忘れない

柏木みのり

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第12章

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 「…いなくなっちゃうの?」
 訊きたくはなかったけれど——そして答えはわかっているような気がしたけれど——、読めと言われた台本のセリフを読まざるを得ないような気持ちで、優はそっと言葉を宙にはなった。
 秀は空を見上げるようにして淡々と言った。
「今ホスピスにいる。膵臓癌。もうそろそろかな」
 心の奥深くが破裂したようだった。
 目を瞑って両手で顔を覆う。涙があとからあとから溢れ、喉が詰まって嗚咽が漏れる。
 辺りがゆらゆら揺れて、平衡感覚が失われ、ぐらりと身体が傾いたところを秀が支えてくれた。
「大丈夫か?どっか座ろう」
「…いなくならないで」
 しゃくり上げながら言うと、秀がため息をついて小さく笑った。
「仕方ないんだよ」 
 それを聞いたら更に涙が込み上げて、嗚咽が止まらなくなってしまった。息が苦しい。
 秀がちょっと慌てたように言う。
「そんな泣くなって。過呼吸になるぞ。ゆっくり息して」
 そんなこと言われたって、コントロールなんかできやしない。
 秀に肩を抱えられ、おいおい泣きながらどこを歩いているのかもわからないまま少し歩き、
「座って」
 言われるままに何かの上に腰を下ろした。頭がぐるぐるして目の前がちかちかして気分が悪い。
「落ち着いて。ゆっくり息して。大丈夫だから。寄りかかっていいぞ」
 後ろに低い背もたれのようなものがあるけれど、頭をもたせるところがない。右側に座っている秀の肩に寄りかかる。少し身体が楽になる。ぎゅっと瞑った瞼の裏でちかちかしているグレイの粒々がだんだん少なくなっていく。
 こめかみに触れる秀のブレザーの布の感触。
 どこにも行かないで。いなくならないで。
 肩を震わせてしゃくり上げながら、顔を両手で覆ったまま、優は心の中で唱え続けていた。
 いなくならないで。お願い。いなくならないで。
 頭の芯がぼうっとして、なんだか気が遠くなる。
 しばらくして、
「まあ、どうしたの?大丈夫?」
 近くで柔らかいしわがれ声がした。
「はい、大丈夫です」
 秀が答えている。
「かわいそうに。何があったの?」
「ええと、さっきテストが返ってきて、平均点以下をとってしまったのがショックだったみたいで」
 …何?!
 それこそショックで、麻痺したようだった頭の感覚が少し戻ってきた。まだしゃくり上げながら、顔を覆っている両手の指の隙間からそっと覗くと、綺麗な薄紫色のカーディガンを着た白髪のおばあさんが、心配そうにこちらを見ていた。
「まあ…大変ねえ最近の中学生は、受験受験で…。私の家、すぐ隣のほら、その青い屋根の家だから、もし何かあったらピンポンって押してくれれば、私、家にいますから。いつでもいらっしゃい」
「ありがとうございます」
 秀が言い、優も手を少しずらして目だけのぞかせ、
「…ありがとう、ございます」
 鼻声で言った。おばあさんは同情あふれる笑顔で、
「大丈夫、次のテストではきっといいお点をいただけるから。ね?」
「はい。頑張ります」
 おばあさんが行ってしまうと、優はそろそろと身体を起こした。まずティッシュで鼻をかみ、ハンカチで顔を拭いて、上目遣いに秀を睨む。
「…なんてこと言うのよ」
 秀がくすくす笑う。
「うまかっただろ」
「どこが。平均点以下だなんて、失礼しちゃう」
「男に振られて、とか、先生に叱られて、とか言うよりマシじゃん」
「…そりゃそうだけど」
 そこは住宅街の中にある小さな庭のような公園だった。たくさんの植物が植っていて、きちんと手入れがされ、一つ一つに名札がついている。二人がけのベンチが一つだけの、個人の庭を公開しているような公園だ。前を通り過ぎたことは何度もあったけれど、入ってみたのは初めてだった。秋のこととて、何本かある華奢な枝振りの美しい紅葉が、午後の光を浴びてとても綺麗だ。
「気分は?大丈夫か」
 そう言われたら、また涙が出てきた。
「うん…ありがと…」
「そんな泣くなって」
「だって…」
「ベタ惚れだった岡崎のことでは泣かなかったくせに」
「だって、遠野とは…今日せっかく仲良くなれて…、すごく、すごく嬉しかったのに…」
 しゃくり上げながら言うと、秀がふわりと目を細めた。
「俺もすごく嬉しかった。最後に七瀬とこんなふうに過ごせて」
 新たな涙が込み上げる。
「最後になんて言わないで」
「ごめん」
「どこのホスピス?」
「…教えない」
「どうして?」
「病みやつれた姿なんて、見られたくないに決まってんだろ」
「男なのにそんなこと気にするの?女の人なら、…すっぴん見られたくないとかわかるけど」
「あー、それ差別発言!」
 ちょっと笑ってから宙を見上げる。
「どっちみちもう間に合わないよ。この夢が終わったら多分もう全部終わりだと思う。そんな感じがする」
「そんな…」
 全部終わりだなんて。
 そんなの嫌。もっと一緒にいたい。
 せっかく会えたのに。
 またあふれる涙を濡れたハンカチで拭う優を、秀は優しい目で見つめた。
「七瀬、俺は精一杯生きた。全部が全部うまくいったわけじゃないけど、でもやりたいことやって、楽しんで、まあ人の役にもちょっとは立てて、いい人生だったと思う。最後に七瀬に会いたい、七瀬が幸せなのを見届けてから逝きたいって願ってこういうことになって…、でも思いがけず七瀬が実は今あんまり幸せじゃないってわかって…。近くにいて助けてやれないのがすごく悔しいけど、でも、七瀬ならちゃんと幸せになれる」
 秀の眼光が増した。まるで試合前のコーチか何かのように優の視線をがっちり捉えて言う。
「いいか。自分はだめだとか、人生に失敗したとか、できなそうだからやめておこうとか、そういうこと一切考えるな。周りの目を気にするのも厳禁。自分を隠すのも厳禁だ。自信を持って、自分らしく、自分のやりたいことを、自分のやりたいようにやって、楽しんで生きていくこと。『どうせ』もだめ。『面倒くさい』もだめ。常にベストを尽くす。そして自分の才能や力を過小評価しない。…それから、今度男を選ぶときには前回よりも慎重に。以上、ペップトーク終わり」
「NO!!」
 血相を変えて秀のブレザーの裾を掴んだ優を、秀が面食らったように見つめた。
「…何?」
「…消えちゃったらやだと思って」
 秀がおかしそうに笑う。
「まだ大丈夫だよ。それに制服掴んだって無駄」
「私も一緒に行かれないの?」
「死ぬってこと?」
「うん」
 秀が眉をしかめてみせる。
「そういうつまらないこと言うな」
「つまらないことなんかじゃない。一緒にいたい」
 思いを込めてじっと見つめる。
 秀の瞳が揺れて、目の縁がうっすら赤くなった。
「…あーあ、七瀬の泣き虫が感染っちゃったじゃないか」
 笑って目をしばたたかせる。
「茶化さないで。一緒にいたい」
「無理だよ」
「どうして?」
「俺は死にゆく者で、七瀬は生きていく者だから」
 そんなふうにくっきり線を引かれると、絶望的な気持ちになってまた泣けてくる。
「…そんなの誰が決めたの」
「決めるも何も、実際に俺は末期癌でホスピスにいて、七瀬は健康に普通の生活を送ってる」
「生きていく者だって、死にゆく者になれるもん。…岡崎みたいに」
「そんなことしたら、俺はもう七瀬のこと好きでいられなくなると思う」
「……」
「そんなことするようなやつとは、二度と会いたくない」
 秀の言葉には鋼鉄のように冷たい厳しさが込められていて、優はもういい加減じめじめしてきたハンカチでまた溢れてきた涙を拭った。
「じゃあ…どうしたらいいの」
「あのサイテー男と離婚して、さっさと日本に戻ってくる。…いや、まあ七瀬は英語が使えるんだからもちろん日本じゃなくてもいいけど、とにかく新しい生活を始める。精一杯生きる。幸せになる。で、その時が来たら、また俺と再会して、いろんな話をする。今日みたいに」
「…だって…おばあさんになってるかもしれないのに…」
 秀が笑った。
「今だって、オバサンのはずだろ。今度会うときだって、きっとこんな感じだよ」
「中学二年生のまま?」
「そう」
 悲しみに荒れ狂っていた海に、柔らかく光る一滴の鎮静剤が落ちていって、すうっと心が凪いだ。
 渦を巻いていた黒い雲が少しずつ、少しずつ、薄くなっていき、あたりがうっすらと明るくなる。嵐の後の真珠色の空。
 今度会う時だって、きっとこんな感じ。
 魔法のようにその言葉が心の空間に響いた。
 微笑んでいる秀を涙でかすんだ目でじっと見る。
 秀の穏やかな目が優の目を見つめ返す。
 喉の奥のごつごつした塊がゆっくり溶けていく。
 人生が終わったとき、またこんなふうに遠野と会えるなら。 
 遠野が待っててくれるなら。
 ——それならひとりになっても頑張れる気がする。
 優の頬が微かに緩んだ。
 目を閉じて震える息をつく。
 柔らかな気持ちが拡がっていく。
「やっと機嫌がなおった」
 秀がいたずらっぽく笑う。まだ小さくしゃくり上げながら、優は右手の小指を差し出した。
「私の人生が終わったとき、またこうやって会うって…約束して」
「指切り?かわいこぶってんなあ」
「いいから」
 二人の小指が絡まる。
 ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼんのーます
 深く息をついて、さっきしていたように、秀の肩にそっと寄りかかる。
「遠野の誕生日っていつ?」
「九月七日」
「血液型は?」
「A」
「身長は?」
「現実の?中二の?」
「両方」
「現実では179。中二の時は172くらいだったんじゃないかなあ」
「好きな色は?」
「んー、ブルー系」
「趣味は?」
「…なにこの質問の嵐は」
「遠野のことちゃんと覚えておきたいから」
 秀がそっとため息をついたのがわかった。
「趣味は、読書、医学の勉強、水泳」
「弓道は?」
「あれは中学の時だけ」
「私、大学の時ちょっとやったのよ。長続きしなかったんだけど」
 秀の声がからかうような笑みを含む。
「性に合わなかっただろ」
 優も笑う。
「実はそう」
「俺も」
「なんだ、そうだったの?」
「岡崎は、続けてたらしいよ。高校時代に会った時、弓道部に入ったって言ってたから」
「…そう」
 なんだか、まだ信じられない。雅也はもう存在しない。今頃どこでどうしてるのかなあ、幸せでいてくれるといいなあ、なんて考えることももうできない。そしてもうすぐ秀もいなくなってしまう。
「…なんだよ。また泣いてる」
「…行かないで」
「そんな涙声でそういうこと言うのは反則」
「……」
「質問はもういいの?」
「まだある」
 優は鼻声で続けた。
「好きな食べ物は?」
「カレー。ちゃんとしたやつな。市販のルーとか一切使わないやつ。あとは和食全般」
「甘いものは?好きじゃない?」
「特に好きでも嫌いでもないけど…ああ、七瀬甘党だって言ってたな。和菓子が食べたいんだろ?」
「そう。気取った和菓子じゃなくて、たい焼きとか、おはぎとか、お団子とか。でも一番食べたいのは柏餅。みねむらさんって和菓子屋さんがあったでしょ」
「あったなあ。もう十年くらい前にやめちゃったみたいだったけど」
「知ってる。Googleマップで何年か前に見てみて、なくなっちゃっててショックだった。あそこの柏餅、大好きだったのに」
「いろんなことが、変わっていくからな…」
「……」
 なんでそういう悲しいこと言うかな。
「…泣いてる?」
「泣いてない」
「嘘つき」
「嘘じゃないもん。…泣かないように、我慢してる…」
 できるだけ秀に見えないように顔を背けながら、自分が壊れた蛇口になったような気がして、優は途方に暮れた。一体もうどうしたらいいのかわからない。どうしたら泣かないようにできるのか、本当にわからない。肩が震えるのを止めることができない。自分がこんなふうになってしまうなんて想像したこともなかった。
「我慢なんかしなくていいよ」
 優しい声が降ってくる。涙を拭きながら思い切って訊いてみた。
「手つないでもいい?」
「いいよ」
 そっと手をつなぐ。交差する同じ色の制服の袖。少し冷たい指先。
 秀が懐かしそうに笑う。
「中三の時のフォークダンス、覚えてる?」
 体育祭のフォークダンス。一、二年生は大きな輪を作り、その中に三年生が三年生だけの輪を作る。
「三年生だけだからさ、人数が少ないから、一巡して、二回踊れる相手も出てくる」
「ああ…」
 思い出した。
「最後が遠野だったね、確か」
 秀に憧れていた美術部の後輩に、「いいなあいいなあ羨ましいですう」とわあわあ言われたので覚えている。
「そう!あれは嬉しかったね。二回踊れて、しかも最後だったから、次の奴に七瀬を渡さなくてすんだ。いいことが起こる前兆みたいな気がして密かに期待してたんだけど」
 でもあの時の優は相変わらず雅也しか眼中になかった。あの時もらった雅也のハチマキはまだ実家のどこかにあるはずだ。
 あ!
 優はガバッと身体を起こした。
「ね、ネクタイと校章!交換しよう?」
 秀が苦笑する。
「いいけど、これ夢の中だから、あんまり意味ないよ」
「そんなのわからないじゃない?これ、普通の夢と随分違うし、もしかしたらもしかするかも。ネクタイに名前書いてある?」
「…ないな」
「油性ペン…あ、あるかも」
 急いでリュックを開けてペンケースの中を探す。あった!
 それぞれのネクタイの裏のタグに、黒の極細油性ペンで名前を入れ、交換する。校章は名前を入れようにも入れられないので、そのまま交換。
「ふふ。ちょっと満足」
 ネクタイを締めてから、またさっきのように手をつなぎ、秀の肩に寄りかかった優がうふふと笑うと、秀も嬉しそうに笑った。
「こうやってさ、幸せな瞬間っていうのは辛い時とか大変な時にもあるわけなんだよな」
 辛い時。
 ふと気がついた。
 辛いはずなのに、秀は少しもそんな素振りは見せない。
「遠野…」
 なんと続けていいかわからなくて一度言葉を切る。
「なに?」
 柔らかく促されて、子供っぽい問いが口から出てしまった。
「…すごく辛い?」
 秀が小さく笑ってため息と共に言う。
「そりゃまあ…ちょっとはな」
 身体を起こして、秀の顔を見上げる。
 ちょっとだなんて。
 優のその思いを読んだかのように秀が続ける。
「そういう辛い時期はもう過ぎたから。今はもうそういう感じじゃないんだ」
 秋の日差しを通して眩い濃淡を作っている紅葉を見上げて、秀は目を細めた。一呼吸して、ちょっといたずらっぽく笑って優を見下ろす。
「…ってことにしといて」
「え?」
「ま、男子はさ、いいカッコしたいもんだから。好きな女子の前では特に」
 おどけた表情の中で、静かな目が、それ以上訊かないでほしいと言っていた。
 了解、と目で答える。こちらもおどけた笑顔を作って、声が震えないように気をつけて言う。
「さっすが学年一のモテ男」
 秀がわざとらしく顔をしかめてみせる。
「好きでモテてるわけじゃないって言ったろ」
「そうでした」
 小さく笑い合って、また秀の肩にそっと寄りかかる。 
 壊れた蛇口みたいになってる場合じゃない。
 溢れてきた涙に引っ込めと命令し、ぐっとお腹に力を入れる。
 遠野は中学生の時の「カッコいい」私を好きになってくれたんだもの。しゃんとしなきゃ。遠野が好きになってくれた、カッコいい私になろう。女子だって、好きな男子の前ではいいカッコしたいのだ。しなきゃダメなのだ。
 遠野に、覚えててもらえるように。
 奥歯を噛み締めて強くそう思ったら、さっきまで心のどこかにあったちょっとでも触れようものなら水のバシャバシャ溢れてくる蛇口は小さく小さくなっていき、代わりにとろりとした安心感のような、軽い眠気のようなものがやってきた。
 今、ここに一緒にいる。
 その奇跡のような幸せの中を魂がゆっくりと泳いでいる。
 しばらく、穏やかな沈黙が流れた。
「…遠野、後悔してることってある?」
「そりゃいっぱいあるよ。例えば、七瀬に告白しなかったこととかさ」
「どうしてしなかったの?」
「まあ…プライドかな。七瀬が岡崎にベタ惚れなのはよくわかってたから、望みナシなことはしたくなかった。振られるのが嫌だったんだろうな」
「プライドか…」
 私も、そうだったのかな。振られるのが嫌で、岡崎に何も言えなかったのかな。
 小さく笑う。
 プライド。
 夫は押せ押せだった。プライド?それなに?って感じだった。
 最初は普通に友達として付き合っていたのだけれど、向こうがI love youと言ってきた。こちらはそういう気持ちは全くなかったから、私はあなたのこと、like youだけど、love youとは言えない、そういう気持ちは持っていない、とはっきり言った。でもあの人は諦めるどころか、押し続けた。赤い薔薇の花。ピンクの風船。私に宛てた詩。たくさんの愛の言葉。押されて落ちた。
 秀が大きくため息をついた。
「中学の時…、岡崎の存在なんかに構わないで、プライドなんか捨てて告白してればよかったんだよな。そうしたら…少なくとも俺の気持ちを知ってもらえたし…その時はうまくいかなくても、もしかして卒業後に…」
「『たられば』」
「よくないね、『たられば』」
「よくないよね。でもね、私も『たられば』。あの人と結婚なんてしなければよかったな。そうしたら…」
 そうしたら?
 押されて落ちたりしないで、日本に帰ってきて、普通に就職して、もしかしたら、…もしかしたら同窓会か何かで遠野に再会して、そして…。
 たくさんのcould-have-beens。
 少しだけためらってから、優は身体を起こし、秀の顔を見上げた。
「あのね、プライドを捨てた質問」
「なに?」
「…キスしていい?」
 
 空がそろそろ夕焼けの準備を始める頃になると、辺りの空気がひんやりとしてきた。ベンチの上で身体を寄せ合う。
「七瀬。寒くないか?」
「大丈夫。くっついてると寒くない。遠野は?」
「大丈夫。すごい色だな」
「ほんと、綺麗…」
 華やかなオレンジ色と茜色と黄金色の西の空。上の方はまだ薄青い空に、淡いピンクの紗がかかっている。綿飴のようなふんわりした雲が浮いていて、縁が金色に輝いている。
「あの雲、綿飴みたい。美味しそう」
 秀が耳元で笑う。
「腹減ってんの?」
「ううん。あ、ねえ、そういえばさっきの質問の続き。旅行で行きたいところは?」
「そうだな…。ああ、あそこ。霧ケ峰高原って覚えてる?六年の時、移動教室で行ったところ」
「ああ、覚えてる!あのすかーんと抜けた綺麗なところね。黄色い花がいっぱい咲いてた」
「そうそう!あそこさ、妙に気に入って、もう一回いつか行きたいと思いながら、何故かずっと行かれてないんだよ」
「私も行きたいな、あそこ。いつか二人で一緒に行こう?あれって長野県よね、確か」
「そう。諏訪とかのあたりだったと思った」
「どうやって行こう。遠野、免許持ってるの?」
「一応。車はない」
「じゃあ、レンタカーね」
「七瀬は?運転」
「しない。怖いんだもん」
「なんだよそれ。じゃ、俺が一人で運転するわけ?」
「よろしくお願いいたします。眠くならないように、隣で歌を歌って差し上げます」
 秀が楽しそうに笑う。
「いいなそれ。メインは氷室な」
「…練習しとく」
「歌詞間違えたらペナルティ」
「ええー!TMじゃだめ?」
「TMも混ぜてもいいけど。でもメインは氷室。あ、BOOWYもな」
「知ってるのある!かがみのーなかのマリオネッ!」
「続きは?」
「……なななななーなな 断ち切って」
「操る糸を断ち切って」
「あとね、あれ、えーと、ホンキートンキークレイジーI love you~」
「そんなの知ってんだ」
「うん、兄がね、いくつかCD持ってたの。借りて、好きなのだけテープに入れた。ジュリエットの歌とか」
「ああ、『わがままジュリエット』な」
「そうそれ」
 申し合わせたように二人一緒に吐息をつく。
 ——ずっとこうしていられたらいいのに。
 胸が痛くなるほど強くお互いにそう思っているのがはっきりとわかった。
 今ここに神様が現れて、世界の滅亡と引き換えに二人がずっと一緒にいられるようにしてあげると言ったら、迷わず「お願いします」と言ってしまうだろう。
 でも、そんなことは起こらない。
 神様はそんなことしてくれない。
 喉につかえた塊をぐっと飲み込む。
 泣いちゃだめ。
 泣かない。
「…BOOWYと氷室京介ね。頑張って練習しとく」
 明るく言うと、秀も明るい声音で答えた。
「結構曲数あるから、そうだな、歌詞の間違いは三回まで許そう」
「五回じゃダメ?」 
「それ甘すぎ」
「わかった。ちゃんと覚える。パーフェクトを目指すもん。…で、季節はいつがいいのかなあ。あの黄色い花…ニッコウキスゲっていったっけ、あれが咲くのは多分夏だと思うんだけど、一応ネットでいつ咲いてるのかちゃんと確認して…」
 なんだか急にものすごく眠くなってきて、秀のブレザーに顔を埋めてあくびをかみ殺す。瞼が重い。目をつぶる。
「やっぱりお花が咲いてるほうがいいから……あと泊まるところも探さなきゃ。日本で旅行なんて久しぶり……」
 青い青い空に、白い雲がぽっかりぽっかり浮かんでいる。
 気持ちのいい風に揺れる緑の草と明るい黄色のニッコウキスゲ。
 秀の笑顔。繋いだ手。白いシャツ。
 おはぎも持っていこう。餡子のと胡麻のときな粉のと胡桃の。
「遠野と二人で…お散歩して……おはぎも…食べて………」
 ゆっくりと、温かい闇の中に落ちていくような感覚。
 気持ちよく眠りの蔦に覆われ始めた意識の片隅が、力を振り絞るようにして警告を発した。
 眠っちゃいけない。
 微かに、あっと思った。
 いけない。眠っちゃいけない。
 眠ったら…眠ってしまったら…もう…終わってしまう…一緒にいられなくなってしまう…。
 渾身の力を込めて目を開けようとする。でも瞼が動かない。
 身体にまわされた秀の腕にぎゅっと力がこもった。
「七瀬」
 耳元で秀の声が呼んでいるのに返事ができない。
 意識が遠くなっていく。懸命に耳を澄ませる。
「七瀬……」
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