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決断
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独り暮らしを始めて1ヶ月が経った。
敬子は今まで独り暮らしをしたことが無かった。実家にいた時は両親と弟たちが一緒、結婚後は夫や子供が常にいた。何もかも新しい経験。
家にいるときは自分の食べたいときに食事の支度をすればいいし、眠くなったら寝ることができる。決して豊かではないけど、自分のために使える時間がたっぷりある。一生手に入れることができないものだと思って生きてきた。 考えてみれば、今まで自分で決めて行動したことなんてほとんどなかった。高校は田舎で選択肢はほぼなかったし、就職先も結婚相手も全て親が決めてきた。結婚したら全て夫の言いなり。私は「籠の鳥」だった。
今はまだ無理だけど、もう少しお金が貯まったら運転免許を取ろう。一人で生きていくにはそれくらいやらないと。
今までは地味な服しか着たことが無かった敬子だったが、季節が変わったのをきっかけに、花柄や派手な色合いの服を買ってみた。これが結構お似合いのようで、周りからもそう言われる。。今までの自分は猫を被っていたのだと改めて意識する。
私は生まれ変わったのだ。戦前の昭和15年生まれの慶子から戦後生まれの敬子に。夫や子供たちもきっとどこかでそれぞれ生きてるだろう。
敬子は時計を見た。そろそろ出勤の時間だ。今日は毎週楽しみにしている歌の日でもある。
自転車を漕ぎながら歌を歌う。病院までの道は田園地帯だから誰にも迷惑を掛けることはない。松田聖子の「赤いスイートピー」。昭和50年には無かった歌だけど。
あのまま昭和にいたら私はもう76か。同級生の半分くらいは亡くなったかもしれない。
病院に着いた。このまま続けるのなら看護婦の資格を取った方がいいのだろうけど、費用や時間を考えると難しい。何より向いていないと思う。看護助手をいつまで続けられるか分からないけど、あまり先のことを考えても仕方がないか。
歌の会が終わって、仕事に戻ろうとした時のこと。
細田が声をかけてきた。
「仕事が終わったらちょっとよろしいですか。お話したいことがあるのですけど。院内の食堂で待っています」
思い当たることは無かった。
勤務が終わって行ってみると、既に細田が待っていた。
向かい側に座り、レモンティーを注文する。
「今から申し上げるのは本気ですので、そのつもりで聞いていただきたいのですが」
「何でしょうか」
「思い切って言います。私と結婚を前提にお付き合いしていただけないでしょうか」
思いがけない言葉だった。返事をしようにも、頭の中が混乱している。
「夏野さんは栗山の方がお好きなんですか?もしそうなら諦めます。そうでないなら、考えてみていただきたいのです」
「もちろん、すぐに返事は求めません。いつまでも待ちます。他の人にも話していませんから、来週も気にすることなく歌の会にも参加してください」
言葉が出ない。
「ごめんなさい。でも、本気です。要件はそれだけです。私、もう帰りますね」
敬子の分も払って帰って行った。
冷静になって考えることができるようになるまで、しばらくかかった。
私が「記憶喪失」であることは、歌の会に初めて参加した時に栗山から紹介されて知っているはず。当然、私が実は既婚者で子供もいるという可能性もあることまで承知の上なのだろうか。もちろん事実はその通りなのだけど。無論その家族が21年も前の過去にいる(いた?)ということは想像もできないだろう。
家族にはどう紹介するつもりだろう。
「記憶喪失の女性と結婚したい」。私が親だったら絶対に認めないと思う。次回会った時にきちんと話をしなければ。
栗山と中学の同級生だと言っていた。二人の年齢は聞いていないけど、恐らく歩や泰代と同じくらいか、少し上くらいだろう。ということは、本来なら私は母親と言ってもおかしくない齢のはず。
翌日から、敬子の頭からはそのことが離れなかった。仕事はきちんとこなしていたものの、様子がおかしいことは周囲からも分かったらしい。
「夏野さん、なんか様子が変よ。何かあったの?」
「ええ、ちょっと」
「私たちでできることなら、いつでも相談に乗るからね」
そうは言っても、結局自分で決めなければならないことは分かっている。誰かに話したりしたら、たちまち病院中の噂になるだろうから絶対にできない。
次の「歌の会」が終わると、誰にも気づかれないようにこっそりとメモ書きを細田に渡した。
「仕事が終わったら、職員用駐車場の前で待っています」
と書いてあった。敬子のように近くに住んでいる人は別にして、駅から離れていることもあって自動車で来ている者が多い。
帰り支度をして駐車場に行くと、細田が待っていた。幸い、病院職員は誰もいない。
ここで話をすると誰に見られるか分からないので、近くの喫茶店に入る。幸い職員も来ていない。出入口が見える位置に席を取る。
「このあいだの話なのですけど」
「お言葉は本当にうれしいのですが、お断りします。ご存知の通り、私はどこの誰とも分からない記憶喪失の女です。大学で教えるあなたが、そんな女と結婚したいなどとご両親が知ったら、どんなに悲しむでしょう。たとえ言葉には出さなくても、「変な女に引っかかって」と思われながら生きていくのはつらいです。あなたにはきっといい女性が現れます。私のことなど忘れてください」
黙って静かに聞いていた細田が口を開いた。
「そんなことを気にされていたのですか。私の家族にそんなことを言う者はいません。あなたを紹介したら、「やっと彼女を連れて来てくれた」と大喜びすることでしょう。父は戦後満州からの引揚者で、母はそこそこ裕福なうちの生まれだったけど、戦後苦労して生きてきた人です。あなたの素性とかどうでもいいのです。あなたはあなたなのですから。
私と一緒になったとして、その後あなたの記憶が戻って、前の御家族の元に戻りたいというのであれば、その時はいつでもおっしゃってください。私にとってあなたが幸せになってくれることが最大の喜びです」
「失礼ですが、細田様やご両親はおいくつなんですか?」
「私ですか?昭和38年生まれの33歳です。父は昭和9年生まれの62歳、母は13年生まれの58歳です」
私より若い。今の歩や泰代と2歳しか違わない。父親は夫と同じ年の生まれ、母親も私と2歳上なだけだ。本来なら私の息子でもおかしくない。
「私は35です。記憶喪失の上、年齢も上。そんな女で本当にいいのですか?」
「記憶喪失ということは、本当の年齢は分からないわけですよね。実際には私と同じかもしれないし、下かもしれない。でも、そんなことはどうでもいいです。年齢にこだわるなんてつまらないことだと思いませんか?」
敬子が結婚したころにはそうではなかった。友人や親類を見回しても、年下男性と結婚した人は皆無。
「わかりました。とにかくご家族にお会いしましょう。どちらにお住まいなんですか?」
「車で30分くらいのところですよ。何だったら今から行きますか?」
そこまで覚悟はしていなかった。今行っても何を話したらいいやら想像がつかない。
「いえ、いいです。また今度」
敬子は次の週から、仕事終わりに会うようになった。歌の会もそうだけど、細田に会うのもワクワクする。こんな気分になったのは何十年ぶりだろうか。初めてのデートを思い出す。
細田のフルネームも知った。「友(ゆう)」というのだそうだ。
1か月後、決断した。この世界で生きていく以上、私にだって幸せになる権利があるはず。
「私決めました。今度ご家族にお会いします。私みたいな女でよければ、一緒になりたいです」
言ってしまった。ここまで来たらもはや引き返せない。
「ありがとうございます。家族に紹介したいので、今から一緒に来てもらえませんか?」
「はい」
「では、連絡をしておきますね」
細田は公衆電話に向かった。カードを挿し込んでいるのが今でも目新しい。昭和にいた時は10円玉をいくつも用意しながらで大変だったのを思い出す。
「両親とも家に居ました。あなたを連れてくることも話しておきましたので。では、どうぞ」
細田のクルマに乗り込んだ。
敬子は免許を持っていないこともあり、あまり車に詳しくないけど、昭和にいた時に夫が乗っていたのとはかなり様子が違う。シートベルトは夫のクルマにもついてはいたけど、使っているのなんて見たことは無かった。細田は当たり前のように装着したので、敬子も同じようにする。この世界に来た日、パトカーのリアシートに乗せられたときは着用を促されたりはしなかった。
「この時間は混むので、裏道を通りますね」
しばらくすると、見た記憶のある風景が目に入ってきた。様子はだいぶ変わっているけど、昭和50年に住んでいた近所に間違いない。
(もうすぐ前を通るはず)
当時は車がすれ違うのも難しいほど狭い道だった。だいぶ拡幅されたようだ。
(確かここ)
昭和にいた時住んでいた家の前を通る。どうやら建て直されたよう。住宅地の中の道路でそれほど速度を出していないので、表札も見える。やはり別の姓になっていた。
(どこかに引っ越して行ったのね)
かえってさっぱりした。この近くに住んでいたらどこかでぱったり顔を合わせないとも限らない。21歳も若ければ「慶子」と思われることは無いにしても、「似たような人を見た」と大騒ぎされない保証もないし。
大きな道路に出た。昭和50年当時は無かった道路。計画は聞いたことがあったが、完成したらしい。道路の予定地に住んでいた知り合いも何家族かいたが、やはりどこかに引っ越して行ったのだろう。
その道を10分ほど走行して細田が話しかけてきた。
「もうすぐです。そんなに緊張しなくて大丈夫ですから」
どうやら、病院や敬子の元住んでいた家と同じ市内のようだ。
敬子の様子が気になったらしい。敬子には見知った人でないかだけが気になっていた。「細田」という知り合いは思い出せないが、忘れている可能性もあるし。当時の家の近くではないと言っても、21年前に住んでいたのと同じ市内だから、全く無いとは言い切れない。その場合でも忘れているようならありがたいが。
一軒家の前に止まった。
「着きました。ここです」
そこは新興住宅地の一角にあった。敬子がいた1975年には畑だった所。その後引っ越してきたのなら知り合いではない可能性が高い。少しほっとした。
「ただいま」
両親はどんな人だろうか。まさか知り合いではないと思うが、
「どこかでお会いしましたっけ」
などと言われないか、それだけが気になった。別な字に変えたとはいえ、同じ「けいこ」だから、昔の知り合いだったら思い出させないとも限らない。最悪白を切ってしまえばいいことだけれど。
「いらっしゃい。どうぞおあがりください」
出てきたのは品のいい熟年夫婦だった。記憶を探ってみるが、似たような知り合いはいない。
(よかった。知っている人じゃなかったみたい)
「この子がこんなきれいな女性を家に連れてくるとはねえ。本当にうれしいです」
(そんなこと言われたの、初めてです。前の夫からも言われたことないし)
そう言いたいのを必死で堪える。私は「記憶喪失」の身。
「息子から、記憶を失くされていることは聞きました。ご両親はさぞ心配なさっているでしょう。お気の毒に」
心配していたとしても、21年も前の話。心配していたのならまだましだが、「3人の子供を残して失踪したとんでもない娘」という烙印を押されている可能性も高い。
確か今年母は79、父は86のはず。両親ともまだ生存している可能性も高いが、こっそり見に行くことさえ恐ろしい。
「もう諦めました。友さんと一緒に新しい人生を前を向いていきたいと思っております」
「そうですか。親としてはそう言っていただけると嬉しいですが、もし記憶が戻ったら、その時は御遠慮なくおっしゃってくださいね。もしかしたら幸せな家庭を持っておられたのかもしれないですよ」
幸せな家庭・・・・・。人それぞれ考え方はあるのだろうけど、「慶子」の時にはそう思ったことはほとんどなかった。亭主関白、独裁者の夫の下で常に不満ばかり持っていた気がする。
「もし、友さんとの結婚後に私の記憶が戻ったとしても、友さんとの生活を優先すると思います。いなくなって2ヶ月も経っているのに私の元に捜索の情報が無いということは、私などいなくてもいい存在だったのかもしれません。どこかから逃げ出してきたのかもしれません。記憶が戻ったとしても、いい思い出など無さそうな気がしてならないのです」
友の両親の瞳に同情の涙が浮かんだ。作り話で泣かせてしまって気まずかったが、本当のことを言うわけにはいかないのだからやむを得ない。
「では、敬子さんは息子と結婚してくださるつもりなのですね?」
ここまで来たら覚悟はできている。
「はい。友さんがその気があるのでしたら、ぜひお願いします」
私は生まれ変わったんだ。21年後のこの平成の世界で、敬子として生きていく。友さんと一緒に。
敬子は今まで独り暮らしをしたことが無かった。実家にいた時は両親と弟たちが一緒、結婚後は夫や子供が常にいた。何もかも新しい経験。
家にいるときは自分の食べたいときに食事の支度をすればいいし、眠くなったら寝ることができる。決して豊かではないけど、自分のために使える時間がたっぷりある。一生手に入れることができないものだと思って生きてきた。 考えてみれば、今まで自分で決めて行動したことなんてほとんどなかった。高校は田舎で選択肢はほぼなかったし、就職先も結婚相手も全て親が決めてきた。結婚したら全て夫の言いなり。私は「籠の鳥」だった。
今はまだ無理だけど、もう少しお金が貯まったら運転免許を取ろう。一人で生きていくにはそれくらいやらないと。
今までは地味な服しか着たことが無かった敬子だったが、季節が変わったのをきっかけに、花柄や派手な色合いの服を買ってみた。これが結構お似合いのようで、周りからもそう言われる。。今までの自分は猫を被っていたのだと改めて意識する。
私は生まれ変わったのだ。戦前の昭和15年生まれの慶子から戦後生まれの敬子に。夫や子供たちもきっとどこかでそれぞれ生きてるだろう。
敬子は時計を見た。そろそろ出勤の時間だ。今日は毎週楽しみにしている歌の日でもある。
自転車を漕ぎながら歌を歌う。病院までの道は田園地帯だから誰にも迷惑を掛けることはない。松田聖子の「赤いスイートピー」。昭和50年には無かった歌だけど。
あのまま昭和にいたら私はもう76か。同級生の半分くらいは亡くなったかもしれない。
病院に着いた。このまま続けるのなら看護婦の資格を取った方がいいのだろうけど、費用や時間を考えると難しい。何より向いていないと思う。看護助手をいつまで続けられるか分からないけど、あまり先のことを考えても仕方がないか。
歌の会が終わって、仕事に戻ろうとした時のこと。
細田が声をかけてきた。
「仕事が終わったらちょっとよろしいですか。お話したいことがあるのですけど。院内の食堂で待っています」
思い当たることは無かった。
勤務が終わって行ってみると、既に細田が待っていた。
向かい側に座り、レモンティーを注文する。
「今から申し上げるのは本気ですので、そのつもりで聞いていただきたいのですが」
「何でしょうか」
「思い切って言います。私と結婚を前提にお付き合いしていただけないでしょうか」
思いがけない言葉だった。返事をしようにも、頭の中が混乱している。
「夏野さんは栗山の方がお好きなんですか?もしそうなら諦めます。そうでないなら、考えてみていただきたいのです」
「もちろん、すぐに返事は求めません。いつまでも待ちます。他の人にも話していませんから、来週も気にすることなく歌の会にも参加してください」
言葉が出ない。
「ごめんなさい。でも、本気です。要件はそれだけです。私、もう帰りますね」
敬子の分も払って帰って行った。
冷静になって考えることができるようになるまで、しばらくかかった。
私が「記憶喪失」であることは、歌の会に初めて参加した時に栗山から紹介されて知っているはず。当然、私が実は既婚者で子供もいるという可能性もあることまで承知の上なのだろうか。もちろん事実はその通りなのだけど。無論その家族が21年も前の過去にいる(いた?)ということは想像もできないだろう。
家族にはどう紹介するつもりだろう。
「記憶喪失の女性と結婚したい」。私が親だったら絶対に認めないと思う。次回会った時にきちんと話をしなければ。
栗山と中学の同級生だと言っていた。二人の年齢は聞いていないけど、恐らく歩や泰代と同じくらいか、少し上くらいだろう。ということは、本来なら私は母親と言ってもおかしくない齢のはず。
翌日から、敬子の頭からはそのことが離れなかった。仕事はきちんとこなしていたものの、様子がおかしいことは周囲からも分かったらしい。
「夏野さん、なんか様子が変よ。何かあったの?」
「ええ、ちょっと」
「私たちでできることなら、いつでも相談に乗るからね」
そうは言っても、結局自分で決めなければならないことは分かっている。誰かに話したりしたら、たちまち病院中の噂になるだろうから絶対にできない。
次の「歌の会」が終わると、誰にも気づかれないようにこっそりとメモ書きを細田に渡した。
「仕事が終わったら、職員用駐車場の前で待っています」
と書いてあった。敬子のように近くに住んでいる人は別にして、駅から離れていることもあって自動車で来ている者が多い。
帰り支度をして駐車場に行くと、細田が待っていた。幸い、病院職員は誰もいない。
ここで話をすると誰に見られるか分からないので、近くの喫茶店に入る。幸い職員も来ていない。出入口が見える位置に席を取る。
「このあいだの話なのですけど」
「お言葉は本当にうれしいのですが、お断りします。ご存知の通り、私はどこの誰とも分からない記憶喪失の女です。大学で教えるあなたが、そんな女と結婚したいなどとご両親が知ったら、どんなに悲しむでしょう。たとえ言葉には出さなくても、「変な女に引っかかって」と思われながら生きていくのはつらいです。あなたにはきっといい女性が現れます。私のことなど忘れてください」
黙って静かに聞いていた細田が口を開いた。
「そんなことを気にされていたのですか。私の家族にそんなことを言う者はいません。あなたを紹介したら、「やっと彼女を連れて来てくれた」と大喜びすることでしょう。父は戦後満州からの引揚者で、母はそこそこ裕福なうちの生まれだったけど、戦後苦労して生きてきた人です。あなたの素性とかどうでもいいのです。あなたはあなたなのですから。
私と一緒になったとして、その後あなたの記憶が戻って、前の御家族の元に戻りたいというのであれば、その時はいつでもおっしゃってください。私にとってあなたが幸せになってくれることが最大の喜びです」
「失礼ですが、細田様やご両親はおいくつなんですか?」
「私ですか?昭和38年生まれの33歳です。父は昭和9年生まれの62歳、母は13年生まれの58歳です」
私より若い。今の歩や泰代と2歳しか違わない。父親は夫と同じ年の生まれ、母親も私と2歳上なだけだ。本来なら私の息子でもおかしくない。
「私は35です。記憶喪失の上、年齢も上。そんな女で本当にいいのですか?」
「記憶喪失ということは、本当の年齢は分からないわけですよね。実際には私と同じかもしれないし、下かもしれない。でも、そんなことはどうでもいいです。年齢にこだわるなんてつまらないことだと思いませんか?」
敬子が結婚したころにはそうではなかった。友人や親類を見回しても、年下男性と結婚した人は皆無。
「わかりました。とにかくご家族にお会いしましょう。どちらにお住まいなんですか?」
「車で30分くらいのところですよ。何だったら今から行きますか?」
そこまで覚悟はしていなかった。今行っても何を話したらいいやら想像がつかない。
「いえ、いいです。また今度」
敬子は次の週から、仕事終わりに会うようになった。歌の会もそうだけど、細田に会うのもワクワクする。こんな気分になったのは何十年ぶりだろうか。初めてのデートを思い出す。
細田のフルネームも知った。「友(ゆう)」というのだそうだ。
1か月後、決断した。この世界で生きていく以上、私にだって幸せになる権利があるはず。
「私決めました。今度ご家族にお会いします。私みたいな女でよければ、一緒になりたいです」
言ってしまった。ここまで来たらもはや引き返せない。
「ありがとうございます。家族に紹介したいので、今から一緒に来てもらえませんか?」
「はい」
「では、連絡をしておきますね」
細田は公衆電話に向かった。カードを挿し込んでいるのが今でも目新しい。昭和にいた時は10円玉をいくつも用意しながらで大変だったのを思い出す。
「両親とも家に居ました。あなたを連れてくることも話しておきましたので。では、どうぞ」
細田のクルマに乗り込んだ。
敬子は免許を持っていないこともあり、あまり車に詳しくないけど、昭和にいた時に夫が乗っていたのとはかなり様子が違う。シートベルトは夫のクルマにもついてはいたけど、使っているのなんて見たことは無かった。細田は当たり前のように装着したので、敬子も同じようにする。この世界に来た日、パトカーのリアシートに乗せられたときは着用を促されたりはしなかった。
「この時間は混むので、裏道を通りますね」
しばらくすると、見た記憶のある風景が目に入ってきた。様子はだいぶ変わっているけど、昭和50年に住んでいた近所に間違いない。
(もうすぐ前を通るはず)
当時は車がすれ違うのも難しいほど狭い道だった。だいぶ拡幅されたようだ。
(確かここ)
昭和にいた時住んでいた家の前を通る。どうやら建て直されたよう。住宅地の中の道路でそれほど速度を出していないので、表札も見える。やはり別の姓になっていた。
(どこかに引っ越して行ったのね)
かえってさっぱりした。この近くに住んでいたらどこかでぱったり顔を合わせないとも限らない。21歳も若ければ「慶子」と思われることは無いにしても、「似たような人を見た」と大騒ぎされない保証もないし。
大きな道路に出た。昭和50年当時は無かった道路。計画は聞いたことがあったが、完成したらしい。道路の予定地に住んでいた知り合いも何家族かいたが、やはりどこかに引っ越して行ったのだろう。
その道を10分ほど走行して細田が話しかけてきた。
「もうすぐです。そんなに緊張しなくて大丈夫ですから」
どうやら、病院や敬子の元住んでいた家と同じ市内のようだ。
敬子の様子が気になったらしい。敬子には見知った人でないかだけが気になっていた。「細田」という知り合いは思い出せないが、忘れている可能性もあるし。当時の家の近くではないと言っても、21年前に住んでいたのと同じ市内だから、全く無いとは言い切れない。その場合でも忘れているようならありがたいが。
一軒家の前に止まった。
「着きました。ここです」
そこは新興住宅地の一角にあった。敬子がいた1975年には畑だった所。その後引っ越してきたのなら知り合いではない可能性が高い。少しほっとした。
「ただいま」
両親はどんな人だろうか。まさか知り合いではないと思うが、
「どこかでお会いしましたっけ」
などと言われないか、それだけが気になった。別な字に変えたとはいえ、同じ「けいこ」だから、昔の知り合いだったら思い出させないとも限らない。最悪白を切ってしまえばいいことだけれど。
「いらっしゃい。どうぞおあがりください」
出てきたのは品のいい熟年夫婦だった。記憶を探ってみるが、似たような知り合いはいない。
(よかった。知っている人じゃなかったみたい)
「この子がこんなきれいな女性を家に連れてくるとはねえ。本当にうれしいです」
(そんなこと言われたの、初めてです。前の夫からも言われたことないし)
そう言いたいのを必死で堪える。私は「記憶喪失」の身。
「息子から、記憶を失くされていることは聞きました。ご両親はさぞ心配なさっているでしょう。お気の毒に」
心配していたとしても、21年も前の話。心配していたのならまだましだが、「3人の子供を残して失踪したとんでもない娘」という烙印を押されている可能性も高い。
確か今年母は79、父は86のはず。両親ともまだ生存している可能性も高いが、こっそり見に行くことさえ恐ろしい。
「もう諦めました。友さんと一緒に新しい人生を前を向いていきたいと思っております」
「そうですか。親としてはそう言っていただけると嬉しいですが、もし記憶が戻ったら、その時は御遠慮なくおっしゃってくださいね。もしかしたら幸せな家庭を持っておられたのかもしれないですよ」
幸せな家庭・・・・・。人それぞれ考え方はあるのだろうけど、「慶子」の時にはそう思ったことはほとんどなかった。亭主関白、独裁者の夫の下で常に不満ばかり持っていた気がする。
「もし、友さんとの結婚後に私の記憶が戻ったとしても、友さんとの生活を優先すると思います。いなくなって2ヶ月も経っているのに私の元に捜索の情報が無いということは、私などいなくてもいい存在だったのかもしれません。どこかから逃げ出してきたのかもしれません。記憶が戻ったとしても、いい思い出など無さそうな気がしてならないのです」
友の両親の瞳に同情の涙が浮かんだ。作り話で泣かせてしまって気まずかったが、本当のことを言うわけにはいかないのだからやむを得ない。
「では、敬子さんは息子と結婚してくださるつもりなのですね?」
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