弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

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§ 邂逅

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「すまない。すっかり待たせてしまった」

 出入り口を背にするように配置された革張りの大きなソファに、敦史と並んで腰を下ろしていた亜弥は、ドアが開閉する気配で立ち上がる。

 詫びの言葉をかけながら入って来たその人は、後ろ手にドアを閉めたあと、僅かに視線をドアへ向けたかと思うと「あの老害どもが……」と、憎々しげに小声で吐き捨てた。

 直前まで出席していた役員会議で、よほど腹に据えかねることでもあったのだろう。表情ばかりではなく全身からも不機嫌なオーラを発し、ピリピリと険悪な空気が彼の周囲を取り巻いている。

 出入り口へと向き直り、その様子を目にした亜弥は、その人を認識したその瞬間、まるで金縛りにでも遭ったように、全身を強ばらせた。

 何故。どうして。よりにもよって……。

 様々な疑問を呈する単語が、頭の中を駆け巡り混乱を極めた亜弥は、すぐさま思考を停止した。

 身体はここにあるのに、心だけがまるで別世界に隔離されてしまったように感じるのは、ある種の防衛本能かも知れない。

 彼が顔を上げ「おや?」と、弟の隣にいる背の高い女性に目を留めた。

 敦史と亜弥を交互に見る彼の訝しげな反応に、敦史はご満悦の様子。

 自分の隣で愛想笑いすら浮かべず顔を引き攣らせている亜弥に気づきもせず、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべている。

「敦史?」

 彼が口角に何事か言いたげな笑みを浮かべ、視線だけで『彼女は何者だ? 紹介しろ』と、敦史に促す。

 正確に意味を受け取ったのであろう。敦史はさもおかしそうに表情を崩した。

「兄さん、ごめん。忙しいのに時間作ってもらって。じつはさ、兄さんに僕の恋人を紹介したくて……彼女は、宮藤亜弥さん。僕の部署でアシスタントをしている——」

 一歩前へと背を押され、足を竦ませる亜弥の肩を、宥めるように敦史が抱き寄せる。

 手強かったんだ、やっと捕まえたんだよ、と、幸せを噛みしめるように朗々と語る敦史の詞なんぞ、亜弥の耳にはまったく届いていなかった。

 ただ、破られた心の均衡が齎す冷気が、足先から身体の中心へと這い上がってくるのみで。

「おまえの恋人? へぇ……」

 彼があらためて亜弥に向き直った。敦史の言葉からなにを想像したのだろう。意地悪げに唇を歪めた彼の淫気を帯びた視線が、値踏みするかの如く亜弥の身体を舐めまわす。

 そして、ふん、と、小さく笑った次の瞬間には、興味を失ったかのようにその視線を逸らした。

 彼の視線に呼応するように、項が冷えて、目の前の色が失せていく。奈落へと突き落とされるような浮遊感。ズキズキと痛む胸から、乾いた涙が迫り上がってくる。

 不愉快な視線に晒されるのは、慣れているから大丈夫だ。亜弥は小さく呼吸を繰り返して自分を宥め、必死に平常心を装う。けれども。

 揺れる亜弥の瞳はまるで消えゆく霞にでも縋り付くように、彼の一挙手一投足を追いかけていた。

 幸せだった日々と、突如突きつけられた残酷な現実が、記憶の底から溢れ出し、病院のベッドに拘束され、逃げる力も、涙を流す心すらも失ったあの日へと、亜弥の心が引き戻される。

 身体の其処彼処に巻かれた包帯。点滴に繋がれ固定された腕。腕と足にはギプスを嵌められ、首には頸椎を固定するカラーが巻かれた。

 息を吸い込むだけで身体中に激痛が走り、唯一動かせるのは視線だけの、苦しみ以外のなにものでもなかったあのとき。

「はじめまして。敦史の兄の、克巳です。よろしくね」

 大きな手が差し出される。亜弥はその意味がわからず、その手をただ見つめた。

「亜弥ちゃん?」

「あ? あ、はい……」

 敦史に背を叩かれて我に返り、亜弥は躊躇いがちに克巳の手を握る。その手は、亜弥の手に負けず劣らず、冷たく乾いていた。

 強い力で手を握られ、驚いた亜弥が見上げると、形容し難い曖昧な笑みを口元にのみ浮かべた冷たい眼差しが、亜弥を凝視している。

「嫌だな、そんなに緊張しないでよ。取って食いやしないからさ」

「そうだよ、亜弥ちゃん。どうしたの? あ、突っ立ってるのもなんだし、ほら、座ろうか」

 立ち竦む背を敦史に撫でられ、亜弥は促されるままに腰を下ろした。

「……すみません」

 背を丸めて俯く亜弥のただならぬ様子に敦史は肩を竦めて克巳に向かい、理由がさっぱりわからないといわんばかりに、ため息をついて見せた。

 果てしなく続く、拷問のような時間。

 なにを思っているのか、亜弥へと向けられる克巳の笑みは、終始冷淡で。
 さりげなく様子を窺ってみても、優しそうな兄の仮面から垣間見える冷たい瞳の意味を、推し量る術もなく。

 心ここにあらずの亜弥は、思考の海にしずみそうになる意識を彼らに向け、笑顔を取り繕う。

 プライベートから仕事の話へと移りゆくふたりの話に聞き入り、相づちを打つ振りをしているけれど、その実、それどころではない。




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