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3 棘の貴妃
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廊下を歩いていたところ、前方から誰かが歩いてくるのが見えた。廊下の空気が、ぴんと張り詰める。近くを歩いていた侍女達が道を開け、一団が近づいてきた。焚きしめた沈香の香りが漂ってくる。
桃笙が顔をひきつらせそうになったがそれをこらえ、蘭宵の後ろに控えた。
「盧才人ではないの」
いかにも自分は優れていると信じて疑わないといった堂々たる歩き方と声音である。
偉い人だわ、多分。蘭宵はそう思った。誰だかはわからない。
高く結った黒髪には金糸を織り交ぜ、何本もの金の歩揺を挿している。緋色の絹袍に、棘模様の刺繍を施した袖。薄桃色の披帛をまとい、実に華やかな装いである。暖色を基調としているが、棘の文様が近づきがたく感じられる。
「沈貴妃にございます」
桃笙が蘭宵の耳にしか届かない程度の声で囁いた。
蘭宵は後宮に来て日が浅い。そもそも育ちが良いとは言えず、暇があれば行儀作法の勉強に忙しいのだ。他の妃妾との交流などまだ無いに等しく、どんな人物がいるのか一通り教わったのだが忘れてしまっていた。
「沈貴妃様、ご機嫌麗しゅうございます」
蘭宵は微笑みながらそう返した。貴妃である沈慧柔は確か父親が尚書省の高官であり、後宮でもかなり力がある女性だったはずだ。目をつけられない方がよろしいです、と桃笙が言っていた気がする。
「聞いたわよ。何でもあなたは薬種問屋の娘だそうで、陛下直々のご指名だったそうね。どんな方かと思っていたけれど……まあ、髪の色は珍しいわね」
切れ長の目とすっと通った鼻筋。頬骨が少し高いが、正統派な美人である。沈貴妃は値踏みするように蘭宵の全身を眺め回した。
「けれど、他は普通じゃない。何故あなたのような方が選ばれたのかしら……」
珍獣だからではないでしょうか、と答えたくなるのを我慢する。変なことを言うと話が長引いて、お互い困ってしまうだろう。
「調子にのらず、せいぜいおとなしくしておくことね。ここでは、身の程をわきまえることが何よりも大事よ、盧才人」
「ご助言ありがとうございます」
金の耳飾りに珊瑚の腕輪。彼女の家の財力がそのまま、見た目にもあらわれている。蘭宵はそれらのものが気になって仕方なかった。後宮というのは建物の美麗さもさることながら、住む人々や、身につける装身具までも美しい。ここに来なければ、生涯見られなかったようなものばかりである。
物欲はないのでほしいとは思わないが、綺麗なものを見るのは好きだった。
他にも沈貴妃はごちゃごちゃ言っていたが、言うだけ言ってしまうと満足したのか侍女を引き連れて去って行った。
彼女が歩く度に、髪に挿した無数の歩揺がカチカチと硬質な音を立てる。さらに、手首の珊瑚の腕輪がぶつかり合う音が、どこか威圧的に響いた。
(綺麗な音……けれど、なんだか刃物が触れ合うみたい)
蘭宵はのんきにそう思ったが、桃笙は青ざめて俯いている。その音が遠ざかると、桃笙が胸をなで下ろした。
「ああ、怖かった。あまり会いたくない方ですわね」
桃笙が小さな声で言う。
「素晴らしい簪とお召し物だったわ。素敵ね」
「怖くなかったですか?」
「何が?」
まだここの暮らしに慣れていない蘭宵にとっては、見るもの聞くもの全てが新鮮なのである。桃笙に、沈貴妃からかなり嫌みを言われていたとか聞かされたが、気がつかなかった。
腹の虫がまた鳴きそうになったのを感じた蘭宵は、とにかく早く杏をとりに行こうと桃笙を急かす。
「蘭宵お嬢様はいつも食べ物のことで頭がいっぱいなのですね……」
昔の呼び方をしながら桃笙が嘆いている。
「子供の頃からずっとそうだったでしょ?」
笑いながら彼女の手を引いて、蘭宵は歩き始めた。
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