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§ 邂逅
一
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会わせたいひとがいる。
定時前の亜弥が、敦史からの内線電話で呼び出された先は、経営企画室の室長室だった。
経営企画室は社長直属の組織で、その室長ともなれば、重役に匹敵するほどの権限を持っている。
その椅子に座るということはつまり、社長、副社長の椅子が約束されているのと同義だ。
敦史に三歳年上の兄がいるのは、社内の人間ならば誰でも知っている。その兄が、社長の婚外子である事実は、ごく一部の身内以外には一応、秘されているらしい。けれども。
実際は会社に数年も在籍していれば、何処からともなく聞こえてくる公然の秘密で。
いまとなっては当時を知る者もいないため、伝えられる内容が何処から何処まで本当なのかは知る由もないが、亜弥も藐然と耳にはしている。
「兄と父の関係は、まあ、あれだけれど……僕と兄の仲は、とりあえず男兄弟なんてこんなものかな、程度にはいいんじゃないかな。一緒に育った兄弟がどんなものかなんて知らないけれどね」
とは、敦史の弁。
敦史の兄は、母親の手ひとつで育てられた。だが、幼い頃に母親は他界。その後は親身になってくれる身内もおらず、親戚をたらい回しにされていたらしい。
社長が彼と彼の母親を、八方手を尽くして捜索し、ようやく探し当てたときには、二十歳を過ぎた彼が独り、母親の位牌を守っていた。
古びたアパートに暮らし、肉体労働の傍ら大学へ通う、自立した生活を営んでいた彼は、血を分けた我が子として認知し、親として当たり前の支援を、との父親からの申し出を拒否。
そうかといって、恨み言ひとつ言うわけでもなく、それまで同様の生活を続けたらしい。
その後、父親に兄の存在を打ち明けられた敦史は、ぜひ兄に会ってみたいと希望したそうだ。
初対面のふたりは年齢の近い男同士。血のつながりの為せる技もあったのだろう。兄弟の存在に憧れていたひとりっ子の敦史と、面倒見のいい彼の兄はすぐに打ち解けた。
父は敦史を連れて足繁く兄を訪ね、そのたびに、手を変え、品を変え、家へ戻れと兄への説得を試みた。
最終的にそれを受け入れた兄は、大学卒業と同時に佐々木物産へ入社。
渡欧して欧州支社に勤務し、バイヤーとしての実績を積み上げた後、アメリカのビジネススクールへ留学し、卒業後は、会社の拠点のあるミラノを起点に、ヨーロッパ中を飛び回っていたとのこと。
そして今回、佐々木物産社長及び取締役会の決定により、社長特続経営企画室室長のポストを与えられ、公式に——本人的にはたぶん強引に——帰国させられる運びとなった。
「すごく優秀な方なんですね、お兄様って」
「うん。僕の自慢の兄だよ」
渋々帰国はしたが、父親との関係はいまひとつ。余ほどの事情がない限り、自宅へは寄りつかないらしいのだけれど。
「やっぱり居心地はよくないでしょう? 父だけならまだしも、母もいるからね」
親たちの昔話は、自分もよく知らない、好き好んで聞きたい話でもなさそうだしね、と、敦史はなんとも微妙な笑みを見せる。他人様の込み入った家庭事情を聞かされる亜弥も内心、複雑な思いだ。
「そんなに緊張しないで。大丈夫。兄は気さくな人だし、亜弥ちゃんもすぐに仲良くなれるよ」
「はい。頑張ります……」
亜弥との関係を深めるのはなにより重要だけれど、結婚に向けての根回しも早く始めるに越したことはないから、協力して欲しい。兄は素晴らしい味方になってくれるよ。
そう聞かされて頷いた十分前の自分が、途方もなく恨めしい。
口元に微笑みを浮かべながらも、冷ややかに自分を見つめる大柄な男を前にして、亜弥は後悔に苛まれていた。
定時前の亜弥が、敦史からの内線電話で呼び出された先は、経営企画室の室長室だった。
経営企画室は社長直属の組織で、その室長ともなれば、重役に匹敵するほどの権限を持っている。
その椅子に座るということはつまり、社長、副社長の椅子が約束されているのと同義だ。
敦史に三歳年上の兄がいるのは、社内の人間ならば誰でも知っている。その兄が、社長の婚外子である事実は、ごく一部の身内以外には一応、秘されているらしい。けれども。
実際は会社に数年も在籍していれば、何処からともなく聞こえてくる公然の秘密で。
いまとなっては当時を知る者もいないため、伝えられる内容が何処から何処まで本当なのかは知る由もないが、亜弥も藐然と耳にはしている。
「兄と父の関係は、まあ、あれだけれど……僕と兄の仲は、とりあえず男兄弟なんてこんなものかな、程度にはいいんじゃないかな。一緒に育った兄弟がどんなものかなんて知らないけれどね」
とは、敦史の弁。
敦史の兄は、母親の手ひとつで育てられた。だが、幼い頃に母親は他界。その後は親身になってくれる身内もおらず、親戚をたらい回しにされていたらしい。
社長が彼と彼の母親を、八方手を尽くして捜索し、ようやく探し当てたときには、二十歳を過ぎた彼が独り、母親の位牌を守っていた。
古びたアパートに暮らし、肉体労働の傍ら大学へ通う、自立した生活を営んでいた彼は、血を分けた我が子として認知し、親として当たり前の支援を、との父親からの申し出を拒否。
そうかといって、恨み言ひとつ言うわけでもなく、それまで同様の生活を続けたらしい。
その後、父親に兄の存在を打ち明けられた敦史は、ぜひ兄に会ってみたいと希望したそうだ。
初対面のふたりは年齢の近い男同士。血のつながりの為せる技もあったのだろう。兄弟の存在に憧れていたひとりっ子の敦史と、面倒見のいい彼の兄はすぐに打ち解けた。
父は敦史を連れて足繁く兄を訪ね、そのたびに、手を変え、品を変え、家へ戻れと兄への説得を試みた。
最終的にそれを受け入れた兄は、大学卒業と同時に佐々木物産へ入社。
渡欧して欧州支社に勤務し、バイヤーとしての実績を積み上げた後、アメリカのビジネススクールへ留学し、卒業後は、会社の拠点のあるミラノを起点に、ヨーロッパ中を飛び回っていたとのこと。
そして今回、佐々木物産社長及び取締役会の決定により、社長特続経営企画室室長のポストを与えられ、公式に——本人的にはたぶん強引に——帰国させられる運びとなった。
「すごく優秀な方なんですね、お兄様って」
「うん。僕の自慢の兄だよ」
渋々帰国はしたが、父親との関係はいまひとつ。余ほどの事情がない限り、自宅へは寄りつかないらしいのだけれど。
「やっぱり居心地はよくないでしょう? 父だけならまだしも、母もいるからね」
親たちの昔話は、自分もよく知らない、好き好んで聞きたい話でもなさそうだしね、と、敦史はなんとも微妙な笑みを見せる。他人様の込み入った家庭事情を聞かされる亜弥も内心、複雑な思いだ。
「そんなに緊張しないで。大丈夫。兄は気さくな人だし、亜弥ちゃんもすぐに仲良くなれるよ」
「はい。頑張ります……」
亜弥との関係を深めるのはなにより重要だけれど、結婚に向けての根回しも早く始めるに越したことはないから、協力して欲しい。兄は素晴らしい味方になってくれるよ。
そう聞かされて頷いた十分前の自分が、途方もなく恨めしい。
口元に微笑みを浮かべながらも、冷ややかに自分を見つめる大柄な男を前にして、亜弥は後悔に苛まれていた。
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