轟町ヒルサイト ―― On Her Majesty 's Private Service ――

甘野正雪

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第二章 銫はセシウムの意味をもつ

第二章―05

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 結局その日から、わけもわからぬうちにカゲロウは、日々、シフトに準じて山と積まれた図書の返却作業におわれているのだ。
 学校が休みのはずの土曜日でさえ、図書館は午前中だけは開放されているから、その日の午後には大学に出ていって返却作業を行わなければならない。涼包すずしげの都合によってはそれが日曜日の午前中に回されることもあり、つまり、大学に上がってからカゲロウの休日は涼包に支配されている、というのは大げさかも知れないけれど、少なくとも統制されていることに変わりはなかった。しかし、そこは怠惰たいだであっても律儀ろとごな彼だから、これまでサボることもなくその作業を続けている。
 の者からすれば、きっとうらやましい限りのことなんだろう。
 なんせ――天使と二人っきりで過ごせるのだから。
 それが休日ともなれば、間違いなく怨嗟えんさの声があがり、その仕打ちがカゲロウに降りかかっても不思議はなかった。が、そこが涼包のもつ御威光ごいこうの、まさにすさまじいところで、彼は平生へいぜいと変わらずキャンパスライフを送れている。おそらく彼ら、彼女らにとって、涼包の配下(あるいは下僕)として働いているカゲロウを傷付けるという行為は、もはや崇高すうこうなる涼包すずしげ かんな冒涜ぼうとくすることと同義どうぎうつっているに違いない。まさに信仰だ。それに対抗しうるカリスマ勢力といえば小春井巻あづきぐらいのものだったけれど、小春井巻がまったく信者をつくらない飛仙ひせんのような存在だから、この大学における教義が涼包 銫の一神教に染っているのも自明の理だ。
 それは、ほんとに、まったく、恐ろしいほど徹底されている。
 それまで全く無名だったカゲロウの名前が人目にさらされたわけで、その苗字の奇態きたいさから、それだけでも噂にのぼって不思議はなかった。しかし、それすらなかったのだ。それどころか、彼を下手へたに傷付けては不味まずいと思ったのだろう、落ちこぼれグループのやつらでさえ、どことなく余所余所よそよそしい感じで接してきた。それは悪意からではない。たぶん、善意の範疇はんちゅうにあることなんだろう。が、しかし、カゲロウが妙な孤独感を覚えずにおれなかったのも、また事実だった。
 すると少しだけ。それは、ほんの少しだけなのかも知れないけれど。
 ――凸凹坂あいさかくんには、わからないよ……。
 春休に涼包が言っていた、その苦悩といったものを垣間見たような気がした。
 同時に恐いと思った。
 孤独が、じゃない。
 ――だったら、凸凹坂くん。同じ苦しみを背負ってみる?
 涼包のことが、だ。
 涼包のことを『天使』と呼ぶが、彼女は天使なんかじゃない。いや、百歩ゆずって天使だとしても、彼女がこの地上にある以上、それは『堕天使』だ。翼をがれ、それでも天使の心は持っていて。それでも、この汚れた人の世で生き続けなければならない……。
「凸凹坂くんっ」
 そして涼包の声が背中を撫でつける。
「なんだ……」
「なにボーっとしてるのっ」
「べつに…」
 ずっとこんな調子だ。
「そんなんじゃ、終わらないよ。わたし、手伝わないからね」
「いいよ。先、帰れよ」
「だめだよ。凸凹坂くんがしっかり仕事するの見届けるのも、わたしの役目なんだから。私たち、委員って言っても、バイト扱いでちゃんと給料も支払われてるんだからね」
「お前さあ…」
 そんな責任感が苦悩の原因でもあるんじゃないのか――と言いたかった。
「なに?」
「べつに…」
「あ、また言った。だめだよ、優柔不断な物言ものいいは」
「へいへい」
「へい、じゃなくて、はい」
 ここで「はいはい」と繰り返せば、また何と言われるか、それはわかっていたので、素直に「はい」と答える彼だった。
 まるで――品性養成ギブス――だ。
 涼包は優しく接しているがその鉗鎚けんついには余念がない。
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