夏のお弁当係

いとま子

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1.夏休みのはじまり

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 潮の香りを吸い込みながら橋を渡る。濃い緑の生い茂った山からは、蝉たちの鳴き声が聞こえてきて、世界を白く照らす太陽を応援しているように思える。
 今日も相変わらず暑い。流れる汗を手の甲で拭いながら、車が来ないのにもかかわらず律儀に信号が変わるのを待ち、僕は日差しが照り返す横断歩道を渡った。
 辺りは見渡す限り田んぼが広がっている。産毛のような稲が植えてある田んぼに、僕の背丈よりも真っ直ぐに伸びたトウモロコシが並ぶ田んぼと種類は様々。
 太い茎だけが並ぶ田んぼは、葉タバコを収穫した後だと知ったのは、この町に来てからだ。今は次の田植えの準備のために水が張られている。
 来たときは緑ばっかりだなと思っていたけど、毎日見ていても飽きない。
 できるだけ木陰を選びながら進むと、日よけの黒いネットが張られた建物が見えてくる。
 その一番端、窓に金魚が泳ぐ農協の隣にある小さな店先を覗こうとしたとき、黄色いビールケースがいきなり飛び出してきた。

「うわ!」
「おっと!」

 がしゃりと、ビンがぶつかる高い音が響いた。倒れはしなかったようでほっと息を吐く。

「すみません小嶋さんっ、大丈夫ですか?」
「あぁ、雨恵くんか。大丈夫だよ。おはようさん」

 夏の山に似た濃い緑色のエプロンをつけた小嶋さんが、ビールケース越しに微笑む。鼻の頭には玉のような汗が浮かんでいた。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 軽く頭を下げ挨拶をすると、小嶋さんはビールケースを降ろし、首にかけたタオルで汗を拭いながら息をついた。

「ふう、今日も暑いねえ」
「ほんとですね。お昼は昨日より暑くなるみたいですよ」

 最近の話題はいつもこれ。連日最高気温が更新されると自然とこうなる。夏の間はずっとこの調子かもしれない。

「あとは僕がやりますよ。まだ運ぶものありますか?」
「いや、これで終わり。あとは店番しといて。じゃ、お昼食べてくるから」
「はい、お疲れ様です」

 店の裏口に回って店内に入ると、クーラーの冷気が、身体に纏とわりついていた熱気を一気に吹き飛ばした。すぐに汗が引いていく。ハンガーに掛けられた深緑色のエプロンを手に取り、手早く身につけながらレジへと入る。
 店内にお客さんの姿はない。クーラーの風が直接当たる場所に移動しながら、じりじりと日が照りつける外に目を向けた。

「ひまだなあ……」

 ぽつりと独り言をつぶやく。言葉の余韻が空気に溶けたところで、やっと一台、白い軽トラックが表の農道を横切っていった。
 以前働いていた会社とは大違いだ。営業の部署で、めまぐるしく人が動き回り、怒声が飛ぶことだって珍しくなかった。僕には営業は向いていなかったのかもしれない、としみじみ思う。
 退職した後、急いで再就職先を探していた僕に、母さんが勧めてくれた田舎暮らし。そう悪くないかもしれない。ゆったりと時間が進むこの感覚は、ひどく心地よい。
 ここへ来たばかりのころは、こんなにゆっくりしていて本当に大丈夫なのか、再就職先をさっさと決めてしまわないと駄目なんじゃ、と焦っていた。働いていないと世間から見捨てられたような気分になった。しかし、心身ともに休めることも、たまには必要なのかもしれない。
 住めば都といったもので、二十四時間営業のコンビニエンスストアがなくても平気だ。

――ただ一つ、心残りはあるが。

 自動ドアが、がたがたと音を立てながら開いた。手押し車を引きながら、腰の曲がったおばあさんがゆっくりと入ってきた。

「いらっしゃいませ」
 と、僕は軽く頭を下げる。

「こんにちは。暑いですねえ」
 
 近所で一人暮らしをしているおばあさんだ。毎日のように顔を出す常連さんの一人である。
 店の中をゆっくりとおばあさんが回る。僕はレジ周りを掃除しながら、その様子をほほえましく眺めた。
 母さんの同級生である小嶋さんの店・小嶋マートでバイトをさせてもらっているが、僕の仕事といえば、主にレジをするか、商品を並べるか、掃除をするか、電話の番をするぐらいだ。『雨恵の性格だと何もしないほうがかえって休まらないでしょ』と、母さんが気を利かせてくれた。
 今、僕が寝泊まりしている場所は母さんの実家だ。母さんの両親で僕の祖父母は、母さんの兄で僕の伯父の家に、三ヶ月前に引っ越した。実家は誰も住んでいないが、まだ取り壊されていない。誰も住んでいないと家はすぐに朽ちるというが、埃がたまっているのと、裏口の立て付けが悪くてコツさえつかめば外から侵入できる以外は、普通の家と変わらなかった。小さい頃に何度か夏休みに遊びに行ったことがあって、古くて広い平屋の民家は薄暗くて怖かったのを覚えている。懐かしさはあるが、今でも夜は納戸が少し怖い。
 僕は母さんの言葉を思い出した。

『これもなにかの思し召しってやつね。少し休めって言われてるのよ』

 退職したと母さんに伝えた日、怒るでも落ち込むでも慰めるでもなく、母さんはすっかり年老いた愛犬ちゃまるを抱えて言った。茶色くて丸いから、ちゃまる、という見たままの名前は僕が付けた。

『働きすぎだったじゃない』

 僕は有給もあまり使わず、サービス残業も当たり前のようにやっていた。仕事だけではないが、昔から頼まれれば断われない性格だった。母さんが抱えているちゃまるも、友人に頼まれて僕が引き取った犬だ。頼りにされていると子供のときは誇らしく思っていたが、成長するにつれて、都合がいい奴だと思われているのがわかってきた。

『あれよ』

 母さんはちゃまるを抱えたまま器用に両手を合わせた。老犬でもよく食べるちゃまるは結構重い。

『人生のキュウソクが足りないのよ』
『人生の球速?』

 軽くボールを投げる仕草をすると、母さんは『地球は千七百キロぐらいらしいわよ』と笑った。公転の速さだろうか、自転の速さだろうか、どちらにしても地球は神様にぶん投げられているわけではないので球速ではないだろう。

『人生には休息と刺激が必要なのよ』

 これは母さんの口癖だった。よくこの台詞を言っては寝転んでせんべいをかじり、昼のドラマを見ていた。寝転ぶのが休息で、ドラマが刺激だったのだろう。幼い頃から、それはサボるための呪文だと思っていた。

『人生の夏休みだと思って、ね?』

 そう言った翌日には小嶋さんに連絡を取り付け、僕に母さんの実家があった田舎でしばらく休むように勧めた。一人っ子だからか、二十代半ばになって甘やかされすぎている気もするが、よほど疲れて見えていたのかも知れない。

『夏休みかあ、宿題でも出るの?』
『そうねえ、今後の人生を充実させるために大切なもの、でも見つけてきなさい』
 
 などと、そんなこんなで言いくるめられ、今、人生の夏休みとやらを迎えている。

「すみませんけどもお」

 のんびりとした声で、おばあさんが呼んでいる。僕はおばあさんの元へと向かった。

「これはどうやって食べるんかね」

 おばあさんが持っているのは鳥の砂肝だった。僕は見た目と食感が苦手だったが、よく調理はしていた。

「薄く切って焼いて、塩コショウで味付けしたら美味しいですよ」

 料理とはいえないような簡単なものだったが、彼はよくビールのつまみにして食べていた。

「入れ歯でも噛みきれるかねえ?」
「うーん、少し硬いかもしれません」

 そういうとおばあさんは砂肝を棚に戻し、いつもの豚こまが入ったパックを買い物かごに入れた。豆腐と数種類の野菜と黒糖の飴を買って、またゆっくりと帰っていく。がたがたと音を立てて自動ドアが閉まると、また店内に静けさが戻ってくる。
 ひとりになると、思い出してしまう。
 彼はまだあの会社で働いているのだろうか。あれから一度も連絡はない。
 ぶるり、と身体が震えた。汗が冷えたのだ。胸の辺りがきゅっと痛む。
 僕はレジの側面に手を当てて暖を取った。
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