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§ 気色
三
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「でもさ、告白はされたんでしょう? 断っちゃったの?」
「それは……うん、まあ。でも、断ったってわけでも……保留というか、その……」
「あーわかったもういいわこれ以上訊かない。要するにさ、いままでどおり、曖昧なままどっちつかずでお茶を濁したわけよね?」
「そう……なるのかな」
なるのかな、ではなくて、そうなのだ。
「なによ、悲壮感漂わせちゃって。たかが恋愛でしょ? 好きなら付き合う、興味ないなら断る、それでいいじゃない。中途半端にして悩む必要なんてないでしょうに」
「べつに……私だって好きで悩んでるわけじゃないんだけど……」
理屈ではわかっているのだが、どうしても次の一歩を躊躇ってしまうのだ。
「じゃあなんでいつまでもはっきりしないわけ?」
「だったら訊くけど。桃だったらどう? この状況で断れるの?」
同じ職場で、上司で。敦史は自分の気持ちを隠しもせずに、アプローチしてくる。賛否両論はあれど、社内の人たちはみな、知っている、どころか、部内の人たちなんて、疾っくに恋愛関係だと思っている節もある。
桃子は、はぁ、と、大きなため息をつく。
「無理——っていうかさ、あんた、やっぱり断る前提なわけ?」
「え? あ、いや……」
うっかり漏れてしまった亜弥の本音に、呆れてものが言えないと言わんばかりに、今一度大きなため息をついた桃子は、栗色のショートヘアをぐしゃぐしゃとかき混ぜて、亜弥を射貫いた。
「完全無欠の佐々木部長に言い寄られてあれだけ大切にされて落ちないってのもすごい話だけど、こればっかりは強要できるもんでもないし、そこは突っ込まないわ。興味なきゃ断れって言うのは簡単だけど、実際のところ社内だしぃ直属の上司だしぃ……下手打ったら仕事に影響しかねないし、いや、まず間違い無く影響するか……まあ、難しいのはわかってるつもりだよ。でもさ……」
「でもなによ?」
思わせ振りに間を置かれ、亜弥は警戒心を声音に乗せた。
「昔の男が忘れられないから、とか……いくらなんでもそれはないかぁ……」
もう十年も前の話だし、ほんのひと月程度の付き合いだったし、いくら初恋だからってそんなに引き摺るわけないよね、じゃあなんでだろう、と、独り言のようにぶつぶつ言っている桃子に、亜弥はどんな反応をすればいいのかわからない。
「亜弥、あんたまさか、事故のこと気にしてるわけじゃないでしょう?」
「そんなこと……」
恋愛の関係ともなれば誰であれ、遅かれ早かれ互いの肌を晒す事象に遭遇するのは、ごく自然なことなのだが。
『なにその疵……キモチワルイ』
それを思うたびに、従姉妹の口から溢れたあの詞が、亜弥の頭に浮かんでくる。
長い入院生活を終え、身寄りのない亜弥を引き取ったのは、母の妹である叔母だった。
少し歩けば田畑が広がる、のんびりとした郊外の町で暮らす仲の良い三人家族。
事故後の手続きや葬儀、入退院に至るすべてを世話になり、多大な負い目を感じながらも、疵付いた亜弥を温かく迎えてくれた彼らの尽力により、亜弥は少しずつ健康な日常を取り戻していった。
叔母には亜弥より一つ年下の娘がいる。幼い頃の亜弥は母に連れられ、叔母の家を訪ねては、虫取りをしたり叔父自慢の家庭菜園の手伝いをしたり。朝起きてから夜寝るまで、従姉妹と一緒に遊んだものだ。
成長に伴いそれぞれが多忙なため、多少疎遠にはなっていたが、それでも、顔を合わせれば話の尽きない懐かしい友人のような存在で。
あれは、ほんの偶然のできごと。言うなれば事故のようなものだった。
叔母宅へ移り住んで日が浅い頃だったか。風呂上がりの脱衣所で、亜弥が居るのを知らずに入って来た従姉妹に、裸体を目撃されてしまった。
従姉妹にとって、はじめて見る亜弥の疵痕は、かなり衝撃的なものだったのだろうことは、容易に想像できるのだが。
身体の其処此処に残る大小の疵痕。引き攣れ、ミミズ腫れのように紅く盛り上がり、目を背けたくなるようなそれを目の当たりにした従姉妹。
その表情が、驚愕から恐怖へと移行し、最後は嫌悪となって亜弥を凝視するそのさまは、亜弥を傷つけ。
『キモチワルイ』
歪められた口元から溢れた言葉は、亜弥の心を抉った。
わたしが強請らなければ、父と母を失うことはなかった。
あの事故さえなければ、克巳との恋もきっと終わらなかった。
悲しみも諦めも痛みもなく、平穏無事に暮らしていたはず。
父母の幸せも、克巳の愛もすべて、壊したのは他の誰でもない、わたしだから。
残された疵痕は己への戒めなのだ、と、醜い自分を亜弥は受け入れた。
「……亜弥?」
「ん? なに?」
「なに? じゃないわよ。あんた、ひとの話聞いてないでしょ!」
「ごめん。ちゃんと聞いてるって」
「聞いてるならいいけど?」
「うん。それで?」
落ちていく気持ちを奮い立たせ、亜弥は桃子に向き合う。
「だからね、亜弥。あの部長は顔がいいだの身体がいいだのなんて表面的に女を見るような人じゃないでしょう? あんたはあの人を頭の軽い男と一緒にするわけ?」
「いや、そんなことは……」
「ないよね? 部長の人となりなんて傍に居るんだから、あんたのほうがよっぽどわかってるはずだよ。それなのにのらりくらり逃げてごまかし続けてるなんてさ、これっぽっちもいいことなんてないし、いい加減部長にも失礼だと思うんだけど、私の言うこと間違ってる?」
間違っていません。悪いのは、優柔不断なわたし。
「あんたはフリーなんだし、部長のこと、本心では満更でもないと思ってるんでしょう? だったら、正面から向き合う勇気を持ちなさいよ。私も部長はいいと思うけどなぁ、っていうか、イチオシだよ」
桃子の主張は正しい。
まったくその気がないのなら、もっと早い時点ではっきりとお断りできたはずだ。
不実にも曖昧な態度でごまかし、ずるずると引き延ばしてきたのは、己のずるさ以外のなにものでもない、と、亜弥はあらためて思う。
「そんな深刻な顔しなくても……ねえ、もっと気楽に考えていいんじゃないの? 試しに付き合ってみて上手くいきゃそれでいいんだし? 試す必要もないと、私は思うけどさぁ。あー、ないとは思うけど、もしも、もしも、だよ? 部長が身体の疵がどうとかくだらないこと言うような奴だったら、私が一発ぶん殴ってあげるからさ。それでどうよ?」
ニカッと笑う桃子は実に——。
「漢らしい」
自分は、誰かに背中を押して欲しかっただけなのかも知れない。
「褒めてもなんにも出ないよ?」
食後の口直しに、甘いシロップをたっぷり入れて楽しむはずだったアールグレーのアイスティ。話に夢中のふたりからすっかり忘れ去られたそれは、氷も溶けて無残な姿。
透明な上澄みと琥珀色の紅茶が二層に分かれたアイスティーを軽くかき混ぜ、ストローで吸い上げる。
すっかり味の落ちてしまった生温い紅茶の香りを、口の中で転がす一方で、亜弥は新しい一歩を踏み出せそうな予感に、胸をふくらませていた。
「それは……うん、まあ。でも、断ったってわけでも……保留というか、その……」
「あーわかったもういいわこれ以上訊かない。要するにさ、いままでどおり、曖昧なままどっちつかずでお茶を濁したわけよね?」
「そう……なるのかな」
なるのかな、ではなくて、そうなのだ。
「なによ、悲壮感漂わせちゃって。たかが恋愛でしょ? 好きなら付き合う、興味ないなら断る、それでいいじゃない。中途半端にして悩む必要なんてないでしょうに」
「べつに……私だって好きで悩んでるわけじゃないんだけど……」
理屈ではわかっているのだが、どうしても次の一歩を躊躇ってしまうのだ。
「じゃあなんでいつまでもはっきりしないわけ?」
「だったら訊くけど。桃だったらどう? この状況で断れるの?」
同じ職場で、上司で。敦史は自分の気持ちを隠しもせずに、アプローチしてくる。賛否両論はあれど、社内の人たちはみな、知っている、どころか、部内の人たちなんて、疾っくに恋愛関係だと思っている節もある。
桃子は、はぁ、と、大きなため息をつく。
「無理——っていうかさ、あんた、やっぱり断る前提なわけ?」
「え? あ、いや……」
うっかり漏れてしまった亜弥の本音に、呆れてものが言えないと言わんばかりに、今一度大きなため息をついた桃子は、栗色のショートヘアをぐしゃぐしゃとかき混ぜて、亜弥を射貫いた。
「完全無欠の佐々木部長に言い寄られてあれだけ大切にされて落ちないってのもすごい話だけど、こればっかりは強要できるもんでもないし、そこは突っ込まないわ。興味なきゃ断れって言うのは簡単だけど、実際のところ社内だしぃ直属の上司だしぃ……下手打ったら仕事に影響しかねないし、いや、まず間違い無く影響するか……まあ、難しいのはわかってるつもりだよ。でもさ……」
「でもなによ?」
思わせ振りに間を置かれ、亜弥は警戒心を声音に乗せた。
「昔の男が忘れられないから、とか……いくらなんでもそれはないかぁ……」
もう十年も前の話だし、ほんのひと月程度の付き合いだったし、いくら初恋だからってそんなに引き摺るわけないよね、じゃあなんでだろう、と、独り言のようにぶつぶつ言っている桃子に、亜弥はどんな反応をすればいいのかわからない。
「亜弥、あんたまさか、事故のこと気にしてるわけじゃないでしょう?」
「そんなこと……」
恋愛の関係ともなれば誰であれ、遅かれ早かれ互いの肌を晒す事象に遭遇するのは、ごく自然なことなのだが。
『なにその疵……キモチワルイ』
それを思うたびに、従姉妹の口から溢れたあの詞が、亜弥の頭に浮かんでくる。
長い入院生活を終え、身寄りのない亜弥を引き取ったのは、母の妹である叔母だった。
少し歩けば田畑が広がる、のんびりとした郊外の町で暮らす仲の良い三人家族。
事故後の手続きや葬儀、入退院に至るすべてを世話になり、多大な負い目を感じながらも、疵付いた亜弥を温かく迎えてくれた彼らの尽力により、亜弥は少しずつ健康な日常を取り戻していった。
叔母には亜弥より一つ年下の娘がいる。幼い頃の亜弥は母に連れられ、叔母の家を訪ねては、虫取りをしたり叔父自慢の家庭菜園の手伝いをしたり。朝起きてから夜寝るまで、従姉妹と一緒に遊んだものだ。
成長に伴いそれぞれが多忙なため、多少疎遠にはなっていたが、それでも、顔を合わせれば話の尽きない懐かしい友人のような存在で。
あれは、ほんの偶然のできごと。言うなれば事故のようなものだった。
叔母宅へ移り住んで日が浅い頃だったか。風呂上がりの脱衣所で、亜弥が居るのを知らずに入って来た従姉妹に、裸体を目撃されてしまった。
従姉妹にとって、はじめて見る亜弥の疵痕は、かなり衝撃的なものだったのだろうことは、容易に想像できるのだが。
身体の其処此処に残る大小の疵痕。引き攣れ、ミミズ腫れのように紅く盛り上がり、目を背けたくなるようなそれを目の当たりにした従姉妹。
その表情が、驚愕から恐怖へと移行し、最後は嫌悪となって亜弥を凝視するそのさまは、亜弥を傷つけ。
『キモチワルイ』
歪められた口元から溢れた言葉は、亜弥の心を抉った。
わたしが強請らなければ、父と母を失うことはなかった。
あの事故さえなければ、克巳との恋もきっと終わらなかった。
悲しみも諦めも痛みもなく、平穏無事に暮らしていたはず。
父母の幸せも、克巳の愛もすべて、壊したのは他の誰でもない、わたしだから。
残された疵痕は己への戒めなのだ、と、醜い自分を亜弥は受け入れた。
「……亜弥?」
「ん? なに?」
「なに? じゃないわよ。あんた、ひとの話聞いてないでしょ!」
「ごめん。ちゃんと聞いてるって」
「聞いてるならいいけど?」
「うん。それで?」
落ちていく気持ちを奮い立たせ、亜弥は桃子に向き合う。
「だからね、亜弥。あの部長は顔がいいだの身体がいいだのなんて表面的に女を見るような人じゃないでしょう? あんたはあの人を頭の軽い男と一緒にするわけ?」
「いや、そんなことは……」
「ないよね? 部長の人となりなんて傍に居るんだから、あんたのほうがよっぽどわかってるはずだよ。それなのにのらりくらり逃げてごまかし続けてるなんてさ、これっぽっちもいいことなんてないし、いい加減部長にも失礼だと思うんだけど、私の言うこと間違ってる?」
間違っていません。悪いのは、優柔不断なわたし。
「あんたはフリーなんだし、部長のこと、本心では満更でもないと思ってるんでしょう? だったら、正面から向き合う勇気を持ちなさいよ。私も部長はいいと思うけどなぁ、っていうか、イチオシだよ」
桃子の主張は正しい。
まったくその気がないのなら、もっと早い時点ではっきりとお断りできたはずだ。
不実にも曖昧な態度でごまかし、ずるずると引き延ばしてきたのは、己のずるさ以外のなにものでもない、と、亜弥はあらためて思う。
「そんな深刻な顔しなくても……ねえ、もっと気楽に考えていいんじゃないの? 試しに付き合ってみて上手くいきゃそれでいいんだし? 試す必要もないと、私は思うけどさぁ。あー、ないとは思うけど、もしも、もしも、だよ? 部長が身体の疵がどうとかくだらないこと言うような奴だったら、私が一発ぶん殴ってあげるからさ。それでどうよ?」
ニカッと笑う桃子は実に——。
「漢らしい」
自分は、誰かに背中を押して欲しかっただけなのかも知れない。
「褒めてもなんにも出ないよ?」
食後の口直しに、甘いシロップをたっぷり入れて楽しむはずだったアールグレーのアイスティ。話に夢中のふたりからすっかり忘れ去られたそれは、氷も溶けて無残な姿。
透明な上澄みと琥珀色の紅茶が二層に分かれたアイスティーを軽くかき混ぜ、ストローで吸い上げる。
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