君と暮らす事になる365日

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「ああ、久しぶりです、こんな時間に終われたのは!」

依里は思わず浮ついた声で柳川に言った。彼は依里の見せた明るすぎる笑顔に、目を丸くした後、こう言った。

「そうだったんですね……いつも何時くらいに?」

「だいたいこのくらいに、あ、でもきちんと終電までには帰っていましたよ、残業代もきちんと入っていましたし……何か?」

「あなたよくそれで今まで、体を壊していなかったですね……」

彼女の言葉に、柳川が引きつった声を出す。彼からすれば、依里の仕事の量は人の五倍から三倍、そのどれもが根気が必要なもので、体を壊すひとはあっという間に壊すものだったから仕方がない。
だが依里は、キータッチが早いと知られてからいつもこの量であったために、感覚が麻痺していた。
彼女の認識以上に、彼女の体が負担に悲鳴を上げ、食事もあまり受け付けなくなっていた事実に、依里は全く気付いていなかった。
普段疲れやすいのも、目が異常に疲れてしまうのも、極度の疲労の結果である。
気付かないとはげにおそろしいものであった。

「いつもこんな感じですし、何も問題は発生していませんし……」

依里が首をかしげると、柳川が怒鳴った。

「あの寮の食事しか受け付けない状態なんて、とっくに問題が起きていますからね!? 接種カロリーがどれだけ足りないと思っているんですか! 自分の体が悲鳴を上げている事実に気付きなさい、馬鹿ですか!」

かなり感情的に怒鳴っている。よほど柳川は、彼女の仕事の量に物を申したいのだろう。
彼があり得ないと思うその量は、依里にとっての日常であったため、あまり効果はなかったが。

「最近ちょっと疲れ気味だったので、有休もとりましたよ、食事もこれから若干改善される予定がありますし、近所の騒音問題も片がつきましたから」

「……本当にやめてくださいね、下請け会社で過労で女性社員が死んだ、なんて考えたくありませんから」

下請け、と言われて、依里はそう言えば、この会社は結構大きいけれども、下請けだったな、と思い出した。確かに上にもっと会社があったのだ。名前はあまり気にしていないが。
それなりに大きい、というのは、それ以上に大きい会社の下請けでもある、という事であったのだから、何とも言えない訳だった。
そこで依里は、ある一点に気付いて問いかけた。

「下請けで……とは、あなたはこの会社の上層部に単純に来たわけじゃないんですね?」

「ああ、そうなりますかね、この会社の経営などに若干の問題があるとの報告を受けて、上からの命を受けてきたと言いますかね」

大した事ではない、と言いたげに柳川はいい、依里が帰り支度を済ませているのを見て、こう言った。

「しかし、環さんの仕事の速度は尋常ではありませんね」

「慣れですよ、たぶん」

「謙遜しないでください、これなら……」

これなら何だというのだろう。依里はあまり深く問いかけなかった。変な所で藪蛇になっても困るのだから。
そのため依里は、あいまいに笑い、荷物を持って立ち上がった。

「今日はありがとうございました、明日井上さんに色々聞いてみますよ」

「第三者が多い所で会話してくださいね、その方が何かあった時に有利です」

「そうですね」

依里はそんな事を言いながら、久しぶりの時間に帰宅した。
こうも早いのは入社して以来の事で、あちこちによって楽しめるって最高だ、なんて思いながらも、頭の片隅に晴美の顔がよぎり、そんなに寄り道は出来なかった。
あいつは食事を作って待っているのだろう、と思うと、待たせるのも悪いと思うのだ。
遠い昔に、べそをかいていた頃のあいつの、殴られた青い頬と、声も出さずこぼす涙が、脳裏をよぎるせいだろう。
あいつだけは裏切りたくないな、と思うのが依里の考え方だったため。


「ただいま」

どこかにただいま、と言って帰ってくるのはずいぶん久しぶりだな、と思って家の中に入ると、かすかな振動から、晴美が洗濯機を動かしているのが分かった。
こんな時間に何してるんだ、そうか彼奴は洗濯を夜に済ませる奴だったんだな、と新たな一面を発見した気持ちになりながら、彼女が台所に行くと、晴美がテーブルに座っていた。
ちょうど食事を始めるところだったのだろう。彼の分だけ食器が並んでいる。

「あ、お帰り!」

振り返り、依里の顔を認識した晴美の顔が、きらきらと瞬く。うれしそうだ、とはっきりわかる顔だ。この顔は、きらきらと邪気なく笑う物だから、依里は意地悪などが絶対にできないのだ。昔から。

「ただいま、って、早いな」

「新人たちに仕事覚えさすために、おれは先に上がれって言われちゃって。おれそこらへん信用がないから」

「お前は前に、新人たちにとんでもない事を教えたんじゃないのか?」

「まあ、お店のルールに合わない事だったから怒られたんだけどね、ヨリちゃんよく分かったね」

「お前の事だからなんとなく分かるだろう、幼馴染なんだから」

「そっかあ、じゃあ着替えてから食事する? それとも今すぐ? お風呂入ってから?」

「着替えたら食べる」

「それならご飯温めるね、でもよかった、ご飯炊いてからそんなに時間が立ってないもの。お味噌汁もそこまで冷めてないから、直ぐ温まるよ」

晴美が食べる前だっただろうに、いそいそと立ち上がり、コンロの前に立つ。

「自分でやるから」

「おれがヨリちゃんと向かい合ってご飯が食べたいの、だからやるの! ヨリちゃんは昔みたいに、はいはい勝手にしてろ、って言いながら着替えてくればいいんだから」

「お前それ彼女にやってたのかよ」

そりゃあそれだけ甲斐甲斐しくて、見返りを求めていなかったら、彼女が調子に乗るわけだ。
そんな事を口の中で転がしながらも、依里も気軽な部屋着に着替えた。
手洗などを済ませて台所に戻ると、依里の分まで湯気を立てた食事が並んでいる。ご飯に味噌汁、魚の煮つけ、青菜の胡麻和え。それだけだが、依里は自分が作るものをはるかに超えた手間のかかった料理に、笑い出したくなった。

「晴美、そんなに毎日、ご馳走を作らなくっていいからな?」

「一汁三菜じゃないし、ご馳走って程じゃないよ」

「帰ってきてから、魚の煮つけなんて大変だろ」

「あれに頼ってるから大丈夫だよ」

「何あれ、なんか変なボタンがいっぱいある鍋だな」

晴美が指さした先では、ステンレスと黒に輝く家電が鎮座している。それは家電製品らしく、いくつものボタンが並んでいた。

「電気圧力鍋! 通販で買ってみたんだ。材料をいれたらほったらかしで済むから、気軽においしいものが作れるかなって思って。煮つけとかほろほろに仕上がるよ」

「料理人が家電に頼るのか」

「家電に頼っちゃいけませんなんて、誰が決めたの? 家電でも美味しい方法を考えるのが料理人でしょ」

けらけら笑う幼馴染の顔を見て、依里は問いかけた。

「ハイテンションだな、酒飲んでないよな?」

「ヨリちゃん帰ってくる前にチューハイ一缶」

「お前、酒に強くないんだから、それだけにしておけよ」

「うん、さあ食べよ、食べよ」

そのまま進められるがままに、依里は食卓に着き、手を合わせて食事が始まった。



「で? その家電の内容は何だって言うんだ」

「さっきも言ったじゃない、電気圧力鍋だよ? ヨリちゃんそんな事をどうしてもう五回聞くの?」

「家電に頼ってこんなにおいしいのなら、料理人も大変だろうな、と思ったわけだ」

依里が夢中で煮つけの骨の中で、堅いものを外しながら言うと、何がおかしかったのか晴美がくすくすと笑った。

「何で笑う?」

「ヨリちゃん、おれは料理人だよ? そこら辺の一般家庭の皆様よりも、調理技術も知識もあるっていう自負は、持ってろって皆に言われたから、持つようになったんだ。そのおれが、電気圧力鍋で知恵を絞って、美味しいものを作るんだから、美味しいでしょう? 魚の個体差にあわせて、少しずつ調味料の量とか決めてるんだから」

「お前そうだったな……肉の塩気の調整が、天才的にうまいものだから、お前の家のご馳走の塊肉は、お前が弁当に持って行くと皆食われたっけ」

「あのお肉の作り方教えてって言われたから、皆に教えたのに、皆揃って、『勘で塩入れてんじゃねえよ真似できるか畜生!』って言ったんだよね、あの時は言われた事の意味が全然分からなくって、不思議だったけど、料理仕事にするようになってから、おれが普通じゃない事してたんだなって分かった」

「そして事あるごとに持ち寄りではその肉を求められて、お前ほいほい持ってって、時々材料費渡すから家で作ってくれって、男子に言われてたよな」

「あれねえ、その肉以外にも、チャーシュー作ってとか、煮豚作ってとか、チキンソテーを母ちゃんに食べさせたいから教えてくれとか、内訳いろいろあったんだよ」

「で、母ちゃんにチキンソテー食べさせたかった奴は、無事に作れたのか?」

「うん!」

晴美が食べていた物を飲み込んで、いかにも幸せな思い出を語る顔で言った。

「彼は、お母さんよりもチキンソテーだけは上手になったから、お母さんが楽をする日が出来て、喧嘩減ったって喜んでた。あと、弟たちが、兄ちゃんを尊敬するようになったって嬉しそうだったよ」

「お前もいい事したんだな」

「食べ物がおいしいっていうのは、何よりも特別な事だからね」

「まあな」

依里はそう言いながら、魚の煮つけを口に入れた。しっとりとした身がほろりと崩れ、煮つけによくある生臭さは感じられない、ただ魚のうま味を感じる煮つけだ。
調味料の塩気や甘味や香りが、一番いい所で重なった味でもある。

「お前も肉から始まったのに、今じゃ何でもできるんだから、成長ってすごいよな」

「おれはヨリちゃんみたいに、パソコンが出来るわけじゃないから、ヨリちゃんの方がずーっとすごいよ」

「食事をいつでも美味しくできる方が、技能的には高いと思うのは気のせいだろうか?」

「おれは稼ぎが良くなるまでに、とっても時間がかかったもの。それにおれあっちこっち渡り歩いてたし」

「世界一周したんだっけか?」

「したよ? でもやっぱりねえ、地域の差って大きかったな。同じ野菜でも味と水気とか、全然違うんだもの!」

晴美が身を乗り出した。旅の話をする相手が、最近はいなかったからだろう。
そして依里は、大学時代に関わらないようにしていたため、その手の話題を聞いた事がない。
知り合いを通して、あっち行ったらしいとか、こっちに渡ったらしいとかは、聞いた事があるが。
本人から詳しく聞く、というのはない。

「だからね、同じものを作りたくても、日本では絶対に手に入らないし、野菜の味も水気も匂いも、ぜんっぜん違うから、同じ調理方法で、その通りのおいしさにはならないし。同じ方法だと、逆においしくないんだよ。それに環境っていうのも違うと、美味しさの感じ方も変わってきちゃうしね」

「へえ……」

いまいちわからない話だな、と依里が思っていると、晴美が少し遠い目になった。

「だっておれ、アラスカで食べさせてもらったイルカの脳みそ、日本で食べたいかって言われたら、ちがうもん」

「おい、いきなりえぐい話するな」

「あれはね、寒い寒いアラスカだったから食べられたものだと思うんだ」

「もっと優しいたとえはないのか、優しいたとえは」

食べている時に、イルカの脳みその話なんて聞きたくない。その程度の感性はちゃんと日本人である依里の言葉に、晴美がちょっと考えてから言う。

「暑くて乾燥しているモロッコで、甘い甘いミントティー飲むのは、格別においしかったよ、でも日本の冬に飲みたいものじゃないな、とかさ」

「そっちの方がまだわかる」

分かる方を先に言え、と言いたかったものの、晴美の脳内は異次元であるため、仕方がないのだろう。
それにしても、あちこち行っているものだ。この男は。

「空気の匂いが違ってても、美味しいものって違うからね、おれはそこら辺研究するよ、楽しいもの」

一足先に食べ終わった晴美が、楽しいおもちゃで遊んでいるかのような顔で、そう締めくくった。
そして、思ってもみなかった事を、晴美は問いかけてきたのだ。


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