画家と天使の溺愛生活

秋草

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攻防の章

天使は知る

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 真静を廊下に残し、要真が一人ドアの向こうに消えた後、ドアの向こうから耳を疑うような音が聞こえてきた。
 ガシャーン!
 ドタッ。
 バタンッ。
 これでもかというほどの騒音。これでは、何もないわけがない。
「く、倉瀬さん、ご無事ですかっ?」
 要真に何があったのかと不安になって声をかければ、いたって普通の返事が返ってきた。
「大丈夫大丈夫。もう少し待、あっ」
 パリーン。
「……あの、倉瀬さん、お邪魔してもよろしいですか?」
「……うん」
「お邪魔します……」
 一体何が、と恐る恐るドアを開ける。と、そこに広がっていたのは、何があったか、やたらと服や何かのかけらが散らばる惨状だった。
「ええと、これは……」
「……」
 かけらを見下ろす要真が、気まずそうに真静に目を向ける。
「その、昨日の夜遅くまで絵を描いていたら、朝出るのがギリギリになって、何も片付けていなかったことに今気付いてね……」
「そ、そうなのですね。ちなみに、このかけらは?」
「グラス」
「洋服は?」
「洗濯して干しっぱなしだった服をさっき急いで外した。それで、片付け損ねた分かな」
「畳まないのですか?」
「その暇がないから、とりあえず寝室に放り込んだ」
「なる、ほど……」
 なるほど、お兄さんが放っておけないのが何となくわかった気がする。
「と、とにかく、割れたグラスを片付けてああっ、素手で触らないで!」
 素手で拾おうとする要真を慌てて押しとどめ、新聞紙やら掃除機やらを出してもらう。そして真静がかけらを片付ける間、要真にはリビングのソファーで待ってもらった。
「倉瀬さん、洗濯物は後で畳むのですか?」
「うーん、そのままクローゼットに押し込めばいいかなって」
「よろしければ片付け終了後に畳みますから、持ってきていただけますか?」
「……一緒に畳んでいい?」
「もちろんです」
「うん、それなら持ってくるよ」
 先程から妙に嬉しそうな顔だった要真がにこりと笑い、寝室に消える。それを見送る真静の口元は自然と弧を描いていた。
 憧れの画家の、知らなかった一面。それを知ることができたのはここに来たからで、今改めてその有り難さを噛みしめる。知った面がそんな残念でいいのか、と他から突っ込まれようが、新たな一面には変わりないのだからいいのだ。
「それに、残念ではないし……」
「何が?」
「ひゃっ!」
グラスの破片と向き直っていた真静にかかった声は、寝室から現れた要真のもので……今の小声を聞きつけるとはどれだけ地獄耳なのだろう。
「何が残念ではないの?」
「えっと、それは……」
 言えるわけがない。言えるわけがないのだが、要真のまっすぐな眼差しは何も答えないことを許してくれなかった。
「く、倉瀬さんとお隣さんになれなかったことが、でしょうか……」
「お隣さんか。なれなかったの、残念ではないんだ」
 ふうん、と、いっそ正直に「倉瀬さんの生活能力が」といったほうがよかったのではと思うような顔をされ、真静は目を泳がせてしまった。要真の眼差しが今は痛い。
「その、お隣さんでないほうが、特別感がありますし、兄や姉に気付かれず来られますし……」
「ああ、なるほどね。それならよかった」
 彼が浮かべた安堵の笑みに、真静はいたたまれなさを感じながらもささやかな笑みを返す。ところがその直後、指先に走った痛みに、真静は肩を揺らした。それにすかさず反応した要真の顔からは、さっと血の気が引いた。
「大丈夫⁉︎」
「っ、はい、余所見をしていたせいで、ガラスで切ってしまっただけです」
「大丈夫ではないよ、それは!」
真静の指を両手で持ち上げ、真剣な目で傷を確認する。
「結構深い……。ごめんね。作業中に俺が話しかけたりするからだ」
「いえ、倉瀬さんのせいでは、」
「俺のせいだよ。絆創膏とか持ってくるから、佐成さんは指を洗って」
 そう言うなり、彼は真静を洗面台に案内し自分はどこかに消えた。
 真静は言われた通りに指を洗浄し、リビングに戻ったが、そこに彼はいなかった。寝室の扉が半開きになっているから、そちらにいるのだろう。
 ガラスの片付けを続けようと身をかがめる。と、そのタイミングで要真が姿を見せ、真静がやろうとしていることを察するなり眉をひそめた。
「だめだって。俺がやるから、佐成さんは座ってて」
「そ、それは認められません! 画家が手を怪我するのは、」
「大丈夫だから。昨日も花瓶を割ったけど、怪我せずに片付けたよ」
「昨日も……?」
 不器用というか不注意というか、二日連続でものを割るとは流石にどうかと思う。
「ほらほら、早くソファーに座って?」
 背後から肩を優しく押され、ソファーに誘導される。そしてそのまま座らされると、真静は立つに立てなくなった。立とうとしたら目で牽制されたのだ。
 仕方なく、内心ヒヤヒヤしながら要真の様子を見守る。しかしただ座っているのはいたたまれず、ソファーに積み上げられた洗濯物を畳むことにした。……のだが。
「倉瀬さん、洗濯物を畳んでもよろしいですか?」
「あとで一緒に畳もうよ。お昼の後にでもさ」
「……はい」
 本当にやることがない。ただ見ているのは、彼が怪我をしないか気が気でないから嫌なのだが。
 ところが、大丈夫かな、と不安げな真静の心配とは裏腹に、彼は意外にも手際良く片付けを済ませ、何事もなかったかのように真静に目を向けた。
「なんか、見守られていると照れくさいね」
「あっ、すみません!」
「いや、照れくさいけど嬉しいって話だから」
「……」
 思うに、彼はファンサービスが過ぎるのではないだろうか。表情といいセリフといい、向ける相手を間違えている気がしてならない。
「さあ、アトリエに入ろうか」
 妙な緊張が収まらないまま、要真にアトリエへと誘われる。
 開かれた扉の向こうに見えた部屋の中は真っ暗で、ただ絵の具のにおいがした。
「お邪魔いたします……」
 促されて暗闇の中に入ると、要真が思い出したように電気を点けた。

 その瞬間、目の前に現れた光景。
 真静はそれに、抗う暇なく囚われた。 
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