轟町ヒルサイト ―― On Her Majesty 's Private Service ――

甘野正雪

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第五章 術後のケアは大切に

第五章―03

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 ▼目が覚めたら――夜だった。
 いや、それは覚めたと言うよりも起こされたと言うのが正解なのだけれど、彼は小春井巻のその遅いモーニングコールに、決して感謝なんかしない。
 モーニングコールと言ったけれど、それはメールの着信音だった。
 不本意ながらも、カゲロウはそのメールの指示に従った。
 だってそうだろうっ。
 メールには、
『アソコが腐って欲しくなかったら、言うことを聞きなさい』
 とあったのだから。
 もはやカゲロウにとって、これは、人質誘拐事件の様相をていしている。
 今の彼にとって一番大切なもの――それは、愚息の安否に他ならない。
『すぐに来なさい』
 恐る恐る両脚を動かしてみたけれどアソコに痛みは感じず…とはいっても例の包帯が相当きつく締めつけてあって痛覚が麻痺しているかのようだった。もしかしたら、それを幸い…とカゲロウがいそいそと身支度を始めることすら、小春井巻は計算尽くでその包帯をきつく結んでいたのかも知れない。
 Tシャツを着て学生ズボンを穿く。
 言っておくけど、学生ズボン以外にもジーパンやチノパンは持っている。学生ズボンを選んだのは、股間にタップリとした余裕を与えてくれそうだったからだ。
『トイレに行きなさい』
 電気もつけずトイレに入るとその窓を開ける。
『バスルームの窓は鍵を開けておいてあげたわ』
 というわけでバスルームの窓はあっさり横に滑ったけれど、その中は暗く、当然、あかりも消してある。
『そこから間男まおとこのように入っていらっしゃい』
 なんてことさせるんだっ、アソコに傷持つ人間に!
 と、憤りながらトイレの給水タンクに脚を掛けてみると、それが一番の難所だったようで、あとはすんなりバスタブに降り立つことができた。
 ――なるほど……。これなら小春井巻も簡単に侵入できたわけだ…。
 …ていうぐらい、カゲロウの家とそのアパートとはくっついていたのだ。
 身を以て知るその事実に、今は深い感謝を示しつつ、
『入ったら窓を閉めなさい』
 指示のまま窓を閉める。
『そして、こう言いなさい』
「女王陛下さま~。ただいま参りました~」
 と不満タラタラの声音でボヤいてみせると、
 パっ……。
 と、バスルームの照明がともった。
 急に射した光に網膜が戸惑い、クラっ…となりそうになる。
 すると、
「随分とゆるんだ、出仕の御挨拶ね」
 その声と共に小春井巻の姿がバスルームの扉の影に現われた。
 ――意外だった。
 小春井巻といえば、例え部屋着であってもビシッと着飾っている印象がある。
 そう。昨日、公園で見た、あのモデル以上にカッコ良い姿こそ、彼に限らず万人の描きる小春井巻の日常風景で、それは部屋着においても同様のはずだった。
 ――それがどうだろう。
 小春井巻は、タンクトップにスリムのジーンズといった格好で、靴下も穿いていない。さらに、黒炭のような黒髪は首の後あたりで結わえていて、これじゃ、TVでやってる『オバちゃんが好きそうな暗いホームドラマ』にお姉ちゃん役かなんかで登場する冴えない女子大生の普段着となんら変わらないじゃないか。
 ――それでも……。
 そんなラフな格好をしていても、高貴なオーラは健在で、特に小春井巻の信者じゃないカゲロウだったけど、それでも、なぜか『うるわしい…』と思ってしまえるから、不思議だ。
 ――不思議といえば……。
 よくよく考えてみれば、小春井巻がなんでこんな襤褸ぼろアパートに居るのかさえ不思議だ。
「聞こえなかったのかしら?」
「え?」
「ちゃんと御挨拶をしなさい――と言っているのよ」
「え~っ!? もう一遍、言うのかよオっ…」
「そう? 凸凹坂くんは『腐りかけた烏の死体』よりもはかないオツムをしているから、この状況が良く把握できていないようだけれど」
 と、小春井巻は随分と酷いことをあっさり言い放って、尻のポケットから携帯を取りだした。
「ここで、わたしが1・1・0…と押したりしたら、どうなるのかしら?」
「1・1・0…って、……おいっ、警察かよっ」
「そして、わたしは鬼気迫る声でこう言うわ。タスケテクダサイ、チカンデス……」
「て、全然、棒読みじゃねえかっ」
「なにを言っているの。こういうときはね、抑揚をなくした方が恐怖は増すものなのよ」
「恐怖って、警察脅してどうすんだよっ」
「わたしが脅しているのはね、凸凹坂くん、あなたのことよ」
「はい?」
「暴行未遂。隣家の少年A。トイレの窓から浴室に侵入。被害者の女性、激白。少年は毎日、被害者の入浴を覗いてオナニーしていた!? なんて言う文字が、きっとタブロイド紙に踊ってしまうのでしょうね」
「『踊ってしまうのでしょうね』って…、おいっ、それ、お前が激白してんじゃねえかっ」
 しかも、タブロイド紙?
 スポーツ新聞か?
 それとも、もっと恐ろしいアレか?
 アレのことなのかッ?
「今から逃げるのは勝手だけれど、指紋までは拭きとれないでしょ。残念ね」
「お前っ!?」
「それとも試してみる? 警察が早いか。凸凹坂くんの証拠隠滅が早いか?」
 小春井巻は携帯をかざしてみせる。
「お、脅しには屈しないぞ! 俺は決めたんだっ。これ以上、お前の自由になんかさせるもんかっ。ここに来たのも、お前に思い知らせてやるためだあ!」
「あらあら。随分と腕白なご意見だこと」
 小春井巻は相変わらず無表情で、その鳶色よりも黒い瞳は冷然とした光を放っている。
 可愛くないっ。
 まったく可愛くない!
 動揺を微塵みじんも感じさせないなんて!
 カゲロウも負けじと、わざと余裕綽々しゃくしゃくと言ってみせる。
「『固い意志』とでも言ってもらおうか。俺の意志はF1モノコックのカーボンファイバーなみに固いんだからなっ!」
 よし、決まったっ!
 …とえつれたのも、ほんのまばたき一度の刹那せつなだった。
「それって、そんなに固くないわよ」
「え…?」
「固いというのなら、タングステンとベリリウムの合金が最も固いという説があるわ」
「そ、そうなのか…?」
 すくわれた!
 簡単に足元を掬われた!
 ていうか、そんなことはどうでもいい!
「と、とにかくっ。やれるもんなら、やってみろよッ!」
「110……ア、スミマセン」
 早ッ!?
 こ、この女、なんの前振りもなく1・1・0を押しやがった!
 そう――
 そこには、なんの躊躇もなく110番して、なんの躊躇、かつ抑揚もなく警察に訴えかける小春井巻あづきさんの涼し過ぎる姿があった…。
「タスケテクダサイ、チカ…」
「女王陛下! ただ今、参上いたしました! 遅れましたる事、どうかお許しくださいませ!」
 そしてバスタブの中に、やはりなんの躊躇もなく、かしこまって叩頭こうとうし続ける哀れな青年の姿が見受けられた……。
 ――のは、彼のことだった。
 敗北だった。
 完敗だった。
 やっぱりカーボンファイバーはそんなに固くなかったんだ!
 F1モノコックのバカヤロー…っ!
 なんて、額にバスタブの合成プラスチックの硬さを感じていると、
「なかなか上手にできたわね。今回だけは見逃してあげるわ」
 小春井巻は、きっと、例によってあの『勝ち誇った笑み』をたたえているに違いない…それはわかっているのにっ…わかっている筈なのにっ――にも関わらず、
「あ、有り難うございますっ、女王陛下っ!」
 なんて小気味良く、ペコッと平伏してしまえる自分が怨めしい彼だった。
「よろしくてよ。では、あなたの携帯を貸しなさい」
「はは! これに!」
 といって取りだした携帯を頭より高くかざしてみせると、それをサッと奪い取るが早いか、ピッピッピッピッ…小春井巻はカゲロウの携帯を操作した。
 一通り終わると、
「これで良いわ」
 そう言って携帯を返す。
「………………?」
 カゲロウがキョトンとした目を向けると、小春井巻の唇の片端が跳ねあがった。
「実は、警察に通報しても、凸凹坂くんがわたしの送ったメールを示せば、少し面倒なことになるところだったのよ」
「あっ!?」
 そうだ!
 小春井巻がメールで侵入を誘導した証拠があれば、容儀は晴れるはずだ!
 いやっ。
 晴れるはずだった……。
「チクショウ!」
「いくら『豚』でも、自分のことを、そんな酷い呼び方するものじゃないわ」
「呼んでません!」
 自分のことじゃありません!
「もっとも、凸凹坂くん。たとえ、あなたがメールを示したところで、第2、第3のプランは用意してあったのだけれど。そちらの方がより凸凹坂くんを追い込めたぶん、わたしとしても残念な限り…なのだけれどね」
「どんなプランなんですか!?」
「聞きたい?」
「結構です!」
 もう充分、追い込まれてるような気がします!
「それでどうするの?」
「………………?」
「警察、来てしまうわよ」
「あーッ!?」
 マズイっ!
 メールが消された今、ホントにマズイような気がする!
「頼んでみなさい。そうしたら、取り消しの電話を入れてあげる……かも知れないわね」
「お、お、お願いしますっお願いしますっお願いしますっお願いしますっ…!」
 そりゃあもう、米つきバッタのようにバスタブに正座したままペコペコと叩頭を繰り返したものだった。
 正直、一生分の土下座をこの時、一気にしてしまったような、それぐらいの虚無感はあった。
「なかなか上手になってきたわね。いいわ」
 と言って小春井巻さんが携帯を操作するのを見たとき、あろうことか、彼女の周りに黄金の後光さえ拝むことができたカゲロウだった。
「117…、スミマセン。サッキノハトリケシマス…」
 と、それだけ言って携帯を降ろす小春井巻。
 まるで泥沼に首まで浸かった状態でその顔に蜂蜜を垂らされたような、そんな安堵に至高の甘味を堪能するカゲロウ。
 ――だったのだが……。
「…………あれ?」
 今、11…7…って言ってなかった?
「あっ、『7』ってなんだ! 『7』ってッ!」
「なによ?」
「今、『7』って言った!」
「あら、言ったかしら?」
「いや、絶対、言った!」
「なら、きっと、わたしが嘘をつこうとして、ついつい、本当の番号を言ってしまったということね。それだけのことよ」
「それだけのことって……っ!?」
 ホントに、まったく、どうして!
 とんでもない女だッ!
 走馬燈のように…とはいかないまでも、脳のひだがピンと張って粗末なスクリーンと化すと、そこに『小春井巻あづきの、追い込みショー』と名打ったつたないキネマが猛スピードで投写されてゆく。
 第1節 小春井巻はすでにカゲロウのアソコにピアスを打ち込んでいる。
 第2節 それによってカゲロウの頭には『この女は何でも平気でやってしまう』という概念が刷り込まれている。
 第3節 そして、警察に電話する前に、あえてその助けを求める言葉を棒読みしてみせる。
 第4節 そのイメージが、実際、警察と話すフリをする時のギコチなさを緩和してくれる(←実際は時報センターだったけど)。
 第5節 さらに、何の前振りもなくアッサリ110番してみせることで動揺を誘っておいて、疑いの余地さえ払拭してしまう。
 そして 唇の片端をクイッと跳ね上げて見せる小春井巻女王陛下だった……。
 = FINE=
 ――カゲロウを騙すぐらいだったら、これぐらいで充分だろう。
 いや、完璧だった!
 しかし、この女の本当に残酷なところは、取消しのフリをしてみせる際、11と間違えたところだ。
 この女はワザとそう間違えて見せたのに違いない。
 何故? …て、そんなこと決まってるじゃないか。
 ――すでに虚脱の沼にドップリ浸かっているカゲロウを、さらにその頭を踏みつけて溺れさせるために。
 ……だ。
 その証拠に小春井巻の唇は、その片端といわず両端が綺麗な弧を描いて見せてるじゃないか!
 なんて満足げな顔なんだっ。
 なんて嬉しそうな表情なんだ!
 こんな表情って、カゲロウのアソコにピアスを打ち込んだ時の、あの、子供が笑ったような顔そのものじゃないかっ。
 そう――まるで玩具おもちゃを与えられて、いやっ、ペットを与えられて喜んでいるかのように……。
 この時、カゲロウは、首に赤い輪っかをはめられたような気がした。
 そして、その輪っかから小春井巻の方に向かって銀色の鎖が伸びてゆき、それが、チャリンッ…と鳴ったような。
 いや、その音は確実に彼の脳内に響き、残響は頭蓋骨に共鳴し続けた。
 ――それは、かなしいぐらいにさわやかに、悔しいほどに晴れやかに響き渡ったものだ。
 そして心底思った。
 嫌いだっ。
 ホントに、嫌いだっ。
 小春井巻なんて、大嫌いだーっ!
  ▼……と、それから10分も経たぬ間に。
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