君と暮らす事になる365日

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たとえどんなにのそのそとしていて、のろのろと動いているように見えても、食事の用意は抜群に手際がいいものだ。
きっとこう言うギャップのような物に、色んな女性たちが落ちるのだろう。
依里は客観的に、脇で葱を切り、焼き豚を刻んで卵を溶く男を見やった。
ちなみに依里はさっさとお湯を沸かし、ごくごく普通の中華スープの素と乾燥わかめをマグカップに適当に入れて、これもまた適当にお湯を注いで、簡単即席わかめスープを作っている。
その間に晴美は抜群の早業で、チャーハンを作り上げているため、やっぱり本職は色々違うのだろう。
それとも、中学高校と、弟たちに

「お腹空いた、すぐご飯!」

と訴えられていた経験値の結果だろうか。きっとどっちもだ。
そんな事を考えつつ、依里はマグカップのわかめスープをテーブルに置こうとして、それをやんわりと晴美の、自分と比べるとずいぶん大きな手のひらに止められた。

「ヨリちゃん忘れ物」

「は?」

忘れ物、と言いつつ晴美はゴマを取り出し、ぱっぱと適量だろう量をマグカップに入れて、わかめスープを豪華にしている。

「ゴマくらい……」

「あるとないとでは大違い。なくても困らないけど、あった方が人生が楽しい物っていっぱいあるでしょ」

「わかめスープのゴマが、それなのか」

「そうそう。ヨリちゃんの人生に対するおれと一緒」

「なんか思いっきり違うんじゃあないか?」

「だってヨリちゃんの人生で、おれはいなくても困らないでしょ、でもいた方がご飯が豪華でしょ、それと一緒一緒」

晴美はたまに妙に卑屈な事を言う事があり、たぶんそんなスイッチが入っているのだろう。
それを察した依里は、マグカップを卓に置いてから、爪先立って晴美の頭を、わしわしと犬を撫でるような手つきで撫でまわした。

「ご飯がおいしくない人生とか、めちゃくちゃ困ると思うんだけど」

「! そっか、そうだね!」

晴美はその言葉を聞いたとたんに、華やかに嬉しそうに、とろけるように笑ったので、まあ卑屈のスイッチは切られた事だろう。そう、晴美は電池が切れて数日は、卑屈のス位ttが入りやすい男なのだ。
普段があほほど前向きで暢気なので、切り替えに慣れていないと、やっぱり扱いにくい男だと思われるものの、依里は経験値から、対応が楽なのだった。

「……同居人さん、ものすごく慣れてますね。僕たちが何年たっても出来ない事を、こうもやすやす」

そんなやり取りを見ていた林が、尊敬するような調子で言ったので、依里は答えた。

「人生の半分以上、一緒だったら扱い方も覚えますって」

「そうそう、ヨリちゃんの人生の半分よりたくさん、ヨリちゃんに面倒かけてるから」

「胸張ってどうする」

依里が突っ込むと、晴美は機嫌よさげにくふく笑い、卓に三人分の、皿はまったく別物の統一感の欠片もないチャーハンを盛り付け、依里はわかめスープを置いた。

「林君も冷めちゃうから早く早く!」

そういって急かす晴美を、やっぱり信じられないと言いたげに見た林は、しか漂う香ばしいチャーハンの香りには勝てなかったのか、椅子に座り、両手を合わせて

「いただきます!」

といって食べだして、一言も話さなくなった。
これも見慣れたものである。大体において、晴美の家庭料理を食べる人間は、美味しさのあまり無口になり、食べ終わるまで一言も会話しなくなるのだ。
晴美自体は、食事中の会話も好きなので、ある意味慣れている依里は相手をする事も多い。
しかし今日の晴美は相当空腹だったのか、いただきます声高らかに言ってから、依里の二倍はありそうな量のチャーハンを食べ始めて、一言も話さない。
依里は自分もチャーハンを食べて、それがお店の物以上にぱらっとしていて、米は全部が適度な油をまとい、口の中でうま味を感じさせながらほどけていく食感に、こいつホテルの副料理長だけど、でかい中華鍋を振り回しているんだろうか、と考えた。
具材はよくある中身で、葱に卵に焼き豚、そして何故か小松菜というチョイスである。
晴美の実家では、小松菜をたっぷりと育てていて、余剰が日常的に食卓に上り、何にでも入れていた結果だろう。晴美は弟たちに野菜を食べさせるために、あの手この手の工夫をやめなかった少年時代だったのだから。

「ヨリちゃん何点」

「百点」

「ふふ、二百点満点中でしょ」

「いや、百点満点中の百点」

皿の中身がほぼなくなってから、唐突に問いかけてきた晴美に対して、素直に言うと、それがうれしかったのか、晴美はまたご機嫌な顔で笑った。先ほどの電池切れで唸っていた布団の塊とは思えない雰囲気であった。

「ご馳走様でした!! やっぱり先輩の家庭料理はめちゃくちゃ美味しいです!! 何が違うんだろう、全て同じものをそろえても、これだけ美味しくならないのは」

「手のひらの大きさ?」

晴美は自分の、人より大きめな手のひらを見て言う。確かにあの手の一つまみと、他の人の一つまみは、多少の誤差がありそうだ。塩などは味を決定的に変えるものだから、その可能性も大きそうだった。
ついでに言うと、依里がちゃんと料理をする時は、大さじ小さじが使われる。その方がある意味楽だからだ。調味料の黄金比などを目分量で入れられないため、比率を守るためにそういう道具は必須である。
晴美の場合は全て目分量で済ませられるくらい、場数を踏んでいるのだろうが。
そして手のひらの大きさ、と言われて、自分の手を伸ばし、晴美の手のひらと比べて、明らかに違う大きさに、林が唸っている。

「確かに、一つまみの感じはずいぶん違いそうですね……でもグラムを同じにしても同じ味にならないミステリーは一体!?」

「それは火入れの時の感覚とかだと思う。おれ耳と鼻と湯気でいろいろ決めるし」

「もはや追いつけない領域にいるとしか思えなくなってきました……さて、先輩! 今日はお休みでいいですが、打ち合わせの資料はちゃんと読んでくださいね? 先輩自由人過ぎて、毎回動画撮影の時に放送事故が起きるんですよ」

「そんな事言ったって、部下たちの呼び出しは来るし、お客さんからの呼び出しも来るし、しょうがないじゃん」

「打ち合わせの資料を読んでもそうなるんですけどね、読まない時のあなたは軌道修正できないでしょうが!」

「再生回数いっぱいだからいいって、オーナーとか言ってたよ?」

「オーナーは良いでしょうよ。でも撮影班の必死さをおもんばかってください」

「はあい」

「さて、これが資料です。あなたのスマホ、あまりにも残念な仕様なので」

「いつもありがとうね、林君。今度のイギリス撮影は、ちゃんと美味しい所紹介するから!」

「……美味しいイギリス料理ってあるんですか?」

「クリームティーはたくさんお気に入りあるし、朝ごはんのフルは最強だし、カレーもおいしい所知ってるから大丈夫!」

林は鞄の中からファイルを取り出して晴美に手渡し、晴美はご機嫌で、林が帰るのを見送った。


「ああいった知り合いは大事にしろよ」

依里は資料をめくっている相手にそう言った。ああいった、心配してくれる知り合いは年を追うごとに貴重になるもので、大事にするべき相手でもある。

「大事にしてるよ、だから連絡手段は最後まで消さない事にしてある」

資料を読みながら言う答えは、まあまあ大丈夫そうだったので、依里はいつのまにやら食器類が片付けられているその、手際の良さに改めて、本職の料理人はすごいと感心しつつ、二度寝を決めるべく部屋に戻っていった。





それからしばらく、晴美の奴は忙しそうに何やら連絡を行ったり、深夜にベランダに出て電話なんかをしたり、依里との連絡手段の中で、

「打ち合わせで時間かかっちゃうから、ごめんね、冷蔵庫の作り置きとか食べてて!」

という事を言いがちになった。依里としては作り置きだろうが何だろうが、自宅に帰って何もないという事がないため、不愉快に思う事もない。ご飯は炊飯器で炊けばいい。味噌汁は、山のように晴美が冷凍庫に仕込んでいる味噌玉をとかせば、インスタントレベルの手軽さで食べられる。
そしてそんなにも忙しいのならば、作ってもらっている弁当も負担ではないか、と思って、朝早くから弁当をせっせせっせと四人分も作っている奴に問うと、

「やだなあ、おれの準備運動とらないでよ」

と、いつぞやも聞いたような返答が返ってくるわけで、それに対して彼女は

「無理なら無理ってはっきり言うんだぞ、お前も私に遠慮しなくっていいんだから」

大人になったのだ、遠慮をしたり気遣いをしたりしているかもしれないと思って、一応言葉に出しておいた。だが。晴美はにまっと笑ってこう言ったのだ。そして

「やーだ、ヨリちゃんおれがヨリちゃんに遠慮してると思ってる?」

「する時もあるだろ」

「ふふふ、大丈夫、大丈夫」

というやりとりが行われ、何がうれしかったのか、至極ご機嫌な顔で出汁巻き卵をひっくり返す晴美、という人間を見る事になったのだった。
そして依里はいつも通り、弁当を四人分持って、いつも通りの時間に出社したのであった。
まさかあんな事が自分の身に降りかかって来る事になろうとは、全く思ってもいなかったので。


「環さん、環さん!」

そう言って話しかけてきたのは明石で、彼女は興奮した調子でこう言う。

「うちの親会社の社長令嬢さんが、あなたを探してたのよ! あなた一体何したの?」

親会社の社長令嬢さん。誰か分からなかった物の、その女性の名前を聞き、依里は何か面倒な事が始まるな、とうっすら感じた。
というのもその社長令嬢さんは、あの水葉さんなのである。
お忘れの人がいるかもしれないが、晴美に片思いというか、ほのかな恋心と言うべきか、そんな物を抱いている綺麗なお嬢さんである。
彼女が自分に話がある、と探しているなら十中八九、大鷺晴美関連の事だろう。
もしかしたら人を使って調べていて、自分があの幼馴染と同居している事実が知られたのかもしれない。
別段疚しい事は何もないし、色っぽい展開はまったくと言っていいほど存在しないし、単なる幼馴染の気やすい同居なのであるが、世間様から見て男女の生活は同棲とか言われがちである。
そのため、恋を応援するというか、関わらないと言っていた依里が、晴美と暮らしているのを酷い裏切りだと思って、何かしら言いに来たとしても、それはありえない話ではなかった。

「……何なんでしょうね」

そんな事を頭の中で巡らせながらも、思い当たらないという風に答えると、そうよね、と明石は頷いて仕事に戻って行った。
そして依里はというと、親会社の社長令嬢という、とんでもなく上の立場のお嬢様のお呼出という事も有って、使われていない会議室に、行く事になってしまったのであった。



「お久しぶりです、お変わりありませんか」

会議室で待っていたのは水葉令嬢一人で、彼女は堅い顔つきで依里を見ている。
そのため物柔らかな物腰で、当たり障りのない事を口にすると、水葉はこう言った。

「環さん……彼と何にもないって言ってましたよね」

「ええ、幼馴染であるとお話しました」

「じゃあ、じゃあなんで……」

感情を御しきれない、という調子で水葉は声を震わせて、はっきりとした言葉で、依里を非難した。

「私が大鷺晴美さんを好きだとご存知なのに、彼と同棲しているんですか!」

「家のない彼が押しかけてきたからですが」

「はい?」

水葉はおそらく前の住居にいた依里を頼って、晴美が押しかけてきた事を知らないのである。
そこから説明を行えば、同棲という不名誉な疑惑は晴れるに違いないと判断し、依里はざっくりと、現在に至る事になった経緯を説明した。
まさか水葉は、自分の片思いの相手が、他の女性のキープ君にされて、それが判明した後同棲していた家を追い出されて、結果気心の知れた幼馴染の家に転がり込み、今に至るとは思っても皆方様子だ。
口をかすかに開けて思考回路が止まったという調子になっているので、ここは一気に畳みかければ納得させられるかも、と依里はさらに

「一人で暮らす事が出来ない、生活能力の一部に問題がある自覚がある幼馴染が、円滑に日常生活を送るために、頼みやすい相手に頼み込んできた結果である」

という現実を説明した。

「……あの、では……大鷺さんは、一人暮らしが出来ない方なんですか?」

「残念ながら水道料金を支払い忘れて、電気だの水道だのを止められかねない男です、非常に残念ですが」

「働いていらっしゃいますし、収入はありますよね……?」

「収入がある事と、きちんと光熱費を銀行に振り込める事は違うんですよ……」

何でこんな事を、水葉さんに暴露せねばならないのだ。そんな事を思いつつ、依里は続けた。

「彼は天才的に特化した部分と、凡人が普通に行える事すら行えない残念な部分が両立している男なんです。彼の弟たちから聞いた事の中には、まあ、色々ありましたし」

「……つまり環さんは……その……喜んで彼と暮らしている、というわけではないんですね?」

「ご飯が毎回美味しいので、多少の問題には目をつぶったりこちらで対処してもいいかな、と思うくらいには肯定的ではあります」

「……あの、もしも、もしもですが」

水葉は遠慮がちに口を開き、とある申し出を依里にした。それを聞き、依里はこう答えた。

「大鷺晴美が動く気になったら、それも可能でしょうね」

「環さんは説得してくださらない?」

「他人の説得で言う事を聞く男だったら、彼の仕事先の上司やオーナーたちはもっと御するのに苦労してないと思います」

水葉は納得した調子で、ではこちらでも動いてみます、といった後こう言った。

「私の邪魔だけはしないでくださいね」

「したいとは思いません。ただ、何かしらの行動が、邪魔な結果になる事も有りますので、そのあたりは大目に見てください」

そうしてとある約束が依里と水葉の間に交わされ、一気に疲労に襲われながらも、依里は仕事に戻ったのであった。
お嬢様の水葉との会話の中身を、それとなく詮索されたものの、適当に受け流し、その適当さから皆興味を失ったので、詳しい事を説明する面倒くささがなくなったため、依里はその日も仕事に没頭したのだった。
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