忘れない

柏木みのり

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第11章

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 言葉は耳に届き、脳にも間違いなく届いた。
 でもなんのことだかさっぱりわからなかった。
 岡崎はもういない?
 二ヶ月くらい前に死んだ?
 自殺だった?
 秀が横断歩道のボタンを押し、少しして車の流れが止まり、信号が緑になり、二人は横断歩道を渡った。少し歩いて、住宅街に入る。
 優はぼんやりと辺りの風景を眺めた。
 いつもミニチュアシュナウザーがすごい勢いでギャンギャン吠える家がある。その二軒隣の家の門柱には大抵トラ猫が日向ぼっこをしている。大きな金木犀の木があって、秋にはふんわりと漂ってくるその香りが楽しみだった。もう十月下旬で金木犀の香りはない。残念。あの香り、大好きなのにな…。
「…七瀬」
 秀が静かな声で言う。
「大丈夫か」
「…うん…よくわからない」
 前を向いたまま言う。
 頭と心と身体の繋がりが突然失われたような感じ。何がなんだか本当にわからない。
 岡崎は、二ヶ月前に、自殺した。
 心の中で繰り返してみる。
 岡崎は、自殺した。
 もう、いない。
 秀を見上げる。
「…本当なの?冗談とかじゃなくて?」
「本当」
「…どうしてそんなこと知ってるの」
「手紙が来たから」
「岡崎から?」
「岡崎の…遺言執行人っていう人から手紙が来て、その中に岡崎が俺に宛てた手紙が入ってた」
「岡崎と連絡取ってたの?」
「いや、全然。高校の時、二度くらい偶然会っただけ」
「なのに岡崎が遠野に手紙を書いたの?」
「そう」
「……」 
 よくわからない。
 でも、ゆっくりと、なにかが見え始めた気がした。
「…さっき、岡崎に言われたの。『遠野とずいぶん仲いいんだね。知らなかったよ』って。…その少し前には、岡崎にちょっと睨まれたみたいな気がした。なんだか…敵意みたいな…嫉妬みたいなものを感じた。…理科実験室では、こっちを見ていたらしい岡崎と目が合って、…岡崎が、慌てて、目を、逸らせた……」
 そうだったんだ。
「…岡崎は、遠野のことが好きだったの?」
「手紙にはそう書いてあった」
 そうだったんだ。
「初恋だったって。七瀬のことも書いてあったよ。『七瀬さんを覚えていますか。君の視線の先にはいつも彼女がいた。彼女が羨ましくて、妬ましくて、彼女のようになれたらと思っていました』」
 優は目を閉じた。 
 そうだったんだ。
 岡崎は、私じゃなくて遠野を見ていたんだ。私を見ていた遠野のことを。
 やっぱり両思いなんかじゃなかった。
 私のことを好きなどころか、妬んでたんじゃないの。
 憎んでさえいたかもしれない。
 胸の奥がきゅうっと鋭く傷んだ。
 現実って…ほんとに容赦ない。 
 彼は彼女が好きで、彼女は彼が好きで、彼は彼が好きで。
 ——そして彼は、もういない。
「あいつ、結婚して子供もいたんだ。女の子が一人。でも好きな男もいて、家族に隠れてずっと付き合ってた。でももうどうしても我慢できなくなって、妻に告白して——カミングアウトっていうんだっけ——、別れたいって言った。妻はもちろん大ショックで、精神状態が不安定になり、ストレスのあまり流産。あいつは自分のしたことが妻をそこまで苦しめているのをもう見ていられなくて、耐えられなくて、自ら命を絶つことを選んだ、って手紙には書いてあった。『自分の存在があんなにも誰かを苦しめるものであるなら、その存在はこの世から除かれなくてはならないと考えるようになりました』って」
 秀は淡々と話した。
「そう…」
 こんな時なのに、岡崎が結婚したのはどんな人なんだろうなんて考えて、少しだけだけれど嫉妬さえしているらしい自分に気づいて、優は呆れるを通り越して可笑しくなってしまった。それでも訊かずにいられなかった。
「…岡崎の…奥さんに会った?」
「いや。残念ながら」
 そう言って、秀はちょっとからかうように笑った。
「どんな人か気になる?」
「…うん、まあ一応」
「手紙には、『職場で会った人と結婚して』としか書いてなかった」
「そっか。じゃ、その……恋人って人は?」
「『大学時代から付き合っていた人』って書いてあった。『世間の目が気になり、一緒に暮らすことはできなかったけれど、彼だけをずっと愛してきました』」
 彼だけをずっと愛してきました。
 彼だけを。
 じゃあ奥さんのことは愛してなかったのかな。
 まさか奥さんにもそれ言ったんじゃないだろうね、岡崎クン。
「…ひどい」
「え?」
「私は…、今、自分がこういう状況にいるからかもしれないけど、岡崎よりも奥さんを可哀想って思っちゃう。岡崎は昔大好きだった人で、奥さんは会ったこともない全然知らない人なのに…」
 あんなに大好きだった人なのに。
 雅也の周りにキラキラと虹色に光ってたくさんたくさん浮かんでいたシャボン玉が、音もなくひとつ、またひとつ、と割れていく。
「岡崎も…辛かっただろうと思うよ」
 秀がそっと言った。
「あの頃は…俺たちが学生だった頃は、今みたいにセクシュアルマイノリティとかいう言葉だってなかった…或いはあってもほとんど知られていなかったんだし、世間の目だって今よりずっと偏見に満ちてたし」
「…そうだよね」
 私が裁いていいことでは断じてない。
 汝らの中、罪なき者、まず石を投げうて。
 秀の言う通り、雅也だって辛い辛い思いをしてきたはずなのだ。
 でもね、岡崎——
「愛してる人がいるのに、その人とは表立って結婚できないから、世間を満足させるために他の人と結婚して、その人にも愛してるって言っておいて、でも後になってどうしてもそれに我慢できなくなって、本当は他の人をずっと愛していた、君と別れてその人と一緒に暮らしたい、ってその人に言って、そのせいでその人が苦しんでるのを見るに堪えないからって、その人と子供を残して自殺しちゃうの?そんなの…、そんなのって」
 心の中で記憶の中の雅也に話しかけているつもりだったのに、気がついたら口に出して言っていた。
「…そんなのひどいよ」
 秀が宥めるように微笑んだ。
「わかるよ。俺もそう思ってる。俺だったら岡崎がしたようなことはしないと思う。でももちろん、同じ立場になってみなければわからないわけで、岡崎と同じ立場に立つことのできない俺や七瀬が、あれこれ言ったって仕方ない。あいつはそういう状況の中で、そういうふうに生きた。そしてもういない。もういないんだから、俺たちが何を言っても何も良くならない。何も変わらない。もう終わったんだ」
 あいつはそういうふうに生きた。
 そしてもういない。
 閑静な住宅街の屋根や木々の梢の向こうに広がる、青い青い十月の空を見上げる。遥か高いところに花嫁のヴェールのような美しい雲が流れている。
 岡崎はもういない。
 もう、いない。
「……そうだね」
 ため息をつくと、秀がちょっと意外そうに言った。
「泣かないの?絶対泣くと思って、緊張して待ってたんだけど」
 ストレートに言われて、思わず小さな笑い声が出た。
「わからないけど…、ただびっくりしすぎて涙が出ないのかもしれないし…。でもたぶん一番の理由は、結局岡崎のことをよく知らなかったからなんじゃないのかなって思う。だから、色々、そういうこと聞いても、…それはショックではあるけど、でもびっくりするだけで、そうか、そういう人だったのか、そんなことがあったのか、って思うだけなのかも。親しかったわけでもないしね。…もちろん、もう二度と会えないっていうのは…悲しいけど…すごく悲しいけど…でも中学以来一度も会ってないからかな、もういない、って言われても、なんだか…どう感じていいんだかわからないような…本当にわからない…」
 言葉がうまく繋げなくて、ため息をついて口をつぐむと、秀が言った。
「じゃあ、俺がいなくなるって言ったら?泣く?」
 さりげない言い方だったけれど、優はびくりとした。心の奥のどこか深いところの、透明な水がいっぱい詰まった柔らかい袋に、ぷつっと細い銀色の針が刺さったような感じ。
 秀はまっすぐ前を見つめたまま、変わらぬペースで歩いている。どこか遠くで犬が吠えている。
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