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第4話:市場で見つけた男の香り
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心臓が、うるさい。
ギルドの宿舎へと続く石畳の道を、私は逃げるように早足で歩いていた。
呼吸を整えようと深く息を吸い込むが、肺の奥まで酸素が行き渡らない。代わりに、脳裏にこびりついた「あの感覚」が、酸素を押し退けて全身を巡っていく。
脇腹だ。
ドノバンに無造作にめくられ、触れられた箇所。
そこだけが、まるで焼きごてを当てられたかのように熱を帯びている。
(……なんなんだ、一体!)
常に冷静で、感情になど流されない。そうやってここまで上り詰めてきたつもりだった。
それなのに、たかが監視員の……引退したオッサンに触れられただけで、この体たらくは何だ。
顔が熱い。耳の裏まで熱くなりそうだ。
あの低ランクどもに馴れ馴れしくしていたことへの苛立ち。私の腹を強引にめくったことへの怒り。
いや、違う。そんな表面的な感情じゃない。
もっと根源的な、あの至近距離で嗅いだ、微かな甘い香り。胸元から覗いた、分厚い胸板の記憶。
思考がまとまらない。私らしくない。……実に無様だ。
家路を急ぐ途中、日暮れ間際の市場を突っ切る。
いつもなら、雑多な匂いと騒音を嫌って避けるルートだ。だが今の私は、正常な判断力を欠いていた。
焼き魚、香辛料、安物の香水。様々な匂いが入り混じる雑踏の中、不意に、鼻腔の奥がひくりと反応した。
――あの香りだ。
足を止める。意識するより先に、視線が匂いの元を探していた。
それは、路地の端に店を構える、みすぼらしい露店だった。ドライフラワーや、束ねただけの薬草が無造作に並べられている。
その軒先に吊るされた、いくつかの小さな布袋。ポプリだ。
その中の一つ、紫色の布袋から、記憶にあるあの甘い香りが一際強く漂っているのに気づいた。
「……おや、立派な冒険者様だねえ。ウチみたいな店に珍しい」
店主の老婆が、しわがれた声で声をかけてくる。
私のような身なりの人間が、こんな場所で足を止めるのは異質極まりないだろう。
立ち去るべきだ。こんなまじないまがいの品、何の役にも立たない。
「その、紫のやつは」
「ん? ああ、これかい。『静寂の月花』のポプリだよ。病魔避けと安眠のお守りさ。少し甘ったるい匂いがするけどね」
これだ。
ドノバンが言っていた薬草。
『タンスに服と一緒に入れてるだけだ』
あの男の無骨な体から漂っていた、不似合いなほど甘く、どこか懐かしい香り。
私は、無言で財布を取り出していた。
「……これを一つ、くれ」
「あいよ。銅貨五枚だ」
安い。私が普段飲んでいる行きつけの店のコーヒー一杯の値段にも満たない。
だが、老婆からその粗末な布袋を受け取った瞬間、私の手のひらは、まるで最高級の魔石を手に入れたかのように震えた。
布越しに伝わる、乾いた草の感触。
鼻を近づけると、間違いなく、あの監視小屋で私を包み込んだ匂いがした。
(……馬鹿げている)
こんなものを買ってどうする。
私は自分の行動の意味を理解することを拒絶し、ポプリを強く握りしめたまま、逃げるようにその場を後にした。
ギルドの宿舎へと続く石畳の道を、私は逃げるように早足で歩いていた。
呼吸を整えようと深く息を吸い込むが、肺の奥まで酸素が行き渡らない。代わりに、脳裏にこびりついた「あの感覚」が、酸素を押し退けて全身を巡っていく。
脇腹だ。
ドノバンに無造作にめくられ、触れられた箇所。
そこだけが、まるで焼きごてを当てられたかのように熱を帯びている。
(……なんなんだ、一体!)
常に冷静で、感情になど流されない。そうやってここまで上り詰めてきたつもりだった。
それなのに、たかが監視員の……引退したオッサンに触れられただけで、この体たらくは何だ。
顔が熱い。耳の裏まで熱くなりそうだ。
あの低ランクどもに馴れ馴れしくしていたことへの苛立ち。私の腹を強引にめくったことへの怒り。
いや、違う。そんな表面的な感情じゃない。
もっと根源的な、あの至近距離で嗅いだ、微かな甘い香り。胸元から覗いた、分厚い胸板の記憶。
思考がまとまらない。私らしくない。……実に無様だ。
家路を急ぐ途中、日暮れ間際の市場を突っ切る。
いつもなら、雑多な匂いと騒音を嫌って避けるルートだ。だが今の私は、正常な判断力を欠いていた。
焼き魚、香辛料、安物の香水。様々な匂いが入り混じる雑踏の中、不意に、鼻腔の奥がひくりと反応した。
――あの香りだ。
足を止める。意識するより先に、視線が匂いの元を探していた。
それは、路地の端に店を構える、みすぼらしい露店だった。ドライフラワーや、束ねただけの薬草が無造作に並べられている。
その軒先に吊るされた、いくつかの小さな布袋。ポプリだ。
その中の一つ、紫色の布袋から、記憶にあるあの甘い香りが一際強く漂っているのに気づいた。
「……おや、立派な冒険者様だねえ。ウチみたいな店に珍しい」
店主の老婆が、しわがれた声で声をかけてくる。
私のような身なりの人間が、こんな場所で足を止めるのは異質極まりないだろう。
立ち去るべきだ。こんなまじないまがいの品、何の役にも立たない。
「その、紫のやつは」
「ん? ああ、これかい。『静寂の月花』のポプリだよ。病魔避けと安眠のお守りさ。少し甘ったるい匂いがするけどね」
これだ。
ドノバンが言っていた薬草。
『タンスに服と一緒に入れてるだけだ』
あの男の無骨な体から漂っていた、不似合いなほど甘く、どこか懐かしい香り。
私は、無言で財布を取り出していた。
「……これを一つ、くれ」
「あいよ。銅貨五枚だ」
安い。私が普段飲んでいる行きつけの店のコーヒー一杯の値段にも満たない。
だが、老婆からその粗末な布袋を受け取った瞬間、私の手のひらは、まるで最高級の魔石を手に入れたかのように震えた。
布越しに伝わる、乾いた草の感触。
鼻を近づけると、間違いなく、あの監視小屋で私を包み込んだ匂いがした。
(……馬鹿げている)
こんなものを買ってどうする。
私は自分の行動の意味を理解することを拒絶し、ポプリを強く握りしめたまま、逃げるようにその場を後にした。
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