画家と天使の溺愛生活

秋草

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攻防の章

天使は請われて腕をふるう

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 真静が「夕飯の支度に」とアトリエを去ってから、要真はひたすらキャンバスと向き合い筆を動かしていた。
 時間の感覚もなく没頭し、ふと意識を現実に戻す。と、扉の外から、彼女の楽しげな囁きが聞こえてきた。
「笑ってる……?」
 そんなに楽しいことがあるのか、と首を傾げた直後に、微かに聞こえたのは男の声。聞き慣れた、彼の声だ。
 そうと判明した瞬間、要真は苛立ちとともに席を立ち、扉を開けていた。
 扉が突然開かれたことに驚いたのか、ダイニングテーブルの脇に立っていた真静が軽く跳ねる。
「くっ倉瀬さん! すみません、騒がしかったでしょうか」
「いや、まったく騒がしくなんかない。むしろ佐成さんの声は大歓迎だよ。問題は、そっちの男の方」
 真静と向かい合い、こちらを朗らかな笑みをたたえて見ている男を、冷めた目でじっと睨みつける。すると相手はわざとらしい身震いをし、あろうことか真静の後ろに身を隠した。
「要真に呪い殺される! 助けて真静ちゃん!」
「えっあの、お兄さんっ?」
「真静、ちゃん……」
 要真の兄の行動に戸惑う真静。
 要真は無言で真静に歩み寄り、男から真静を引き離した。
 真静の正面に立ち、兄に向けるのとはまるで違う優しい眼差しで彼女を見つめる。戸惑いながらもまっすぐ見つめてくる彼女の愛らしさといったら……。
「この男のせいで何か酷い目に遭ってない? 大丈夫だった?」
「おい要真、いくら兄でも不審者みたく言われると、」
「この男とは何を話していたの?」
「ええと、昨日ここにきた際大切な手帳を忘れてしまったことに今日気がついたので取りに来た、というお話を、面白おかしく語ってくださってから世間話をしていました」
「そうだぞ、だから兄様は決して二人を邪魔し、」
「ご飯はもうできてる? お腹が空いたんだけど……」
「はい、できています! 少しお待ちくださいね、すぐに夕食の用意をしますので!」
「ありがとう。あ、用意するのは二人分でいいからね」
 兄の言葉を片っ端から遮り、「よろしく」と真静に笑いかけてから兄を寝室へと呼び出す。
 兄は要真が言わんとすることは承知の上だろうに、にこにこと気味悪く笑っていた。
「なんで来たの、馬鹿なの」
「いや、忘れ物を取りに来ただけだって。忘れ物くらい誰でもするだろー」
「その“誰でも”とかいう一般枠に兄さんが入るわけない。どうせわざと忘れたんでしょ」
 そんなに佐成さんに会いたかった?
 棘まみれの声音でそう訊いても、兄は変わらぬ笑みでただ「おお、バレてたか」とだけ返した。
「そりゃあ、大事な弟が気にかける美女は、俺だって気になるさ。しっかし、なんともまあ、見事な才色兼備、品行方正ぶりだな。うっかり惚れ、」
「兄さん」
「冗談冗談。まあ、真静ちゃんが良い子でよかったよ。安心して帰れる」
「……」
 この男、本当に美女に会ってみたかっただけなのか。話しながら彼女を審査していたのではないかと思うと無性に腹が立つ。
「兄さん、これだけは言っておく。今後一切、俺がいないところで佐成さんに近づかないで。話しかけないで。弟が可愛いなら、ね」
 そう言いつけた時の要真の目には、兄も思わず無言で頷いた。最後の一言は兄からすれば立派な脅しだ。
「……よし、今日のところは帰るわ!」
「いい判断だね」
 兄と共にリビングに戻り、真静への挨拶を済ませた兄を玄関まで見送る。
「気をつけてね、兄さん」
 ドアノブに手をかけた兄にそう言うと、彼は天変地異に遭遇したような顔で勢いよく振り返った。
「気をつけて、って言ったか?」
「言ったけど」
「……おう! ありがとうな!」
 心なしか涙目になり、満面の笑みで去る兄を怪訝な顔で見送る。
「……ああ、そうか」
 そういえば普段要真は、滅多に兄を気遣わない。家に来た時は出て行けと追い出すばかりで、見送ることも数少ないほどだ。
 ところが。今日はすこぶる機嫌が良いため、つい“らしくない”ことをやってしまったらしい。
 天使効果すごいな、などと思いながらリビングに戻れば、ちょうど食卓が調えられ、真静がにこやかに要真の戻りを待っていた。
「お待たせしました。大したものは作れませんでしたが……」
 彼女はそう言って謙遜しているが、食卓に並んでいるのは食欲を十二分に誘う和食たちだ。
「美味しそう…」
 思わず呟き席につく。彼女は自然と要真から漏れた感想に照れたらしく顔が赤い。
「作ってくれてありがとう。冷めるから早く食べよう?」
 目の前の席を手で示し、真静に座るよう促す。
「失礼します」
 遠慮がちに腰を下ろした真静と一緒に手を合わせ、箸を取る。
 要真が最初に目をつけた煮物は、要真が好きな味の濃さだった。
「美味しいよ、佐成さん! 味付けが俺にぴったり」
「あっ、それはお兄さんからアドバイスを受けながら味付けをしたので。流石ですね、お兄さん」
「……でも料理してくれたのは君でしょ、真静ちゃん」
「!?」
 ためしに、兄が呼んでいた呼称を口に出すと、真静は手にした箸を落とすほど動揺した。顔が真っ赤だ。
「ま、まし……⁉︎」
「ごめん、今のは忘れて」
 言ってから自分まで恥ずかしくなり、要真はじゃがいもの煮物を口に放り込んだ。
 名前を呼ぶことがこんなに照れくさいとは予想外だ。兄ばかり名前で呼ぶのは悔しいと思ったのだが……。
 いや、少し待て。ここで諦めては、自分はあの男……伊澄悠貴にも負けることになる。あの男もこの天使のことを、名前で呼んでいたではないか。
「やっぱり、これからは真静ちゃんって呼んでもいいかな?」
「えっ」
 軽く見開かれた目が、必死に彼の心理を想像しようとしているのがわかる。しかし、そのうちに彼の真剣さが伝わったらしく、真静は束の間真っ赤な顔で俯き、小さく頷いた。
「よかった。これからもよろしくね、真静ちゃん」
「は、はい……」
「真静ちゃん」
「な、なんでしょうか」
「いや、呼んだだけ」
佐成さん、と呼んで目が合うよりも、真静ちゃんと呼んで目を向けてくれることに、ささやかな興奮を覚える。
 “真静ちゃん”は慣れれば中々によい呼び方かもしれない。
 あとは自分の呼び方を変えてもらえるよう、交渉してみようかな、などと考え、要真は気分良く白米を頬張ったのだった。
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