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§ 命運
一
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病院の自動ドアを出れば、冷たい風が頬を撫でる。厚手のコートを着るほどの寒さではないが、できれば歩きたくない。けれどもタクシーに乗るほどの距離でもなくて。
さて、どうしたものか、と、考える亜弥の目の前のバス停には、駅まで戻るバスが停車していた。
「丁度いいわ。あれに乗って駅まで行けば、序でに用事も足せるし」
乗ってしまえばほんの数分の距離ではあるが、亜弥は暖房の誘惑には逆らえなかった。
検診も今日で二回目。悪阻らしい悪阻もなく——よくよく考えれば、一日中なにかを口にしていたあれがそうらしかったのだが——経過は順調。
但し、食欲があるのはいいことだけれど食べ過ぎはダメよ、と、看護師さんに念を押されたのには、少々参ってしまった。
そんなに食べていたつもりはなかったのだけれど。体重は確かに——。
予定日は七月。出産までいまと同じように食べ続けていたら、この先どうなるかなんて、考えただけでも恐ろしい。
「自分を甘やかしちゃだめね」
そうは言っても、食べ物の誘惑が多すぎて辛いのも正直なところ。
「頑張ろう」
お腹が大きくなってきたわけでもなし、まだまだ妊娠している実感は薄いけれど、自分はもうお母さんなのだから、頑張らねば。そんな決意をしたところで、停車したバスを降りる。
「うっ、寒っ」
びゅーっと吹き抜ける風に身を震わせた亜弥は、薄いコートの前をかき合わせた。
銀行のATMで手持ちの現金を補充し通帳記入を済ませ、残高を確認する。
以前の亜弥は、ほぼアパートと会社を往復する仕事ばかりの日々を過ごしていた。お金の掛かる遊びはせず、高額な出費もない。
現在は、多少収入は減ったものの、生活事態は今も大差なく、通帳に記載される金額は、微増していくばかりだ。金銭的な心配を当面しなくていいのはありがたい。
両親の残してくれたお金もまだかなり残っているが、これは、産まれてくる子どもの将来のため、手を付けずに取っておくつもりだ。
女将をはじめ旅館の皆には、申し訳ないほどに、よくしてもらっている。
年代もばらばらな彼女たちから励ましとともに聞かされる失敗談は、不安な気持ちを吹き飛ばしてくれるし、経験に基づく教えは、とても興味深い。
住まいは女将の指示通りに母屋へ移した。卓袱台と整理箪笥ひとつのがらんとした和室なのだが、押し入れの中だけはいつのまにか、産まれてくる赤子のためにと運ばれてくる、女将に負けず劣らず気の早い皆の愛でいっぱいになっている。
「ほんと、あんなにたくさん、どうしろっていうんだろう? ふふふっ」
大小様々、凡そ数年分はありそうな衣類から、玩具に至るまで。その量足るや、朝晩押し入れを開け閉めするたびに、思わず笑いが溢れてしまうほどだ。
「あ、そうだ。買い物あったんだっけ」
途中、ドラッグストアへ立ち寄って足りない日用品を買い足し、寒空の中、亜弥は家路を急ぐ。
「ただいま戻りました」
従業員用の玄関から入って、事務所へ顔を出した。
「おかえり。そっか、検診、行ってきたんだね? どう? 先生になんか言われた?」
「はい。順調だって言われました」
「そっか、よかったねぇ。ほら、寒いから戸を閉めて、こっち来て座りなよ。お茶淹れてやるからさ」
「おかえり、って、今日お休みじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、気になっちゃって」
「だめだよ~亜弥ちゃん、あんた働き過ぎなんだからちゃんと休まないと。お腹の赤ちゃんに障ったらどうするの」
右から左から次々に声をかけられる。寒い外をうろうろするよりも、賑やかなここにいるほうがよほどいい、と、亜弥は思う。
さて、どうしたものか、と、考える亜弥の目の前のバス停には、駅まで戻るバスが停車していた。
「丁度いいわ。あれに乗って駅まで行けば、序でに用事も足せるし」
乗ってしまえばほんの数分の距離ではあるが、亜弥は暖房の誘惑には逆らえなかった。
検診も今日で二回目。悪阻らしい悪阻もなく——よくよく考えれば、一日中なにかを口にしていたあれがそうらしかったのだが——経過は順調。
但し、食欲があるのはいいことだけれど食べ過ぎはダメよ、と、看護師さんに念を押されたのには、少々参ってしまった。
そんなに食べていたつもりはなかったのだけれど。体重は確かに——。
予定日は七月。出産までいまと同じように食べ続けていたら、この先どうなるかなんて、考えただけでも恐ろしい。
「自分を甘やかしちゃだめね」
そうは言っても、食べ物の誘惑が多すぎて辛いのも正直なところ。
「頑張ろう」
お腹が大きくなってきたわけでもなし、まだまだ妊娠している実感は薄いけれど、自分はもうお母さんなのだから、頑張らねば。そんな決意をしたところで、停車したバスを降りる。
「うっ、寒っ」
びゅーっと吹き抜ける風に身を震わせた亜弥は、薄いコートの前をかき合わせた。
銀行のATMで手持ちの現金を補充し通帳記入を済ませ、残高を確認する。
以前の亜弥は、ほぼアパートと会社を往復する仕事ばかりの日々を過ごしていた。お金の掛かる遊びはせず、高額な出費もない。
現在は、多少収入は減ったものの、生活事態は今も大差なく、通帳に記載される金額は、微増していくばかりだ。金銭的な心配を当面しなくていいのはありがたい。
両親の残してくれたお金もまだかなり残っているが、これは、産まれてくる子どもの将来のため、手を付けずに取っておくつもりだ。
女将をはじめ旅館の皆には、申し訳ないほどに、よくしてもらっている。
年代もばらばらな彼女たちから励ましとともに聞かされる失敗談は、不安な気持ちを吹き飛ばしてくれるし、経験に基づく教えは、とても興味深い。
住まいは女将の指示通りに母屋へ移した。卓袱台と整理箪笥ひとつのがらんとした和室なのだが、押し入れの中だけはいつのまにか、産まれてくる赤子のためにと運ばれてくる、女将に負けず劣らず気の早い皆の愛でいっぱいになっている。
「ほんと、あんなにたくさん、どうしろっていうんだろう? ふふふっ」
大小様々、凡そ数年分はありそうな衣類から、玩具に至るまで。その量足るや、朝晩押し入れを開け閉めするたびに、思わず笑いが溢れてしまうほどだ。
「あ、そうだ。買い物あったんだっけ」
途中、ドラッグストアへ立ち寄って足りない日用品を買い足し、寒空の中、亜弥は家路を急ぐ。
「ただいま戻りました」
従業員用の玄関から入って、事務所へ顔を出した。
「おかえり。そっか、検診、行ってきたんだね? どう? 先生になんか言われた?」
「はい。順調だって言われました」
「そっか、よかったねぇ。ほら、寒いから戸を閉めて、こっち来て座りなよ。お茶淹れてやるからさ」
「おかえり、って、今日お休みじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、気になっちゃって」
「だめだよ~亜弥ちゃん、あんた働き過ぎなんだからちゃんと休まないと。お腹の赤ちゃんに障ったらどうするの」
右から左から次々に声をかけられる。寒い外をうろうろするよりも、賑やかなここにいるほうがよほどいい、と、亜弥は思う。
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