君と暮らす事になる365日

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そして迎えた出勤日である。依里は電車を一本乗り遅れても、仕事に間に合う事に少しながら感動しつつ、引っ越して初めてのその日を迎えていた。
いつも一本前だと、ぎゅうぎゅうの車内に押し込められ、誰かの手が触れたりぶつかったりしてしまうのだ。
仕事先を自分で選んだので仕方がないが、あれは結構嫌だった。
だがしかし、今日からいくらかそう言った物が、軽減された社内に乗る事が出来るのだ。
さっさと引っ越せばよかったな……とちょっと考えてしまった依里である。
だがあの物件も、家賃は今よりずっと安い破格の値段だったし、二部屋あったし、築年数はかなり経っていた物の、内装はリノベーションされていたし、そこそこいい所だったのだ。
隣人がどんちゃん騒ぎなんぞしなければ……しばらくあそこで暮らしていただろう。
しかしあのとてつもない騒ぎを、週末という休みたいときに繰り広げられれば話は別、さっさと逃げ出すに限るのだ。
そして依里は運がよかった。何しろ、一定以上の値段の賃貸に暮らす場合、会社から家賃補助が出たのだ。
仕事は大変だし、とても疲れるが、ブラックではないんだよなあ……と思うのはそういうところである。それに有休もちゃんととれたのだし。
そんな事を思いつつ、依里は電車に揺られて窓の外を眺め、目的の駅についてからは頻繁に来るバスに乗り、いよいよ会社に到着した。
彼女の仕事先はそれなりに大きい企業であり、彼女はそこの総務課で、ありとあらゆる雑務を行っているのだ。
雑務の中には、データ入力だのなんだの、とにかく入力作業が多く、依里の目が心底疲れるのもそれが一因である。
しかしながら、彼女はそれなりにキータッチが早いため、次々仕事を回されるわけであった。
依里はよし、と気合を入れ直してから、会社のエントランスに入り、社員証を指定の機械に通し勤怠を入力した。
そしてエレベーターを上がっていき、その間に少しながらモチベーションを整える。
何しろ有給の後なので、どれくらい仕事が増えているのか予測がつかないのだ。
休みの前には、とりあえず締め切りに間に合わない物がないように仕事を、終わらせていたわけだが……それでも増えて行くのが仕事である。
そう言ったわけで、総務課の中に入った彼女に、気が付いたのだろう。一人の女性が顔をあげた。

「環さんおはよう。引っ越しはうまくいった?」

「おはようございます、佐々木さん。ええ、大丈夫ですよ」

幼馴染が転がり込んできたがな! とは言わない。それを言って質問攻めにされるのは面倒だし、そこまでプライベートな事を喋る理由もないのだ。
それも勤務時間の前に。
依里は自分のデスクに座り、荷物を所定の位置に置き、素早くパソコンの電源を入れた。
まず起動させて、多少機械を温めておかなければ、速やかに仕事に移れない。
そして仕事となったら速やかに行いたいのが、彼女としては当たり前の事だった。

「部長が気にしてたわよ、環引っ越し、いいところだといいんだがって」

「部長が?」

「だって環さん、目の下にくっきり隈が浮いて、人相がめちゃくちゃ悪くなってたのよ、目つきも殺気立った感じがしてて」

「ああ……化粧してもわかるほどだったんですね……」

言われた依里は苦笑いをした。部長は人をよく見ている人だから、依里が寝不足で体調を崩している事も、気付いていたのだろう。
だから、引っ越しに失敗していないか、気にしたに違いない。
さて、そんな会話をささやかに行って、人も集まりだし、勤務時間が幕をあげた。
依里はメールを立ち上げ、そこからはもう、仕事に没頭する時間になった。



彼女が没頭していた入力や他の部への連絡のメールやら下請けへの連絡事項やらから浮上したのは、あまりにも部署がざわついていたからだ。
流石の彼女も、一体何事なのだと思ったわけである。
パソコンから顔をあげ、昼の時間だからみんなざわついているのか? と思った彼女は、しかしその予想が違っている事を、知らされたわけである。
課長に連れられて来ていたのは、そこそこいい値段がしそうな仕立てのスーツを着た、これまた好青年な笑顔を見せている男性である。
ちなみに結構なイケメンである。依里はそれ以上のイケメンな幼馴染を見慣れているため、そこまでざわつかない物の、他の女性たちはざわざわとざわめていた。
無理もない。総務課の男性はいい人が多いし、お互いに協力し合ういい仕事仲間ではあるものの、イケメンかと言われたら、首をかしげてしまう人が多かった。
内面が素晴らしい人の方が多いので、依里はそこまで気にならないのだが、女性たちは皆、イケメンが好きだろう。イケメンが嫌いな人っていうのは、あまりいないんじゃないだろうか。
男性の好みが違う事は多かれ少なかれ、あるだろうが。

「あの人誰かしら」

「課長が連れてきたってことは新しい人?」

「総務課にあんなイケメン来るわけないでしょ!」

「やだ、めっちゃくちゃ格好いい……」

近くの女性たちが小声でささやき合う中、課長がその男性を示して、こちらに注意を促して発言した。

「皆さん、注目! こちらは柳川拓郎さん、今日から数週間の間、こちらで勤務し、それから各部署で仕事をして行く事になっている人だ!」

「え、各部署って事はエリート街道走りそう」

「あらゆる仕事を経験させるって、ありうるものね」

「もしかして玉の輿とか」

近くの女性たちがまたざわめく。依里は、柳川、という苗字から、とある可能性を脳内でヒットさせた。
柳川。それはこの会社の社長親族の名字なのだ。
なるほど、上層部に入る前に、多少仕事をやらせ、現場の状態を教えようという考えなのだろうとも思ったのだ。
注目の集まる柳川さんは、これまたさわやかな笑顔で言う。

「柳川です、よろしくお願いいたします」

にしても、そんな関係者がどうしてこの時期に来たのだろう。依里がそんな事を考えていた時、課長がその疑問を解決してくれた。

「彼はフランスのパリ支部で経験を積んで、数日前に日本に戻ってきたばかりだ」

なるほど、この会社は輸入食品関係を取り扱っているから、パリとも縁があったのだろう。
依里はそこに納得し、早く紹介が終わらないかな、と思う事にした。
メールが途中なのである。このメール先は懇意にしている輸入卸会社への連絡なので、手際よく仕上げたいのだ。
彼の紹介は速やかに終わり、彼の一時的なデスクは、課長の側のものになっていた。
女性たちが接触しずらくてブーイングを小さく出していた物の、課長はそれを黙殺した。イケメンだから、揉められても困るという采配だったのだろう、きっと。
それに誰か女の人の近くだったら、その女の人への嫉妬が大変だろうな……親しい仕事仲間相手でも、嫉妬という物は芽生えるものな……と依里は課長をちょっと見直した。



いろいろな部署を回るという事になっているこの、柳川さんは、そりゃあまあ仕事が早いというか、そつなくこなすというか、何というか。
とにかく、出来る男なのに間違いはなかった。
こんな優秀な人材がいていいのか、と依里でさえ思うほどである。
当然その、仕事のできる男は二割増しで格好良く見える、という同じ課の女性たちが、一層ぽうっとなるのも無理はない。
だが依里にそんな、ぽうっとしている余裕はない。彼女のデスクには入力待ち、申請待ち、そう言ったものがこれでもか、とどんどん増えて行くのだから。
だから手書きではなく、データにして送ってくれよ、そうすればまだましだ、なんて彼女が心の中で文句を言いつつ、作業を進めていた時だ。

「大丈夫ですか、環さん」

彼女は脇からかけられた声を、見事に無視した。そんな声を聞いている余裕があったら仕事をする、しなければ間に合わない。この入力の締め切りはいつだ、あと三時間だ!
そんな思いで、ひたすらにキーボードを打っていた彼女は、数回呼ばれたそれらを、全く気に掛けなかった。
それを脇から見ていた他の女性社員たちが、うらやましそうに見ていた事も、もちろん依里は気付かなかったのだ。
そして無事に、締め切り一時間前に、データは入力されて、各部署に回されていった。
その時点でようやく、依里が一息ついた時の事である。

「課長、彼女に仕事を回し過ぎではありませんか?」

そんな、落ち着いていながらも、どこか非難のにじんだ声が耳に届いたのは。
なんだなんだ? と依里は声の方を横目で見て、そして驚いた。
課長がたじたじになっているのだ。逃げ出せるなら逃げ出したい、と言いたげな雰囲気である。

「彼女は仕事がほかの人よりも早く優秀な分、仕事が回されているだけで……」

「それはおかしいでしょう、そんなに終わらないならば、彼女だけではなく、他の社員にも仕事を多少は回すべきだ、彼女は終わらないしわ寄せの仕事を、皆回されているではありませんか」

「彼女以上に仕事が早い人は……」

「彼女が優秀だからという理由ならば、もっと他の社員の教育も進め、他の社員の力の底上げもするべきです、しかし彼女だけに仕事を回していたら、社員の成長がないでしょう」

柳川だった。柳川は落ち着いた態度で、課長がいかに、誰か女性社員に、無茶な仕事の量を回し過ぎだ、と非難しているのだ。
そんなにも仕事が多い社員は誰だろう。依里はそんな事を考えながらも、またパソコンと向かい合った。危ない締め切りの仕事は終わったものの、まだまだ今日のうちに仕上げなければならない仕事は多い。それに終わったら届けに行かなくてはならないものもあれば、郵便局で郵送しなければならない物だってある。
柳川と課長のやり取りを聞くのはそこまでにして、依里は仕事の中に戻って行った。

そして昼である。依里は昼の放送が鳴った時点で、がさがさとデスクの中をあさった。
そして目的の物を見つけて、それの封を開けようとした時の事だ。

「柳川さん、ランチ一緒にいかがですか?」

「このあたりで美味しいイタリアンがあるんですよ!」

「ちょっと抜け駆けしないでよ、柳川さん、私もご一緒していいですか?」

わらわらと群がっている。依里がそんな事を考えてしまうほど、柳川の周りに女性社員が群がっていたのだ。
そしてお互いをけん制し合っている。
あのバイタリティはすごいな、と依里は素直に感心し、今度こそ空腹を紛らわせるために、十秒でチャージできる広告が有名な、ドリンクゼリーの口を開け、それを一気に胃の中に流し込んだ。
昼はいつでもそうだ、午前中のうちに疲れすぎてしまうのか、どうしてもまともな食事を食べようという気力がわかないのである。
しかし、何も食べないという無茶は出来ないので、妥協案がこれなのである。
きっと晴美に知られたら大目玉だろうな……あいつ食い物に情熱を注いでいるからな……と同居している幼馴染の顔が、彼女の頭の中に少しだけよぎったものの、食べたくないのだから仕方がないだろう、と依里は心の中で言い訳をした。
朝も夜もそれなりに物を食べているのだから、大目に見てくれ晴美。
彼女が内心で言い訳を重ねた時だ。

「環さんは食事をしないのですか?」

驚いた事に、柳川が声をかけてきたのは。
依里は相手が何故、他の話しかけたい思い出いっぱいの女性たちではなく、自分というそれから外れた人間に、声をかけたのかわからなかった。
だが、食事は済ませたのだ。依里はゼリー飲料の空きパックをひらひらと振った。

「食べましたよ、今」

「それだけで、昼からの仕事もこなすんですか? それで体を壊したりしないんですか?」

「今の所は壊していませんし、皆さん柳川さんと昼を食べたくて待っていますよ、私なんかに関わらずに、どうぞお楽しみください」

柳川はもっと言いたい事があったらしいが、女性たちが、早く早く、と柳川に群がったため、それ以上の会話は続かなかった。
依里に、圧力を皆出かけてきたという事もあるのだが。
皆様の視線が、依里に、

「邪魔するんじゃないわよ」

と言っていたため、依里は仕事仲間と穏便な毎日を過ごすために、会話を長続きさせなかったのだ。女性の恋路を邪魔して、いい事になるわけもないのである。
そうして依里が、疲れをいやすためにデスクに突っ伏し、残りの昼休憩を過ごしたのち、ぎりぎりに女性たちと柳川は課に戻ってきて、再び勤務時間が始まったのであった。



そしてあっという間に終業時間である。だが依里は帰れない状態に陥っていた。
あと少し、後十分で、明日締め切りの提出物が完成するのだ。
そもそもこれも、終業に十分前に、突如メールで押しつけられたものである。
またかよあの人……と依里は横目で、さっさと帰り支度をしている女性社員を横目で眺める。彼女は子供の送り迎えの都合があるそうで、間に合わなくなってしまったんだとか。
それ自体はまだ理解が追い付くのだが、もっと早く頼んでくれ、また私は残業だ、と依里がキーを打ち込みながら、提出用の資料をモニターに並べて作業をしていた時である。

「環さん、どうしたんですか?」

「ああ、ちょっと井上さんから頼まれて」

「井上さん? さっき急いで帰っていた社員の方ですか?」

依里は誰が声をかけて来ているのか、全く気にしないで、モニターに集中しつつ、喋っていた。会話はほとんど反射である。深く考えて会話をしていない状態でもある。

「彼女、子供の送り迎えがあるとの事で」

「何言っているんですか? 彼女は離婚していて旦那さんの方が、子供は全員引き取ったとの事ですが」

「……」

しばらく、依里のキーボードを打つ音だけが響いていた。
そして彼女が、事態を飲み込めた時ようやく、その音は止まったのである。

「は?」

「今日のランチで喋っていましたよ。ろくでもない旦那と別れてせいせいした、子供たちは皆旦那の方がいいとごねたので、全員旦那の方に行ってしまって寂しい、会いに行こうにも子供たちがいるのは、苦手なお姑さんがいる実家で会えないって」

依里はそこで、ばっと声の主の方を振り返った。
柳川である。彼はなんとも言えない顔をして、依里を見つめていた。

「もしかして環さん、ずっと、彼女が子供の送り迎えがあるという事を信じて……?」

「……はあ」

なんだそれ、井上はなんでそんなに早上がりなんだ、私にもろもろを押し付けて!
依里の頭は瞬間湯沸かし器のごとく煮えくり返ったものの、それを柳川にぶつけても意味がないと、彼女だって知っている。
そのため大きく息を吐きだし、怒鳴りだそうとした声をやり過ごし、問いかけた。

「それって本当ですか」

「本当ですね」

本人が言っていましたよ、と柳川は冷静に言った。
そして依里にこう告げた。

「環さん、井上さんからのメールを見せていただいても?」

「はい」

こちらが一切悪くないのに仕事を押し付けられていた、騙されていた。
そう思うと、彼女とのやり取りを隠しておく理由など一切ない。
そのため、しばらく前から頻繁に行われていた、子供の事情による定時上がりの際に、依里に頼まれていた仕事のメールを、柳川が確認し始める。

「これだけの量を、何度も何度も、環さんに……」

余りにもその量が多かったらしい。元々仕事をかなりの量やっている依里は、それが適正量かどうかわからなかった。
だが、柳川の顔を見る限り、かなり多かったらしい。
柳川は彼女を見て、メールを見て、提出期限が明日の朝いちばんの仕事を見て、こう言った。

「手伝います、環さん、資料などを送ってください」

「え、でも」

「一人の女性社員に、こんなにもたくさん、提出期限がぎりぎりの物をやらせるわけにはいかないんですよ!」

強い声だった。そしてその声を聞いて、帰り支度をしつつ、柳川を誘おうとしていた女性社員たちが、振り返ったほどのものがあった。
そこまで言い切る相手に、ちょっと感動しつつ、依里は頷いた。

「あ、同居人に帰りが遅れる連絡だけ、させてください」

「それは一切構わないですよ」

依里は言われたため手早くラインを立ち上げ、晴美に帰りが遅い連絡をし、仕事のデータを柳川に送る事になった。
だが柳川は、今日は上司たちが歓迎会を企画していたらしい。

「柳川さん、歓迎会は君がいないと始まらないんだが」

「環さんに押し付けられた仕事の量を見て、のんきに歓迎会でお酒が飲めるわけがないでしょう」

柳川もとんでもない速度でキーボードをたたき、依里もそれに負けていない。
そして柳川はぎろり、と上司たちを睨んだのである。

「後でじっくりお話を聞かせていただきましょう、もろもろね」

「あ、ああ……」

なんかやばいものを踏んでしまったらしいぞ、と上司たちも気付き、女性社員も、皆空気が読めるためだろう、この状態の柳川に、近付こうともしなかった。
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