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Chap.34

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 朝食の時間に家に戻ると、マリーが眉をひそめた。
「まあ竜。もう練習していたの?何時に起きたの?」
「えっと…」
 やっぱり嘘はつきたくない。竜は首を縮めて白状した。
「5時頃です」
「まあ!」
 マリーの眉が滑稽なくらい高く上がった。そして非難するようにエミルを見る。竜は慌てて言った。
「僕が勝手に果樹園に行ったんです。ライラと。エミルは後から来てくれたんです。大丈夫です。無茶なことしてないし、魔法もちゃんと全部できましたから」
 一言余計だったらしい。
「全部ですって?スティーブンに、少しずつって言われていたでしょう」
 竜はさらに首を縮めた。
「…ごめんなさい」
 エミルがおかしそうにくすくす笑った。
「大丈夫ですよ、お母さん。スティーブンもちょっと過保護すぎるところがあると思うし…」
「何言ってるの。16時間も意識が戻らなかったのよ。昨日はプールで、今日は早朝から魔法の練習なんて。しかも昨夜は早く寝るどころか勉強なんかして…」
「あ、そういえば」
 チャンスを逃さずにエミルが言った。
「昨夜、竜の机の上を片付けて部屋の電気を消したのはお母さんですか」
「お父さんよ。ドアから覗いたら、懐かしそうに教科書を見ていて、化学はやらないのかなあなんて言うから、とんでもないって言っておいたわ。今は数学と物理だけでたくさんでしょう」
「いや、そりゃ化学もやらなきゃいけませんけどね。でも確かに今じゃなくてもいいかな。戻ってきたときに始めても十分間に合うと思うけど」
 エミルが竜を見る。
「お任せします、先生。あ、でも最初に戻ってくるときは、向こうの夕食前に帰らなきゃいけませんから、3日間くらいしかありませんし、しかも真も一緒ですから、きっと勉強を教えてくれる時間はないんじゃないですか」
 笑って言うと、エミルがわざと厳しい顔をしてみせた。
「何言ってる。授業はちゃんとするぞ」
 マリーが微笑んだ。
「本当に真が帰ってくるのねえ。背が伸びたかしら。昔着ていた服がまだ着られるかしらね」
「背格好は1年前と大して変わってないと思いますけど…どうかなあ。身長は今、僕とほとんど変わりません」
 エミルとマリーが同時に、竜を頭のてっぺんから爪先まで眺めた。
「それじゃ、ちょっと伸びたんだわね」
「そうですね」
 エミルが懐かしそうに笑った。
「あの頃、僕の背がどんどん伸びてるのを悔しがってね。時間の経ち方が違うんだからしょうがないだろって言うんだけど、帰ってくるたびに口を尖らせて、『また背が伸びたんじゃないの』って文句言ってたっけ。170cmくらいになりたいって言ってたな」
 竜は苦笑した。そりゃ無理だ。父さんも母さんも平均的な日本人だもの。せいぜい165cmってとこだろう。

 竜がちぎったロールパンにアーモンドクリームをたっぷりのせて、幸せな気持ちで食べていると、カールが散歩から帰ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「竜、気分はどうだい」
「はい、もうすっかり元気です。魔法も全部ちゃんとできました」
 カールは目を細めた。
「そうか、それは何よりだ。例の新しい魔法もやったのかい」
 この辺がマリーと違うところだな、と竜は微笑んだ。
「はい、石でだけですけど。この前と同じにできました。レウリスとマルギリスはやっぱり…やめておきました」
 カールは頷いた。
「そう、それがいい。今のところはね」
 竜はロールパンにアーモンドクリームをのせていた手を止めた。今のところは?
「お父さん…」
 エミルもその言葉に反応した。
「今のところは、じゃありません。もう二度とやるべきじゃないんですから」
「そんなことはないと思うよ。竜の力はこれからまだまだ伸びるんだ。まだ11歳なんだからね。いつかまた試してみたら、できるようになっている可能性は十分ある。もちろん、すぐにじゃない。何年も経って、竜が大人になったら、或いは今よりもずっと力がついたと思えるようになったら、その時試してみるといい」
 カールは微笑んで竜に頷いてみせた。そしていたずらっぽい顔をしてエミルをちらりと見やった。
「間違っているかい、エミル」
「…いいえ」 
 エミルは不承不承に答えた。
「確かにその通りだろうとは思いますけど、…何もそんなことを今言わなくてもいいでしょう。竜のことだから、そんなことを言われたら明日にでもやってみようとしちゃいますよ」
「いや、明日にでもなんてそんな…」
 言いながら、竜はカールの言ったことを考えていた。僕の力はこれからまだ伸びる。いつか今よりもずっと力がついたらできるようになるかもしれない。…でも一昨日やったときは、あとほんのちょっと力が足りなかっただけだと思う。ということは、あとちょっと力がつけばいいだけだ。何年もなんて待たなくてもいいんじゃないのかな。
「早く魔法の力を伸ばすには、どうしたらいいんですか」
 カールとエミルを交互に見て問うと、エミルが眉を上げてカールを見た。
「ほらね。だから言ったじゃないですか」
 カールが笑った。
「それでこそ竜だね」
 目を細めて竜を見る。
「魔法の力を伸ばすには、まあ練習あるのみだ。ここにきてから毎日竜がやってきたようにね」
「簡単な魔法ばかりやっていてはやっぱりだめなんでしょう?」
「そうだね。それはやはり、難しいものに挑戦し続けなくてはね」
「まあ、カール」
 フルーツを盛った大きなボウルとカールのコーヒーを持ってきたマリーが、カールの隣に座りながら眉をひそめた。
「なんてこと言うの。魔法の喪失になってしまったら取り返しがつかないのよ」
「気をつけていれば大丈夫だよ。今回だってそうだろう。喪失の兆候が起こっただけで、そこでやめたから喪失には至らなかった。兆候に気をつけていれば、喪失になんてそう簡単になるものじゃないはずだ」
「兆候に気がつかなかったらどうするんです」
 エミルが言う。
「失神して気がつかないなんてことはないだろう」
「兆候は失神だけじゃありませんよ。現に、竜だって失神の前に他の兆候らしきものが出ていました」
「そうなのかい?」
 カールが眉を上げて竜を見た。
「はい。レウリスでやった後、身体が冷えたような感じがありました。日が翳っていたからそれで寒く感じたのかなと思ってたんですけど、兆候の一つだったかもしれないってスティーブンが言ってました」
「なるほど。それで失神した時も手があんなに冷たかったんだね」
 カールは頷いた。
「でも、大抵の場合、喪失に至る前に、おそらく身体からの最後の警告としてだろうが、失神が起こるだろう。そこでやめれば喪失には至らないはずだよ。もちろん、竜の場合、次の時は身体が冷えるような感じがしたらそこで念のためにやめる方がいいだろうね」
「次の時だなんて。そんなことをさせるなんてとんでもないわ、カール」
 マリーが信じられないというように首を振る。
「もちろん、竜がやりたいのなら、ということだよ。何かをさせようなんて私は思っていない」
 カールが苦笑した。
「ただね、魔法の喪失を怖がるあまり、やりたい魔法を試してみることすらできないなんていうことがあってはならないと思うんだよ。特に、竜のように力がある場合はね。竜が魔法で何をしたいかによるけれど、危険を冒すことを恐れていたら到達できないことというのはあるのだから」
 魔法で何をしたいか…。竜は数日前、果樹園でカールと話した時のことを思い出した。魔法で何がしたいのか、なんのために魔法を学ぶのか、考えてみるといい、とカールはあの朝言った。たまにそんなことを考えてみるのも悪くはない、と。
「危険を冒すなんて怖いことを言わないでちょうだい。そんなことばかり言うなら、スティーブンに話してあなたもこの二人と一緒にお説教してもらうわよ」
 マリーが冗談めかして言ったのでみんなでちょっと笑ったけれど、竜にはエミルが心から笑っていないのがわかった。

 朝食後すぐに、竜はスティーブンに電話をかけた。コールが出た。
「竜!久しぶりだね。具合はどう?」
「もうすっかり元気です。ありがとうございます」
「父がずいぶん心配してたよ…あ、ちょっと待って。お父さん、竜からです」
「ああ、ちょうどよかった…おはよう、竜君。具合はどうですか」
 いつもよりもせかせかした口調でスティーブンが訊いた。これから急いで出かけるところなのかもしれないと思った竜は、時間を取らせては悪いと思い
「すっかり元気です。魔法も全部ちゃんと前と同じようにできましたし、疲れたりも全然しませんでした。大丈夫です」
 と一息に言ってしまった。電話の向こうから数秒の沈黙が返ってきた。
「…全部?」
「いえ、あの、もちろん失神した魔法はやりませんでした。石だけでやって、レウリスとマルギリスではやらないでおきました」
「竜君…」
 スティーブンのため息が聞こえる。
「様子を見ながら、少しずつレベルを上げて、と言ったでしょう」
「…すみません。でも、本当になんの問題もなく簡単にできたので…。一応ちゃんと休みをとりながらやったんですけど」
「エミルは一緒だったんですか」
「一緒だったよ」
 テーブルからコーヒーのマグを片手にエミルが会話に加わる。
「大丈夫だよ、スティーブン。本当になんの問題もなかった。以前と同じように、軽々とやってのけたよ」
 スティーブンがため息をついた。
「竜君、どの魔法をやったんですか」
「ええと…石を歌わせて、水と火と風と光を出して、消して、レウリスとマルギリスを歌わせて、物を作る魔法でアルマンサのブレスレットを作って、リルの皮を剥くのとリルの実を採るのを同時にやって、最後に石を歌わせながら次元を拡げて相手を覆う魔法をやりました」
 順番に思い出しながら竜が言うと、電話の向こうであっけに取られたような声が聞こえた。
「…なんと…」
 カールがおかしそうに笑って電話の方を振り向いた。
「さすがだろう?スティーブン」
 誇らしげにそう言ってから、真面目な口調で、
「竜は大丈夫なようだよ。私から見ても、全くいつもと変わらない。食欲もあるし、ぼうっとしているわけでもない。いつも通りの元気な竜だ。心配ないだろうと思うよ」
「…それは何よりです」
 カールの言葉でようやく少し安心したのか、今度はスティーブンの声にも笑みが含まれている。
「それにしてもなんとまあ…。竜君、本当に身体の方は大丈夫なんですか」
「はい」
「そうですか…。いやはや、すごいな全く」
 スティーブンはまたため息をつくと、
「魔法をやって、何か以前と違うことはありましたか」
「いいえ。気をつけていましたけど、何も感じませんでした」
「疲れは?」
「全くありません」
「そうですか。それならきっと大丈夫でしょう。いや、それにしても…」
 スティーブンはちょっと笑うと、
「竜君が恐るべき才能の持ち主なのはよくわかりました。でも、くれぐれも気をつけて練習してください。同じことを何度も言っているのは百も承知ですが、決して無理をしないように。魔法大学で勉強したいのでしょう?今無理をして魔法の喪失になってしまったらそれもできなくなってしまいますからね」
「はい。気をつけます」
 竜はしっかり返事をした。
「エミル、本当に、頼むから、お願いだから十分気をつけてあげてくれ」
 スティーブンの切実な言い方にエミルは苦笑した。
「わかってるよスティーブン。それにしばらくは魔法よりも数学とか物理に力を入れるつもりだから」
「それはいい考えだ。それでは竜君、僕は大学へ行かなきゃならないのでこれで。今日はできれば大人しくエミルと数学や物理を勉強してくださいね」
「わかりましたスティーブン。色々ありがとうございます。心配かけてごめんなさい」
「いえいえ、お役に立てれば嬉しいですよ。それじゃ皆さん、また」
 エミルとカールとマリーと竜が口々に別れの挨拶をして、会話は終わった。エミルが立ち上がる。
「さて。それじゃここを片付けて、その後勉強といくかな。果樹園でしようか」
「いいですね!」
 二人で食器を洗って拭きながら、竜は昨日の夜ちらりと頭に浮かんだあることを思い出した。
「エミル、学科の勉強のことなんですけど…。戻ってきたら、そういう勉強をうんとやらなきゃいけないと思うんですけど、でもエミルは仕事が忙しいでしょう。どうしたらいいかなあと思って…」
「それは僕も考えたよ。日中は僕と一緒に大学に来ちゃえばいいと思うんだ。僕の研究室だの実験室だので勉強してればいい。質問があったら僕にでも研究チームの誰にでも訊いてくれればいいし、もちろん空いた時間があったら僕もどんどん先を教えられる。大学の雰囲気にも少し慣れることができるだろう。で、夜は僕の部屋でみっちり授業。そして週末ごとにここに帰ってくる。そうじゃないと竜はライラ欠乏症になって、ライラは竜欠乏症になって、大変なことになっちゃうからな」
「わあ」
 竜は素晴らしい未来図に心が舞い上がったが、
「…でも、それじゃあエミルの自由時間がなくなっちゃいますよ。デートとかしなくていいんですか」
 エミルは片目をつぶってみせた。
「心配するな。そういう時は臨時家庭教師兼シッターを雇うから」
「シッター…」
 竜の頭にメアリーポピンズが浮かんだ。
「フィルあたりに頼むかな」
「え」
 フィルさんとデートするためにシッターを雇うのかと思ったのに…?なんだか頭が混乱してきた竜の焦点の合わない顔を見て、エミルはおかしそうに笑った。
「ま、心配するな」
 
 気持ちのいい朝だった。昨日の雨のおかげか空気はしっとりと柔らかく、日差しも軽やかで透明だ。エミルと竜は、納屋から果樹園まで、古い木の丸テーブルと椅子を魔法で宙に浮かばせながらぶらぶら歩いていった。もちろんライラも一緒だ。
「こういうのは魔法に頼ってもいいんですね」
 竜がいたずらっぽく言うと、エミルが笑った。
「まあね。この方が家具にもいいだろう」
「ああ、なるほど」
 竜はうなずいて、傍を行くライラのふさふさと揺れる尻尾を見つめた。言っておいた方がいいんじゃない、とその尻尾が言っているような気がして、竜は口を開いた。
「エミル、さっきカールが言ってたことなんですけど。力がついたら、あの魔法をまたやってみたらいい、っていう」
「竜、」
 みなまで言わないうちに、エミルが足をとめ、断固とした口調で遮った。
「今のうちに言っとくけど、いくら父があんなことを言ったからって、馬鹿みたいに魔法の練習に励んで、例の魔法を今日だの明日だの明後日だのにまたやってみるなんていうのは、絶対に早すぎるからな。絶対にだ」
 やっぱり。竜はふふっと笑った。
「そんなことしませんから大丈夫です、って言おうと思ったんです。すごく心配しているみたいだったから」
 エミルはえっという顔をした後、ちょっと決まり悪そうに微笑んだ。
「読まれてたか」
「顔にはっきり書いてありました」
「まいったな」
 苦笑すると、エミルは果樹園の木戸を開けてライラと竜を通した。ライラは一目散にりんごの木のところへ走っていく。木戸の掛け金をかけているエミルに、竜は訊いてみた。
「エミルは、魔法で何がやりたいのか、考えたことありますか。なんのために魔法を学ぶのか、って」
「いや、ないね」
 歩き出しながら、エミルは空を仰いだ。
「そんなことを考えてる余裕がなかった。あの事故があって、とにかく真にもう一度会わなきゃって、それしか考えずにやってきたから…。でも後悔はしてない。この道に進んでよかったって思ってるよ」
「事故の前は?」
「事故の前?事故の前は…ああ、そうそう、向こうとこっちの時間の差を魔法でなんとかできたらなって思ってたよ。時間の速さの差をね。もちろん漠然とした願いでしかなかったし、仮にそんなことをできるようになったとしたって、その時には時すでに遅しだろうなって思って、ため息ついてた」
 そう言って笑ったエミルを見て、竜はふうんと唸った。なんだか全ては真を中心に回ってる、っていう感じだ。誰かを好きになったりすると、こんなふうになっちゃうのかな。
「じゃ、真に会う前は?」
「真に会う前は…そうだなあ、魔法で何をやりたいか、なんて考えてなかったと思うよ。次々と色んな魔法が出来るようになるのが楽しかったし、一方で父の期待に応えていくのに毎日必死でもあったしね」
「なるほど…」
「この辺でどうだ」
 エミルがりんごの木の下にそっとテーブルを下ろした。りんごの木の根本からは少し離れたところで、緑の木漏れ日がちょうどいい具合にこぼれ落ちてくる。
「いいですね」
 竜も二つの椅子を向かい合わせに下ろした。
 椅子に座って、テーブルの上に持ってきた教科書やノートやペンを並べる竜を見ながらエミルが訊いた。
「竜は?魔法で何がやりたいんだ。昨日話したことか」
「はい」 
 竜はきっぱり頷いた。
「健太や僕の両親がこっちに来られるような魔法を発明したいです。出来るだけ早く」
「そうか」
 エミルは目を細めた。竜は思わず口にしていた。
「エミルは…エミルはやっぱり、あの発明を完成させて、実験したいんですよね」
 ああ、言ってしまった。なんて続けよう。やらないで欲しいなんて言うべきじゃないのに…。
 頬杖をついたエミルはにこりとした。
「発明は完成させたいし、完成するつもりだよ。でも、実験するかどうかは竜次第だ」
 竜は驚いてエミルを見上げた。僕次第?
「竜が戻ってくるなら実験はしない。でも、竜が戻ってこなかったら、実験に踏み切る。だって迎えにいかなきゃならないだろう」
 緑の風が吹いて、果樹たちがいっせいに揺れた。
   











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