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§ 泡沫 *
四
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半分カーテンが閉じた薄暗い朝の室内で、寝惚け眼を擦りながら明りが差し込む方向へと身体の向きを変えれば、窓の外には立ち並ぶビルの合間から覗く陰鬱な雲に覆われた空が見えた。
「雨、か……」
隣は、と、振り返れば、すでに蛻の殻。シーツの温もりすらすっかり冷めきっている。
常日頃、亜弥の眠りは、ほんの僅かな物音ですら目覚めてしまうほどに浅い。昨夜は克巳に抱き締められながら眠りに落ちたはず。寝息だって聞こえるはずなのに。
彼がいつ起きたのかを知らないばかりか、室内でたてたであろう物音ひとつ気づかないほど寝込んでしまうなんて。
耳を澄ませて室内の気配を探れば、微かに聞こえる雨の音とは違う水の音。
ひとり取り残されたわけではないとほっとした亜弥は、シーツを手繰り寄せ裸の肩を覆い、小さく欠伸をした。
はめ殺しの厚い窓ガラスについた水滴が、一粒、一粒、ゆっくりと流れ落ちる様子を眺めながら、寝惚けた頭で昨夜のできごとを思い返す。
夢を見た。
蕩けるように幸せな、夢を見ていた。
落ち着いて話ができる場所へ行こう、とだけ言われて連れ込まれたホテルのこの部屋で、勢いに流されるまま克巳と朝を迎えてしまった。
でも、本当に勢いに流されたのだとは、思わない。
克巳に拒絶されさえしなければ、遅かれ早かれいずれはこうなったであろうことは容易に想像できる。
たとえばそれが、一晩限りの交わりだったとしても、わたしは克巳に抱かれることを選んだだろう。
「嬉しい……」
無意識に微笑む亜弥は、身体の其処此処に残された克巳の匂いを、愛おしげに抱き締め、瞼を閉じた。
「……弥、亜弥」
「……ん」
薄らと瞼を持ち上げ、ぼんやりとしていた視点が徐々にクリアになる。すると目の前に、笑いをかみ殺した克巳の顔があった。
「起こすのは忍びないんだが。さすがにそろそろ……」
「うん……あれ? 起きたつもりだったのに、また寝ちゃってた……」
いつもなら一度目が覚めたら二度寝もできないタチなのに。不思議なことに目を閉じれば何時まででも眠れそうな気がする。
「疲れたんだろう。寝たのも遅かったし」
疲れの原因なんて、思い当たるものはひとつしかない。亜弥は、恥ずかしげに頬を染めると同時に、シーツで顔を隠した。
「今日が休日だったら一日ベッドの中でゆっくりしたいところだが……そうもいかないだろう?」
「あ……」
のんびりしている場合じゃない。仕事に行かねば。
「わかったら起きて。ルームサービスの朝食を頼んであるから、シャワー浴びておいで」
「うん」
「俺のシャツ、ハンガーにかかってるからそれ着て」
「わかった」
亜弥はもぞもぞとシーツを巻き付けながら、身体を起こした。
「なにやってるの。いまさら隠す必要ないだろ?」
「克巳くんのエッチ……」
亜弥は胸元でシーツを押さえ引き摺りながら、バスルームへと逃げ込む。そのまったく隠れていない裸の後ろ姿を眺める克巳の思いのほか大きな笑い声が、部屋に響いた。
設備の豪華さに気後れしつつ、ガラス張りのシャワールームでホテル特製ブランドアメニティの甘い香りに癒やされる心の余裕もなくシャワーを浴びた。
克巳に破られたブラウスは、ファストファッションの通販で購入した千九百八十円だ。
ドレッシングルームのハンガーにずらりと並んだ高級シャツの手触りは、まるで別世界の代物のように恐れ多いけれど、借りないわけにもいかない。
きっと目の飛び出るようなお高い代物なのだろうなとため息をつきつつ袖を通し、そそくさと身支度を調えた。
亜弥を待っていたのは、ルームサービスの豪華な朝食。
ふわふわのオムレツに、香ばしく焼かれたソーセージとポテト。バター香るクロワッサンに色とりどり季節のフルーツが盛り合わされた目に美しい白い皿と、絞りたてのオレンジジュースに、香り高いコーヒー。
小さなダイニングテーブルで克巳と向かい合い、他愛のない話をしながらの朝食は、まるで夢のよう。次の瞬間には儚く消えてしまうのではないかと、この期に及んでも尚、思ってしまう。
「なに考えてるの?」
「え、あ、そうそう、いま、何時かな、って」
亜弥の時計はバッグの中で、時間を確認する余裕は無く、部屋をざっと見渡しても時間を確認するものが無い。
「まだ始業前だよ」
始業前とは、なんと大雑把な。あなたは偉い人だから、重役出勤でいいのかも知れないけれど。
「一度家に戻って着替えないと……間に合うかな」
亜弥はフォークでオムレツを突く。
「寝不足で辛いだろう? いっそ休めばいい」
「……はい?」
オムレツに刺さったままフォークが止まった。
「君が勤勉なのは上司として結構なことだが、有給はちゃんと取ってもらわないと会社が困る。仕事は前倒して進めているし、今日は取り急ぎやらなければならないものも無いだろう? 問題ない、俺が許す。声も掠れているしちょうどいい。風邪でも引いたことにして、連絡だけ入れておきなさい」
と、悪い上司の顔をした克巳が言い切った。
人の勤務状況まで把握しているとは、なんと素敵な上司様だろう。呆れかえる亜弥を、克巳が笑う。
「……えらそうに」
俯く亜弥が小さく呟いたひとことは、聞き逃されなかった。
「そこそこ偉いのはホントだろーが。ほら、手、止まってるよ」
「…………」
愉しげに片側の口角を上げる克巳を上目遣いに睨みつけて、オムレツをせっせと口へ運ぶ。
ああ言えばこう言う。嘗てと何等変わらぬ軽口の応酬。オムレツを咀嚼しながら亜弥も、自然と笑みを零した。
「雨、か……」
隣は、と、振り返れば、すでに蛻の殻。シーツの温もりすらすっかり冷めきっている。
常日頃、亜弥の眠りは、ほんの僅かな物音ですら目覚めてしまうほどに浅い。昨夜は克巳に抱き締められながら眠りに落ちたはず。寝息だって聞こえるはずなのに。
彼がいつ起きたのかを知らないばかりか、室内でたてたであろう物音ひとつ気づかないほど寝込んでしまうなんて。
耳を澄ませて室内の気配を探れば、微かに聞こえる雨の音とは違う水の音。
ひとり取り残されたわけではないとほっとした亜弥は、シーツを手繰り寄せ裸の肩を覆い、小さく欠伸をした。
はめ殺しの厚い窓ガラスについた水滴が、一粒、一粒、ゆっくりと流れ落ちる様子を眺めながら、寝惚けた頭で昨夜のできごとを思い返す。
夢を見た。
蕩けるように幸せな、夢を見ていた。
落ち着いて話ができる場所へ行こう、とだけ言われて連れ込まれたホテルのこの部屋で、勢いに流されるまま克巳と朝を迎えてしまった。
でも、本当に勢いに流されたのだとは、思わない。
克巳に拒絶されさえしなければ、遅かれ早かれいずれはこうなったであろうことは容易に想像できる。
たとえばそれが、一晩限りの交わりだったとしても、わたしは克巳に抱かれることを選んだだろう。
「嬉しい……」
無意識に微笑む亜弥は、身体の其処此処に残された克巳の匂いを、愛おしげに抱き締め、瞼を閉じた。
「……弥、亜弥」
「……ん」
薄らと瞼を持ち上げ、ぼんやりとしていた視点が徐々にクリアになる。すると目の前に、笑いをかみ殺した克巳の顔があった。
「起こすのは忍びないんだが。さすがにそろそろ……」
「うん……あれ? 起きたつもりだったのに、また寝ちゃってた……」
いつもなら一度目が覚めたら二度寝もできないタチなのに。不思議なことに目を閉じれば何時まででも眠れそうな気がする。
「疲れたんだろう。寝たのも遅かったし」
疲れの原因なんて、思い当たるものはひとつしかない。亜弥は、恥ずかしげに頬を染めると同時に、シーツで顔を隠した。
「今日が休日だったら一日ベッドの中でゆっくりしたいところだが……そうもいかないだろう?」
「あ……」
のんびりしている場合じゃない。仕事に行かねば。
「わかったら起きて。ルームサービスの朝食を頼んであるから、シャワー浴びておいで」
「うん」
「俺のシャツ、ハンガーにかかってるからそれ着て」
「わかった」
亜弥はもぞもぞとシーツを巻き付けながら、身体を起こした。
「なにやってるの。いまさら隠す必要ないだろ?」
「克巳くんのエッチ……」
亜弥は胸元でシーツを押さえ引き摺りながら、バスルームへと逃げ込む。そのまったく隠れていない裸の後ろ姿を眺める克巳の思いのほか大きな笑い声が、部屋に響いた。
設備の豪華さに気後れしつつ、ガラス張りのシャワールームでホテル特製ブランドアメニティの甘い香りに癒やされる心の余裕もなくシャワーを浴びた。
克巳に破られたブラウスは、ファストファッションの通販で購入した千九百八十円だ。
ドレッシングルームのハンガーにずらりと並んだ高級シャツの手触りは、まるで別世界の代物のように恐れ多いけれど、借りないわけにもいかない。
きっと目の飛び出るようなお高い代物なのだろうなとため息をつきつつ袖を通し、そそくさと身支度を調えた。
亜弥を待っていたのは、ルームサービスの豪華な朝食。
ふわふわのオムレツに、香ばしく焼かれたソーセージとポテト。バター香るクロワッサンに色とりどり季節のフルーツが盛り合わされた目に美しい白い皿と、絞りたてのオレンジジュースに、香り高いコーヒー。
小さなダイニングテーブルで克巳と向かい合い、他愛のない話をしながらの朝食は、まるで夢のよう。次の瞬間には儚く消えてしまうのではないかと、この期に及んでも尚、思ってしまう。
「なに考えてるの?」
「え、あ、そうそう、いま、何時かな、って」
亜弥の時計はバッグの中で、時間を確認する余裕は無く、部屋をざっと見渡しても時間を確認するものが無い。
「まだ始業前だよ」
始業前とは、なんと大雑把な。あなたは偉い人だから、重役出勤でいいのかも知れないけれど。
「一度家に戻って着替えないと……間に合うかな」
亜弥はフォークでオムレツを突く。
「寝不足で辛いだろう? いっそ休めばいい」
「……はい?」
オムレツに刺さったままフォークが止まった。
「君が勤勉なのは上司として結構なことだが、有給はちゃんと取ってもらわないと会社が困る。仕事は前倒して進めているし、今日は取り急ぎやらなければならないものも無いだろう? 問題ない、俺が許す。声も掠れているしちょうどいい。風邪でも引いたことにして、連絡だけ入れておきなさい」
と、悪い上司の顔をした克巳が言い切った。
人の勤務状況まで把握しているとは、なんと素敵な上司様だろう。呆れかえる亜弥を、克巳が笑う。
「……えらそうに」
俯く亜弥が小さく呟いたひとことは、聞き逃されなかった。
「そこそこ偉いのはホントだろーが。ほら、手、止まってるよ」
「…………」
愉しげに片側の口角を上げる克巳を上目遣いに睨みつけて、オムレツをせっせと口へ運ぶ。
ああ言えばこう言う。嘗てと何等変わらぬ軽口の応酬。オムレツを咀嚼しながら亜弥も、自然と笑みを零した。
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