【本編完結】海辺の街のリバイアサン ~わたせなかったプロポーズリングの行方~

礼(ゆき)

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第四章 人魚姫

30.

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 アンリと過ごした最後の夜をタイラーは思い出す。

 待ち合わたカフェでショートサイズのコーヒーを注文し、窓際へ向かう。丸いテーブル席に座り、リングが納められた小箱を握る。蓋の開け閉めを繰り返し、愛しい女性ひとを待っていた。
 言い出せないプロポーズにやきもきし、時間だけを食いつぶす。

 好奇心を原動力に、仕事に精力的に取り組むアンリに引き目を感じていた。
 アンリが好まないからという理由で一線を引いていた。
 理由を彼女のせいにすることで、本心から逃げていた。

 どうせ、俺なんか……といういじけていたことを自分からさえも目くらまししていたのだ。

 臆病で、意気地なしな過去の自分を、タイラーは『考え過ぎだ。愚か者』と一蹴したい。

 躊躇しすぎであり、お互いの将来についてさりげなく事前にほのめかしてもいない。聞きもしないで悩んでも、杞憂に終わる。臆病が高じて切り出せないなど、愚かとしか評しようがない。

 額に汗して駆け寄ってくる女性を、抱きとめられない。
 それほど自信がなかった。
 そもそも自信をつける行動が足りていない。

 劣等感を抱いても、嫉妬もできない。
 少し高いところにいる女を理由も分からず手にして、捨てられないかとビクビクしていた。
 彼女を失えば、人に誇れるものなどなにもなくなってしまうと錯覚していた。

 努力していない男が、そもそもなにをはなはだしく誇るというのか。

 甘えることを好まない。劣等感が不安や恐れとなり、そんな虚像を彼女にうつし見て、引け目から遠慮がちに接していれば、甘えたくても甘えられないのは至極当然だ。結果として彼女に寂しい思いをさせてしまった。

「ごめん。俺が悪い」

 申し訳なさが沸きたち、謝罪がこぼれる。
 アンリがきょとんとする。

「なにを謝るの」
「いや、俺が悪かったなと思って……」

 複雑な表情で、タイラーは歪に笑う。右と左の顔がアンバランスに崩れていた。

「寂しかったよ。君がいなくて……」
「それこそ、私が謝ることでしょう」

 悲し気にアンリが頬に触れる。
 タイラーは首を左右に振った。

「あの時、俺は君の家族じゃなかった。遺品を受け取るような立場にいなかった。アンリの死を真っ先に悲しみ、嘆く立場にいなかった。
 俺に残されたのは、二人の思い出と、心の中に残された君の姿だけだったんだ」

 アンリを失い日常が瓦解した。夜の時間が急に寂しくなった。時間と心の空白を埋めるため、彼女の心象と同化した理想像にがむしゃらに手を伸ばした。
 研鑽を持って理想が顕在化していく。結果が出始める、やっとアンリを身近に感じることができた。

「俺、けっこう頑張ったんだ。君がいなくなって、ぽっかり空いた穴を埋めるために……。君のように仕事に情熱をかけた。営業成績一位になるまで一年かかったけど、シーザーと出会って飛躍して、一位の常連にまでなれたよ」

 理想が現実化し、心象のアンリはタイラーに取り込まれる。
 
「君に押し付けていた理想像を俺は手繰り寄せた。
 ごめんよ。重かっただろう。寄りかかれなかっただろう。
 俺が君にもたれかかるばかりで……。
 俺は、アンリを失って、やっと自分で進み出した。
 アンリに重ね見て、追いかけようともしなかった自分のありたい姿へと成長したんだ」

 そんな旅の果てに、もう一度、アンリと出会い、その恋が実るとは思わなかった。

「もう一度、君を愛せるとは思わなかった」
「私もあなたに、もう一度、愛してもらえるとは思わなかった」

 あらためて、アンリの容姿をまじまじと見つめた。この数日ソニアと呼び慣れた二十歳そこそこの少女がいる。髪は長く、肌も白く瑞々しい。背格好は似ていても、髪色、瞳の色、年齢が違えば別人としかとらえれない。
 そもそも、人間が若返るなどありえないはずだ。

「分からないことだらけだ。なぜその髪色で、君は若返っているんだ。どうして、アンリだと自覚していながら、記憶を失ったソニアという少女のふりをしていた。
 家族も心配していたのに、どうして帰ってこなかった」

「いっぺんに言われても、私もどこから話したらいいのか分からないわ」

 戸惑いながら、アンリはタイラーの胸に手を押し当て、突き放す。密着していた互いの体に距離がおかれる。

「これだけ、姿が違うのよ。帰れるわけないじゃない」

 降りそそぐ月明かりが水面に反射して、黄みがかった光の粒子が彼女の周囲にただよう。白いワンピースを着た、青い髪の少女は、幻想的な妖精のようにたたずむ。その細い指先を胸に押し当て、悲し気にほほ笑む。

「しばらく混乱してて、記憶もあいまいで、あまり思い出せなかったのよ。記憶がすっかりつながった時には、事故からすでに数か月経過していたの」

「そうだったのか……」

 矢継ぎ早に問いを投げて、配慮が足りなかったとタイラーは恥じた。

「いいのよ。みんな私のことは死んだと思っていたはずよ。そこにのこのこ現れたらどうなると思う」

 アンリはおどけて、肩をすくめる。

「この姿で突然現れて、アンリと名乗るのよ。ふざけるなと怒られそうじゃない」

 タイラーも今しがたまで気づかなかった。
 突然、色味も年齢も違う少女があらわれて、アンリだと言っても、悪ふざけにしかとらえられないだろう。彼女の言い分も一理ある。

 アンリが一歩二歩後退し、足首まで海水につかる。
 タイラーは洞窟を背景に浮かび上がる幻惑的な少女の姿に魅入る。
 あまりの風景と溶け込む美しさに、金縛りにあったように動けなくなった。胸騒ぎがわき上がってくる。

「ロビンも置いていけなかったの。あの子の力になれるなら力になりたかったの。あの子が気兼ねなく一緒に居れるのが私だけだったから離れられなかった」
「戻れないだけの事情も、ロビンを心配しているのもよくわかるよ。ソニアとして傍にいる時、君は心底ロビンを心配していた」
「ごめんなさいタイラー。私たち、賭けていたの。
 もう一度、あなたが私を見つけてくれることを……。
 あなたに見つけてもらえたら、私はあなたの元へ帰れると思ったのよ」
「俺は君を見つけた。一緒に帰れるだろう」

 ソニアがふるふると首を横に振った。

「お願いがあるの。ロビンを連れてきてほしい」
「ロビンを、どこに?」
「海の上がいい」
「海の上?」
「海で待っている」
「待っているって……」

 アンリの語る意味がわからない。タイラーの気が急く。

「不死伝説は嘘よ。竜の肉を食べても、不死にはならない」
「それはそうだ。今さら確認するまでもないだろう」

「でもね、伝承はあるのよ」
「おばあさんが話していた、人魚姫のことだろ」

「ここは海に潜る伝統漁があり、その漁ではもっぱら女性が海へと潜るのよ。彼女たちはおのずと身近にリバイアサンと出会うことがあったと考えられるわ」
 
 高台から下る時にすれ違った女性の一団を思い出す。

「リバイアサンはこの入江に産卵のために来ていたの。
 この島の周囲、特に海側の海底にはリバイアサンの卵がたくさん産みつけられる産卵場所なのよ。産卵後に命を絶つ魚もいるでしょう。同じよ。産み終わったリバイアサンもまた体力が著しく落ちているの。
 そんな弱り切ったリバイアサンの前に人間があらわれる。

 どんな偶然から共生が生まれたかまでは分からない。ただそこに伝承があり、生き証人がいるだけ……。私も、坂をのぼる途中で見た少女も、あのおばあさんも……。

 人魚姫と呼ばれる、青い髪の女の子たちはね。リバイアサンと同化した女性達なのよ」
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