春の音が聴こえる

柏木みのり

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《5》

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 鈴と鷹雄君が賢女の屋敷に戻って数分後に、お母さんが到着した。
 象牙色の部屋に入ってきて、ソファに鷹雄君と並んで座っている鈴を見たお母さんはもちろん驚いた。驚いただけでなくまるでコメディ映画のように鈴を指差して悲鳴を上げたので、鈴と鷹雄君は吹き出し、賢女の口元まで可笑しさに歪みかけたほどだった。お母さんはそんな二人を眉をしかめて眺め、最後に賢女を睨みつけた。
「一体どういうことなの」
 その高飛車な言い方は賢女にそっくりで、鈴は目を見張った。
 賢女は全く動ずることなく、鋼鉄のような冷たさでお母さんを見つめ返した。
「チカが行方不明になりました」
「何ですって」
「青い月の宵まで五日しかありません。すぐに探しに行ってちょうだい」
 お母さんの目がまん丸になった。
「私が?」
 賢女が眉を上げる。
「あなた以外に誰が行くのです」
「だって…そんな」
 狼狽えているお母さんを賢女はじっと見つめた。
「…あなたは春を想う気持ちも忘れてしまったの」
 お母さんは俯いて唇を噛んだ。
「…そうじゃないわ。でも…私はもう役に立てないと思う。もう浮かぶことすらできなくなってしまったから」
「な、何ですって」
 賢女は飛び上がってお母さんを凝視した。
 お母さんは黙って顔を上げると、額にかかった前髪を後ろにかき上げた。  
 賢女がつかつかとお母さんに近づき、じいっとその白い額に見入る。しばらくそのままでいたけれど、やがて信じられないというように首を振り、やり場のない怒りを発散させるかのように部屋の中を歩き回り出した。
「なんということでしょう…浮かぶこともできないなんて!額の印すらもう見えない!この前ここに来た時は大丈夫だったのに!」
 お母さんも負けずに声を張り上げる。
「この前って言ったって、もう八年も前じゃないの!今更何を言ったってどうにもならないわ。気づいたらこうなってたんだもの」
 八年前…。
 鈴は眉をしかめているお母さんにちょっとためらいながら話しかけた。
「お母さん」
「なに」
「あのね、八年前、私も一緒にここに来たんじゃない?」
 お母さんが少し驚いたように鈴を見る。
「ええ、そうよ。覚えてる?」
「うん、全部じゃないけど。電車で榎田駅まで来たでしょう?」
「ええ」
「雨が降ってたんじゃない?」
「…さあ、覚えてないわ」
 すると賢女が
「そうです。雨が降っていましたよ」
 と言った。興味深そうに鈴をじっと見ている。
「よく覚えてるわね、そんなこと」
 お母さんがどちらにともなく言って肩をすくめた。
「私はそういうことは忘れませんよ」
 賢女はまだ鈴を見ている。
「どうやらあなたにも少しは私に似ているところがあるようね。ありがたいこと」
 皮肉っぽい口調で言われて、鈴はふんと顎を上げた。
「別にずっと覚えてたわけじゃありません。この前雨の榎田駅の夢を見て思い出しただけです」
 賢女がほうと眉を上げた。
「それはいつのこと?」
「え?ええと…一週間くらい前です」
 賢女が満足げな顔で鷹雄君に頷いてみせた。
「上出来です」
 すると鷹雄君が賢女を見て微かに首を振り、賢女が訝しげな顔をした。そしてちょっと考えるふうだったが、立ちっぱなしでいたお母さんに
「あなたもとにかく座りなさい」
 と言うと、今度は鷹雄君を見た。
「鷹雄、来なさい」 
 そしてせかせかと部屋を出ていった。
「失礼します」
 鷹雄君はそう言ってお母さんに会釈をし、鈴にちょっと微笑んでみせると、賢女の後を追った。二人の後ろでドアがそっと閉まった。
 お母さんが大きなため息と共にもう一つの一人掛けソファに腰を下ろした。鈴と目が合う。
「どうして来たの」
 咎めるように言われて、鈴は口ごもった。
「だって…」
「鷹雄君に説得されたの」
「ううん、その逆。お願いして連れてきてもらったの」
「呆れた」
 お母さんは言ってまたため息をついたけれど、怒っているふうではなかったので、鈴は思い切って訊いてみた。
「お父さん、このこと知ってるの?」
「私が春の賢女だったってこと?もちろん知ってるわよ」
 軽く答えて、お母さんはまた気がかりそうにため息をついた。
「ほんとに…どうするつもりなのかしら…あと五日しかないなんて…」
 心配中のところを申し訳ないけれど、こちらは質問したいことが山積みだ。
「どうやってお父さんと知り合ったの?」
「お父さんが春の国に遊びにきてたの」
 これ以上できないくらい簡単に答えて、お母さんはまた思案顔に戻る。鈴は唇を尖らせた。もっとちゃんと説明してほしいのに。
「でもお父さんはどうやって…」
 訊きかけたところでドアが開き、賢女と鷹雄君が戻ってきた。
「こういうことにしましょう」
 お母さんと鈴を見下ろして賢女が言った。
「鈴と鷹雄にチカを探しにいってもらいます。すぐに夏の国と冬の国の知り合いに連絡を取り、協力を頼みます。あなたは」
 とお母さんを見て、
「自分の家に帰りなさい。ここにいてもなんの役にも立たないのだから」
「そういう言い方ないでしょう」
 お母さんの眉がきりきりとつり上がる。
「どんな言い方をしようと事実は変わりませんよ。あなたはもう浮かぶことすらできない。額の印すら消えている。あなたが行ってもチカを見つけることはできません」
「鈴だって賢女じゃないわ」
「鈴には可能性があります。あの夢の話が何よりの証拠です。それに今日ここへ来るのに、もちろん鷹雄と一緒にではあるけれど、魔法で来ることができている。誰かさんとは違って」
 賢女の皮肉にお母さんは唇を噛んだ。
「青い月の宵まで五日。私はもちろん行かれない。あなたは賢女として役立たず。賢女の血を持つ者でチカを探しに行かれるのは鈴だけです。他に方法はないでしょう」
 お母さんは数拍おいてため息をついた。
「…確かにその通りだわ。でも、子供二人でなんて…」
 心許なさげに鷹雄君をちらりと見る。
「鷹雄のことなら心配は要りませんよ。歳は若いですがなかなか優秀です」
 お母さんは目を丸くし、次いで微笑んだ。
「驚いた。お母様がお弟子を褒めるのを聞くのは初めてだわ。よっぽど優秀なのね。それなら安心だわ」
 鷹雄君が微笑して会釈する。
「光栄です」
「ではそういうことにしましょう。時間がありません。すぐに支度を…」
「お待ちください」
 既にドアのほうに向かって足早に歩き出していた賢女に鷹雄君が呼びかけた。
「鈴さんの意見をお聞きになるべきだと思います」
 鷹雄君の言葉に、賢女とお母さんが鈴を見た。
 賢女の厳しい視線。お母さんの半ば懇願するような半ば迷っているような視線。鈴は戸惑った。
 ど、どうしよう。
 視線をうろうろさせると、鷹雄君と目が合った。落ち着いた目。
 途端に、自分の言った言葉が頭に響いた。
 ——巻き込まれたいかどうかは私が決める。
 巻き込まれたい、と思った。
 私にできることがあるなら手伝いたいから。
 私も春の賢女の血を引いているから。
「行きます」
 鈴はきっぱりと言った。
 鷹雄君と一緒に行きたいから、と思ったのは、自分自身にも内緒にしておいた。
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