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§ 誘惑 *
二
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荒い呼吸に合わせ激しく上下する鳩尾から脇腹にかけて走る歪に引き攣れた疵痕を、克巳はちぎれたブラウスをつかむ手もそのままに、茫然と見つめていた。
ああ、そうだ。わたしは知られたくなかったのだ。
この醜い身体を見れば、間違いなく理由を問い質される。その結果、得られる物は、憐憫。
敦史を受け入れるべきだ、それが一番いい。桃子だって背中を押してくれたじゃないか。そう冷静に考え選択をしている時点で、自分の心の在処は、わかりきっていた。
過去も現在も、きっと未来も、想うのは克巳ひとり。克巳に憐れみの瞳を向けられたくない。なにを思われてもいい。ただ、克巳の記憶の中では、きれいな十七歳の自分でいたかったのだ。
亜弥はこの期に及んではじめて、己の心をはっきりと自覚する。
ほんの数分でしかない沈黙が、亜弥には途轍もなく長い時間に思えた。
「お願い。もう見ないで」
震える声が耳に届いているのかいないのか。克巳は疵痕にそっと手をかざした。
手のひらから伝わる克巳の温度が、疾うに枯れてしまったはずの涙を誘う。亜弥は両手で顔を覆い、涙を隠した。
「亜弥……おまえは……」
首に絡まるペンダントの細い鎖がするりと滑ったその感触に、亜弥は絶望した。
どうして忘れていたのだろう。
胸元にあるのがあまりに当たり前で、身に付けていることすら忘れていたそれは、克巳から十七歳の誕生日にと贈られた、亜弥の宝物。
このペンダントが未だ、亜弥の胸元を飾っている理由に気づかれたら——克巳はなにを言うだろう。
心の奥に沈めた真情を、いまさら吐露する勇気なんて、持ち合わせていないのに。
「……なにが、あったんだ」
言えない。言いたくない。
後悔と、過酷な現実と、克巳への恋慕。
その時々に感じたあらゆる感情が、走馬灯のように亜弥の脳裏を駆け巡る。それらは詞にもならず、涙となって溢れ、頬を濡らした。
「言えよっ!」
啜り泣くばかりの亜弥に業を煮やして声を荒げた克巳は、亜弥の手を顔から引き剥がし、シーツへと縫い付けた。
お互いの生きが混ざり合う距離で克巳は、涙でぐちゃぐちゃになった亜弥の顔を見下ろしている。
「言ってくれ……頼む……」
そっと瞼を開いた亜弥は次の瞬間、驚きに目を見張った。
苦しげに歪められた克巳の顔。その瞳の奥に揺らめいているそれは、間違い無く亜弥と同じ、恋情。
逃れられない。ありのまますべてを話す他に道は無い。
決意した亜弥は瞼を閉じ、嗚咽を押さえ込もうと、ひとつ大きく息をした。
「……あの日、誕生日に……」
大きな音がして間を向いたときには、対向車線から飛び込んできたトラックが目前に迫り——亜弥の記憶はそこで途切れた。
父と母の葬儀法要はもとより、父母の死と亜弥の入院治療に起因する様々な手続きその他すべて、叔父と叔母が引き受けてくれた。
仲のよかった姉を亡くした悲しみに浸る暇もなく多忙を極める叔母は、みるみる窶れていく。
それを申し訳なく思いながらも、重傷を負った亜弥は、叔母に頼り切り療養しなければならなかった。
「お世話になるばかりで……我が侭なんて言えなくて……」
叔父夫婦の金銭的な負担も相当なものだろうとは、当時の亜弥ですら思い至る。だから、破損した携帯電話を買い換えて欲しいなんて言い出せるわけもなかった。
「そうだな……」
「外に出られるようになってから、アパートへ行ったの。でも……」
「俺は……引っ越してた」
「うん。だから……」
ぽつりぽつり。亜弥はその身に起きた出来事を語る。いつの間にか乾いた亜弥の涙に替わり、克巳の涙が、亜弥の頬を濡らしている。
「泣かないで……」
亜弥の細い指先が、克巳の涙を拭う。克巳は頬を滑る亜弥の手を捕まえて、その手のひらに震える唇を押し付けた。
「俺は……なんて馬鹿なんだ……なにも知らず勝手に……」
克巳は亜弥の首筋へ縋り付くように顔を埋めて、身を震わせ嗚咽を漏らす。その背に腕を回した亜弥は、その温もりに安堵し、十年経ってはじめて、声を上げて泣いた。
何れ程の時間をそうしていただろうか。ふたりで一頻り泣いて涙も涸れようという頃、克巳は亜弥に囁いた。
「見せてくれ。ぜんぶ」
ああ、そうだ。わたしは知られたくなかったのだ。
この醜い身体を見れば、間違いなく理由を問い質される。その結果、得られる物は、憐憫。
敦史を受け入れるべきだ、それが一番いい。桃子だって背中を押してくれたじゃないか。そう冷静に考え選択をしている時点で、自分の心の在処は、わかりきっていた。
過去も現在も、きっと未来も、想うのは克巳ひとり。克巳に憐れみの瞳を向けられたくない。なにを思われてもいい。ただ、克巳の記憶の中では、きれいな十七歳の自分でいたかったのだ。
亜弥はこの期に及んではじめて、己の心をはっきりと自覚する。
ほんの数分でしかない沈黙が、亜弥には途轍もなく長い時間に思えた。
「お願い。もう見ないで」
震える声が耳に届いているのかいないのか。克巳は疵痕にそっと手をかざした。
手のひらから伝わる克巳の温度が、疾うに枯れてしまったはずの涙を誘う。亜弥は両手で顔を覆い、涙を隠した。
「亜弥……おまえは……」
首に絡まるペンダントの細い鎖がするりと滑ったその感触に、亜弥は絶望した。
どうして忘れていたのだろう。
胸元にあるのがあまりに当たり前で、身に付けていることすら忘れていたそれは、克巳から十七歳の誕生日にと贈られた、亜弥の宝物。
このペンダントが未だ、亜弥の胸元を飾っている理由に気づかれたら——克巳はなにを言うだろう。
心の奥に沈めた真情を、いまさら吐露する勇気なんて、持ち合わせていないのに。
「……なにが、あったんだ」
言えない。言いたくない。
後悔と、過酷な現実と、克巳への恋慕。
その時々に感じたあらゆる感情が、走馬灯のように亜弥の脳裏を駆け巡る。それらは詞にもならず、涙となって溢れ、頬を濡らした。
「言えよっ!」
啜り泣くばかりの亜弥に業を煮やして声を荒げた克巳は、亜弥の手を顔から引き剥がし、シーツへと縫い付けた。
お互いの生きが混ざり合う距離で克巳は、涙でぐちゃぐちゃになった亜弥の顔を見下ろしている。
「言ってくれ……頼む……」
そっと瞼を開いた亜弥は次の瞬間、驚きに目を見張った。
苦しげに歪められた克巳の顔。その瞳の奥に揺らめいているそれは、間違い無く亜弥と同じ、恋情。
逃れられない。ありのまますべてを話す他に道は無い。
決意した亜弥は瞼を閉じ、嗚咽を押さえ込もうと、ひとつ大きく息をした。
「……あの日、誕生日に……」
大きな音がして間を向いたときには、対向車線から飛び込んできたトラックが目前に迫り——亜弥の記憶はそこで途切れた。
父と母の葬儀法要はもとより、父母の死と亜弥の入院治療に起因する様々な手続きその他すべて、叔父と叔母が引き受けてくれた。
仲のよかった姉を亡くした悲しみに浸る暇もなく多忙を極める叔母は、みるみる窶れていく。
それを申し訳なく思いながらも、重傷を負った亜弥は、叔母に頼り切り療養しなければならなかった。
「お世話になるばかりで……我が侭なんて言えなくて……」
叔父夫婦の金銭的な負担も相当なものだろうとは、当時の亜弥ですら思い至る。だから、破損した携帯電話を買い換えて欲しいなんて言い出せるわけもなかった。
「そうだな……」
「外に出られるようになってから、アパートへ行ったの。でも……」
「俺は……引っ越してた」
「うん。だから……」
ぽつりぽつり。亜弥はその身に起きた出来事を語る。いつの間にか乾いた亜弥の涙に替わり、克巳の涙が、亜弥の頬を濡らしている。
「泣かないで……」
亜弥の細い指先が、克巳の涙を拭う。克巳は頬を滑る亜弥の手を捕まえて、その手のひらに震える唇を押し付けた。
「俺は……なんて馬鹿なんだ……なにも知らず勝手に……」
克巳は亜弥の首筋へ縋り付くように顔を埋めて、身を震わせ嗚咽を漏らす。その背に腕を回した亜弥は、その温もりに安堵し、十年経ってはじめて、声を上げて泣いた。
何れ程の時間をそうしていただろうか。ふたりで一頻り泣いて涙も涸れようという頃、克巳は亜弥に囁いた。
「見せてくれ。ぜんぶ」
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