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§ 泡沫 *
一
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克巳が夜の公園で不良たちに絡まれている亜弥を助けたのは、ほんの気まぐれだった。
その小さな気まぐれが、その後の人生を百八十度変えてしまうとは、このときの克巳は知る由もなく。
あの日は仕事が休みなのをいいことに、あの男——血のつながり以外になにもない父親とは呼びたくもない男——からの呼び出しを受け、克巳は男の家を訪ねた。
べつに会いたいと思ったわけではない。ただ、執拗な誘いを断り続けることにうんざりしたから、それだけの理由だった。
『いつまでそんな生活を続ける気だ』
『帰ってこい』
この家は、俺の帰る場所なんかじゃない。
あの男は克巳の顔を見るたびに、まるで己の言動すべてが正しいとでもいうように、克巳を叱った。
いや、あの男は本当にそう信じているのだろう。その傲慢極まりない物言いに、克巳は毎度、拳を強く握り締めたものだ。
そして次には、お決まりの甘言がはじまる。
『お前は私の後継となるべく生まれた自慢の息子だ』
ふざけるな。お前には立派な嫡男がいるじゃないか。
そもそも、女中だった母に手を付けて孕ませた挙げ句、家柄の優れた婚約者ができたからと追い出したのは、お前とお前の母親だろうに。
克巳は誰の血を受け継いだのかは知らないが、けっして温厚な性格ではない。それでも、貧乏学生に過ぎない若造が、地位も名誉もあるおとなに口答えする無意味さは、十分に知っていた。
自分の力で稼ぎ、その稼ぎを元手に勉強する生活の何処が悪い。
おんぼろアパートに住み、食費にも事欠く毎日は、若い克巳には過酷だ。だからといって、妊っている母を用済みとばかりに捨てたあの男の世話になろうとは、まったく思わない。
捨てるのも拾うのもあの男の都合。
生まれたときから父親はいなかった。そう思ってこれまで生きてきたのだし、これから先もそうするつもりだ。
不遜な言葉を頭上から投げつけられるたび、いつか見返してやる、との思いを強くした。
あの夜も同じ。あの男との遣り取りにむしゃくしゃしていた。更に言えば、何れほど豪勢であろうとも、あんな奴の顔を見ながら飯が食えるか、と、誘いを断ったために空腹を極め、気も立っていた。
そんな状況で不快な場面に出会した克巳に、見て見ぬ振りができるわけもなく。
素知らぬ顔で通りすがれば、絡まれているのは毎日のように通うコンビニエンスストアの女の子だ。見知った相手ともなれば、手を出さない理由もなくなった。
不良たちは簡単に追い払えた、ではなく、克巳の顔を見るなり怯え、捨て台詞を吐き逃げていった。
上脊があり仕事柄日に焼けて逞しく、その上強面。会社の先輩たちからも『ひと睨みで誰もが逃げる』と、太鼓判を押されているくらいだ。きっとこの女の子も畏れて逃げる——その予想はただしく、彼女は頭ごなしに怒鳴りつける克巳に怯え、脱兎の如く逃げ出した。
不良のガキどもですら逃げ出すのだから、女の子なんてなおのこと。
暗闇に溶けていく背を眺めながら、克巳は「そんなもんさ」と自嘲した。
ところが、次にコンビニを訪れた折、向けられた彼女の普段となにひとつ変わらぬ対応に、克巳は驚くことになる。
はじめのうちは、暗がりで自分だと気づかなかったのだろうと考えた克巳だったのだが——回を重ねるうちに、増える笑顔は、序の口で。
大人びた容姿のわりに、あどけない笑顔を見せる年下の女の子が、素っ気ない態度を取る克巳を恐がるどころか、誰が見ても明らかなほど下心満載の笑顔で、纏わり付いてくるようになり。
当然悪い気のしない克巳が亜弥に白旗を揚げるのは、時間の問題でしかなかった。
口下手で、女性慣れのしていない克巳に告白したのも亜弥。克巳の無骨な手に自分の手を繋ぎ、指を絡ませてきたのも、亜弥で。
夜道の一人歩きは危険だからとはじめた、予備校帰りの送迎。
互いの指を絡ませて歩きながら、尽きることのない他愛のない話に相槌を打つ。
人気のない公園で唇を重ねて抱き締めれば、汗の臭いすら芳しく。知らず知らずのうちにささくれ疲れ切った身体までをも癒やされる気がする。
亜弥は、克巳がはじめて愛しく思い、心の底から求めた女になった。
はじめての夜を待ち望んでいたのも、じつは克巳のほうだ。
いずれ近いうちに機会が訪れるだろう。
そう願いを込めて、寝に帰るだけのなにもない部屋を隅々まで掃除してみたり、女の子の身体を喜ばせる方法を調べ、経験豊富そうな年配者にそれとなく相談してみたり。
いまにして思えば、なんと滑稽なことか。
はじめてのお宅訪問に、期待に目を輝かせる亜弥の満面の笑みに心を和ませ。
情欲に濡れた深い口づけに怯え、睫毛を震わせる亜弥の初々しさに感動し、ワンピースの袷から少しずつ露出していく肌の白さに、ボタンを外す手が震えた。
硬く、張りのある膨らみ。ぷっくりと主張する淡いピンク色の蕾。克巳が触れるたびにビクビクと過剰に反応する身体。
すべてが美しく物珍しくて、余すところなく眺め、空が白むまで弄り尽くした。
真っ新な肌に、己の欲を刻みつける。その行為に舞い上がり、欲情する自分自身を落ち着かせようと必死になった。
けれども、あの夢のような一夜が明け笑顔で手を振ったまま、亜弥は消えてしまったのだ。
その小さな気まぐれが、その後の人生を百八十度変えてしまうとは、このときの克巳は知る由もなく。
あの日は仕事が休みなのをいいことに、あの男——血のつながり以外になにもない父親とは呼びたくもない男——からの呼び出しを受け、克巳は男の家を訪ねた。
べつに会いたいと思ったわけではない。ただ、執拗な誘いを断り続けることにうんざりしたから、それだけの理由だった。
『いつまでそんな生活を続ける気だ』
『帰ってこい』
この家は、俺の帰る場所なんかじゃない。
あの男は克巳の顔を見るたびに、まるで己の言動すべてが正しいとでもいうように、克巳を叱った。
いや、あの男は本当にそう信じているのだろう。その傲慢極まりない物言いに、克巳は毎度、拳を強く握り締めたものだ。
そして次には、お決まりの甘言がはじまる。
『お前は私の後継となるべく生まれた自慢の息子だ』
ふざけるな。お前には立派な嫡男がいるじゃないか。
そもそも、女中だった母に手を付けて孕ませた挙げ句、家柄の優れた婚約者ができたからと追い出したのは、お前とお前の母親だろうに。
克巳は誰の血を受け継いだのかは知らないが、けっして温厚な性格ではない。それでも、貧乏学生に過ぎない若造が、地位も名誉もあるおとなに口答えする無意味さは、十分に知っていた。
自分の力で稼ぎ、その稼ぎを元手に勉強する生活の何処が悪い。
おんぼろアパートに住み、食費にも事欠く毎日は、若い克巳には過酷だ。だからといって、妊っている母を用済みとばかりに捨てたあの男の世話になろうとは、まったく思わない。
捨てるのも拾うのもあの男の都合。
生まれたときから父親はいなかった。そう思ってこれまで生きてきたのだし、これから先もそうするつもりだ。
不遜な言葉を頭上から投げつけられるたび、いつか見返してやる、との思いを強くした。
あの夜も同じ。あの男との遣り取りにむしゃくしゃしていた。更に言えば、何れほど豪勢であろうとも、あんな奴の顔を見ながら飯が食えるか、と、誘いを断ったために空腹を極め、気も立っていた。
そんな状況で不快な場面に出会した克巳に、見て見ぬ振りができるわけもなく。
素知らぬ顔で通りすがれば、絡まれているのは毎日のように通うコンビニエンスストアの女の子だ。見知った相手ともなれば、手を出さない理由もなくなった。
不良たちは簡単に追い払えた、ではなく、克巳の顔を見るなり怯え、捨て台詞を吐き逃げていった。
上脊があり仕事柄日に焼けて逞しく、その上強面。会社の先輩たちからも『ひと睨みで誰もが逃げる』と、太鼓判を押されているくらいだ。きっとこの女の子も畏れて逃げる——その予想はただしく、彼女は頭ごなしに怒鳴りつける克巳に怯え、脱兎の如く逃げ出した。
不良のガキどもですら逃げ出すのだから、女の子なんてなおのこと。
暗闇に溶けていく背を眺めながら、克巳は「そんなもんさ」と自嘲した。
ところが、次にコンビニを訪れた折、向けられた彼女の普段となにひとつ変わらぬ対応に、克巳は驚くことになる。
はじめのうちは、暗がりで自分だと気づかなかったのだろうと考えた克巳だったのだが——回を重ねるうちに、増える笑顔は、序の口で。
大人びた容姿のわりに、あどけない笑顔を見せる年下の女の子が、素っ気ない態度を取る克巳を恐がるどころか、誰が見ても明らかなほど下心満載の笑顔で、纏わり付いてくるようになり。
当然悪い気のしない克巳が亜弥に白旗を揚げるのは、時間の問題でしかなかった。
口下手で、女性慣れのしていない克巳に告白したのも亜弥。克巳の無骨な手に自分の手を繋ぎ、指を絡ませてきたのも、亜弥で。
夜道の一人歩きは危険だからとはじめた、予備校帰りの送迎。
互いの指を絡ませて歩きながら、尽きることのない他愛のない話に相槌を打つ。
人気のない公園で唇を重ねて抱き締めれば、汗の臭いすら芳しく。知らず知らずのうちにささくれ疲れ切った身体までをも癒やされる気がする。
亜弥は、克巳がはじめて愛しく思い、心の底から求めた女になった。
はじめての夜を待ち望んでいたのも、じつは克巳のほうだ。
いずれ近いうちに機会が訪れるだろう。
そう願いを込めて、寝に帰るだけのなにもない部屋を隅々まで掃除してみたり、女の子の身体を喜ばせる方法を調べ、経験豊富そうな年配者にそれとなく相談してみたり。
いまにして思えば、なんと滑稽なことか。
はじめてのお宅訪問に、期待に目を輝かせる亜弥の満面の笑みに心を和ませ。
情欲に濡れた深い口づけに怯え、睫毛を震わせる亜弥の初々しさに感動し、ワンピースの袷から少しずつ露出していく肌の白さに、ボタンを外す手が震えた。
硬く、張りのある膨らみ。ぷっくりと主張する淡いピンク色の蕾。克巳が触れるたびにビクビクと過剰に反応する身体。
すべてが美しく物珍しくて、余すところなく眺め、空が白むまで弄り尽くした。
真っ新な肌に、己の欲を刻みつける。その行為に舞い上がり、欲情する自分自身を落ち着かせようと必死になった。
けれども、あの夢のような一夜が明け笑顔で手を振ったまま、亜弥は消えてしまったのだ。
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