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後編
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さて、どうする? と訊かれて、迷うことはなかった。
太一も、信一郎が引き返すとは言わないと、分かっていたかの聞き方だった。と信一郎は思った。
この先は岩場が多くなり、難所のキレットも出てくるから気を引き締めろよ、と太一が笑う。笑いながら言われても、楽しそうにしか思えない。
それに足の力だけで登るより、岩を掴んで腕の力も使った方が登るのが楽だ。信一郎は背負いなおしたザックの紐をぐっと引っ張り、身体に密着させた。背中の高い位置に固定され、ザックの重みがなくなる。一体化したかの気分になった。よし、と背伸びをした。
時々樹林に潜り込み、また開けた場所へと出る。二・三カ所抜けると、彼の言った「キレット」なる岩場が姿を現した。そびえ立つ……では、ない。そこは覗き込まなければ見えない、下りの岩壁だった。
六合と書いてある看板を見ながら、岩の際に立つ。眼下に、数メートルはあろうかという崖が待ち受けていた。鎖がぶらさがっている。他の登山客が皆、鎖に掴まって降りている。ここまでで良いやと泣き笑いで諦めている若者の言葉も聞こえてきた。彼らの足には、普通のスニーカーが履かれていた。
「山を舐めると、痛い目ぇ見るで」
彼らに聞こえないように太一が、ぼそっと言った。が、すぐに息をついて、こうも付け加えたものだった。
「だが必要以上には、恐れんでも良ぇ。山は、ここにおるだけやからな」
太一の山に対する主観は、あっさりしたものだ。先に降りている中に、子供もいる。子供を指さして、太一は「ほら」と言う。
「あんな子でも降りとるんや、三点支持さえ守れば怖ぁない。子供は柔らかいから、スニーカーでも良ぇんや」
そういうものなのかと感心しながら、ひょいひょいと、まるでカモシカのように降りていく小学生の勇姿を見下ろす。
「ああいう子が山に来てて、山を好きになってくれると嬉しいよな」
「……ああ、そうやな」
同意を求められて相づちを打ったが、言葉の意味を飲み込んだのは、それからだ。飲み込んでから、やはり息子たちを連れて来たいな、と思ったものだった。
だが息子たちの足では、もうスニーカーは無理だろう。ちゃんとした山靴を買ってやって……と息子の姿に似合いそうな靴を想像してみて、それが妄想であることに少しだけ落胆する。勝手に買って送っても、きっと彼は山には来ない。
というか、もし本当に贈るなら、家族全員の靴を買ってやるべきだろう。駄目で元々、今度サイズでも訊いてみれば良い。
山と同じだ。
一歩一歩だ。
「さて、行くか」
先行の者が降りて鎖が空いたので、太一がさっさと降りる。後続の者も並んでいる有様だ、ぐずぐずはしていられない。だが焦ってもいけない。
信一郎は慎重に的確にと心がけて、ひとつひとつの足の置き場を確認しながら降りた。鎖に体重をかけるなと教えられて、手を添えるだけにする。基本的には岩を掴んで三点支持で降りるのだと太一は言う。
そういうものかなと思った時、上から降りてきていた後続の男性が「うわっ」と揺れた。鎖に掴まっており、身体が左右にぶれている。なるほど、こういうものか。と納得が行って、信一郎は思わず笑いそうになったのだった。
「大丈夫ですか?」
手を添えてやる。そのぐらい、余裕があった。
身体を安定させた男が、すみませんと小さく頭を下げて足を止め、信一郎が降りきるのを待ってくれた。自爆も許されない山の事故だが、他人を巻き込むのは、もっと許されない。
信一郎は岩を降りきって、男性に気をつけてと声をかけ、先に進んだ。狭い場所だ、立ち止まっていては迷惑になる。
「やったな」
太一が振り返って笑う。大偉業を成し遂げた実感は、なかった。普通に皆が進んでいる道だったのだ、それを自分が降りれたことぐらいなんでもなかった。
と、思っていたが。
じわじわと。歩いているうちに、キレットを降りきったという喜びが、こみ上げていた。
かなり緊張していたのだ。今とて気を抜いてはならない、他ごとを考えていては足を滑らせる状況にあるのだが、だが、あの岩を降りたのだから大丈夫だ、という自信が身体から沸いているのを、信一郎は感じていた。
先の道に、不安はなかった。あと少し、もう少しと自分に言い聞かせ、ルートと地形と景色を見ながら先へと進む。景観を楽しみながら、道も楽しむ。上がる息を整えて水を飲み、息をつく。生きている実感を得ながら、山肌を眺める。
ああ。
俺は生きているんだなぁ。と、おもむろに思った。
背中が軽い。背負っている額縁の重さは、もう感じない。自分を助けてくれたアイテムでもある。俺は、これを背負って生きていくのだと思った。妻の笑顔が胸によみがえった。ふわりとコスモスが揺れる。
草木をかき分ける。梯子が出現した。とはいえ、ほんの数段だ。だが数段とて油断はできない。しっかりと掴んで、踏みしめる。点検を済ませたばかりらしい梯子は新しくて綺麗で、丈夫に作られている。こうした整備をしてくれてあるから安心して登れる。
信一郎は梯子を一撫でしてから、次に進み……と、思ったら。
「着いたで」
太一が立ち止まり、信一郎に振り向いていた。手を差し出してくれている、それを信一郎は「いや、いい。大丈夫や」と断った。太一は微笑んでいる。
信一郎は、自分の足で、登りきった。
「……着いたんか」
呆けた。
まだ山頂ではない。アスファルトの道路に出たのだ。だが、ここが登山道としての終点らしい。見ると看板が出ていた。
「中道登山道」と矢印付きだ。細くて、やもすれば見落としてしまいそうな入り口である。登る人間だけが見つけられる入り口のように思えて、なんだか誇らしかった。
登山客が次々に上がってくる。二人は看板の側で写真を一枚撮った後、道路を上にと歩き出した。
「せっかくやで三角点も拝んで行くで」
太一が指さした先に、山頂がある。それはもちろんだ。どうせなら山頂まで行っておかないと。だが。
信一郎の登山としての物語は、すでに終わっていた。ここからはオマケ、ご褒美のように思われた。アスファルトの道が、むしろ山靴には歩きにくい程度の試練しか感じない。いや、こんなことを試練と呼んでは登山道に失礼だ。
冬にはスキー場になるのだという開けた草原を登っていくのも、気持ちが良かった。晴れ渡っていて遠くまで見渡せる。暑いほどだった。いや、もう、すぐ夏になる。浮かんでいる雲が、わずかに立体的になっている。
観光用リフトなるものも通っていたが、あまり誰も乗っていない。そりゃそうだろうなと思えた。気持ち良い原っぱだ、歩かなければもったいない。
「あそこや」
立派な看板が見えた。
近づくと、その側に小さく三角点なるブロックもあった。これが真の山頂だ、と太一が触れる。信一郎も三角点を撫でてみた。ここまで来たのだなという感慨が生まれた。
山頂付近は公園状態になっていて、あずまやもベンチも揃っている。休憩には、もってこいの場所だ。さっそく腰を落ち着けて、持ってきた弁当を広げた。太一はバーナーと呼ばれる小さなガスコンロを取り出して、これまた小さなコッヘルなる鍋を置き、水を入れてラーメンを作り出す。
「良いな、それ」
笑うと「せやろ?」太一も笑う。
「山に来たら、これが一番の御馳走や」
袋ラーメンをバリッと開けて、沸いたお湯に入れる。やたらと美味そうで、一口くれと頼んだものだった。信一郎のコンビニお握りは、落ちた時の騒動ですっかり潰れていたのである。
ラーメンの暖かさが、身にしみた。
暑いと思っていたが、身体の芯は冷えていたらしい。
ラーメンをすすりながら、太一がぼそりと呟くのが聞こえた。
「……帰ったら、ちとカミさんと喋ろかな」
一瞬、信一郎は聞こえなかったふりをしようかと思ったが、やはり、返した。
「おう。そうせい」
「……おう」
太一はラーメンを作った後、別のコッヘルで湯を沸かして、コーヒーも作ってくれた。ほらと差し出されたカップを、太一は二つ持っていた。信一郎の分も持ってきてくれたのだ。
「用意が良いな……ありがとう」
入れたてのコーヒーが、これまた胃に沁みる。心に沁みる。山の飯の美味しさが、身体に染み込むようだった。
「どうだ?」
「ああ……」
質問の意味を飲み込みつつ、言葉を探る。
「……また、来たいな」
「そら良かった」
端的な回答の意味を、太一もすぐに飲み込んでくれた。
「ほな、また来週な」
「いきなりやな」
笑ったものの、来て来れないことはない。本当に来週も来そうだ。それならそれでも良いなと思った。また、この御在所の道を歩くのも良いだろう。もしくは他の登山道もあるし、隣の山も良いのだと太一は言う。
「鎌ヶ岳もな、なかなかのくせもんなんや」
曲者が好きなのか? と笑うと太一は、いや、そうでもないけどなと、はにかむ。どんな山でも登れば楽しい。登れば分かるで。と言う、太一の言いたいことは、まだ一つしか登っていない信一郎だが、分かる気がした。
アルプスも良ぇんやでぇと太一の夢が膨らむ。と同時に信一郎の未来も広がる。まだ何も終わっていない。これから、今から開いて行くのだ。
信一郎は自分のやってみたいことが、どんどん出てきそうな予感を覚えた。
さぁ帰りもしっかりキツいで、気合い入れて行くでと言われて降りた道も、やはり楽しく。足首を捻挫しやすいから気をつけろと教えられて、登り以上に慎重にしっかりと足を置かなければならない場面も多かったが、それらも降りきってしまえば、夢のように楽しかった時間でしかなく。
降りて、温泉に入って汚れを落としてサッパリとしたら、まるで本当に夢だったかの気持ちになっていて……信一郎は、それが夢ではなかったことを確かめたい気持ちで、すぐにまた登りに行きたくなっていた。
「お前も、せっかちやな」
信一郎が心境を告げると、太一に笑われた。
が、「俺もや」と言われて、安堵の爆笑を交わす。山馬鹿仲間が増えて良かったわという太一の冗談は、きっと本音だ。馬鹿の仲間入りを証明する為にも、来週も登りたいものだと思ったものだった。
まだ日が高い中にそびえる山の稜線が、昨日までとは違って見える。どの辺りに、どんな道があったのかが、思い出される。あの線に向かって進み、そして、あの線の上に乗りたくなる。
なぁ、良子。
信一郎は内心で呟く。
お前を背負って俺は登る。お前がおったからこその、今の俺やからな。
妻の人生を背負う、などという偉そうな生活ができていた自信はないが、少なくとも遺影を背負って登頂できたことは、信一郎に何らかの影響を与えていた。
一歩、一歩。
今後も続く人生の為に。
何も捨てない。
すべてを背負って。
だが重くなどない。
身体に密着させて。
一体と化している。
今夜の酒は、昨日とは違ったものになるに違いない。
暮れゆく稜線には、二人で歩く姿が見えるに違いない。
太一も、信一郎が引き返すとは言わないと、分かっていたかの聞き方だった。と信一郎は思った。
この先は岩場が多くなり、難所のキレットも出てくるから気を引き締めろよ、と太一が笑う。笑いながら言われても、楽しそうにしか思えない。
それに足の力だけで登るより、岩を掴んで腕の力も使った方が登るのが楽だ。信一郎は背負いなおしたザックの紐をぐっと引っ張り、身体に密着させた。背中の高い位置に固定され、ザックの重みがなくなる。一体化したかの気分になった。よし、と背伸びをした。
時々樹林に潜り込み、また開けた場所へと出る。二・三カ所抜けると、彼の言った「キレット」なる岩場が姿を現した。そびえ立つ……では、ない。そこは覗き込まなければ見えない、下りの岩壁だった。
六合と書いてある看板を見ながら、岩の際に立つ。眼下に、数メートルはあろうかという崖が待ち受けていた。鎖がぶらさがっている。他の登山客が皆、鎖に掴まって降りている。ここまでで良いやと泣き笑いで諦めている若者の言葉も聞こえてきた。彼らの足には、普通のスニーカーが履かれていた。
「山を舐めると、痛い目ぇ見るで」
彼らに聞こえないように太一が、ぼそっと言った。が、すぐに息をついて、こうも付け加えたものだった。
「だが必要以上には、恐れんでも良ぇ。山は、ここにおるだけやからな」
太一の山に対する主観は、あっさりしたものだ。先に降りている中に、子供もいる。子供を指さして、太一は「ほら」と言う。
「あんな子でも降りとるんや、三点支持さえ守れば怖ぁない。子供は柔らかいから、スニーカーでも良ぇんや」
そういうものなのかと感心しながら、ひょいひょいと、まるでカモシカのように降りていく小学生の勇姿を見下ろす。
「ああいう子が山に来てて、山を好きになってくれると嬉しいよな」
「……ああ、そうやな」
同意を求められて相づちを打ったが、言葉の意味を飲み込んだのは、それからだ。飲み込んでから、やはり息子たちを連れて来たいな、と思ったものだった。
だが息子たちの足では、もうスニーカーは無理だろう。ちゃんとした山靴を買ってやって……と息子の姿に似合いそうな靴を想像してみて、それが妄想であることに少しだけ落胆する。勝手に買って送っても、きっと彼は山には来ない。
というか、もし本当に贈るなら、家族全員の靴を買ってやるべきだろう。駄目で元々、今度サイズでも訊いてみれば良い。
山と同じだ。
一歩一歩だ。
「さて、行くか」
先行の者が降りて鎖が空いたので、太一がさっさと降りる。後続の者も並んでいる有様だ、ぐずぐずはしていられない。だが焦ってもいけない。
信一郎は慎重に的確にと心がけて、ひとつひとつの足の置き場を確認しながら降りた。鎖に体重をかけるなと教えられて、手を添えるだけにする。基本的には岩を掴んで三点支持で降りるのだと太一は言う。
そういうものかなと思った時、上から降りてきていた後続の男性が「うわっ」と揺れた。鎖に掴まっており、身体が左右にぶれている。なるほど、こういうものか。と納得が行って、信一郎は思わず笑いそうになったのだった。
「大丈夫ですか?」
手を添えてやる。そのぐらい、余裕があった。
身体を安定させた男が、すみませんと小さく頭を下げて足を止め、信一郎が降りきるのを待ってくれた。自爆も許されない山の事故だが、他人を巻き込むのは、もっと許されない。
信一郎は岩を降りきって、男性に気をつけてと声をかけ、先に進んだ。狭い場所だ、立ち止まっていては迷惑になる。
「やったな」
太一が振り返って笑う。大偉業を成し遂げた実感は、なかった。普通に皆が進んでいる道だったのだ、それを自分が降りれたことぐらいなんでもなかった。
と、思っていたが。
じわじわと。歩いているうちに、キレットを降りきったという喜びが、こみ上げていた。
かなり緊張していたのだ。今とて気を抜いてはならない、他ごとを考えていては足を滑らせる状況にあるのだが、だが、あの岩を降りたのだから大丈夫だ、という自信が身体から沸いているのを、信一郎は感じていた。
先の道に、不安はなかった。あと少し、もう少しと自分に言い聞かせ、ルートと地形と景色を見ながら先へと進む。景観を楽しみながら、道も楽しむ。上がる息を整えて水を飲み、息をつく。生きている実感を得ながら、山肌を眺める。
ああ。
俺は生きているんだなぁ。と、おもむろに思った。
背中が軽い。背負っている額縁の重さは、もう感じない。自分を助けてくれたアイテムでもある。俺は、これを背負って生きていくのだと思った。妻の笑顔が胸によみがえった。ふわりとコスモスが揺れる。
草木をかき分ける。梯子が出現した。とはいえ、ほんの数段だ。だが数段とて油断はできない。しっかりと掴んで、踏みしめる。点検を済ませたばかりらしい梯子は新しくて綺麗で、丈夫に作られている。こうした整備をしてくれてあるから安心して登れる。
信一郎は梯子を一撫でしてから、次に進み……と、思ったら。
「着いたで」
太一が立ち止まり、信一郎に振り向いていた。手を差し出してくれている、それを信一郎は「いや、いい。大丈夫や」と断った。太一は微笑んでいる。
信一郎は、自分の足で、登りきった。
「……着いたんか」
呆けた。
まだ山頂ではない。アスファルトの道路に出たのだ。だが、ここが登山道としての終点らしい。見ると看板が出ていた。
「中道登山道」と矢印付きだ。細くて、やもすれば見落としてしまいそうな入り口である。登る人間だけが見つけられる入り口のように思えて、なんだか誇らしかった。
登山客が次々に上がってくる。二人は看板の側で写真を一枚撮った後、道路を上にと歩き出した。
「せっかくやで三角点も拝んで行くで」
太一が指さした先に、山頂がある。それはもちろんだ。どうせなら山頂まで行っておかないと。だが。
信一郎の登山としての物語は、すでに終わっていた。ここからはオマケ、ご褒美のように思われた。アスファルトの道が、むしろ山靴には歩きにくい程度の試練しか感じない。いや、こんなことを試練と呼んでは登山道に失礼だ。
冬にはスキー場になるのだという開けた草原を登っていくのも、気持ちが良かった。晴れ渡っていて遠くまで見渡せる。暑いほどだった。いや、もう、すぐ夏になる。浮かんでいる雲が、わずかに立体的になっている。
観光用リフトなるものも通っていたが、あまり誰も乗っていない。そりゃそうだろうなと思えた。気持ち良い原っぱだ、歩かなければもったいない。
「あそこや」
立派な看板が見えた。
近づくと、その側に小さく三角点なるブロックもあった。これが真の山頂だ、と太一が触れる。信一郎も三角点を撫でてみた。ここまで来たのだなという感慨が生まれた。
山頂付近は公園状態になっていて、あずまやもベンチも揃っている。休憩には、もってこいの場所だ。さっそく腰を落ち着けて、持ってきた弁当を広げた。太一はバーナーと呼ばれる小さなガスコンロを取り出して、これまた小さなコッヘルなる鍋を置き、水を入れてラーメンを作り出す。
「良いな、それ」
笑うと「せやろ?」太一も笑う。
「山に来たら、これが一番の御馳走や」
袋ラーメンをバリッと開けて、沸いたお湯に入れる。やたらと美味そうで、一口くれと頼んだものだった。信一郎のコンビニお握りは、落ちた時の騒動ですっかり潰れていたのである。
ラーメンの暖かさが、身にしみた。
暑いと思っていたが、身体の芯は冷えていたらしい。
ラーメンをすすりながら、太一がぼそりと呟くのが聞こえた。
「……帰ったら、ちとカミさんと喋ろかな」
一瞬、信一郎は聞こえなかったふりをしようかと思ったが、やはり、返した。
「おう。そうせい」
「……おう」
太一はラーメンを作った後、別のコッヘルで湯を沸かして、コーヒーも作ってくれた。ほらと差し出されたカップを、太一は二つ持っていた。信一郎の分も持ってきてくれたのだ。
「用意が良いな……ありがとう」
入れたてのコーヒーが、これまた胃に沁みる。心に沁みる。山の飯の美味しさが、身体に染み込むようだった。
「どうだ?」
「ああ……」
質問の意味を飲み込みつつ、言葉を探る。
「……また、来たいな」
「そら良かった」
端的な回答の意味を、太一もすぐに飲み込んでくれた。
「ほな、また来週な」
「いきなりやな」
笑ったものの、来て来れないことはない。本当に来週も来そうだ。それならそれでも良いなと思った。また、この御在所の道を歩くのも良いだろう。もしくは他の登山道もあるし、隣の山も良いのだと太一は言う。
「鎌ヶ岳もな、なかなかのくせもんなんや」
曲者が好きなのか? と笑うと太一は、いや、そうでもないけどなと、はにかむ。どんな山でも登れば楽しい。登れば分かるで。と言う、太一の言いたいことは、まだ一つしか登っていない信一郎だが、分かる気がした。
アルプスも良ぇんやでぇと太一の夢が膨らむ。と同時に信一郎の未来も広がる。まだ何も終わっていない。これから、今から開いて行くのだ。
信一郎は自分のやってみたいことが、どんどん出てきそうな予感を覚えた。
さぁ帰りもしっかりキツいで、気合い入れて行くでと言われて降りた道も、やはり楽しく。足首を捻挫しやすいから気をつけろと教えられて、登り以上に慎重にしっかりと足を置かなければならない場面も多かったが、それらも降りきってしまえば、夢のように楽しかった時間でしかなく。
降りて、温泉に入って汚れを落としてサッパリとしたら、まるで本当に夢だったかの気持ちになっていて……信一郎は、それが夢ではなかったことを確かめたい気持ちで、すぐにまた登りに行きたくなっていた。
「お前も、せっかちやな」
信一郎が心境を告げると、太一に笑われた。
が、「俺もや」と言われて、安堵の爆笑を交わす。山馬鹿仲間が増えて良かったわという太一の冗談は、きっと本音だ。馬鹿の仲間入りを証明する為にも、来週も登りたいものだと思ったものだった。
まだ日が高い中にそびえる山の稜線が、昨日までとは違って見える。どの辺りに、どんな道があったのかが、思い出される。あの線に向かって進み、そして、あの線の上に乗りたくなる。
なぁ、良子。
信一郎は内心で呟く。
お前を背負って俺は登る。お前がおったからこその、今の俺やからな。
妻の人生を背負う、などという偉そうな生活ができていた自信はないが、少なくとも遺影を背負って登頂できたことは、信一郎に何らかの影響を与えていた。
一歩、一歩。
今後も続く人生の為に。
何も捨てない。
すべてを背負って。
だが重くなどない。
身体に密着させて。
一体と化している。
今夜の酒は、昨日とは違ったものになるに違いない。
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