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《1》
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今日も鷹雄君は素敵だった。
ちらちらと木漏れ日の降り注ぐ並木道を歩きながら、鈴はふっとため息をつき、自分が微笑んでいるのに気がついて、慌ててゆるんだ頬を引きしめた。そっと辺りをうかがう。幸いなことに近くには誰もいなかった。ほっとする。一人でニヤニヤ歩いてたなんて噂されるのは十四歳女子にとって致命的だ。
「リーン!」
後ろからバタバタと走ってくる音がして振り返る。佐藤梨香。二年A組。小学生の時からの仲良しだ。
「ああ、あっつい」
ふうーっと大きく息をついて梨香は手で顔をぱたぱたと扇いだ。
「ずっと走ってきたの?」
「うん、リンの後ろ姿が見えたからさ。あー木陰ってありがたい。暑さが全然違うよね」
この並木道は、森林浴で結構有名な大きな公園の中にあって、並木道というよりは林の中の道という感じだ。学校の前の横断歩道を渡り、普通の道を少し歩いてからこの木々の間の道に入ると、涼しくてほっとする。はるか上の方でさわさわと葉ずれの音をさせる背の高い木々を見上げて「どうもありがとう」と心からお礼を言いたくなる。
「ねえ、また北村がなんかやったんだって?」
北村とは鷹雄君のことだ。北村鷹雄。鈴と同じ二年C組。七月の初めにアメリカから転入してきたばかりだ。文武両道でなかなかのイケメン。当然女子に人気があり、隣の席の鈴は羨ましがられたり恨まれたりしている。
「早耳だねえ」
「何があったかまでは知らない。さっき職員室出たとこで、牧野さんと時田さんが『やっぱり北村君かっこいいよねー』『ああいうことできるのって、やっぱ帰国子女だからなのかなー』とかキンキン声で言ってたからさ」
梨香の物真似が上手くて、鈴は笑ってしまった。
「今朝ね、私が教室着いた時はすでに原因となったことが起こった後で、その辺のことは私も未那ちゃんに聞いたんだけど。笹岡さんが、明後日からハワイに三週間行くから、もう夏休みの宿題はほぼやっちゃったーとか言ったんだって。それを横谷さんとか加藤さんとかあの辺が聞いてて、なんというかまあ、気を悪くしたらしいのね」
小学生の時にもそういう女子グループがいた。成績がいいわけでも、スポーツができるわけでも、特別可愛いわけでもないのになぜだか威張っていて、すぐに人の悪口を言ったり、誰々を無視しようとか言い出す。残念ながら、そういう子達はどこにでもいる。そういう子達と一線を画しつつうまくやっていくのが、学校生活を平穏に乗り切るコツの一つだ。大人にはわかるまい、この面倒くさい危険な世界。
「ああー、だめだよね、あの人たちの前でそういうこと言っちゃ」
「で、私が教室着いた時は笹岡さんは泣きそうな顔して一人で座ってて、横谷さん達が聞こえよがしな感じで『自慢ってみっともないよねー』とか『自分がリッチだと思ってさー。ハワイだって。セレブのつもり?』とか色々言ってた。そしたら鷹雄君が彼女達に『別に自慢になんか聞こえなかったよ。いいじゃん、誰がどこに旅行に行こうと。羨ましいのはわかるけど、あんまりそんなこと言うとやっかんでるみたいでカッコ悪いよ』ってにこにこして爽やか~に言ったの」
「へええー。やるねえ」
「横谷さん達は赤くなって黙っちゃって、それからもう何も言わなかった。で、終業式で体育館に行く前に廊下で並ぶ時、鷹雄君、すれ違った笹岡さんに『いいね、ハワイ。楽しんできてね』ってこれまたにっこり爽やか~に言ったの。笹岡さん、真っ赤になっちゃって、『ありがとう』って蚊の鳴くような声で言ってた」
「ははは。いいねえ、なんだか北村」
「でしょ!」
相槌にちょっと力が入りすぎた。しまった。梨香がにやりとする。
「おやおやー?」
「何?」
平静を装う。
「もしかして恋?」
「違ーう」
「香野鈴さん、ここは一つ正直に」
「違います」
「吐け!証拠は上がってるんだ」
「違うったら」
笑い出してしまう。
「そういうんじゃない。ただ、いいなあ、かっこいいなあ、って思ってるだけ」
「それを世間では恋というのさ~」
「んーちょっと違うと思う。恋っていうのは『好き!』ってハートマーク付きで思うものでしょ。私のは、『自分もあんなふうになりたいなあ』っていう気持ちだもん。だから、憧れっていうやつだと思う」
梨香が苦笑した。
「リンは相変わらず細かいなあ。そんな理屈こねないで、好きになっちゃえばいいのに。毎日楽しいよお、好きな人がいると」
「明日からは会えないね」
意地悪を言ったら、梨香はしゅんと肩を落とした。
「そうなんだよ…ああ夏休み長すぎ」
「松井のこと誘ってディズニーにでも行ってみたら?」
梨香は恨めしそうに鈴を見た。
「簡単に言ってくれるね。これだから恋愛してないヤツは」
「ごめんごめん」
笑って謝りながら、鈴は羨ましいなと思って梨香の仏頂面を眺めた。
毎日楽しいよお、好きな人がいると。
その言葉通り、梨香は毎日本当に楽しそうに松井君のことを話す。目が合った、ちょっと喋った、こっち見てた、消しゴム拾ってくれた、夢に出てきた、ああ今日も会えて幸せ、かっこいいよね、見惚れちゃう。
口の悪い友達に、
「松井のどこがいいの?光らない蛍みたいじゃん」
なんて言われてもちっともめげない。
「松井のいいとこはさ、私にしかわかんないのよ」
とか言って澄ましている。
どうしたら梨香みたいに素直に、オープンに、真っ直ぐに、誰かのことを好きになれるんだろうな。そもそも、どうしたらその人のことをそういう意味で好きかどうかわかるんだろう。友達として好きなのか、ロールモデルとして憧れているのか、それとも恋愛対象として好きなのか、どうやったらわかるの?
「あ、そういえば、ほら、例の夢の話!進展あった?」
梨香に言われて鈴は我に返った。
夢の話というのはこうだ。
一週間くらい前、鈴はいつもと違うタイプの夢を見た。
鈴がいつも見る夢は、混沌としていて、奇想天外なことが次々と起こって、場面がくるくる変わってしまって、辻褄が合わない。覚えていないことも多いけれど、覚えている時はいつも目が覚めてから「なんなんだあれは」と思って笑ってしまうことが多い。
クラスのみんながなぜか全員平安時代の人間になっていて、髪型は現代風なのに十二単だの狩衣だのを着て神殿造りの建物の中で「いとをかし」とか「たれかある」とか頭のてっぺんから出るような声で言っている夢は今思い出してもくすくすしてしまう。
怖い夢ももちろん見るけれど、それらもみんな辻褄が合わない。
ライオンとチーターに追いかけられて必死に走って家の中に駆け込んでクローゼットの中に隠れたところで、「あ、玄関通ってくるの忘れた」と外に戻ってもう一度やり直したり、恐怖に震えながら魔物から隠れていたのがついに見つかってしまい、ああもうだめだ!と思ったらパッと場面が切り替わって魔物が明るいヘアサロンの中で鈴の髪を切ってくれながら、「やっぱり長い方が絶対似合うと思うから、今日は揃えるだけにしとこう?」なんて言っていたり。
しかし問題の夢は全然違っていた。
夢の中で鈴は、一人で駅のホームに立っていた。冷たい銀色の雨が時折風に揺れながら降っていて、辺りは少し灰色がかっている。
線路の向こう側の若草色に塗られた金網越しに、ほんのりと灯りの灯った洋菓子店が見える。「洋菓子店」と店の前に書いてあるわけではないし、お店の中が見えるわけでもないのだけれど、鈴にはなぜかそれが洋菓子店だとわかっていた。
店の前面には色褪せたピンクと黄色のストライプのビニール屋根が張り出していて、その先から雫が落ちている。向かって左に大きなショウウィンドウ、右にガラスのはまった木のドアがあって、ドアのすぐ横には大きなツヤツヤした葉を持つ観葉植物の鉢植えが一つ置いてある。
鈴はその洋菓子店をじっと見つめていた。懐かしいような寂しいような恋しいような不思議な気持ち。
雨の音を聞きながら、鈴はその場にいつまでも立ち尽くしていた。
何も起こらない。場面も変わらない。ただただ、疼くような思いで雨の中の洋菓子店を見つめている——そういう地味な夢だった。
地味で、そしてリアルだった。雨の音と水分をたっぷり含んだ空気の感触。起きてカーテンを開けたら外は晴れ渡った夏の朝で、寝ぼけた頭で、変だなさっきまで雨降ってたのに、と思った。
身支度をしている間も、朝食の時も、雨の中の洋菓子店の風景が気になって気になって仕方がなかった。毎朝一緒に登校する梨香にも早速その話を聞いてもらった。話しながら、ぼんやりとした気持ちが確信になった。
あの風景には絶対に見覚えがある。実際に行ったことがあると思う。
どこだっただろう。いつ見たんだろう。
授業中も給食中も、気がつけばあの洋菓子店のことを考えていた。全神経を集中させて、頭の奥深くを探る。記憶の堆積した洞窟を、息をこらし目をこらして注意深く掘り進んでいく。よっぽどぼうっとして見えたのか、隣の席の鷹雄君に、
「どうしたの?」
と何度か訊かれたくらいだった。しかしその甲斐あって、下校する頃には小さな記憶のかけらたちが少し集まって、モザイク模様のような絵の切れ端が出来上がっていた。
「あの駅はね、多分榎田《えのきだ》駅だと思う」
開口一番、前置きなしにそう言った鈴に、梨香は目をぱちくりさせた。
「あの駅?」
「今朝の夢の話」
「ああ…。え、じゃあやっぱり本当に行ったことがあるんだ」
「うん。小さい時、多分幼稚園か小一くらいだったと思う。お母さんと一緒に行った。傘さして」
「傘?その時も雨が降ってたの?」
「そう。持ってたのが新しい赤い折り畳み傘。折り畳みの傘使うのはあれが初めてで、最初なかなかうまく開けなくて苦労したの。だから覚えてるんだ」
「へえ…。そこに何しに行ったの?」
「思い出せない。でも何人かの人に会ったような感じがする。お店の中にも入ったような気がするけど、でもあのお店には、帰りに寄っただけだったような…。とにかく榎田に行ったメインの用事はあのお店じゃなくてどこか別のところだったと思う。誰かの家だったような感じ。それからね、傘をさして歩いた時、誰かと…同い年くらいの男の子と、相合傘して歩いたの。その子が傘持ってくれて」
「うわお!」
梨香が目を輝かせる。
「もしかして運命の相手!」
「まさか」
苦笑してみせながら、鈴はちょっとどきどきした。
自分でも、もしかして…なんてちょっとだけ思っていたのだ。
物語にありそうな展開ではないか。小さい頃一度会ったことのある男の子にティーンエイジャーになって再会したら、背の高いイケメン秀才。ちょっと照れたように微笑んで「僕のこと覚えてる?相合傘して歩いたよね。もう一度会いたいなってずっと思ってたんだ」なんて。
「でもさ、じゃあ問題解決じゃない」
「え?」
「おばさんに訊いてみればいいじゃん。小さい時榎田駅に何しに行ったの?って」
ニコニコして言われて、鈴はうーんむにゃむにゃと口ごもった。
「何、どしたの?」
「うん…うちのお母さんて、…昔のこととかあんまり覚えてないんだよね」
「ああーわかる!うちのお母さんもそう!何でもかんでもすーぐ忘れちゃうんだから。こないだもね…」
その後分かれ道に来るまで、梨香が面白おかしく話すお母さんの失敗談を聞いて鈴は大笑いしたのだった。
「夢の話ねえ…、実はまだお母さんに訊けてなくて」
「えーなんだ、そうなの」
苦笑して首をすくめてみせる。
「うん、なんかお母さんと一緒にいる時は忘れてて、お母さんがいない時に『ああ、あのこと訊いてみなきゃ』って思い出すんだよね」
「ああーそういうことあるね。ま、休みだし、訊けるチャンス増えるじゃない?それとか榎田に実際に行ってみたらもっと色々思い出すかもね」
いつもの角で梨香と手を振って別れると、家はすぐそこだ。ゆるい坂を上る。
榎田駅か…。
鈴はため息をついた。
梨香に言ったことは、実は事実と少し違っていた。
鈴のお母さんは、昔のことを覚えていないだけでなく、昔のことを訊かれるのが嫌いなのだ。ついこの間、そのことで喧嘩になり、キッパリと言い渡されたばかりだ。過去のことはもう一切訊かないで、と。
以前から、ちょっと変だなとは思っていた。小学校の時お母さんは何クラブに入ってたの?何委員だったの?移動教室はどこに行ったの?社会科見学で工場に行った?給食で何が好きだった?そういう質問にお母さんはいつも、さあどうだったかしらねえ、とか、うーん覚えてないわ、とか、忘れちゃったわ、とか答えるのだ。
鈴はいつも軽やかで可憐な蝶々のようなお母さんが大好きだったし、だからお母さんが茶目っ気のある妖精のように華奢な肩をちょっとすくめて笑って「覚えてないわ」と言うと、昔はそれ以上追求しなかった。
でも最近は——世間的に言えばきっと反抗期ということなのだろうけれど——そんなお母さんに苛立ちを覚えるようになっていた。何でもかんでも覚えてないって、どういうこと?中学の制服がどんなだったか、そんなことも覚えてないなんてそんな馬鹿な話がある?こんなの絶対変だよ。お母さんは私に何か隠してるの?
喧嘩のきっかけは、お母さんが高校受験のために塾に行ったかどうか覚えていないと言ったことだった。
スパゲティボロネーゼの美味しそうな匂いの漂うキッチンで、鈴は心の中にずっと溜め込んでいた疑問を全てぶちまけ、お母さんは、なんと言われても覚えていないのだから仕方がない、そんなふうに責められるようなことは何もしていないと言い張り、そこへお父さんが帰ってきて、鈴に自分の部屋へ行くように言った。
しばらくしてお母さんが鈴の部屋に来て、今後一切過去のことは私に質問しないでほしい、と静かなしかし断固とした口調で言った。鈴ちゃんと私が喧嘩せずにやっていくにはそれしかないと思うから、お父さんのためにも協力してほしい、と。
大好きなお母さんとこんなふうに喧嘩をしたのが初めてだった鈴は、心から後悔の念に駆られていたので、一も二もなく頷いた。過去のことなんて訊かなくったって十分暮らしていかれるのだから、なんらかの理由でお母さんがどうしても過去のことを話したくないと言うのなら、もうそれでいいと思ったのだ。
確かに、雨の日の榎田駅のことは、「お母さんの過去」の話ではない。鈴も一緒にいたのだから、「お母さんと鈴の過去」の話であって、だから訊いてみたっていいのかもしれない。訊く権利がある、といったっていいくらいだと思う。でもやはりもしまた喧嘩になってしまったら、お母さんの機嫌を損ねてしまったら、と思うと訊く気になれなかった。
暑い。ミンミンゼミってどうしてこんなふうに鳴くんだろう。こんな夏の昼間の住宅街を太陽に炙られながら一人でとぼとぼ歩いていると、セミに合わせてみーんみんみんみんみんみーん…と呟きたくなってくる。
夏休みか…。
鷹雄君ともしばらく会えないんだな。
ふとそう思ったらちょっと寂しくなって、自分でびっくりした。
一ヶ月前にはいなかった人なのに。
鈴の席は教室の窓際の一番後ろだ。隣のスペースが空いていたので、必然的に転入生の鷹雄君がそこに座ることになった。先生による紹介が終わり、黒いリュックと共に隣の席にやってきた鷹雄君は、ちらりと目があった鈴ににこりとして、小さい声で「よろしく」と言った。鈴も微笑んで「よろしく」と答えた。感じいい子だな、というのが第一印象だった。カッコいいけどキザったらしくない。性格良さそうで頭も良さそう。
鈴の仲のいい友達何人かは、鈴のことをリンと呼んでいる。最初の休み時間の時にそれを聞いていたらしい鷹雄君は、次の授業が始まる前に親しげに微笑んで言った。
「香野さんの名前、りんって読むんだ。風鈴と同じだね」
「ううん、すずって読むの。でも、鈴はリンリーンって鳴るから、あだ名はリン」
鷹雄君は楽しそうな目をして頷いた。
「それいいね。僕もリンって呼んでいい?」
他の男子がそんなことを言ったら、心の中で思い切り眉をしかめて「え、なんで?」と思ったかもしれない。でも鷹雄君にさらりとそう訊かれて、鈴はごく自然に頷いていた。
「うん」
「僕もタカでいいよ。向こうではそう呼ばれてたんだ」
さすがに呼び捨てにするのは気が引けて、鈴はタカ君とか鷹雄君とか呼んでいる。
鷹雄君は、一言で言うと大人っぽい人だ。クラスの男子たちと全然雰囲気が違う。それが海外暮らしをしていたせいなのか、鷹雄君自身の性格なのかはわからない。みんなともすぐに打ち解けて、楽しそうにジョークを言ったり笑ったりはするけれど、他の男子みたいにわあわあはしゃがない。ジョークもスマートで下品なことは言わないし、言葉遣いもきれい。相手が生徒でも先生でも、間違っていることは穏やかに指摘する。
素敵なんだよなあ。
坂道を上りきって鈴はうふんと小さく笑った。
私が男子だったら、あんなふうになりたい。
隣の席だから、どんなふうに授業を聴いているか、どんなふうにノートを取っているかも知っている。高い集中力。きれいな字。
数学の小テストで、先生が隣同士で答案を交換させて添削させたことがあった。鷹雄君はもちろん全問正解。同じく全問正解だった鈴の答案に、鷹雄君は「Perfect!」とまるでお手本のような筆記体で書いて返してくれた。いつもはテストなんてさっさとゴミ箱に捨ててしまうけれど、あの小テストはクリアファイルに入れて大切にとってある。
二学期が始まったらすぐに席替えがあるだろう。そうしたらもう隣同士ではいられなくなってしまう。
残念だな。もっと鷹雄君のこと知りたかったな。
そう思いながら家の門を開けてびっくりした。
明るいサップグリーンの葉を連ねたもみじの木の木陰に、大きな茶色の犬が座っていた。
チョコラブとゴールデンが混ざったような犬。きちんと前足を揃えて座り、濡れたような真っ黒な瞳でこちらをじっと見上げている。
そっと門を閉めて、ゆっくりと犬に近づく。犬は実に生真面目な顔をして、一心に鈴を見つめ続けている。しばらく見つめあった後で、鈴は犬に向かって言った。
「…あなた犬じゃないでしょ」
そう言った途端犬の顔に浮かんだ驚愕の表情があんまりおかしくて、鈴は吹き出してしまった。
犬はすぐに「しまった」という顔になり、次いで「何かおかしいことありました?」とでもいうようにとぼけた表情になった。
鈴はおかしくておかしくて笑いが止まらない。
犬はそんな鈴を数秒見つめていたけれど、やがて大きなため息をついてさも悲しげにがっくりとうなだれたので、鈴は急いで笑うのをやめて犬の隣にしゃがみ込んだ。
「ごめんね、笑ったりして」
「犬」は恨めしそうに鈴を見て言った。
「…どうしてわかったの」
「だって去年までずっとワンコと一緒に暮らしてたんだもの」
「知らなかった…」
悔しそうに言ってまたため息をつく。
「あーあ、落第決定…」
「落第?試験だったの?これ」
「そう。ねえ、なんでわかったの?どこが犬と違った?」
「うーん、全体の雰囲気かな。あと表情」
「もうちょっと具体的に言って」
メモでも取りそうな真剣な顔で鈴を見つめる。鈴はなんだか妙な気持ちになってきた。
「そうね…例えばワンコはこんな暑い時に、あんなふうに口閉じたままじっと座ってたりしないし…」
ミンミンゼミの声。
汗で首筋に張りつく髪。
目の前で真剣に頷いている「犬」。
「…ちょっと待って。これ夢だよね?」
「犬」がぷるぷると首を振った。
「夢じゃないよ」
鈴の目が大きくなった。
「現実なの?」
「うん。現実」
「犬」をまじまじと見つめる。
「…どうして喋ってるの?」
「さっき自分で言ったでしょ。犬じゃないからだよ」
「…犬じゃ、ない…」
「そう」
「犬」はおかしそうな目をして鈴を見ている。
「…人間なの?」
「そうだよ」
「…どうして犬の格好してるの?」
「試験だから」
「……」
「さて、なんの試験だと思いますか?」
「……」
言葉が出てこない。頭の中がごちゃごちゃだ。
金魚のように口をぱくぱくさせていると、「犬」がもう抑えきれないというようにくすくす笑い出した。そして突然鈴の背後に目をやり、
「あ!あれ見て!」
と叫んだので、鈴はびくっとして後ろを振り向いた。
「…?」
いつものように庭木と塀と隣の家が見えるだけだ。なにも変わったものは見えない。
「あれってなに?」
と「犬」の方を振り返った。
そこにはおかしそうな顔をした制服姿の鷹雄君が座っていた。
ちらちらと木漏れ日の降り注ぐ並木道を歩きながら、鈴はふっとため息をつき、自分が微笑んでいるのに気がついて、慌ててゆるんだ頬を引きしめた。そっと辺りをうかがう。幸いなことに近くには誰もいなかった。ほっとする。一人でニヤニヤ歩いてたなんて噂されるのは十四歳女子にとって致命的だ。
「リーン!」
後ろからバタバタと走ってくる音がして振り返る。佐藤梨香。二年A組。小学生の時からの仲良しだ。
「ああ、あっつい」
ふうーっと大きく息をついて梨香は手で顔をぱたぱたと扇いだ。
「ずっと走ってきたの?」
「うん、リンの後ろ姿が見えたからさ。あー木陰ってありがたい。暑さが全然違うよね」
この並木道は、森林浴で結構有名な大きな公園の中にあって、並木道というよりは林の中の道という感じだ。学校の前の横断歩道を渡り、普通の道を少し歩いてからこの木々の間の道に入ると、涼しくてほっとする。はるか上の方でさわさわと葉ずれの音をさせる背の高い木々を見上げて「どうもありがとう」と心からお礼を言いたくなる。
「ねえ、また北村がなんかやったんだって?」
北村とは鷹雄君のことだ。北村鷹雄。鈴と同じ二年C組。七月の初めにアメリカから転入してきたばかりだ。文武両道でなかなかのイケメン。当然女子に人気があり、隣の席の鈴は羨ましがられたり恨まれたりしている。
「早耳だねえ」
「何があったかまでは知らない。さっき職員室出たとこで、牧野さんと時田さんが『やっぱり北村君かっこいいよねー』『ああいうことできるのって、やっぱ帰国子女だからなのかなー』とかキンキン声で言ってたからさ」
梨香の物真似が上手くて、鈴は笑ってしまった。
「今朝ね、私が教室着いた時はすでに原因となったことが起こった後で、その辺のことは私も未那ちゃんに聞いたんだけど。笹岡さんが、明後日からハワイに三週間行くから、もう夏休みの宿題はほぼやっちゃったーとか言ったんだって。それを横谷さんとか加藤さんとかあの辺が聞いてて、なんというかまあ、気を悪くしたらしいのね」
小学生の時にもそういう女子グループがいた。成績がいいわけでも、スポーツができるわけでも、特別可愛いわけでもないのになぜだか威張っていて、すぐに人の悪口を言ったり、誰々を無視しようとか言い出す。残念ながら、そういう子達はどこにでもいる。そういう子達と一線を画しつつうまくやっていくのが、学校生活を平穏に乗り切るコツの一つだ。大人にはわかるまい、この面倒くさい危険な世界。
「ああー、だめだよね、あの人たちの前でそういうこと言っちゃ」
「で、私が教室着いた時は笹岡さんは泣きそうな顔して一人で座ってて、横谷さん達が聞こえよがしな感じで『自慢ってみっともないよねー』とか『自分がリッチだと思ってさー。ハワイだって。セレブのつもり?』とか色々言ってた。そしたら鷹雄君が彼女達に『別に自慢になんか聞こえなかったよ。いいじゃん、誰がどこに旅行に行こうと。羨ましいのはわかるけど、あんまりそんなこと言うとやっかんでるみたいでカッコ悪いよ』ってにこにこして爽やか~に言ったの」
「へええー。やるねえ」
「横谷さん達は赤くなって黙っちゃって、それからもう何も言わなかった。で、終業式で体育館に行く前に廊下で並ぶ時、鷹雄君、すれ違った笹岡さんに『いいね、ハワイ。楽しんできてね』ってこれまたにっこり爽やか~に言ったの。笹岡さん、真っ赤になっちゃって、『ありがとう』って蚊の鳴くような声で言ってた」
「ははは。いいねえ、なんだか北村」
「でしょ!」
相槌にちょっと力が入りすぎた。しまった。梨香がにやりとする。
「おやおやー?」
「何?」
平静を装う。
「もしかして恋?」
「違ーう」
「香野鈴さん、ここは一つ正直に」
「違います」
「吐け!証拠は上がってるんだ」
「違うったら」
笑い出してしまう。
「そういうんじゃない。ただ、いいなあ、かっこいいなあ、って思ってるだけ」
「それを世間では恋というのさ~」
「んーちょっと違うと思う。恋っていうのは『好き!』ってハートマーク付きで思うものでしょ。私のは、『自分もあんなふうになりたいなあ』っていう気持ちだもん。だから、憧れっていうやつだと思う」
梨香が苦笑した。
「リンは相変わらず細かいなあ。そんな理屈こねないで、好きになっちゃえばいいのに。毎日楽しいよお、好きな人がいると」
「明日からは会えないね」
意地悪を言ったら、梨香はしゅんと肩を落とした。
「そうなんだよ…ああ夏休み長すぎ」
「松井のこと誘ってディズニーにでも行ってみたら?」
梨香は恨めしそうに鈴を見た。
「簡単に言ってくれるね。これだから恋愛してないヤツは」
「ごめんごめん」
笑って謝りながら、鈴は羨ましいなと思って梨香の仏頂面を眺めた。
毎日楽しいよお、好きな人がいると。
その言葉通り、梨香は毎日本当に楽しそうに松井君のことを話す。目が合った、ちょっと喋った、こっち見てた、消しゴム拾ってくれた、夢に出てきた、ああ今日も会えて幸せ、かっこいいよね、見惚れちゃう。
口の悪い友達に、
「松井のどこがいいの?光らない蛍みたいじゃん」
なんて言われてもちっともめげない。
「松井のいいとこはさ、私にしかわかんないのよ」
とか言って澄ましている。
どうしたら梨香みたいに素直に、オープンに、真っ直ぐに、誰かのことを好きになれるんだろうな。そもそも、どうしたらその人のことをそういう意味で好きかどうかわかるんだろう。友達として好きなのか、ロールモデルとして憧れているのか、それとも恋愛対象として好きなのか、どうやったらわかるの?
「あ、そういえば、ほら、例の夢の話!進展あった?」
梨香に言われて鈴は我に返った。
夢の話というのはこうだ。
一週間くらい前、鈴はいつもと違うタイプの夢を見た。
鈴がいつも見る夢は、混沌としていて、奇想天外なことが次々と起こって、場面がくるくる変わってしまって、辻褄が合わない。覚えていないことも多いけれど、覚えている時はいつも目が覚めてから「なんなんだあれは」と思って笑ってしまうことが多い。
クラスのみんながなぜか全員平安時代の人間になっていて、髪型は現代風なのに十二単だの狩衣だのを着て神殿造りの建物の中で「いとをかし」とか「たれかある」とか頭のてっぺんから出るような声で言っている夢は今思い出してもくすくすしてしまう。
怖い夢ももちろん見るけれど、それらもみんな辻褄が合わない。
ライオンとチーターに追いかけられて必死に走って家の中に駆け込んでクローゼットの中に隠れたところで、「あ、玄関通ってくるの忘れた」と外に戻ってもう一度やり直したり、恐怖に震えながら魔物から隠れていたのがついに見つかってしまい、ああもうだめだ!と思ったらパッと場面が切り替わって魔物が明るいヘアサロンの中で鈴の髪を切ってくれながら、「やっぱり長い方が絶対似合うと思うから、今日は揃えるだけにしとこう?」なんて言っていたり。
しかし問題の夢は全然違っていた。
夢の中で鈴は、一人で駅のホームに立っていた。冷たい銀色の雨が時折風に揺れながら降っていて、辺りは少し灰色がかっている。
線路の向こう側の若草色に塗られた金網越しに、ほんのりと灯りの灯った洋菓子店が見える。「洋菓子店」と店の前に書いてあるわけではないし、お店の中が見えるわけでもないのだけれど、鈴にはなぜかそれが洋菓子店だとわかっていた。
店の前面には色褪せたピンクと黄色のストライプのビニール屋根が張り出していて、その先から雫が落ちている。向かって左に大きなショウウィンドウ、右にガラスのはまった木のドアがあって、ドアのすぐ横には大きなツヤツヤした葉を持つ観葉植物の鉢植えが一つ置いてある。
鈴はその洋菓子店をじっと見つめていた。懐かしいような寂しいような恋しいような不思議な気持ち。
雨の音を聞きながら、鈴はその場にいつまでも立ち尽くしていた。
何も起こらない。場面も変わらない。ただただ、疼くような思いで雨の中の洋菓子店を見つめている——そういう地味な夢だった。
地味で、そしてリアルだった。雨の音と水分をたっぷり含んだ空気の感触。起きてカーテンを開けたら外は晴れ渡った夏の朝で、寝ぼけた頭で、変だなさっきまで雨降ってたのに、と思った。
身支度をしている間も、朝食の時も、雨の中の洋菓子店の風景が気になって気になって仕方がなかった。毎朝一緒に登校する梨香にも早速その話を聞いてもらった。話しながら、ぼんやりとした気持ちが確信になった。
あの風景には絶対に見覚えがある。実際に行ったことがあると思う。
どこだっただろう。いつ見たんだろう。
授業中も給食中も、気がつけばあの洋菓子店のことを考えていた。全神経を集中させて、頭の奥深くを探る。記憶の堆積した洞窟を、息をこらし目をこらして注意深く掘り進んでいく。よっぽどぼうっとして見えたのか、隣の席の鷹雄君に、
「どうしたの?」
と何度か訊かれたくらいだった。しかしその甲斐あって、下校する頃には小さな記憶のかけらたちが少し集まって、モザイク模様のような絵の切れ端が出来上がっていた。
「あの駅はね、多分榎田《えのきだ》駅だと思う」
開口一番、前置きなしにそう言った鈴に、梨香は目をぱちくりさせた。
「あの駅?」
「今朝の夢の話」
「ああ…。え、じゃあやっぱり本当に行ったことがあるんだ」
「うん。小さい時、多分幼稚園か小一くらいだったと思う。お母さんと一緒に行った。傘さして」
「傘?その時も雨が降ってたの?」
「そう。持ってたのが新しい赤い折り畳み傘。折り畳みの傘使うのはあれが初めてで、最初なかなかうまく開けなくて苦労したの。だから覚えてるんだ」
「へえ…。そこに何しに行ったの?」
「思い出せない。でも何人かの人に会ったような感じがする。お店の中にも入ったような気がするけど、でもあのお店には、帰りに寄っただけだったような…。とにかく榎田に行ったメインの用事はあのお店じゃなくてどこか別のところだったと思う。誰かの家だったような感じ。それからね、傘をさして歩いた時、誰かと…同い年くらいの男の子と、相合傘して歩いたの。その子が傘持ってくれて」
「うわお!」
梨香が目を輝かせる。
「もしかして運命の相手!」
「まさか」
苦笑してみせながら、鈴はちょっとどきどきした。
自分でも、もしかして…なんてちょっとだけ思っていたのだ。
物語にありそうな展開ではないか。小さい頃一度会ったことのある男の子にティーンエイジャーになって再会したら、背の高いイケメン秀才。ちょっと照れたように微笑んで「僕のこと覚えてる?相合傘して歩いたよね。もう一度会いたいなってずっと思ってたんだ」なんて。
「でもさ、じゃあ問題解決じゃない」
「え?」
「おばさんに訊いてみればいいじゃん。小さい時榎田駅に何しに行ったの?って」
ニコニコして言われて、鈴はうーんむにゃむにゃと口ごもった。
「何、どしたの?」
「うん…うちのお母さんて、…昔のこととかあんまり覚えてないんだよね」
「ああーわかる!うちのお母さんもそう!何でもかんでもすーぐ忘れちゃうんだから。こないだもね…」
その後分かれ道に来るまで、梨香が面白おかしく話すお母さんの失敗談を聞いて鈴は大笑いしたのだった。
「夢の話ねえ…、実はまだお母さんに訊けてなくて」
「えーなんだ、そうなの」
苦笑して首をすくめてみせる。
「うん、なんかお母さんと一緒にいる時は忘れてて、お母さんがいない時に『ああ、あのこと訊いてみなきゃ』って思い出すんだよね」
「ああーそういうことあるね。ま、休みだし、訊けるチャンス増えるじゃない?それとか榎田に実際に行ってみたらもっと色々思い出すかもね」
いつもの角で梨香と手を振って別れると、家はすぐそこだ。ゆるい坂を上る。
榎田駅か…。
鈴はため息をついた。
梨香に言ったことは、実は事実と少し違っていた。
鈴のお母さんは、昔のことを覚えていないだけでなく、昔のことを訊かれるのが嫌いなのだ。ついこの間、そのことで喧嘩になり、キッパリと言い渡されたばかりだ。過去のことはもう一切訊かないで、と。
以前から、ちょっと変だなとは思っていた。小学校の時お母さんは何クラブに入ってたの?何委員だったの?移動教室はどこに行ったの?社会科見学で工場に行った?給食で何が好きだった?そういう質問にお母さんはいつも、さあどうだったかしらねえ、とか、うーん覚えてないわ、とか、忘れちゃったわ、とか答えるのだ。
鈴はいつも軽やかで可憐な蝶々のようなお母さんが大好きだったし、だからお母さんが茶目っ気のある妖精のように華奢な肩をちょっとすくめて笑って「覚えてないわ」と言うと、昔はそれ以上追求しなかった。
でも最近は——世間的に言えばきっと反抗期ということなのだろうけれど——そんなお母さんに苛立ちを覚えるようになっていた。何でもかんでも覚えてないって、どういうこと?中学の制服がどんなだったか、そんなことも覚えてないなんてそんな馬鹿な話がある?こんなの絶対変だよ。お母さんは私に何か隠してるの?
喧嘩のきっかけは、お母さんが高校受験のために塾に行ったかどうか覚えていないと言ったことだった。
スパゲティボロネーゼの美味しそうな匂いの漂うキッチンで、鈴は心の中にずっと溜め込んでいた疑問を全てぶちまけ、お母さんは、なんと言われても覚えていないのだから仕方がない、そんなふうに責められるようなことは何もしていないと言い張り、そこへお父さんが帰ってきて、鈴に自分の部屋へ行くように言った。
しばらくしてお母さんが鈴の部屋に来て、今後一切過去のことは私に質問しないでほしい、と静かなしかし断固とした口調で言った。鈴ちゃんと私が喧嘩せずにやっていくにはそれしかないと思うから、お父さんのためにも協力してほしい、と。
大好きなお母さんとこんなふうに喧嘩をしたのが初めてだった鈴は、心から後悔の念に駆られていたので、一も二もなく頷いた。過去のことなんて訊かなくったって十分暮らしていかれるのだから、なんらかの理由でお母さんがどうしても過去のことを話したくないと言うのなら、もうそれでいいと思ったのだ。
確かに、雨の日の榎田駅のことは、「お母さんの過去」の話ではない。鈴も一緒にいたのだから、「お母さんと鈴の過去」の話であって、だから訊いてみたっていいのかもしれない。訊く権利がある、といったっていいくらいだと思う。でもやはりもしまた喧嘩になってしまったら、お母さんの機嫌を損ねてしまったら、と思うと訊く気になれなかった。
暑い。ミンミンゼミってどうしてこんなふうに鳴くんだろう。こんな夏の昼間の住宅街を太陽に炙られながら一人でとぼとぼ歩いていると、セミに合わせてみーんみんみんみんみんみーん…と呟きたくなってくる。
夏休みか…。
鷹雄君ともしばらく会えないんだな。
ふとそう思ったらちょっと寂しくなって、自分でびっくりした。
一ヶ月前にはいなかった人なのに。
鈴の席は教室の窓際の一番後ろだ。隣のスペースが空いていたので、必然的に転入生の鷹雄君がそこに座ることになった。先生による紹介が終わり、黒いリュックと共に隣の席にやってきた鷹雄君は、ちらりと目があった鈴ににこりとして、小さい声で「よろしく」と言った。鈴も微笑んで「よろしく」と答えた。感じいい子だな、というのが第一印象だった。カッコいいけどキザったらしくない。性格良さそうで頭も良さそう。
鈴の仲のいい友達何人かは、鈴のことをリンと呼んでいる。最初の休み時間の時にそれを聞いていたらしい鷹雄君は、次の授業が始まる前に親しげに微笑んで言った。
「香野さんの名前、りんって読むんだ。風鈴と同じだね」
「ううん、すずって読むの。でも、鈴はリンリーンって鳴るから、あだ名はリン」
鷹雄君は楽しそうな目をして頷いた。
「それいいね。僕もリンって呼んでいい?」
他の男子がそんなことを言ったら、心の中で思い切り眉をしかめて「え、なんで?」と思ったかもしれない。でも鷹雄君にさらりとそう訊かれて、鈴はごく自然に頷いていた。
「うん」
「僕もタカでいいよ。向こうではそう呼ばれてたんだ」
さすがに呼び捨てにするのは気が引けて、鈴はタカ君とか鷹雄君とか呼んでいる。
鷹雄君は、一言で言うと大人っぽい人だ。クラスの男子たちと全然雰囲気が違う。それが海外暮らしをしていたせいなのか、鷹雄君自身の性格なのかはわからない。みんなともすぐに打ち解けて、楽しそうにジョークを言ったり笑ったりはするけれど、他の男子みたいにわあわあはしゃがない。ジョークもスマートで下品なことは言わないし、言葉遣いもきれい。相手が生徒でも先生でも、間違っていることは穏やかに指摘する。
素敵なんだよなあ。
坂道を上りきって鈴はうふんと小さく笑った。
私が男子だったら、あんなふうになりたい。
隣の席だから、どんなふうに授業を聴いているか、どんなふうにノートを取っているかも知っている。高い集中力。きれいな字。
数学の小テストで、先生が隣同士で答案を交換させて添削させたことがあった。鷹雄君はもちろん全問正解。同じく全問正解だった鈴の答案に、鷹雄君は「Perfect!」とまるでお手本のような筆記体で書いて返してくれた。いつもはテストなんてさっさとゴミ箱に捨ててしまうけれど、あの小テストはクリアファイルに入れて大切にとってある。
二学期が始まったらすぐに席替えがあるだろう。そうしたらもう隣同士ではいられなくなってしまう。
残念だな。もっと鷹雄君のこと知りたかったな。
そう思いながら家の門を開けてびっくりした。
明るいサップグリーンの葉を連ねたもみじの木の木陰に、大きな茶色の犬が座っていた。
チョコラブとゴールデンが混ざったような犬。きちんと前足を揃えて座り、濡れたような真っ黒な瞳でこちらをじっと見上げている。
そっと門を閉めて、ゆっくりと犬に近づく。犬は実に生真面目な顔をして、一心に鈴を見つめ続けている。しばらく見つめあった後で、鈴は犬に向かって言った。
「…あなた犬じゃないでしょ」
そう言った途端犬の顔に浮かんだ驚愕の表情があんまりおかしくて、鈴は吹き出してしまった。
犬はすぐに「しまった」という顔になり、次いで「何かおかしいことありました?」とでもいうようにとぼけた表情になった。
鈴はおかしくておかしくて笑いが止まらない。
犬はそんな鈴を数秒見つめていたけれど、やがて大きなため息をついてさも悲しげにがっくりとうなだれたので、鈴は急いで笑うのをやめて犬の隣にしゃがみ込んだ。
「ごめんね、笑ったりして」
「犬」は恨めしそうに鈴を見て言った。
「…どうしてわかったの」
「だって去年までずっとワンコと一緒に暮らしてたんだもの」
「知らなかった…」
悔しそうに言ってまたため息をつく。
「あーあ、落第決定…」
「落第?試験だったの?これ」
「そう。ねえ、なんでわかったの?どこが犬と違った?」
「うーん、全体の雰囲気かな。あと表情」
「もうちょっと具体的に言って」
メモでも取りそうな真剣な顔で鈴を見つめる。鈴はなんだか妙な気持ちになってきた。
「そうね…例えばワンコはこんな暑い時に、あんなふうに口閉じたままじっと座ってたりしないし…」
ミンミンゼミの声。
汗で首筋に張りつく髪。
目の前で真剣に頷いている「犬」。
「…ちょっと待って。これ夢だよね?」
「犬」がぷるぷると首を振った。
「夢じゃないよ」
鈴の目が大きくなった。
「現実なの?」
「うん。現実」
「犬」をまじまじと見つめる。
「…どうして喋ってるの?」
「さっき自分で言ったでしょ。犬じゃないからだよ」
「…犬じゃ、ない…」
「そう」
「犬」はおかしそうな目をして鈴を見ている。
「…人間なの?」
「そうだよ」
「…どうして犬の格好してるの?」
「試験だから」
「……」
「さて、なんの試験だと思いますか?」
「……」
言葉が出てこない。頭の中がごちゃごちゃだ。
金魚のように口をぱくぱくさせていると、「犬」がもう抑えきれないというようにくすくす笑い出した。そして突然鈴の背後に目をやり、
「あ!あれ見て!」
と叫んだので、鈴はびくっとして後ろを振り向いた。
「…?」
いつものように庭木と塀と隣の家が見えるだけだ。なにも変わったものは見えない。
「あれってなに?」
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そこにはおかしそうな顔をした制服姿の鷹雄君が座っていた。
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