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第一部:第6章(グーサノイド城内―謁見の間)
30.告白
しおりを挟む「クロエさん」
たいして大きくもない声が、強い響きで耳朶を打つ。
広大な空間にぽつんと置かれ、狂人と二人きりにされていたクロエは、心からの歓迎に飛び上がりかけ…拘束されていたことを思い出した。仕方がないので、お愛想の笑顔を浮かべておく。
「ノア君、久しぶり。おたくの宰相閣下が落ちてるから、持って帰ってくれる?」
「…へ? えと、城内での危険物の拾得は騎士団の管轄で、あまり安易に領分を踏み越えるのはいらない反目を招きますし…いやいや、そうじゃありません。それよりも…」混じりけのない困惑に包まれて「どうして縛られているんです…?」
奥の空間は床が高くなっており、二つの場は短い階段でつながれている。そこを椅子代わりに休んでいるので、それほど非道な感じは受けない。一見したところ怪我もなく、体に負荷がかかっている様子もない。態度も常の通りで、顔付きにも悲壮なものはない。
全く変わりないの様子で、しかし、完全に自由を奪われている。
ノアは困惑していた。その戸惑いに拍車をかけるように、よく聞けと言わんばかりの堂々とした声音が言う。
「それはもちろん、誘拐されてるからね」
だからなんなのだ、と思う。そういうお遊びのつもりだろうか。こういう時に現実的な対応をするポーは、どこに行ってしまったのだろう。辺りを見回してみるが、白い獣の姿はない。ノアは途方に暮れた。
「クロエさんなら、そんなものは簡単に外せるでしょう? 居心地が悪いでしょうに、なぜそのままにしているのですか?」
「鋭いね、確かにとても居心地が悪いよ。それに、良い質問だね。確かに普段の私なら、こんなものは簡単に外せる。千切りでもみじん切りでもどんとこいだよ」
「は、はあ…それなら、本当にどうして…?」
クロエはやれやれと首を振った。
「魔術が使えればって話。こんな玄人仕事の拘束、身体能力だけで抜け出すのは、私には無理だよ」
「魔術が、使えない?」
「そう。なんでかそうなの。この場所が変なんだと思う」
語るごとに危機的状況が明確になるが、クロエの顔にあるのは、子供じみた不満の色だけだった。ノアの方が血色を失い、支えを求めるようによろめいている。すっかり蚊帳の外に置かれ、それでも穏やかに微笑んでいたローレンスに、この時ようやく視線を向けた。
「…知っていて、ここに連れてきたんですね」
「もちろんです。『特異者』などという代物、そうでもなければどう扱うのです?」
クロエが興味深そうに目を向ける。
「珍しいね。この国の人なのに『特異者』の意味わかってるの?」
「あの、クロエさん。それどころじゃ――」
「勉強したのですよ、あなたが現れた時に。もちろん、ほんの付け焼刃ですがね」ノアが悲しそうにしているが、どちらも気にしない。「なんでも、人災級で絶対不可侵だとか。魔術行使によってどこかに肩入れすることを、禁止されているそうですな。表向きは勢力均衡保持の為ということですが、実際は化け物として迫害されてきた歴史を払拭し、該当者を保護するのが目的だとか」
「初学の癖にわざわざ裏道を探るのが、とっても気持ち悪いね」クロエは大きくうなずいた。それから、強い期待を込めて「で、どうしてここって魔術が使えないの?」
「おや、モーリア嬢にも分からないのですか」
「うん。こんなの初めてだよ。だからぜひ教えてほしい」
「教えて差し上げたいのは山々ですが、私にもとんと。十年ほど前から魔術に興味を持ちましてな。国内に蓄積がないもので、とにかく物量に物を言わせてデータを集めていたのですよ。城中であれやこれやしたところ、どうもここがおかしな様子だと分かりましてな。まあ、それだけのことです。ああ、あと、モーリア嬢の部屋もおかしな様子でしたな」
「あれはただ、魔道具が私の魔力量に負けて壊れただけ」
「ふむ。まだまだ勉強が足りませんな」
「で?」
本当に何も知らないのかと、悠然と見下ろす顔を探る。慈愛深くさえ見える、ゆるゆると細められる目が、震える眉が、柔らかな口元が…度し難く、おぞましい。耐え切れず、ぽつねんと立ち尽くすノアへと問う。
「ノア君も、知らないの?」
「すいません。残念ながら。…それよりローレンス、いい加減縄を解いてください。僕が来たんです。それで十分でしょう?」
「でも陛下、心当たりくらいはあるのではありませんかな」
「…魔術が使えないというのなら、拘束など必要ないでしょう」
「うん。それもお願いしたいけど、それより心当たりって何?」
「ほら、陛下。モーリア嬢もお望みですよ」
「…二三の仮定くらい、どのような状況に対してもひねり出せるものです。――話には付き合います。早く縄を」
ノアが一歩踏み出す。ローレンスがクロエの前に立つ。ノアは足を止め、怪訝そうに眉をひそめた。そんなことをしても無駄なのに、それを誰よりも確信しているのは彼自身なのに、それなのに、そんな真似をするのが不可解だった。壊れ物のような微妙な緊張が糸を張る。お構いなしに引きちぎったのは、不自由を託つ当の本人だった。
「それより!」と叫ぶのだ。「仮定とやらを聞きたい。私には一つも浮かばない」
「あの、でも、クロエさん…? 縛られたままというのはやはり…」
「そのやりとり、長くなりそうだから。長くなった末に有耶無耶にされるなら、縛られたまま今聞きたいなと」
「ほう、研究者の鑑ですな」
「…あなたは何をしたいんですか」
「いつも通りですよ。…どうも、モーリア嬢には大きく揺さぶられるようですな」
「…さすがに付き合いきれません。クロエさんは――」
ローレンスは後ろ手を組んでいた。その指先が奇妙な動きをするのを、クロエは興味深く観察していた。直後、何者かに柔らかに抱きかかえられ、首筋にぞくりとする冷気を感じた。本能が身動きをとどめる。確信めいたものが精神を研ぎ澄まし、奇妙な冷静さを現出した。小ぶりながら鋭利な刃先を、目線だけで確かめる。
ローレンスが退くと、予想外にすぐ近くにいたノアが、すっと背を伸ばし、老宰相をねめつけるところだった。
「…僕が悪い。ここまでするとは考えなかった、僕の判断ミスです。しかしローレンス、分かっているんですか。クロエさんは聖サティリス王国の貴族です。傷一つだって、冗談では済みませんよ」
「陛下はご存じでしょう? 私が冗談を口にしたことは、ただの一度もありません。それでもし、私の王に会えるのなら、私はこの国が宣戦布告を受け、攻め込まれることも厭いません」
「それは厭いなよ…それより仮定は?」
さすがにナイフに気を使いながら、しかしそれ以外は至って平生通りの問いかけに、両者はそろってクロエを見る。凶器を突きつける人物――イーニッドも、呆れた顔でため息をついている。
「…危機感がないにもほどがあるぞ」
「お姉さまは私を殺す気があるの?」
「…それが命令ならな」
「なるほど。なら私が警戒するのは、ロリさんの方ということだね」
「あんな狂人、警戒のしようもないだろう」
親し気なやりとりに、ノアはすっかり毒気を抜かれ、諦めたように嘆息した。どこか投げやりで、妙に疲れ切って見えた。
「…クロエさん、ここがどういう場所だかわかりますか?」
「謁見の間、かな。長い間放置されてたみたいだけど」
振り返ることはできないが、クロエの座る階段の上、その舞台のような場所の中央に、豪奢な椅子が据えられているのを目にしていた。それはどう見ても、玉座だった。そして、埃っぽく、荒れた空気から、長く人の手が入っていないことは容易に知れる。
ローレンスの様子がやけに物慣れているのが、気色の悪いところだが。
「そうです。ここは古い謁見の間で、今は使っていません。封鎖してありました。私がここに立つのも、十年ぶりです」
「どうして?」
遠慮のない言葉がおかしくて、ノアは微笑んだ。微笑んだまま、答えた。
「殺しすぎたので、さすがに気が咎めて?」
イーニッドの心臓が、妙な脈を打った。それをたどっていると、同じく乱れていた自分の鼓動が、徐々に静まっていく。さすがに返事は荷が重かったが、微笑みと悦びと動揺に囲まれ、頼れる先などない。ポーの不在に腹が立った。その怒りを原動力に、なんとか落ち着きを手繰り寄せた。
「…それが、仮定と関係あるの?」
「そうですね。たとえば、呪い、というのはどうでしょう?」
「呪い? 精霊の呪いってこと?」
おとぎ話の一つの典型だ。精霊の逆鱗に触れた人間が、恐ろしい復讐に遭う――それはあくまで物語で、現実のものとは思われていない。少なくとも、クロエは体験したことがないし、現実らしいものを伝え聞いたこともない。
一国の王が、呪いを語る。
その王は、「紫の呪い」という奇妙なおとぎ話の中にいる。
そうだ。呪いだとすれば、呪う存在と、呪われる理由があるはずだ。
そして王は、この場に呪いがあることをほのめかす。
精霊を崇め、その呪いを語り、
――微笑む。
「…人を殺したくらいで呪われるなら、地上で無事な土地を探す方が大変だと思うけど」
「仰る通りです。…そうですね」
思案するように宙を眺め、視線を滑らせ、目を閉じた。口元には、柔らかな笑みを刷いたまま、
「込み入っていますし、お聞かせするには外聞の悪い話です。でも、それではクロエさんは納得しないでしょうし…差しさわりのない範囲で、お話ししましょうか」
開かれた瞳が、深く、暗く、艶めいた輝きを帯びるのを、息を止めて、見つめる。見惚れる。
野蛮なほどに容赦なく、うっとりするほどたおやかに、心奪われるほど輝かしく…移り気なたゆたいに絡めとられ、心地よく酔うようだ。
「僕はここで、父を殺しました」
そんな言葉さえ、甘やかに響く。
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