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Chap.33

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 「ひゃー疲れた…」
 日記を書き終えた竜は、どさんとばかりに顔からベッドに倒れ込んだ。そのまましばらく動かずにいると、心配したライラが立ち上がって、宙に浮いたままの竜の足を鼻でぐいぐい押す。さらにそのまま動かないでいると、ライラがひゅんひゅん言い出したので、竜は笑って起き上がった。
「ごめんごめん、大丈夫だよ」
 大きな顔をごしごし撫でると、ライラは嬉しそうにぶんぶん尻尾を振った。
 時計は10時半を指している。ベッドの上から散らかった机の上を見やった竜は、なんだか嬉しくなって微笑んだ。
 手帳の他に、ノートが二冊と教科書が二冊。夕食の後、さっきまでエミルから数学と物理の授業を受けていたのだ。教科書はエミルが昔中学校で使っていたものを引っ張り出してきたのだけれど、見事なまでに綺麗な状態だった。
「ほとんど使わなかったからな。それに高校のは一冊もないから、まあそれは後で必要だったら考えよう。ああ、兄のがどこかにあるかもしれないな」
「必要だったら、って…?」
「教科書なんかなくても学べるからね。父は教科書なんか使わないで僕を教えたから」
 今日のところはまだ初歩の初歩だったが、エミルの授業はとても楽しかった。笑ったり話したり質問したり答えたりしているうちに、新しい情報や考え方がするすると頭に入ってくる。明日の授業も楽しみだ。楽しいことが色々あるって嬉しいことだなと竜は思った。魔法も水泳も数学も物理も楽しい。
 また胸がちくりとしたけれど、竜は小さく頭を振ってそれを振り払った。罪悪感なんかでくよくよする暇があったら、勉強して、魔法大学での日々に備えるんだ。健太がこっちに帰ってこられるように。
 今日の午後、意識の空間の中でエミルが言ってくれたことは、竜の気持ちを高揚させた。魔法発明学者になって、健太がこっちに戻ってこられるような魔法を発明する。そのアイディアに夢中になったあまり、帰りの車の中でエミルに言われるまで、ピエールにもらったクッキーの包みのことも忘れていたほどだった。
 もちろん、そんなすごい発明ができるようになるまでにはうんと時間がかかるだろう。でも、こっちの時間の速度は速い。こっちで24年経っても向こうではまだ1年だから、健太をそう長く待たせることにはならない。
 24年経ったら、竜は今のエミルと同じ年になる。もしかしてエミルのように立派な魔法発明学者になって、あと少しですごい発明を完成させるというところまでになっているかもしれないではないか。もし魔法を使えない人もこっちと向こうを行き来できるような魔法を発明できたら、健太だけじゃなくて、父さんや母さんだってこっちの世界に来ることができる。
 真は?
 ベッドの上に仰向けにひっくり返って、竜は考えた。今までなんとなく考えることを避けていた。真も、僕と一緒に移住したいって言うんじゃないだろうか…。

 竜は夢を見ていた。ちらちらと青や緑の光が瞬く透明な水の中を泳いでいる。いや、泳いでいるというよりは飛んでいるようだった。水の流れに乗って、横になったり仰向けになったりしながら進んでいく。見えないけれど、流れの前の方にエミルがいるのがわかる。追いつかなきゃ、と思う。追いついて、一緒に魔法発明学の実験をしたい。もっと速く泳がなきゃ。こんなスピードじゃだめだ。スピードを上げようと、仰向けのまま背泳ぎをしようとするけれど、腕が動かない。脚は動く。一所懸命にキックを続ける。キックだけじゃ全然スピードが足りない。ストロークだ。腕を動かさなきゃ。身体の横に貼りついたようになって動かない腕を、渾身の力を込めて振り上げた。
「いたっ」
 ばん!という音とともに右手を思い切り何かにぶつけて、竜は目を覚ました。
右手をヘッドボードに打ちつけたのだ。ベッドの中で背泳ぎのストローク…。こんなことは初めてだ。おかしくて一人で声を押し殺して笑ってしまった。ひゅん、と小さな声がしたのでライラのベッドの方を見ると、薄明かりの中、ライラが顔を上げて物問いたげにこっちを見ている。
「ごめんごめん、起こしちゃって。なんでもないよ。大丈夫」
 まだ笑いながら小さい声で言うと、ライラは、そう?ならいいけど、とでも言うように、またベッドに顔を埋めた。
 枕元の時計に顔を近づける。まだ5時5分前だ。ちょっとひりひりしている右手をさすりながら、竜は寝返りを打った。起きちゃおうかな、どうしようかな。 その時ふと気がついた。昨日の夜、ちゃんと電気を消した記憶がない。パジャマに着替えた記憶もない。シーツをめくって確認する。ちゃんとパジャマを着ている。半身を起こして机のほうに目をやる。開いたままになっていたはずの手帳やノートや教科書もきちんと机の奥の端に積み重ねられている。
 変だな。一所懸命に思い出そうとするが、どうしても思い出せない。
 まさか、魔法の喪失の兆候と何か関係があるんじゃ…。
 竜は慌てて机の上に置いてある手帳に目をやった。手帳がすっと宙に浮き、滑らかな動きで竜の手元にやってきた。竜はほっと息をついた。大丈夫。魔法は失われていない。でも、上級レベルの魔法は?
 いても立ってもいられなくなって、竜は起き上がって魔法で着替え出した。果樹園に行こう。練習したい。練習しなきゃ。今日はもう上級レベルの魔法もやっていいって言われているんだもの。もしできなくなっていたら、また練習してできるようにしなきゃいけない。明後日の午後までに。
 着替え終わって靴を履くと、ライラもベッドから起き上がった。私も行く、と大きな黒い目が言っている。竜は窓から飛んで行くつもりだったけれど、じっとこちらを見上げている生真面目なライラの顔を見たら、ここで待っててとはとても言えなかった。なんて可愛いんだろう。大好きなライラ。
「じゃ、行こう。みんなまだ寝てるから、そっと歩くんだよ」
 静かにドアを開け、抜き足差し足で、廊下の真ん中の絨毯を敷いてあるところを歩く。ライラは犬であって猫ではないから、ゆっくり歩くことはできても、抜き足差し足というわけにはいかない。どうしても足音はしてしまう。それでもずいぶん上手に静かに歩いた。問題は階段だ。
 ブリュートナー家の階段は広くて、途中に大きな踊り場がある。廊下と同じように、真ん中の部分に絨毯が敷いてあるからライラの足でも滑らないし、一段一段の奥行きもそう狭くはないけれど、やはり静かには下りられないだろうと竜は思っていた。大体今までライラが階段をゆっくり下りるところなど見たことがない。いつもどちらかというと、勢いに任せてドドドという感じで下りている。
 ところが今日は、慎重に、ゆっくり、少しずつ、竜の前を下りていく。竜は目の前でバランスをとるように揺れているライラの立派な尻尾を見ながら、微笑まずにはいられなかった。すごいなあライラ。そんなふうに下りるのは難しいだろうに。
 踊り場までくると、ライラは立ち止まってにこにこ顔で竜を振り返った。どう?黒い目が得意そうにきらきらしていた。
 無事静かに勝手口から出てドアを閉めると、竜はライラをハグしてごしごし撫でて盛大に褒めた。
「すごいなあライラ!お利口さんだね。偉かったね。上手だったよ!」
 ライラは身体をくねらせて尻尾をぶんぶん振ってにこにこ顔で竜に答えた。そうでしょ、そうでしょ、ちゃんとできたでしょ、と身体全体ではしゃいでいる。
「よし、ライラ、果樹園まで競争!」
 昨日の健太を真似て、竜は走り出した。もちろんライラの方が速い。白とライトグレイの大きな身体が、さっと竜の横を過ぎて走っていく。竜も全力で走った。菜園の端でライラは一度止まり、楽しそうに竜を振り返った。おっそいなあ、ちゃんと走ってるの?そして竜が走り続けているのを確認すると、また身を翻して駆け出した。ちぇっ。待っててくれないんだ。こみ上げる笑いで頬を緩ませながら、竜は走った。ひんやりした風が気持ちいい。空も空気も淡い青藤色だ。綿をちぎったような小さな雲がいくつか浮かんでいる。今日はいい天気になりそうだ。
 笑いと息切れで、肩で息をしながら竜が木戸を開けると、ライラはまだ競争を終わらせる気はないらしく、一目散にいつものりんごの木の方へ駆けていった。さすがにもう走りたくない竜は、くすくす笑いながら歩き出す。あっという間にりんごの木の下に到着したライラは、得意満面な笑顔で竜を振り返った。絶対に、「いっちばーん!」と言っているのが聞こえた、と竜は思った。
「さすがだねえ、ライラ。速いや」
 りんごの木の下で、にこにこ顔のライラをごしごし撫でる。
「一等賞の賞品は、リルの実だ!ちょっと待ってね」
 リルの木の近くまで行って、上の方の熟れている実を魔法でいくつか採る。魔法で実を半分に割る。ライラは喜んで両方ともペロリと平らげた。自分でもいくつか食べた後、竜は手近にあった石を拾ってりんごの木の下に腰を下ろした。
 石を目の前の草の上に置き、一呼吸。気持ちを鎮める。できなかったらなんて考えるな。今までやっていたのと同じ魔法だ。意識を集中する。すぐにフルートのような音が竜の周りの空間を満たした。竜はそっと安堵のため息をついた。よかった。とりあえず、これはできた。
 次にレウリス…と思って気がついた。ここにはない。すっかり忘れていた。いつもはエミルがリュックから出してくれていたんだった。
「それじゃあ…」
 口の中で呟いて、竜は考えた。物を作り出す魔法をやってみようか。でも、何を作ろう…。腕時計ベルトもアルマンサのブレスレットもここにはない。そうだ、水は?出せるかな。
 手をお椀のようにして「水」に集中する。すぐに水が現れた。「これを消す」すぐに水が無数の粒となって宙にパッと浮かび、消え失せた。
 同じようにして、火と風と光も難なくできた。次は何をしようか、もう二つの魔法を同時にやってみてもいいだろうか…と考えていると、おとなしく隣に寝そべっていたライラがふっと木戸の方を向いて、嬉しそうに尻尾をバタバタ振り出したかと思うと、さっと立ち上がって、走っていった。竜は一瞬思わずぞっとしてしまった。まさかまさか、幽霊とかそういうのじゃないだろうな。
 さっきよりも少し明るくなった、青藤色と朱鷺色が混ざった朝靄の中の道を、背の高い誰かが歩いてくるのが見える。エミルだった。木戸を開け、大喜びで飛びつくライラの相手をしながら、こちらに歩いてくる。
「まったく。なんでこんなに早起きなんだ、竜は」
 欠伸をしながら、しかし笑顔でエミルは言った。
「おはようございます」
「おはよう」
「ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
「まあな」
 竜はしゅんとしてライラと目を合わせた。
「頑張って静かにしたつもりだったんですけど…ね、ライラ」
 エミルはおかしそうに笑って、いつもの場所に腰を下ろした。
「家の中ではな。窓の下からいきなり、果樹園まで競争!って声とバタバタ走る音がして目が覚めたんだ」
 竜は赤面して首を縮めた。なんて間抜けだ。
「すみません…」
「気にするな。大して早くない」
「マリーとカールのことも起こしちゃいましたよね、きっと」
「どうかな、反対側の部屋だから大丈夫だったかもしれないよ」
「だといいですけど…」
 竜はため息をついた。
「真によく言われるんです。『竜はどっか抜けてる』って」
「へえ?」
 エミルが面白そうに眉を上げる。
「聞きたいな。例えば?」
「例えば…こないだも、両親の結婚記念日にすごい時間をかけて、トレジャーハンティングの仕掛けを作ったんです。暗号とか、謎謎とかを家のあちこちに隠して、それを順番に解いていくと最後にプレゼントにたどり着くっていうの。真は、そんなことしないで普通にプレゼントを渡せばいいって言ったんだけど、でも僕は何か特別なことをしたかったから…。仕掛けを作るのは大変だったけど、でもすごくうまくいって、両親も楽しんでくれて…。でも僕、最後の場所に肝心のプレゼントを置いておくのを忘れちゃったんです」
 竜はその時の情けなさを思い出してため息をつき、エミルは吹き出した。
「それは残念だったなあ」
「すっごく残念でした。あんなに時間かけて頑張ったのに…」
「でもご両親は楽しんでくれたんだろ」
 エミルは目を細めて言った。
「とても嬉しかっただろうと思うよ。竜らしいな」
「僕、そういうことたまにやっちゃうんです。いつもってわけじゃないけど。今日だって家の中ではうんと静かにしてたのに、外に出たら、静かにしなきゃいけないってことすっかり忘れちゃって。おっちょこちょいっていうのか…。そういうのって、魔法発明学でやっちゃったら、すごく危険ですよね、きっと」
「うーん、まあな。でも、そういうのは成長するにつれてよくなるだろうし、自分でも色々工夫すればいい。忘れちゃいけないことは、紙に書いて目につくところに貼っておくとかね」
「そういう魔法はないんですか?忘れないようにする魔法、とか」
 もしかして、と期待した竜に、エミルは苦笑した。
「そんなことを魔法に頼っちゃだめだ。自分で注意するようにしないと。ところで、」
 竜の前に置いてある石を見て、
「歌わせたのか」
「はい。ちゃんとできました」
 エミルはちょっと眉を潜めた。
「一人でやるなんて。何かあったらどうするんだ」
 竜は首を縮めた。
「ごめんなさい。なんだか急に心配になって、早く練習しなきゃって思って…」
 竜は昨夜寝る前にしたことを覚えていなかったことを話した。深刻な顔をするかと思いきや、エミルはおかしそうに笑った。
「パジャマは最初から着てただろう」
「えっ」
「夕食の後、勉強の前に風呂に入ったんだから」
「……」
 そういえばそうだった。いつもは寝る前に入るのだけれど、昨日はエミルの授業があるから、その前に入ったのだった。すっかり忘れていた。
「机の上を片付けて電気を消したのは、多分母じゃないのかな。後で訊いてみよう」  
「…やっぱり抜けてるんですね」
 赤くなってため息をつくと、エミルは労わるように微笑んだ。
「昨日はいつもとずいぶん違う一日だったしな。疲れてたんだよ」
「魔法の喪失と何か関係あったりしないでしょうか」
「それはないと思うけど…。そういえば気分はどうだ」
「元気です!」
 竜は胸元でガッツポーズを作ってみせた。
「そりゃよかった。後でスティーブンに電話するのを忘れないようにしないとな」
「はい」
 昨日の午後五時半ごろ、リントン村の家に着いたスティーブンから今着いたと電話があった。その時に午後は何をしていたのかと訊かれ、プールで泳いだと答えたら仰天されてしまった。
「泳いだって、まさか50メートルプールでですか?」
「はい」
 電話のスピーカーに顔を近づけてエミルが言う。
「大丈夫だよスティーブン。竜は普段から泳いでいるから…」
「どれくらい泳いだんです」
「ええと…」
 ちょっと躊躇したけれど、竜は本当のことを言った。
「1600です」
「1600?!」
「でも、すごくゆっくりでしたし、ちゃんと一往復ごとに充分休みながら泳ぎましたから」
 慌てて言ったけれど、あまり効き目はなかった。
「エミル、君も一緒に泳いだのかい」
 いつもは優しいスティーブンの声がちょっと尖っている。エミルは竜と顔を見合わせて「まずい」という顔を作ってみせて苦笑した。
「うん。ちゃんと、無茶しないように後ろからついて…」
「1600も泳ぐなんて充分無茶だよ」
「でもスティーブン、さっきも言ったけど、竜は普段から競泳をやってるから…」
「そういう問題じゃないよ、エミル。失神して16時間も意識が戻らなかった子供に、意識が戻って半日も経たないうちから1600メートルも泳がせるなんて、聞いたことがない」
「僕はもっと泳ぎたいって言ったんですけど、エミルがもう終わりにしようって言ったんです」
「竜くんも。今日はゆっくり過ごしてくださいと言ったはずですよ」
 その後しばらくスティーブンは二人にお説教し、竜はもう今日は家の中でゆっくり過ごすこと、食べすぎないこと、夜更かしをしないこと、そして翌朝スティーブンに体調を報告することを約束させられたのだった。
「魔法の方の報告もできそうですね。エミル、もう二つの魔法をやってみてもいいと思いますか」
「石を歌わせる他には何をやった?」
「水と火と風と光です」
「うーん、やっぱりレウリスとマルギリスを歌わせてみる方がいいだろうな」
 エミルの周りですうっと力が動く。久しぶりに見るような気がして、竜は目を細めた。この圧倒的な美しさ。エミルの魔法はやっぱりすごい。
 数秒後、エミルのリュックがエミルの前の草の上に現れた。エミルがレウリスの箱を取り出す。1日見なかっただけなのに、その黒い箱がとても懐かしく感じられて、竜は嬉しくなった。
「いいか、無理するなよ」
 薄紫色に光るレウリスを手渡しながらエミルが言った。
「はい」
 竜はしっかり頷いた。石は難なく出来たけれど、とにかく油断はしないでおこう、と思った。
 レウリスを目の前の草の上に置き、意識を集中する。以前と同じ、ペダルを踏んだままのグロッケンのような高い響きが辺りを満たす。よし。竜はうなずいた。目を上げると、エミルと目が合った。エミルが微笑んで片目をつぶった。
 「問題なさそうだな」
 レウリスの残骸を消すと、エミルが早くもマルギリスを取り出しながら言った。
「相変わらず、まるでそよ風のように軽やかにやってのける。疲れは?」
「大丈夫です」
 竜はマルギリスを受け取ってからちょっと考えて、
「これ、今やっちゃっても大丈夫でしょうか。二つしか残っていないでしょう。いざという時のための予備がなくなっちゃいます」
「これはやっておいた方がいい。帰るときに必要なのはこの魔法なんだから、できるかどうか知っておかないとな。大丈夫。予備の分はもう注文してある」
 できるかどうか…。竜はぐっとお腹に力を入れた。大丈夫。ちゃんとできる。
 目の前に淡い朱鷺色のマルギリスを置き、一呼吸して、意識を集中した。すぐに竜の次元がグラスハーモニカのような音で隙間なく満たされた。やった。よかった…。竜は心から安心した。なんの難しさも違和感も感じない。これなら帰るときも気負うことなくできそうだ。エミルを見上げる。エミルも笑顔でうなずいてくれた。
 けれどマルギリスの残骸を消したとき、竜は残念に思わずにはいられなかった。健太がこの歌を聞くことはないんだ…。
 その後、少し休んでからアルマンサのブレスレットを作った。以前と同じように完璧にできた。二つの魔法(魔法でリルの皮を剥きながら、同時に魔法でリルの実を木から採る)も簡単にできた。
「上出来。なんの問題もなさそうだな。気分は?」
「大丈夫です。ちっとも疲れてません」
「やれやれ」
 エミルは大きく息をついて長い脚を草の上に投げ出した。
「よかった。安心したよ」
 竜も安心した。何も失われていなくて本当によかった。でも、何か物足りない。やっぱりあの魔法をやってみたい。
「エミル、次元を拡げて相手を覆う魔法を、石でだけやってみてもいいですか」
 エミルは眉をひそめた。
「うーん…まあ確かに、石の時は楽にできていたけど…」
「レウリスではやりません。マルギリスでも。でも石なら大丈夫だと思います。せっかく…エミルと二人で作った魔法だから」
 竜の言葉にエミルは微笑んだけれど、目はまだ心配そうだった。
「本当に大丈夫だと思うか」
「はい。歌わせる魔法も、ものを作り出す魔法も、二つの魔法を同時にやるのも、今までと全く同じ感覚でできたから、これもこの前やった時と同じようにできると思います」
「…わかった。でも十分気をつけろ。少しでも力が足りないと感じたらすぐやめるんだぞ」
「はい」
 竜はしっかり頷いた。
 さっきの石を目の前の草の上に置く。一呼吸。石を歌わせ始める。フルートのような音が聞こえ始める。竜は目を閉じた。大丈夫。きっとできる。頭と心の間の奥深いところで、エミルに傘を差しかけた。
 あの時と同じように、辺りが急に明るくなったように感じ、竜の内側の何かがすっと温かくなった。水の流れに押される感覚もあの時と同じだ。楽に踏みとどまれる。石の歌を聞くともなしに聞いているうちに、明るさと温度は少しずつ増していく。流れの強さは変わらない。全てが初めにやった時と同じだった。
 石の歌が終わり、竜は目を開けてエミルと目を合わせた。
「大丈夫か」
「はい。ちゃんと聞こえましたか?」
「もちろん」
 エミルが微笑んだ。
「さすが竜だ」
 竜も嬉しくてにっこりした。この魔法は、なんだか特別な感じがする。やっぱりエミルと二人で作った魔法だからなのかな。 
「これで、できるはずのものは全部ちゃんとできるってわかったな」
「そうですね。ほっとしました」
 心からそう言った後、竜はもう一つの本心を告白した。
「でも…ちょっと期待外れでもありました」
「期待外れ?」
「はい。今の魔法、次元を拡げて相手を覆う魔法は、これが二度目だったでしょう。今まで、上級レベルの魔法はほとんどどれも、二度目に成功したときは一度目よりもずっと楽にできてたから、もしかしてこれも最初の時よりずっと楽にできるかもしれないってちょっと思ってたんです。もしこれがずっと楽にできたら、レウリスでもマルギリスでもずっと楽にできるはずだから、試してみてもいいんじゃないかって思ってました」
「楽じゃなかったのか」
 竜は首を振った。
「最初の時と同じでした」
「そうか…」
 エミルがなんと言ったらいいか分からないという顔をして竜を見た。エミルは僕のことを心配している。竜はにこりと笑って見せた。
「でも、かえってよかったのかもしれません。これで、無謀なチャレンジをして魔法の喪失になっちゃうって危険はなくなったわけですから」
「…そうだな」 
 エミルもにこりとした。優しい目をしていた。強がりをちゃんと見抜かれているのがわかって、ちょっと悔しい反面、竜はなんだか嬉しかった。
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