轟町ヒルサイト ―― On Her Majesty 's Private Service ――

甘野正雪

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第五章 術後のケアは大切に

第五章―02

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 よりによって大事な部分は、純白の包帯でグルグル巻きにしてあるんだから。
 ――やはりあれは、『悪夢』ではなく、『悪夢のような出来事』だったんだ…。
 …なんて、意外に気安くその事実を受けいれられたのは、他でもないこの包帯のおかげだったのかも知れない。もしこの包帯が巻かれてなくて、それで、たとえパンツやパジャマのズボンを穿いていたとしても、やはり確かめるには結局そこを見るしかなくて、そして、その醜悪な事実を、直接、視認してしまったとしたら――たぶん、また、そのショックのために昏倒してしまったに違いない。
 しかし、それは、この包帯を施した小春井巻の優しさのお陰だ…なんて、とてもじゃないけど思うことなんて出来なかった。
 包帯は結構きつ目に巻いてあって、だから、どのような痛みがあるのかなんてよくわからない。
 でも、だからといって、「もしかしたら…」なんてことも決して思わない。
 そう――小春井巻はピアスを空けるフリをしただけで、実はピアスなんかしてなくて、さらにはこうやって包帯をきつく巻くことで、いかにもピアスが貫通しているように見せかけておいて、結局、恐る恐る包帯を解いて見てみれば…あら不思議? アソコは無垢なままでしたあ…いやあ、めでたしめでたし…。
 …なんてことは、絶対、アイツに限って無いことぐらい、もはや骨の髄に染み込んでいる。
 ……と、そこで気づく。
 包帯になにやら紙のようなものが挟まっていて、実際手に取ってみるとそれはやっぱり紙だったのだけれど、綺麗な字で走り書きしてあった。
 包帯→解くな。
 今日は寝てろ。
 風呂→入るな。
 アソコが腐って欲しくなかったら言うとおりにしろ。
 また連絡する。
 ――これって新手の誘拐メッセージか?
 小春井巻らしいと言えば、小春井巻らしいじゃないか。
 ハッキリ言って、笑えた。
 まあ、小春井巻に指示されるまでもなく、さすがにベッドから起き上がる気にはなれなかった。
 毛布を被ってそっと横たえる。
 しかし――小便はどうするんだ!?
 サッと股間を覗きこむ。
 包帯には用を足すための隙間なんて空いてなく、すべてがグルグル巻きにしてあるっ。
 ――これは小春井巻が男の生理を知らないためか!
 ――それとも、小便をするのも危険な状態なのか!
 アソコが腐る…ってどういう意味だ!?
 そんなに重傷なのか!?
 あいつ、もしかして、とんでもないミスをしでかしたんじゃないだろうな!?
 え、ただ皮にピアスを通しただけだろ?
 大丈夫なのかよ!?
 などと考えているうちに恐くなって、身体がピタリっと動かなくなった。いや、セーブモードに入ったのだ。小便をしないための……。
 あ、そうだ。
 と、枕元の携帯をとるとアドレス帳を開いた。
 『涼包すずしげ かんな』という文字を反転させてから暫く迷ったのだけれど、結局、コールしてしまった。
「凸凹坂くん?」
 そして涼包の声が耳朶じだを撫でつける。
 彼女は普通に言葉を発しているだけなのに、それはただ、電話の相手を確認したに過ぎないのに……。
 ――なんて慈愛に満ちた声音こわねなんだろう。
 小春井巻とは大違いだ。いや、小春井巻と――あんなに恐ろしい小春井巻に遭遇した後だけに、涼包の声は、ホントに、まったくっ、天使の歌声のように心をいやしてくれるような気がしてならない。
 思わず、ジ~ん…と目頭に熱いものが込みあげてくる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、ああ」
「ホントかなあ?」
「う、うん。あ、でも涼包」
「なに?」
「ゴメン……」
「どうしたの? 凸凹坂くんがわたしに謝らなくちゃいけないことなんて、たぶんないと思うよ」
 ほら、これだ。
 これが涼包 銫だ。
「いや。あのさ…」
「うん。なに?」
「今日……休んでも良い?」
「それは良いけど、大丈夫? 病気?」
「ちょ、ちょっと怪我した……のかな?」
「聞いてるの、わたしだよっ。大丈夫? 骨とか折ってない?」
「あ、それは大丈夫」
「どこ怪我したの?」
「脚の付け根…の辺り…」
「そんなに広い範囲、怪我したのっ」
「いや、酷いのはほんの数mmぐらい…」
「病院に行った? ホントに大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。包帯巻いて貰ったから」
「そう…。じゃあ、一安心ひとあんしんって思って良いの?」
「そうそう。思って良いの」
「ああ、またあ、凸凹坂くんなんだから」
「素直じゃない、かな?」
「まったくだよ。でも…、なんだか安心しちゃった」
「そうか」
「ところで、お昼とかちゃんと食べた?」
「ああ、大丈夫」
「そっか。凸凹坂くん、お姉さんや妹さん、いるもんね。心配ないか」
「まあ…。とにかく、ゴメンな涼包。一人で大変にさせちゃって」
「なに言ってるの。昨日は休みのはずなのに、昼から出てきてコッソり返却作業してたくせに。あんなことされるとね、わたしとしてはとっても困ったことになったりするんだよ」
「ゴメンっ、勝手なことして」
「違うっ、そうじゃないっ。…あれ、わたし、何、言ってんだろう…、とにかくっ、とにかくだよ、昨日の分でチャラってこと。そう言いたかったの」
「え、そうなの?」
「うん。でも、やっぱり。相変わらず凸凹坂くんなんだね」
「なんだよそれ。またお得意の押韻おういんか?」
「う~うん。お人好し、ってこと」
「そうかな」
「そうだよ。だって自分が怪我して大変な時なのに、わたしなんかのことを心配してくれるんだもん」
「だって、実際、大変だろ? 一人じゃ」
「凸凹坂くん、知ってる? わたし、色んな委員長をさせてもらったけど、そんな風に心配してくれた人、凸凹坂くんが初めてだよ」
「それは、下手に心配でもしたらお前に失礼だ、なんて、みんな変な気をつかってるからじゃないのか」
「そうなのかな…。でもね、わたしも、他の人が薄情だ、なんて言ってるわけじゃないんだよ。わたしは、それが普通なんだって思ってるし、本当に感謝もしているの。だからだよ。だから、そう考えると、凸凹坂くんは」
「お人好し、っていうことか」
「ということでしょ?」
 本当に涼包らしい。
 悪く言えば、物事すべてをオブラートに包んで、苦いものでもムリヤリ丸く呑み込んでるふしがある。しかしその行為を徹頭徹尾つらぬくとしたら、それはもはや過酷というより、残酷と例えるべきものなんじゃないのか……。
 涼包はまさに、その残酷さを彫心鏤骨彫心鏤骨して生きてるようなものなんだろう。
 もし、涼包のような人間が多く居れば、きっと世界は、今よりずっとマシなものになるはずだ…、なんて思ってしまうのは、きっと稚拙なことなんだろうけれど、しかし、至高の世界が夢であらねばならないのと同様に、涼包の複数形も、また夢の範疇にあることぐらい……そんなことぐらいは充分わかっているつもりだ……。
「凸凹坂くんっ」
 そして涼包の声が耳朶を撫でつける。
「聞いてるの?」
「あ、ゴメン」
「とにかく図書館のことは心配しなくていいからね。ゆっくり休むんだよ」
「うん。そうさせてもらうよ」
「あと、明日も体調悪かったら、無理せず休んで欲しいよ。でも連絡はしてくれるかな? 心配だから」
「うん。ありがと」
「…ありがと……か」
「え? どうした、涼包?」
「なんか、心地良いよね」
「なにが?」
「凸凹坂くんの『ありがと』」
「そうか?」
「…じゃ、切るね」
「あ…ああ。じゃ、またな」
「うん…。また、だよね。お大事に…」
 ――ツー…ツー…ツー…ツー……。
 なんて心地良い余韻だろう。
 携帯が不通を知らせる音でさえ心地よく思えてくるほどだ。
 まさに天使だ。
 そうだ、このまま良い夢でも見よう……なんて思いながら、カゲロウは午後の微睡まどろみに眠りの瀬を模索したのだった。
 ▼目が覚めたら――夜だった。
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