだった克巳との恋も潰え、亜弥の身体には生涯消えることのない疵痕が刻まれた。

 父と母と……克巳くんと。
 もしもあの事故が起こらなかったら、未来はどうなっていたのだろう。

 あの頃の自分は、目の前の恋に夢中で。克巳との将来なんて想像もつかなかったけれど、それでも、あの恋は永遠に続くものだと思っていた。

 あんなに簡単に終わってしまうものだなんて、思いも寄らず。
 当時の自分は考え無しの子どもだったのだな、と、いまさらにして思う。

 あれからもう十年もの月日が経った。

 当の克巳本人はきっと、ほんの短い間付き合っただけの女子高生のことなんて、すっかり忘れてしまっただろう。

 彼はもう三十二歳になるはず。恋愛はおろか、結婚していてもおかしくない年齢だ。もしかしたらもう子どものひとりやふたり生まれているかも知れない。

 過去なんて消えて当然。男も女もない。人なんて皆、そんなもの。いつまでも過去に囚われているほうが、どうかしている。

 忘れられないおばかさんは、自分くらいのものだ。

 過去は変えられない。失ったものは戻らない。そんなことわかっているのに、つい、想像してしまう自分がいる。

 亜弥は窓に映る影のような自分に向かって、くすっ、と、自嘲気味に嗤い、眼下へと視線を彷徨わせた。

 オフィス街が賑わいを見せるのは、一日三回。朝の通勤時と、退社時、そして、昼食時だ。

 とはいえ、企業の昼休みが終わる一時を回ったこの時間ともなれば、歩道も店内も、潮が引いたように閑散としている。

 亜弥が務める商社のランチタイムは、この春からフレックスタイム制が導入されており、午前十一時から午後二時までの間に、業務と個人の都合で好きに一時間の休憩を取ることが可能だ。

 この制度が導入される以前は、十二時の鐘を合図にいち早く外へ飛び出し、希望の店の席取り競争に勤しんだり、銀行のATMの長蛇の列に疲弊したり、と、慌ただしい時間を過ごしていたが、それはまだいいほうで。打ち合わせが長引き昼食を取り損ねることすら、多々あった。

 しかし現在、この制度のおかげで、ゆとりのあるランチタイムを満喫し、午後の業務への英気を養うことができる。

「桃子ったら、また走って……」

 見下ろせば、チラッと視線を上に向け亜弥の存在を確認した待ち人が、階段を駆け上がろうとしていた。

 ランチ戦争が終了した店内にいるのは、これから昼食を取ろうとする亜弥ともうひと組、食後のコーヒータイムをのんびり楽しんでいるおばさまふたりだけ。

 いいタイミングで亜弥を見ていたマスターに目配せをして、カウントダウンを開始する。

 ぴったり十秒、カラン、と、ドアのカウベルが鳴る。と、同時に、乱れた髪の女性客が、勢いよく店内へ飛び込んできた。



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