19 / 39
攻防の章
天使は知る
しおりを挟む
真静を廊下に残し、要真が一人ドアの向こうに消えた後、ドアの向こうから耳を疑うような音が聞こえてきた。
ガシャーン!
ドタッ。
バタンッ。
これでもかというほどの騒音。これでは、何もないわけがない。
「く、倉瀬さん、ご無事ですかっ?」
要真に何があったのかと不安になって声をかければ、いたって普通の返事が返ってきた。
「大丈夫大丈夫。もう少し待、あっ」
パリーン。
「……あの、倉瀬さん、お邪魔してもよろしいですか?」
「……うん」
「お邪魔します……」
一体何が、と恐る恐るドアを開ける。と、そこに広がっていたのは、何があったか、やたらと服や何かのかけらが散らばる惨状だった。
「ええと、これは……」
「……」
かけらを見下ろす要真が、気まずそうに真静に目を向ける。
「その、昨日の夜遅くまで絵を描いていたら、朝出るのがギリギリになって、何も片付けていなかったことに今気付いてね……」
「そ、そうなのですね。ちなみに、このかけらは?」
「グラス」
「洋服は?」
「洗濯して干しっぱなしだった服をさっき急いで外した。それで、片付け損ねた分かな」
「畳まないのですか?」
「その暇がないから、とりあえず寝室に放り込んだ」
「なる、ほど……」
なるほど、お兄さんが放っておけないのが何となくわかった気がする。
「と、とにかく、割れたグラスを片付けてああっ、素手で触らないで!」
素手で拾おうとする要真を慌てて押しとどめ、新聞紙やら掃除機やらを出してもらう。そして真静がかけらを片付ける間、要真にはリビングのソファーで待ってもらった。
「倉瀬さん、洗濯物は後で畳むのですか?」
「うーん、そのままクローゼットに押し込めばいいかなって」
「よろしければ片付け終了後に畳みますから、持ってきていただけますか?」
「……一緒に畳んでいい?」
「もちろんです」
「うん、それなら持ってくるよ」
先程から妙に嬉しそうな顔だった要真がにこりと笑い、寝室に消える。それを見送る真静の口元は自然と弧を描いていた。
憧れの画家の、知らなかった一面。それを知ることができたのはここに来たからで、今改めてその有り難さを噛みしめる。知った面がそんな残念でいいのか、と他から突っ込まれようが、新たな一面には変わりないのだからいいのだ。
「それに、残念ではないし……」
「何が?」
「ひゃっ!」
グラスの破片と向き直っていた真静にかかった声は、寝室から現れた要真のもので……今の小声を聞きつけるとはどれだけ地獄耳なのだろう。
「何が残念ではないの?」
「えっと、それは……」
言えるわけがない。言えるわけがないのだが、要真のまっすぐな眼差しは何も答えないことを許してくれなかった。
「く、倉瀬さんとお隣さんになれなかったことが、でしょうか……」
「お隣さんか。なれなかったの、残念ではないんだ」
ふうん、と、いっそ正直に「倉瀬さんの生活能力が」といったほうがよかったのではと思うような顔をされ、真静は目を泳がせてしまった。要真の眼差しが今は痛い。
「その、お隣さんでないほうが、特別感がありますし、兄や姉に気付かれず来られますし……」
「ああ、なるほどね。それならよかった」
彼が浮かべた安堵の笑みに、真静はいたたまれなさを感じながらもささやかな笑みを返す。ところがその直後、指先に走った痛みに、真静は肩を揺らした。それにすかさず反応した要真の顔からは、さっと血の気が引いた。
「大丈夫⁉︎」
「っ、はい、余所見をしていたせいで、ガラスで切ってしまっただけです」
「大丈夫ではないよ、それは!」
真静の指を両手で持ち上げ、真剣な目で傷を確認する。
「結構深い……。ごめんね。作業中に俺が話しかけたりするからだ」
「いえ、倉瀬さんのせいでは、」
「俺のせいだよ。絆創膏とか持ってくるから、佐成さんは指を洗って」
そう言うなり、彼は真静を洗面台に案内し自分はどこかに消えた。
真静は言われた通りに指を洗浄し、リビングに戻ったが、そこに彼はいなかった。寝室の扉が半開きになっているから、そちらにいるのだろう。
ガラスの片付けを続けようと身をかがめる。と、そのタイミングで要真が姿を見せ、真静がやろうとしていることを察するなり眉をひそめた。
「だめだって。俺がやるから、佐成さんは座ってて」
「そ、それは認められません! 画家が手を怪我するのは、」
「大丈夫だから。昨日も花瓶を割ったけど、怪我せずに片付けたよ」
「昨日も……?」
不器用というか不注意というか、二日連続でものを割るとは流石にどうかと思う。
「ほらほら、早くソファーに座って?」
背後から肩を優しく押され、ソファーに誘導される。そしてそのまま座らされると、真静は立つに立てなくなった。立とうとしたら目で牽制されたのだ。
仕方なく、内心ヒヤヒヤしながら要真の様子を見守る。しかしただ座っているのはいたたまれず、ソファーに積み上げられた洗濯物を畳むことにした。……のだが。
「倉瀬さん、洗濯物を畳んでもよろしいですか?」
「あとで一緒に畳もうよ。お昼の後にでもさ」
「……はい」
本当にやることがない。ただ見ているのは、彼が怪我をしないか気が気でないから嫌なのだが。
ところが、大丈夫かな、と不安げな真静の心配とは裏腹に、彼は意外にも手際良く片付けを済ませ、何事もなかったかのように真静に目を向けた。
「なんか、見守られていると照れくさいね」
「あっ、すみません!」
「いや、照れくさいけど嬉しいって話だから」
「……」
思うに、彼はファンサービスが過ぎるのではないだろうか。表情といいセリフといい、向ける相手を間違えている気がしてならない。
「さあ、アトリエに入ろうか」
妙な緊張が収まらないまま、要真にアトリエへと誘われる。
開かれた扉の向こうに見えた部屋の中は真っ暗で、ただ絵の具のにおいがした。
「お邪魔いたします……」
促されて暗闇の中に入ると、要真が思い出したように電気を点けた。
その瞬間、目の前に現れた光景。
真静はそれに、抗う暇なく囚われた。
ガシャーン!
ドタッ。
バタンッ。
これでもかというほどの騒音。これでは、何もないわけがない。
「く、倉瀬さん、ご無事ですかっ?」
要真に何があったのかと不安になって声をかければ、いたって普通の返事が返ってきた。
「大丈夫大丈夫。もう少し待、あっ」
パリーン。
「……あの、倉瀬さん、お邪魔してもよろしいですか?」
「……うん」
「お邪魔します……」
一体何が、と恐る恐るドアを開ける。と、そこに広がっていたのは、何があったか、やたらと服や何かのかけらが散らばる惨状だった。
「ええと、これは……」
「……」
かけらを見下ろす要真が、気まずそうに真静に目を向ける。
「その、昨日の夜遅くまで絵を描いていたら、朝出るのがギリギリになって、何も片付けていなかったことに今気付いてね……」
「そ、そうなのですね。ちなみに、このかけらは?」
「グラス」
「洋服は?」
「洗濯して干しっぱなしだった服をさっき急いで外した。それで、片付け損ねた分かな」
「畳まないのですか?」
「その暇がないから、とりあえず寝室に放り込んだ」
「なる、ほど……」
なるほど、お兄さんが放っておけないのが何となくわかった気がする。
「と、とにかく、割れたグラスを片付けてああっ、素手で触らないで!」
素手で拾おうとする要真を慌てて押しとどめ、新聞紙やら掃除機やらを出してもらう。そして真静がかけらを片付ける間、要真にはリビングのソファーで待ってもらった。
「倉瀬さん、洗濯物は後で畳むのですか?」
「うーん、そのままクローゼットに押し込めばいいかなって」
「よろしければ片付け終了後に畳みますから、持ってきていただけますか?」
「……一緒に畳んでいい?」
「もちろんです」
「うん、それなら持ってくるよ」
先程から妙に嬉しそうな顔だった要真がにこりと笑い、寝室に消える。それを見送る真静の口元は自然と弧を描いていた。
憧れの画家の、知らなかった一面。それを知ることができたのはここに来たからで、今改めてその有り難さを噛みしめる。知った面がそんな残念でいいのか、と他から突っ込まれようが、新たな一面には変わりないのだからいいのだ。
「それに、残念ではないし……」
「何が?」
「ひゃっ!」
グラスの破片と向き直っていた真静にかかった声は、寝室から現れた要真のもので……今の小声を聞きつけるとはどれだけ地獄耳なのだろう。
「何が残念ではないの?」
「えっと、それは……」
言えるわけがない。言えるわけがないのだが、要真のまっすぐな眼差しは何も答えないことを許してくれなかった。
「く、倉瀬さんとお隣さんになれなかったことが、でしょうか……」
「お隣さんか。なれなかったの、残念ではないんだ」
ふうん、と、いっそ正直に「倉瀬さんの生活能力が」といったほうがよかったのではと思うような顔をされ、真静は目を泳がせてしまった。要真の眼差しが今は痛い。
「その、お隣さんでないほうが、特別感がありますし、兄や姉に気付かれず来られますし……」
「ああ、なるほどね。それならよかった」
彼が浮かべた安堵の笑みに、真静はいたたまれなさを感じながらもささやかな笑みを返す。ところがその直後、指先に走った痛みに、真静は肩を揺らした。それにすかさず反応した要真の顔からは、さっと血の気が引いた。
「大丈夫⁉︎」
「っ、はい、余所見をしていたせいで、ガラスで切ってしまっただけです」
「大丈夫ではないよ、それは!」
真静の指を両手で持ち上げ、真剣な目で傷を確認する。
「結構深い……。ごめんね。作業中に俺が話しかけたりするからだ」
「いえ、倉瀬さんのせいでは、」
「俺のせいだよ。絆創膏とか持ってくるから、佐成さんは指を洗って」
そう言うなり、彼は真静を洗面台に案内し自分はどこかに消えた。
真静は言われた通りに指を洗浄し、リビングに戻ったが、そこに彼はいなかった。寝室の扉が半開きになっているから、そちらにいるのだろう。
ガラスの片付けを続けようと身をかがめる。と、そのタイミングで要真が姿を見せ、真静がやろうとしていることを察するなり眉をひそめた。
「だめだって。俺がやるから、佐成さんは座ってて」
「そ、それは認められません! 画家が手を怪我するのは、」
「大丈夫だから。昨日も花瓶を割ったけど、怪我せずに片付けたよ」
「昨日も……?」
不器用というか不注意というか、二日連続でものを割るとは流石にどうかと思う。
「ほらほら、早くソファーに座って?」
背後から肩を優しく押され、ソファーに誘導される。そしてそのまま座らされると、真静は立つに立てなくなった。立とうとしたら目で牽制されたのだ。
仕方なく、内心ヒヤヒヤしながら要真の様子を見守る。しかしただ座っているのはいたたまれず、ソファーに積み上げられた洗濯物を畳むことにした。……のだが。
「倉瀬さん、洗濯物を畳んでもよろしいですか?」
「あとで一緒に畳もうよ。お昼の後にでもさ」
「……はい」
本当にやることがない。ただ見ているのは、彼が怪我をしないか気が気でないから嫌なのだが。
ところが、大丈夫かな、と不安げな真静の心配とは裏腹に、彼は意外にも手際良く片付けを済ませ、何事もなかったかのように真静に目を向けた。
「なんか、見守られていると照れくさいね」
「あっ、すみません!」
「いや、照れくさいけど嬉しいって話だから」
「……」
思うに、彼はファンサービスが過ぎるのではないだろうか。表情といいセリフといい、向ける相手を間違えている気がしてならない。
「さあ、アトリエに入ろうか」
妙な緊張が収まらないまま、要真にアトリエへと誘われる。
開かれた扉の向こうに見えた部屋の中は真っ暗で、ただ絵の具のにおいがした。
「お邪魔いたします……」
促されて暗闇の中に入ると、要真が思い出したように電気を点けた。
その瞬間、目の前に現れた光景。
真静はそれに、抗う暇なく囚われた。
0
あなたにおすすめの小説
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
悪役令嬢と氷の騎士兄弟
飴爽かに
恋愛
この国には国民の人気を2分する騎士兄弟がいる。
彼らはその美しい容姿から氷の騎士兄弟と呼ばれていた。
クォーツ帝国。水晶の名にちなんだ綺麗な国で織り成される物語。
悪役令嬢ココ・レイルウェイズとして転生したが美しい物語を守るために彼らと助け合って導いていく。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました
専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。
兄みたいな騎士団長の愛が実は重すぎでした
鳥花風星
恋愛
代々騎士団寮の寮母を務める家に生まれたレティシアは、若くして騎士団の一つである「群青の騎士団」の寮母になり、
幼少の頃から仲の良い騎士団長のアスールは、そんなレティシアを陰からずっと見守っていた。レティシアにとってアスールは兄のような存在だが、次第に兄としてだけではない思いを持ちはじめてしまう。
アスールにとってもレティシアは妹のような存在というだけではないようで……。兄としてしか思われていないと思っているアスールはレティシアへの思いを拗らせながらどんどん膨らませていく。
すれ違う恋心、アスールとライバルの心理戦。拗らせ溺愛が激しい、じれじれだけどハッピーエンドです。
☆他投稿サイトにも掲載しています。
☆番外編はアスールの同僚ノアールがメインの話になっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる